1 :
1:
先祖が賎民であるのかどうかを拘っている者ですが(というより先祖の墓を
探している)、台東区役所に聞いてみたら、担当者より、「こんな古い謄本
見たことがない」と言われました。曽祖父は安政3年生れですので、その先
はどうしても戸籍は辿れないとのこと。曽曽祖父の姓名と住所名の記載はあ
りましたが、恐らく1800年初の人なので分からないと言われました。曽曽祖
父は士族と言われていたので苗字を持っているのは不思議ではないと思われ
ます。
しかし、私の父方の謄本はもっと古く、謄本住所は『伊勢国○○郡』との
表記で屋敷名までタイプで打ってあります。
戸主は女性で、文化14年(1818年)生まれなのですが、この女性戸主の
父親の名前も記載されています(おそらく1700年代生れの人でしょう)
百姓の家系と聞いてますが、1700年末生れの先祖に姓名が在ったことに
吃驚しています。庄屋だったのでしょうか? 姓名は古澤金三郎と記載
あり。ああ、ご先祖様っと感激しました。
しかし、台東区はもとより、伊勢国の住所地名を、現在に置きかえると
全て、小学校が同和推進校です(謄本に記載のある住所を全て見て)
なにか、深いものを感じます。みなさん、ご意見下さいませ。
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/01(水) 18:32 ID:chZtE3tI
誰かご意見を!
3 :
2だが:2001/08/01(水) 18:35 ID:chZtE3tI
つうか、江戸期の人物に苗字があり、屋敷名まで記載があり、
さらにこんなに古いのが堂々と謄本に載っているのだから、部落民
とは違うとしか思えないが、という意見しかもてなーい。
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/01(水) 20:10 ID:fRRRE5jY
>しかし、台東区はもとより、伊勢国の住所地名を、現在に置きかえると
>全て、小学校が同和推進校です
ここまで調査したのなら、同和推進校に聞いてみたら?
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/01(水) 20:23 ID:BfQi0LLc
つーか。
戸籍が作られたのは明治以降だぞ。
それ以前は人別帳。
>>3 アホか。
浅草のエタ頭「矢野藤原弾左衛門」を知らないのか。
各地の頭クラスも普通苗字、立派な屋敷持ってたぞ。
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/01(水) 21:06 ID:/nljqOvA
>5
しかし、伊勢国を弾左衛門は支配していないぞ!
壬申戸籍の次の5年戸籍くらいのものじゃないかな、1のは。
「女性戸主」というのが興味深いね。普通、女性戸主って当時は無いはずだろ?
7 :
名無し:2001/08/01(水) 21:14 ID:putucd.M
MNさん、皆さんこんにちは。
MNさん、お帰りなさい。画像アップお疲れさまでした。とても楽しめました。
黒のド・ゴール、やはり魅力的ですね。
KYUさん
亀レスになってしまい申し訳ありません。大場政夫の試合は4試合見てますが、全部再放
送やビデオ観戦です。大場が帰らぬ人となってしまったとき、私はまだよちよち歩きの赤
ん坊でした。ナマで見てきたような紛らわしい書き方をしてしまい、失礼しました。
GENTLEMANの日本語版ですが、日本の出版社の名前が見あたらない?ようです。
和文版製作進行としてデザインエクスチェンジ株式会社、と名前があがっていますが、
Printed in Italyとなっていますので、日本語版であっても輸入して
いるのかもしれません。どなたか、フォローお願いします。
8月4日の名古屋支部のオフ会、まだ参加者募集しております。なんちゃってbrion
i支部長までメール下さい。
ジョージ・クレバリーの9月の受注会、ビームスに問い合わせたところ、まだ日程は未定
との返事でした。9月の上旬くらい、だとは思うのですが。
狂牛病や英国クレバリー社の値上げによる影響が心配です。今のうちに作っておくほうが
いいのか、狂牛病の騒ぎが落ち着くのを待ったほうがいいのか・・悩みます。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/01(水) 22:45 ID:BfQi0LLc
>>6 >「女性戸主」というのが興味深いね。普通、女性戸主って当時は無いはずだろ。
1がせっかく興味深いネタ提供してくれてるんだから、もう少し勉強してから書いてくれよ。
女戸主が認められなくなったのは、1898年の民法施行以降。
それ以前は女戸主だけじゃく、夫婦別姓もあたりまえだったんだぞ。
ちなみに作家の樋口一葉が戸主だったのは有名な話。
それから、浅草弾左衛門ほどじゃないにせよ、西日本の各地に御大尽のエタ頭がいた。
まあ、1の祖先は違うと思うけど。
9 :
8へ:2001/08/01(水) 23:35 ID:2mLyWPpc
女戸主があったんだあ。勉強になったよ。西日本の御大尽のエタ頭ってのも
知りたいな。そしたら、西日本の馬鹿差別もなくなるかも。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/01(水) 23:40 ID:BiAempic
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/01(水) 23:47 ID:2mLyWPpc
>10
なんなんだよ! ふざけんなよ。
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/01(水) 23:48 ID:aKNBRixA
13 :
12:2001/08/01(水) 23:50 ID:aKNBRixA
14 :
10より:2001/08/01(水) 23:51 ID:2mLyWPpc
ID:BiAempic これで検索してみ。
15 :
1:2001/08/02(木) 00:17 ID:ppvNQQHw
説明不足でしたので補足します。
母方、父方とも出身は伊勢国です。
台東区役所に調べてもらったのは、母方の本籍がどういうわけか
明治か大正初期に東京に転籍されていたからです。
私はもともと東京生まれですが、ワケがあって戸籍を辿ることに
なり、そしたら先祖が伊勢国の出身とわかった次第です。
父方、母方とも、伊勢国出身とは知らなかったのです。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/02(木) 00:26 ID:qm7ZZ1vU
17 :
1:2001/08/02(木) 00:26 ID:ppvNQQHw
転籍を繰り返す母方。ずっと本籍地に住み続けている父方。
母が結婚時に差別された経緯(のちに誤解は晴れたと言って
ますが)が気にかかったのです。もし、部落差別だとしたら、
士族の出を主張する母方が明治の昔に故郷を離れ上京した時
期があったことに気付いたのです。母方の祖父母とも伊勢国
の出なのに東京に転籍していますし。それに当時としては珍
しく大学(の前身)を卒業していることもナンカ変に思えま
す。水平社宣言1922年(大正11年)、大正デモクラシー、
左翼運動などに被れていただけなんでしょうか? それに宗教
を嫌っています(母も、兄も)
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/02(木) 06:24 ID:RqgAFIio
>>1 結婚相手とか、そのまた結婚相手とかの戸籍を集めて下さい。
司法書士、土地家屋調査士、税理士、社会保険労務士、弁理士、海事代理士または行政書士
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/02(木) 06:28 ID:RqgAFIio
(途中で切れました)
司法書士、土地家屋調査士、税理士、社会保険労務士、弁理士、海事代理士または行政書士は、戸籍法施行規則第11条により「謄本等の交付請求の事由を示さずに謄本等の交付請求」可能です。
特に明治時代の地名が決め手となります。Bの血が入ってないか、注意深く探って下さい。
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/02(木) 11:10 ID:HfgzYpw6
庚午年籍ってまだ存在しているけど、あれをみれば部落はすべて
把握できるはず。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/02(木) 16:07 ID:72MBcEDU
庚午年籍? 1さんのは。
壬申戸籍とは違うの?
