>>827 失礼しました
数学者が具体的にどのような作業をしているかは知らなかったのです
一応、数学基礎論を少しだけかじったことはあったのですが、数学とはそのようなものだと思いこんでいました
>人間が外界を観察することによって得た(推測した)なんらかの規則性を
>公理系の枠内での純粋な演繹の形に昇華したものです。
>推測の過程で様々な実例観察・脳内実験が行われます。
わたしは数学を経験科学ではないとしましたが、それは方法論によるものです(意味設定ではない)
そして数学は経験(外界)からの観察によって知識を構成するものではないと主張します
例えば、幾何学などは平面に映されたモデルにさまざまな補助線を書き込むことで新たな知識を得ることができます
しかし、それら数学的知識の源泉は経験(外界)ではありません
経験世界において表わされた図面は数学世界を表現するためのモデルであり、
数学的知識は経験ではなくその数学世界からのフィードバックによって形成されると主張します
この数学世界は我々がつくりだした仮想世界であり、そして一つの秩序(公理系)をもっています
そして、数学は我々がつくりだした仮の世界でありながら、その仮の世界から我々は知識を得ることができるということなのだと思います
あと、これはわたしが漠然と思っていることですが
数学が仮想世界における産物であるのと同じように、経験に依存しない仮想世界におけるものが数学の他にもあるのではないか
そして、道徳はそのような性質を持つのではないか、と考えています
これは漠然とそう思うだけなので、根拠も何もありませんが
>>837 あなたの数学の研究に対するイメージは、おそらく私が考えているそれに近いと思います。
実際にあなたが書かれた
> 数学は経験(外界)からの観察によって知識を構成するものではないと主張します
とか
> 数学的知識の源泉は経験(外界)ではありません
という表現には違和感を覚えるし、誤解されやすい表現だとも感じるのですが、しかし一方で
> 数学を経験科学ではないとしましたが、それは方法論によるものです(意味設定ではない)
とも書かれているので、おそらく本質的には同じイメージを持っているのだろうと察しました。
数学の研究の中には、解析学の一部に典型的に見られるように、明らかに
自然科学その他の外界観察(物理現象その他)を基点として背後にある法則性から新しい数学をつくるタイプのものも存在します。
(もちろん、ほとんどのものは現在用いられる標準的な公理によって構成された数体系・集合・写像レベルでの変更まではしませんが。)
にもかかわらず、論理的にはあなたの主張が正しいと考えます。
それはつまり外界の観察・考察が、無意識のうちに
その時点で既に脳が経験した数学的パターン認識方法を通したものになっているからでしょう。
(理性ではそのように理解していても、感覚的には「自然の背後には数学がある」ように感じている数学者が少なくないようです。)
基礎論については、専門外の素人意見としてですが、その本質はメタ数学なのだと思っています。
現在はそうでない研究も多いのかもしれませんが、「数学の研究方法」を研究する学問として始まったと理解しています。