【部落解放同盟犯罪史】

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238一時復帰?(某コテハン)
>>237
 この案は、勤評闘争に見られる国民の幅広い統一行動の発展を前にして、これ
を分裂・弱体化させることをめざして作り上げられた方針で、具体的には、「全
日本同和会」の育成としてでてきました。会が結成されたのは、安保闘争が頂点
を迎えていた60年5月10日、まさに部落解放同盟が三池炭鉱争議に連帯して運動
を強化しつつあった時期のことです。同和会の結成大会宣言には、「左右の階級
独裁を排し、国民を分裂・構想に導くような階級闘争はとらない」という言葉が
入れられています。

 とくに60年の安保闘争の絶頂期の6月17日に作成された「当面の公安情勢の分
析とその対策」では、「当面は、共産党、容共分子の孤立化を図ることを方針と
すること」と述べています。

 もう一つは、自民党側からの同和対策の積極化という形あらわれてきました。
政府同和対策予算(補助金と特別交付金)を「地域住民の自覚と積極的協力を基
とした受入態勢」のある地域を「モデル地区」として重点的に投下し始めました。
住民の「自覚と積極的協力」というのは、住民の下からの部落解放運動がないこ
と意味する言葉でした。

 6月17日の提案が出てから2ヶ月後に同和対策審議会設置法が公布されました。
同和対策のイニシアティブをとったのが、ハト派ではなく、勤評闘争や安保闘争
の対処の先頭に立っていたタカ派「素心会」グループであったこともうなずけま
す。素心会は、安保闘争や同時に進行した三井・三池炭坑争議に特別鋭い関心を
示し、緻密に情報を集め、周到な分析を加えていました。

 アメリカ政府もこの路線を支持・応援しました。ホワイトハウスで作成された
文書では池田内閣を「反政府派の社会主義者に最も巧妙に対応してきた内閣であ
り、それは社会福祉計画と生活水準向上のための諸政策により大きな力点を置く
ようになったし、かつこれを通じて左翼勢力を封じ込め、徹底的に孤立させ、公
的活動からしめだすことを目指している」と評価されています。

 結論は1961年3月27日付自民党治安対策特別委員会文書「国民に対する指導理
念確立に関する件」にまとめられています。その具体策として「福祉国家建設の
ための政策を勇敢に実施」することが提唱され、「健全な国民運動」を組織して、
革新的な民族民主統一戦線が強大化するのを未然に防ごうとし、そこで同和対策
の具体化を急いだのです。