22 :
1:2001/08/02(木) 17:59 ID:DmavQZyc
改正原戸籍というものを請求しています。
ですから、両親の曽祖父の、ならびにそれらの配偶者の本籍も
はっきり記載されています。ただ、明治時代は村名までしか表記がない
のが大部分なので、やっぱり実地検証するしかないと思っていますが、
その前に、いろんな所にメールして根拠を固めています。
スタンスとしては『わたしは部落民だという事実を知りたい』という
ことにしています。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/08/02(木) 18:29 ID:UV4sx5.Y
20は意味不明。
恒例の夏休み厨房ですな。
24 :
一時復帰かな?(某コテハン):2001/08/02(木) 18:41 ID:bRzX0BZA
>>22 少し気になるので、基礎的な質問をします。
賎民と部落民は違う概念ですが、その違いはご存じでしょうか?
貴方のお調べになっているのは、江戸期にどうであったかというものであり、これだと、賎民で会ったかどうかをお知りになりたいのではないかと思います。
また、貴方がお望みのように、見事由緒正しい賎民であったとして、それが貴方にとってどんな意味を持ちますか?
ルーツを江戸賎民に由来しない部落も多数存在するのですが。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/02(木) 19:48 ID:.OjfSfiU
26 :
某士業事務所職員:2001/08/02(木) 20:10 ID:z0fxoDu6
三重県のどちらになるのでしょうか?
お差し支えなければ、地名をご開示下さい。
たちどころに、そこが、該当地区か否かご連絡させて戴きます。
>ルーツを江戸賎民に由来しない部落も多数存在するのですが。
喪っ越す発見!
>>24 人権板最大レベルの荒し警報発動せよ。(ワラ
28 :
名無しさん@お腹いっぱい:2001/08/02(木) 20:22 ID:bZpUdqro
戸籍謄本の内容を記載すべきだ。単なる架空の話しかもしれないし、ネットで個人特定の本人でしか確認できないものを話題することが非常に嘘くさく感じます。
29 :
名無し:2001/08/02(木) 22:38 ID:7RP1Xh.A
その勤めている間の事を勘ぐり、暴力をいつも振るっていたのである。
しかし今大人になって分かるのだが、親父は本当に母親を愛していたのである。
しかしそれは勝手な都合であり極道な本当に父親として悪い見本でもあった。
また母親はこれまた苦労して育ったせいか強情で意地っ張りであり、国から支給される生活保護も受け取らず朝から晩まで俺を育てるのを、
生きがいに勤めにでていっっていた。
これまた、この話を聞くと、どんなゴツイ女と思うかもしれないが、これがまた千北でも有名になるくらいに綺麗だと言われていた。
しかし、やっぱり女である、強く見えても精神は弱い一面をもっていたのだ。
小さいころからの苦労で幸せが感じられない一面を持っていた。生きがいは一人の子供だけである。
しかし、なんどか自律神経に、かかり何度か自殺を図る事があり、俺はそれを幾度か経験した。
しかし、俺は親父にはたくさん多くの事をいまだに習わされている。
これは、いまだに感謝している。まず汚い社会の嫌な上手な生きかた。要するに悪い見本というか、上手な行き方とかである。
綺麗事では生きられないとかである。
あと、子供に父親はなにもしない、助ける事もである。これで俺は自分で男になる事を覚え強くなれた。
実はデタラメな親父だが俺を育てないと言う天才的な教育である。
あるいみ、いやみではなく、それを半分わかって行動するような天才肌の男でもあった。
俺にとってはデタラメな父親だが、昔のスタイルの愚連隊あがりで岡山では、その世代でさからうものがいないと有名な、くらいのヤクザであった。
30 :
1:2001/08/02(木) 23:51 ID:excHRsJA
賎民と表記したのではいけないですか?
