理系の人も哲学を学んで欲しい

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819Nanashi_et_al.
http://ebi.2ch.net/test/read.cgi/rikei/1000446120/95

カント『純粋理性批判』
 第2部 先験的弁証論
  第2章 純粋理性のアンチノミー
   第2節 純粋理性の矛盾論
    第3アンチノミー(先験的理念の第3の自己矛盾)

正命題:
自然法則だけでなく自由も現象の原因性となる

証明:
1 自然法則のみを原因性と仮定する。
 1.1 生起する一切は先行する原因性を前提とするが、その原因性自体、より以前に先行する原因性を前提とする。
 1.2 このようにどこまでも遡ることができるので、比較的な始まりはあるが、第1の始まりはない。
 1.3 原因の系列は不完全である。
 1.4 しかし、自然法則においては、先験的に規定された原則がなければ、なにものも生起しない。
 1.5 矛盾する。
2 先験的自由を新たな原因性として提示する。
 2.1 それは何かを生起させるが、それに先行する必然的自然法則を前提としないものである。
 2.2 つまり、絶対的自発性であり、自然法則の系列を始めるものである。
 2.3 この自由は、原因の系列を完全とするのに必要である。


反対命題:
自由はなく、すべて自然法則で説明ができる

証明:
1 先験的自由を仮定する。
 1.1 この自由という原因性には、それを規定する恒常不変な法則を前提としない。
 1.2 しかし、作用の始まりは、まだ作用していない原因の状態を前提とする
 1.3 また、作用の力学的な第1の始まりが前提とするのは、それ以前の状態と因果関係を持たないことである。
 1.4 自由は因果律に矛盾する。
 1.5 自由は経験の統一を不可能にし、空虚な思惟物にすぎない。
2 世界の関連と秩序は自然のうちに求められる。
 2.1 自由は自然ではないので、それを法則として原因性であると考えることはできない。
 2.2 自然は合法則性を持ち、自由は無法則性を持つ。
 2.3 自然の合法則性には原因の遡及という困難があるが、経験の統一を可能にする。
 2.4 自由を考えた場合、無法則性により、前の状態との関連はなく、経験の統一は不可能である。

(続く)
820Nanashi_et_al.:02/04/13 02:49
原著には番号は付いてません。
821Nanashi_et_al.

第3アンチノミーに対する注

I 正命題に対する注

1 先験的自由の承認(1)
 1.1 自由の理念は、行為の絶対的自発性である。
 1.2 当の自由というものは、先験的である。
 1.3 自由が現象の系列を自ら始める能力はどうして可能かについて、解答を与える必要はない。
 1.4 それは、自然法則に従う原因性を先験的に認識するだけで満足せざるを得ないのと、同様である。
 1.5 実際、現実の因果関係は、論理的にではなく経験的に知る。
2 先験的自由の承認(2)
 2.1 現象の系列の第1の始まりは自由によると、正命題の証明において証明した。
 2.2 その始まり以降は、自然法則に従うとしてよい。
 2.3 時間における系列にこのように認めると、さまざまな系列において自由を認めることができる。
 2.4 「あらゆる系列には、比較的な始まりはあっても、絶対的な第1の始まりはない」という誤りに陥ってはならない。
 2.5 なぜなら、それが正しいにしろ、ここでの問題が、時間ではなく原因性に関する絶対的な第1の始まりだからである。(*)
3 自由と理性
 3.1 理性は、自由による第1の始まりを自然の系列の中に位置づける。
 3.2 それが、古代の哲学者たちが第1運動者を想定したわけである。

(*)2.5に関して。

例えば、本文にあるとおり「椅子から立ち上がる」場合を考える。
立ち上がる意志と行為との関係を考える。
ただ、意志=脳の状態→(対内の反応)→行為、を考えているのではない。
椅子から立ち上がろうという意志と、立ち上がる行為とは、時間的には同じ時点で起きる
(この自由の原因性は、あらゆる人間の行為に付きまとう)。
また、椅子から立ち上がるのが、尿意などトイレに行かせるようなことを原因としていたとしても、
尿意→(対内の反応)→立ち上がる意志、というつながりは自然法則の原因性であり、自由の原因性とは関係ない。
つまり、どれだけ脅しでやらされたことでも、その人がやったことなら、その人の自由となる。
意志と行為とが内容の上でしっかり結び付いており、意志が行為に記述の上で先行する(時間的には同時)。
そのとき、自由による原因性(因果関係)が成り立っている。

(続)