東海・関西では穢多といい、特に三重とか奈良では「シャ」と言うそうです。
それだけ水平社運動が被差別民以外の百姓に影響したか、と思います。
わたしの母の口からは穢多などとは口が裂けても言えない言葉です。
部落といっても田舎の集落の意味と思ってますので。
31 :
1:2001/08/02(木) 23:55 ID:excHRsJA
大正13年から14年(関東大震災後)に、祖母は子供を産んでますが、
すぐに亡くしています。その直後、なんと、三重県(いや日本でも有数の)
大山奥である宮川町、大台町に1年くらい住んでいます。出世届けで分かり
ました。当地には、有名な瀧原宮があります。
滝原宮というのは伊勢神宮の弐の社ですが、やっぱり穢多の里なんでしょう
か? 思わず、林芙美子の「浮雲」という悲しい小説を思い浮かべました。
32 :
一時復帰?(某コテハン):2001/08/02(木) 23:59 ID:bRzX0BZA
賎民と一括りにしますと話が面倒になります。いわゆる、河原者のような芸能者も賎民ですし、現代では名門ですね。歌舞伎役者、猿回しの反省猿ジロー君とかね。
どの賎民だったかまで調べたら、これはこれで凄い調査だと思います。
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/03(金) 00:04 ID:cp6GFOr6
>>31 信じてたけど、なんかこのカキコでネタの匂いがしてきたなあ。
おれは北牟婁郡の資料も詳しいの持ってるから、ずばり地名出してくれりゃ判定もできるよ。
(あのあたりは、旧部落名がけっこう小字として残ってる)
>滝原宮というのは伊勢神宮の弐の社ですが、やっぱり穢多の里なんでしょう
>か? 思わず、林芙美子の「浮雲」という悲しい小説を思い浮かべました。
滝原は元伊勢で由緒正しい土地だよ。
宮川、大台といえば、昔の御料地があったところだし。
だいたい同意味だよ、林芙美子の「浮雲」って。
34 :
ホラ話し:2001/08/03(金) 06:37 ID:1nhw1i2k
>>33 私も、この話しは小説を書く練習のような感じがして来た。
>>1さんよ。スバリ、地名を出して下さいな。どこの誰だか分かりませんよ。
大丈夫です。
35 :
名無し:2001/08/03(金) 08:11 ID:sjILtUUc
8/2(木) ジョンロブ・パリのマッタ(ダークブラウン)
今日は、明日から3日間はカジュアルな服装なので、オンタイム用として気に入っているマッタをセレクトしました。
たった3日間とはいえ、先週までフランスで10日間カジュアルな服装でずっとすごしたので、オンタイム用の靴を履くのが何となくうれしかったのです。
さて、この靴は何度履いても、クラシカルでエレガントな風貌は健在です。
このロングノーズで微妙にカーブしたシルエットは、完成されつくしていて文句のつけようがありません。
革質もカーフとは思えないほどの滑らかさですし、光沢もあります。
履き皺の跡が浅く入っていますが、シューキーパーを入れて置けば、数日で回復するほどの上質な革です。
履いていると、結構良い靴であることが、素人目にもわかると思います(今日ではありませんが、良い靴を履いていますネと声をかけられたこともあります)。
しかも、アンティークな風合いを醸し出すダークオークといわれるダークブラウンは、この瀟洒な靴に対してさらに存在感を高めています。
「シングルモンクが好きな方が最終的に行きつく靴」と言っても過言ではないと思います。
36 :
名無し:2001/08/03(金) 08:56 ID:sjILtUUc
先週末、名古屋に行って来ました。金曜日は早速靴屋巡りでした。ツルヤ、ビームス、H2 companyと見て回りましたが、心はすでにウェストンに傾いていたので、速やかに向かいました。店ではひげの男性が対応してくれました。店長さんだったのかしら。ゴルフが欲しい旨を伝えると、早速足のサイズを測定。私はオールデンのローファーで6 1/2 D, ロブ・パリのアデレードで6Eなのですが、出してきたサイズは6C。「さすがはウェストン」と思って足を通したのですが、意外なことにワイズはさほどきつくなく、レングスはかかとが少し浮き気味でむしろ長め。5 1/2 Cを履いたところ、適度なタイト感があり、ちょうど良いようでした。なお5 1/2 Dも履かせていただきましたが、明らかにワイズがゆるめ。結局5 1/2 Cラバーソールとなりました。色は茶。それにしても、濃い茶よりも茶の方が硬いのですね。
さて、次にロジェを購入しようとしたのですが、いくつか履いた結果、私の足にはあわないことが判明。その代わりローファーを購入しました。色はやはり茶。このHome Pageを飾っているローファーと同じ色です。サイズはやはり5 1/2 Cでした。
対応してくれた方はあまり愛想はないですが、丁寧な対応でした。ついでに靴クリームも購入。黒のU-Tipも勧めてくれ、6Cがちょうど良かったのですが、今回は流石に見送りました。でも、とてもきれいな靴で、そのうち行ってしまいそうでした。
さて、うちに帰り、早速クリームをゴルフに塗ったのですが、なぜか色むらになってしまいました。間違って濃い茶のクリームを買ってしまったかと思い、店に電話してみたのですが、そのクリームでよいとのこと(カンの色はふたが濃いチョコレート色、底がやや薄目のチョコレート色)。そこで質問なのですが、ウェストンのクリームをゴルフに塗ると、元の色よりも濃くなってしまうのでしょうか。薄く塗っても最初に塗った部分のみが濃くなり、色むらに見えてしまいます。それとも、皮がクリームをすってしまうのでしょうか。茶のゴルフをもっていらっしゃる方、どうか教えてください。
37 :
1:2001/08/03(金) 10:03 ID:Ke1aAuAA
では、地名一覧です。
・明治7年 三重県奄芸郡中山村(生地、分家となる)
・明治23年 東京浅草区浅草駒形町49番地(転籍)
・明治27年 津市大字下部田中茶屋町(移住地)
・大正12年 津市北堀端津1870番地(移住地)
・大正13年 三重県安濃郡藤水村大字藤方1377番地(移住地)
・大正13年 東京市浅草区高原町1番地(本籍地名変更)
・大正14年 三重県度会郡瀧原村大字野後1660番地(移住地)
・昭和2年 東京府豊玉郡中野町大字雑色176番地(転籍)
・昭和3年 三重県安濃郡新町大字古河280番地(移住)
・昭和6年 三重県安濃郡新町大字刑部653番地(移住)
・昭和22年 東京都中野区川島町26番地(転籍)
「浮雲」という女性小説は主人公が転々とします。
上の転籍や転住は祖母です(祖父は実質養子待遇で、私生児です)
38 :
1:2001/08/03(金) 10:10 ID:Ke1aAuAA
この掲示板の書き込みを結構読んでいたのですが、上記住所が
時折取り上げられるので、思いきって書きました。偶然だった
のかもしれませんが。浅草や中野、新町、刑場という地名は、
この板に出てきてましたからね。奄芸郡中山村は市役所に聞くと、
現在の津市栗真中山町か、白塚、一身田あたりと言いますが、
このあたりには有名な夜祭があります(逆川神社、牛が御神体で
夜中に担ぐ風習です)
39 :
1:2001/08/03(金) 10:26 ID:Ke1aAuAA
疑惑の一つとして、祖母、母、わたしの三代に渡って、焼き魚は
食べますが、生モノや肉類は一切食しません。私の場合、魚の
血合いも気持ち悪いです。食べるものが殆ど限られているので、
ビタミン剤とかが必要です。バターやミルク、卵も臭くて駄目
です。祖母の影響です。
40 :
33:2001/08/03(金) 10:37 ID:NUrC56Gs
>>37 実は三重に限らず、全国の古い資料持ってるんだが、
これは全部部落ではないですな。
たとえば、津市と言えば、全解連が事務所構えてて、楠正成落人伝説が
ある某所が有名だが、ここの地名とは違うし。
それよか、普通の人は2ちゃんにこんな詳細な個人情報を自分で書き込まないよ。
おそらく1は知人の第三者をおとしいれるためにこんなネタを書き込んでいるのだと思われ。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/03(金) 12:46 ID:pSM4Jfd6
>津市と言えば、全解連が事務所構えてて、楠正成落人伝説が
>ある某所が有名だが、
全解連の事務所って公表してないぞ!
楠木伝説は腐るほどあるけど、まさか四天王寺(栄町)かあ?
そんなことより、1には悪いけど、三重県人権センターっていうのが津市一身田大古曽だぞ。
『津市栗真中山町か、白塚、一身田あたり』っつうのは、親父に聞いたらヤバイ
とか言うとるよ!
42 :
40へ:2001/08/03(金) 12:49 ID:pSM4Jfd6
一身田も新町小学校も同和やっとるぞ。
津市大字下部田中茶屋町って今のどこじゃい?
あんた、団体の人とちゃうけ?
43 :
さらに40へ:2001/08/03(金) 18:09 ID:UfdOGmmM
>実は三重に限らず、全国の古い資料持ってるんだが、
なーんって言ってるけども、それ、僕にも教えて!
44 :
公三:2001/08/03(金) 18:13 ID:MZZNU26U
>>41さん
>全解連の事務所って公表してないぞ!
ほんと?
ありゃま、知らなかった。
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/03(金) 18:40 ID:Sm078plI
こんにちは。
XR7G w2k sp1 の環境でノートンインターネットセキュリティーを使ってます。
特に今までこれと言った不具合は無いですよ。
このソフトを選んだ理由は電気屋の店員さんに尋ねたらこれが良いって言われたので買いました(笑)。 >その時はアンチウィルスだけでしたけど。
その後、アップグレードのお知らせが来てインターネットセキュリティーを買いました。
確か今インターネットセキュリティーって安いんですよね。
ウィルスバスターも良いってよく聞くのですが使ったこと無いので・・・
すいませんお役に立てませんで。
それでは。
46 :
コテコテ:2001/08/03(金) 22:57 ID:NoJCNeH.
1へ
そんなことより、あんたの家系って遺伝病ある?
47 :
40:2001/08/03(金) 23:10 ID:cp6GFOr6
>>41 公表するも何も、こっちは現場で見て知ってるんだよ。
人権センターの方は行政が勝手に設置しただけ。
部落ではない。
そうして、勝手に厨房が勘違いしてる場所は全国いたる所にある(藁
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/04(土) 02:09 ID:CF76QFwk
sage sunde
49 :
:2001/08/04(土) 03:30 ID:LcoCiclw
>47
って、あんた何やってるの? 三重スレ見て。
50 :
50:2001/08/04(土) 03:31 ID:LcoCiclw
50
51 :
1:2001/08/04(土) 04:25 ID:gZ5cuRZs
無学というか、昔の学校出ていますので、2chの若い人には私の煩悶が
わからないと思います。まず、これがネタとかいうご意見の方がいらっしゃい
ましたが、違います。私の母が、実は悩んでいるのです。鬱病というものは
過去のいろんな疑問を赤裸々に創出するのでしょうね。ここに、はじめて
意見を出したのですが、30代後半ともなりますと、親のことが気になります。
母は、どうして今更「穢多は偉い!」と言うのでしょうか?
そういう母の言葉から、私の先祖巡りは始まりました。伊勢国の出身という
と関西なのか、中部なのか、分からない地域です。2chで、この板で、三重
の方々などの率直かつ素朴な意見を見てきて、思いきって書きました。私自身、
どうでもいいのです。夫は、実際、蝋燭屋を経営しておりますので、江戸の
怖い方々も知っております(怖いという表現、勘弁して下さい)
で、夫はこういうネットでの被差別問題に怒っております。私は、どういう立場
をとればいいのかと。先祖の戸籍謄本を張りつけたことは恥じ入ります。
で謄本はいくら遡っても、たとえ穢多、非人、もしくは武士でも、住所と苗字の
間は削除された数字が見えます。地租改正、士族の復権、水平社運動、大正デモクラシー
などといった経緯を経て、身分というものは見えなくなっているのです。
では、また。
52 :
1:2001/08/04(土) 04:31 ID:gZ5cuRZs
ごめんなさい。自虐性がなければ解決できない私というものは丑松派
ですね。実際、子供の頃、破戒を読んで泣けてきて左翼に傾倒したり
しました。私みたいなものは、世に言うコヴァですね。寄る辺が無い
のです。部落民とか、新右翼とか、なんかにすがりたい馬鹿です。
こういう感情論が、靖国参拝是非を問題化させていると思いますが、
私は、日本が好きです。被差別民であっても、無くても、
私達はプライドが欲しいし、そんなもので結束できる小さな島の
烏合の集です。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/04(土) 05:30 ID:5qvTHxxA
1さんは日記でも書いてるつもり?
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/04(土) 06:58 ID:pIuuwvy6
>>37 完全にB地帯の名前があります。
(わざと、紛れさせた感じもしますが?)
女性の方のようですが、お歳はおいくつですか?
55 :
1:2001/08/04(土) 17:32 ID:83Kr7wrU
紛れさせておりません。他にも愛知や静岡、神戸にも親戚がありますが、
多いので割愛しました。どの住所がそうですか?教えて。あ、私は39歳です。
56 :
一時復帰?(某コテハン):2001/08/04(土) 17:39 ID:uGffKarY
1様へ
あなたがお書きになった個人情報を読む限り、あなたとその御一族は賎民階層とは、商売の関係を除いては、なんのつながりもないと考えられます。お母様のお言葉の件ですが、その人生において、被差別部落の方の運動とかを見聞なさったことがあるのではないかと推察いたしました。気長にお母様のお話相手をしてあげてください。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい:2001/08/04(土) 17:43 ID:T8fVKvlk
>>1 東京市浅草区高原町1番地
東京府豊玉郡中野町大字雑色176番地
東京都中野区川島町26番地
って、今の住所で言うと何処ですか?
たしか中野の新井か野方に、屠殺場が有ったらしいけど。
58 :
:2001/08/04(土) 18:18 ID:xfmMP80A
浅草区に駒形町はあったけど
高原町なんてあったか?
豊玉郡の中野町の細民地域はとても小さかったはずです
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/04(土) 22:41 ID:4OT1EfpM
またまた中野ネタに騙されてる。
60 :
:2001/08/05(日) 00:43 ID:s8NtHAeI
1926年データでは
中野町の細民世帯数は57戸、人口は481名、
一戸当たり人員は4.3名。浅草区の1/8以下です。
61 :
名無しさん@お腹いっぱい:2001/08/05(日) 00:45 ID:XeJ4IMrY
どうせ公務員だろー
62 :
60:2001/08/05(日) 00:55 ID:ROspinMo
上記のデータ誤りありました。
人口は248名です。
しかも中野町と戸塚町をあわせたデータでした。
63 :
:2001/08/05(日) 01:09 ID:rNgNp/AI
中野区川島町は都営川島アパートのあるあたり。今は弥生町か方南
64 :
辛し蓮根 :2001/08/05(日) 05:52 ID:MqkMyonI
1よ
「曽曽祖 父は士族と言われていたので」だって?
これだけ材料が揃っても士族って思っていたい君の気持ちわかるよ。
頑張った部落民は、土地を離れたら士族と言う傾向がある。
明治の民権運動に身を投じていたので上京したんじゃないの?
民権運動者って、半分は穢多だったんだよ。
65 :
辛し蓮根 :2001/08/05(日) 05:57 ID:MqkMyonI
明治7年に分家したってことは、新平民という戸籍を消すためさ。
地租改正運動(穢多)に狼煙を挙げた伊勢暴動の旗手だったんでは?
また、ご先祖様は高学歴のようだが、単にカツアゲで財をなして、
大学に入ったに過ぎない。だいたい早稲田ってそういう大学じゃないの?
1君の自虐性は部落民の血です。まあ、マシな方ですがね。
66 :
:2001/08/05(日) 06:16 ID:yX0RiYfo
>>64-65
笑えるな。
まあ、ネタのつもりかも知れんけど
>民権運動者って、半分は穢多だったんだよ。
士族民権論、豪農民権論という日本史の基礎知識も持ち合わせてないと見える。
おまけに
>だいたい早稲田ってそういう大学じゃないの?
これで、学歴コンプレックスもバレバレ。
(おれは東大卒だとかいうレスはなしね、藁)
67 :
辛し蓮根 :2001/08/05(日) 06:33 ID:A0NYupbw
明治7年に分家したってことは、新平民という戸籍を消すためさ。
じゃ、分家の意味、意図を説明しろ
68 :
辛し蓮根 :2001/08/05(日) 20:13 ID:HAL5IVIs
肥後の竹崎
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/05(日) 23:10 ID:oIt6X7tg
経歴(転住歴)などを読むかぎり、むしろ士族か豪農でしょうね。
70 :
:2001/08/06(月) 11:55 ID:Z1oJV2Vw
age
71 :
名無し@夢いっぱい。 :2001/08/06(月) 14:58 ID:WxR24SHM
米騒動
大戦による好景気は,物価の急激な上昇を引き起こしました。なかでも米価は,シベリア出兵を見こした商人たちの買い占めなどのため,1918(大正7)年になると異常な値上がりを続けました。7月には富山県の漁村の主婦たちが,米の県外への積み出しを実力で止め,安売りを求める事件が起こりました。新聞がこの事件を「越中女房一揆」として全国に報道すると,たちまち全国各地で米の安売りを求めて民衆が集まり,米屋・金貸し・大商店におしかけるなど,はげしい行動を起こしました。これを「米騒動」といいます。
この騒動は,ほぼ全国におよび,約50日にわたって続きました。労働者を中心に部落差別に苦しむ人々なども多数参加し,その数は70万人にもなり,軍隊が出動してやっとしずめました。しかし,軍隊を出動させた当時の軍人の内閣は,多くの国民の批判にあってたおれました。
72 :
戸籍課より:2001/08/06(月) 15:25 ID:GMb95wtA
@明治5年式戸籍
(「戸籍法」明治4年4月4日大政官布告第170号・明治5年2月1日施行)
日本で最初に全国統一様式の戸籍ができたのが、この「明治5年式戸籍」です。この戸籍は実施の年が壬申の年だったので、一般に「壬申戸籍」(じんしんこせき)といわれています。戸籍の編成単位は「戸」で、本籍は住所地とされ、身分登録とともに住所登録という性格もあったので、現在の住民票の役割もはたしていたようです。
A明治19年式戸籍
(「戸籍取扱手続」明治19年10月16日内務省令第22号、「戸籍登記書式等」同日内務省訓令第20号)
戸籍様式、戸籍制度の改革により・・・本籍の表示は住所とするという点は明治5年式戸籍と同じですが、屋敷番制度ではなく地番制度が採用されました。そして、除籍制度が設けられたのがこの戸籍からです。(それまでは除籍という概念がなかった!)
B明治31年式戸籍
(「戸籍法」明治31年6月15日法律第12号同年7月16日施行・「戸籍法取扱手続」明治31年7月13日司法省訓令第5号)
明治31年に制定された民法(旧民法)で、「家制度」が制定され、人の身分関係に関しても詳細な規定を設けられることになったので、それらの事項を登録できるようにするために、戸籍は内容が変わりました。「家」が戸籍編成の単位です。この戸籍の大きな特徴は、戸籍簿の他に「身分登記簿」制度を設けたことです。身分関係の届出や報告はすべてこの「身分登記簿」に記載されるようになったのです。そしてそれらの事項を戸籍簿に書き写すという手間のかかる制度だったため、大正3年戸籍法によって「身分登記簿」は姿を消す運命になったわけです。
C大正4年式戸籍
(「戸籍法改正法律」大正3年3月30日法律第26号・「戸籍法施行細則」大正3年10月3日司法省訓令第7号、施行大正4年1月1日)
「身分登録簿」を廃止したことによって、記載内容が詳細になったのがこの戸籍です。それまでの明治31年式戸籍は改製することなくその効力が認められました。でも、まだ混在していた「明治19年式戸籍」はこの「大正4年式戸籍」に改製すべきと決められたものの、その改製作業が行われないままになったものたくさんあったようです。
D昭和23年式戸籍
(「戸籍法を改正する法律」昭和22年12月22日法律第224号・「戸籍法施行規則」昭和22年12月29日司法省令第94号、施行・昭和23年1月1日)
これが現在の戸籍です。昭和23年といっても、それまでの戸籍が実際に改製されたのは昭和32年頃です
E平成〜住民基本台帳制へ(PC処理化)
73 :
1:2001/08/06(月) 16:15 ID:Kl8487h6
わたしが役所で言われた「古い謄本」とは、上のいつ頃の謄本ですか?
現住所=本籍とすれば、前戸主名は表記されないのですか?
でも、前戸主名が掲載してある謄本と、無い謄本があります。
どういう意味でしょうか?
父方の謄本は本籍地名が屋敷表記で地番で記されていません。
なにせ伊勢国なんて、廃藩置県前の住所ですものね。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/06(月) 21:08 ID:irSUjVuo
おらにも、教えて。
75 :
1:2001/08/07(火) 09:08 ID:JRjasYf6
郷土史をチラと読んでみたんですが、先祖の姓(全国で7000名位)が出てきました。
なんかゾーッとしました。鉄砲を作った隠密です。伊勢国は藤堂藩と桑名藩などの
総称ですが、藤堂32万石が、資格がありながらも公爵になれなかったのは桑名藩との
対立にあるようです(藤堂は幕府軍には「犬」と蔑まれた藩。一方、桑名藩は会津
藩と共に行動した悲劇の藩です) 維新の折には藤堂は伊賀者鉄砲隊を早々に結成
して幕府軍をやっつけてますね、これは有名。この鉄砲隊は伊賀者精鋭隊として藤堂
が傭兵していた特殊部隊(一応、藤堂上野藩ですが)で、武器(鋳造商人もしくは
鋳造師)の大元が我が先祖名です。もともとは武蔵七党で有名な武将ですが、坂東
武士などというのは所詮豪農土嚢ですから、末裔は戦国時代に全国に散ってますし、
出自の怪しい藤堂高虎は自らを尼子一族などとアホなことを言ってますが、やはり
坂東武士であるらしいです(先祖と藤堂は同じ系類出自です)
話は反れましたが、鉄砲頭もしくは武器商人であれば、江戸城明渡しの際に、藤堂
藩主と共に入府したことは多いに考えられます。
リストにあった浅草区高原町は現在の台東区寿です。寿とは藤堂高虎の妻の名前に
由来しているらしく、藤堂江戸屋敷は上野松寒寺(現在は上野動物園の獰猛動物の
檻があるあたり)にあり、高原とは焼物のことです(これは伊賀焼に似ています、
只今調査中)
で、結論的に言いますと先祖は鉄砲作りで、幕末期にかなり財を成したような記述
がありましたので、先祖が高学歴でありながら仕事をしていなかったことが頷けま
した。しかし、先祖と藩主の名誉のために、一言。藤堂藩は貧民救済思想が非常に
強い藩であったこと。御かげ参りで何百万人と参宮街道を行き交った被差別民など
に、食糧や宿をタダで領民があてがった習慣があったことなど、すばらしい気質の
藩であったことは嬉しい限りです。
76 :
1:2001/08/07(火) 09:20 ID:JRjasYf6
鉄砲作り、伊賀者は、そこらじゅうで賎民視されていますね。
それから、鉄砲頭というものは隠密なので苗字なぞは出せなかった
ようです。無足人という範疇でもありませんし、卒族でもない。
さらに、祖母は一人娘なので当然、養嗣子を迎えてますが夭逝して
います。このような身分の者は長男以外は血族を絶えさせるのが通常
ですので、祖母の家は絶えたのでしょう。曽祖父は三回も結婚してお
りますが、祖母は50くらいのときの娘で、男子出生のためとはいえ、
四回目の結婚は困難だと思ったろうし役目も終わったのだろうと思え
ます。気になるのは、戦争前後には藏に大量の米と砂糖があったこと
や冷蔵庫もあったという母の記憶が正しければ、維新後の戦でも死の
商人であったかもしれませんね。
以上。
77 :
アホくさ!:2001/08/07(火) 09:49 ID:H/YiTyGI
>1
M県民ですが、貴方の先祖探しは無理だね。
M県民は国家神道が多い−当たり前だが。
従って維新後の戦争のために、維新前の藤堂さんは、仏教禁止例を強いているからね。
ましてや藤堂さん専属の隠密で豪商部落民だと他の檀家が嫌がるから。
やっぱ、天理教かキツネ教か公明ですかあ?
中途ハンパなB民は辛いねーーー
78 :
:2001/08/07(火) 11:50 ID:t7sKrH6M
79 :
あへ:2001/08/07(火) 19:57 ID:A9xAfk3U
塩爺も成金Bだって。
あんたのご先祖もそうなんだ。
昔は、私学なんて金さえあれば誰だって入れたもんね。
80 :
一時復帰?(某コテハン):2001/08/07(火) 20:11 ID:cqhANK/U
81 :
塩爺:2001/08/07(火) 23:28 ID:ENByRbnY
もっこすはん、もう宜しいやろ?
82 :
:2001/08/08(水) 00:38 ID:hRsE2W/k
そうですか?
そうだったんですか。
なんか、嘘臭い。
83 :
1:2001/08/08(水) 16:46 ID:nnJ9.uL2
ようやく調査報告が届きました。祖母、祖父とも、母が言う大学、女学校には
在籍していない、ということでした。
母は、いや祖父母の嘘はまだ続きます。
祖父は電力会社に勤めていたというので国土交通省に伺ったところ、大正、昭和
初期においては内務省管轄でさえ、電力供給体制に入っておらず、○○電力という
会社は昭和27年の設立だということだったのです。
祖父が勤務したとされる山(ダム建設地)の役所などに聞きまわっても同様の回答
でした。ダムのある山奥の村の橋を渡る写真が一枚残されています。祖父はジェントル
マン風で山高帽。祖母は日本髪にお洒落な日傘。チンという犬を抱いてます。
変なの。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/08(水) 23:49 ID:VafFLask
・大正14年 三重県度会郡瀧原村大字野後1660番地
ここが主産地では?
もっと浪漫があるよ。
85 :
ななし:2001/08/09(木) 05:47 ID:O6lREAlI
>>1 さん
戸籍の附票をとられてみてはいかがでしょう?
これに、今まで住んでいたところ(住民票に記載されて
いたところ)の住所の履歴が記載されています。
ひょっとすると、戸籍に記載されていない住所が載って
いるかもしれません。
ただこの附票、保存期間があるので、ひょっとすると
もう請求できないかもしれませんが…
86 :
ななし85:2001/08/09(木) 05:57 ID:O6lREAlI
>>85 は無視してください…すまそ。
もう祖父母様はご存命ではないようなので、
附票の請求は無理かも…
後は、過去のものを含めてお墓を調べて、
そのお寺の過去帳を見せてもらうという方法が一番のような
気がします…
87 :
ななし85:2001/08/09(木) 06:11 ID:O6lREAlI
あともう一つ。
色々と戸籍・除籍・改製原戸籍等をお持ちのようですが、
それらは全部前後が繋がっていますか?
もし繋がっていなければ、その間に戸籍があるかも。
で、もし転籍の記録があれば、その転籍の理由とかが
書かれていませんか?
88 :
85-87さんへ:2001/08/09(木) 08:17 ID:Pj.wZEvI
ありがとうございます。
先ず、附票ですが、昔のものは住民票も兼ねているということなので、これで分かる
との役所の指摘でした。
お墓を調べるために戸籍をまず調べたのですが。母は全く墓について知らないし、祖母
の家系は途中から仏教を棄てています。こういう場合でも過去帖はあるのかどうか。
でも、今、お寺の在り処を探しております。父が亡くなったときも近くの寺で
一部を埋葬してもらい、残りはまだ手元にあるようです。宗教名もお墓にも母は行った
ことがないようで、昭和初期(生れた時)キリスト教で洗礼を皆受けているようです。
戸籍と戸籍は繋がっております。前籍地名が書いてあるので、それで確認すればいいの
ですよね? 最初の謄本には戸主の記載がありませんが。
89 :
1:2001/08/09(木) 08:30 ID:Pj.wZEvI
三重県度会郡瀧原村大字野後について。
分厚い郷土史を入手しました(高価)
祖父の3兄弟すべてが、「認知」されているので私生児かと思いましたが。
昔のことですので分かりません。でも時間がかなりかかっているし、三人
とも前人というのはオカシイなというのが実感です。で、町史をササ-ッと
読んでて特質すべき民俗学的記述があり、「???」と思いました。
木地師という細工者が発祥しているらしく、それが伊勢神宮の郷土玩具とし
て今でも販売されている特産品ということ。木地師はサンカと呼ばれる時
もあったが、明治以降、教育の普及のため、山の生活と漂白を止めたそうで
す。戸籍がなかったので、祖父三兄弟は篤志家になんかに育てられたのか
もしれません。母が以前「お父さんは、ちょっとねぇ・・・」と育ちの複雑
さや悪さを気にしている発言がありました。「ダムのある山奥の村の橋を渡
る写真」の地が瀧原宮と思います。故郷なのか、叔母の出生届けがある土地
ですので、本当の実家かもしれません。
なお、祖母の姓名は主に関東以東で、東京や東北、北海道に多い名前なのは
どうしてかな?って思います。
90 :
1:2001/08/09(木) 08:34 ID:Pj.wZEvI
祖父母は内職でビーズの細工物や下駄の制作卸しを行っていた時期
があったので、随分誤解されたとの母の発言も気にかかります。
これが結婚するときのネックになったとか。
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/09(木) 09:36 ID:TwXUu9Zg
あなたの創作活動に期待してまふ。。。
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/09(木) 11:43 ID:sqWPLKIo
ほんまにようやるわ。法科系統の学生か、歴史好きの変態か、小説家になれるよ。
「1」さんが、何かの小説書いていてそのプロットのような気もして来たよ。
このエネルギーに敬服します。頑張って下さい。
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/09(木) 12:26 ID:srxoPCOU
っていうか、人権板の『部落問題集大成歴史浪漫編』ってかんじ。
頑張ってよ!
1の発想に脱帽。
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/09(木) 13:31 ID:srxoPCOU
>なお、祖母の姓名は主に関東以東で、東京や東北、北海道に多い名前なのは
>どうしてかな?って思います。
これについて、次のように考えています。
・・・ 特に鎌倉時代以後、所領を持つ武家などの多くは、
自分の財産を跡取り息子にそっくり引き渡すために細心
の注意を払い、次男以下には本来の苗字を名乗ることさ
え許さなかった。別の苗字を名乗らせることが多かった。
これは財産を次男以下に奪われたり、分割の要求をされ
ることをさけるために。
・・・ 平家討伐後に源頼朝が義経を討ったのは、義経が
京都から頼朝宛に送った手紙に、「源義経」とサインした
からだ、という人もいます。
それで、所領という財産持ちの家の苗字は広がることが少
なかった。・・・ 鈴木、佐藤、田中、山本、渡辺、高橋、小林
と続く、苗字の 「佐久間ランキング」で見ると、戦国大名の
苗字で100位以内にに入るのは数少ない状態です。
それに比べて 「財を持たざる者」 は、次男以下が本来の苗字
を名乗るのも意に介する必要がなかったので広まった。
だから名家ほど、苗字が広まるのが少なかった・・・
ただし、一部の武士にはわが子はおろか、郎党にまで気前
よく主家の苗字を名乗ることを許した者もある。そういう例が
佐藤・伊藤など、佐久間ランキング上位の東国武士発生の苗字。
おなじ姓でも、名族を輩出した地域で同姓を名乗る人数
が少なく、取り立てて世に出る人物を輩出しなかった地域で
・・・といっても、もともと1さんがある程度いた地域で、
かえって1さんの姓を名乗る家が規制を受けずに広まったので
はないか、と思います。
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/09(木) 19:24 ID:XcMRcadw
続編、キボンヌ!
96 :
お母さん、万歳!:2001/08/09(木) 22:28 ID:NVOkYndo
...チンカス
97 :
ななし85:2001/08/10(金) 04:21 ID:p8IfkPHA
あ、すでに附票は取ってらしたのですね。
うーん、もう手は無いのかなぁ...
1つ質問ですが、
>>88 の「最初の謄本」とは何を
差しているのでしょうか?
で、その謄本に筆頭者の名前があって、その筆頭者が
いつ、どこで生まれて、誰が届け出て、どこの戸籍
より入籍 とかいう記述があると思うのですが、ありませんか?
明治7年の戸籍だったら、これより前は無いかも...
98 :
ななし85:2001/08/10(金) 04:32 ID:p8IfkPHA
あと気が付いたのですが、もしご先祖様が土地を
持っていたという事がわかれば、土地の登記謄本
から何か情報は得られないかなぁ?やはり無理?
99 :
ななし85:2001/08/10(金) 04:42 ID:p8IfkPHA
何度も書き込みすまそ。
明治の頃の戸籍謄本で、文字を塗り潰して見えなく
したような箇所とかあります?
100 :
1:2001/08/10(金) 15:57 ID:JrhRhMDU
100を記念に、ここから私の手記を長々と流します。新スレッド、読んで下さい。
101 :
1:2001/08/10(金) 15:58 ID:JrhRhMDU
新スレのタイトルは、
「・ 系譜 ・ 」です
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/10(金) 16:39 ID:IVT6FSAg
>101=1
上、ないよ、もう。
103 :
1:2001/08/10(金) 16:44 ID:OJclPkWQ
ホントね。酷い。では改めて。
@最初の戸籍・・・
明治23年の住所(東京市浅草区高原町一番地)欄の下段の戸主名
は不記載。次欄の上段には、
明治7年三重県○○郡○○村■■○○長十郎〓分家。下段には
戸主として○○長藏 肩書は亡父長庄郎三男 安政三年生。
昭和二年改正に付本戸籍を抹消す。
※〓部分は判読不可。■は2,3字削除の形跡あり。
妻(最初)婚姻後直ぐに死亡(明治22年、婚姻解消)婚姻時の住所と 戸主名との間に2,3字削除の形跡あり。
妻(後妻)婚姻3年後死亡(明治30年)婚姻時の住所と戸主名と
の間に2,3字削除の形跡あり。
養嗣子(判読難)入籍(明治24年?死亡記載無し)削除の形跡あり。
長男入籍直後死亡(明治28年)削除の形跡あり。
次女入籍(明治29年、長女の記載無し)我祖母、後に婚姻送付除籍
後妻(三番目)死亡除籍(大正14年)、肩書は武士越智○○郎、
母○○の長女、削除形跡あり。送付除籍時の届人が祖父との記載。
上記後妻の姉と思われるが非嫡子ともとれる(判読不能)
孫、肩書は次女、女、送付入籍直後死亡(大正11年、夫の記載無し
祖父との婚姻前である)
104 :
1:2001/08/10(金) 16:45 ID:OJclPkWQ
※戸主と養嗣子以外は除籍されている。
※死亡、婚姻除籍届出の戸主は全て養嗣子名ではない。
※送付による入籍除籍は大正11年より。
※祖父母の婚姻時の戸籍は両家とも東京(大正13年、同日届出受籍
※大正14年、曽祖父の第三後妻が死亡し、叔母(次女)が出生する。 同居人として記載してある祖父が、除籍送付と入籍送付を届け出て いる。その送付届出先が三重県度会郡瀧原村。瀧原村に戸籍を持つ 者は存しないと思われる。
※よって、祖父母は関東大震災の翌年、東京で結婚し、その翌年同村 に移住?し祖父の継母の死亡届けと次女の入籍届を、父として、戸 主ではなく同居親族として、祖父が送付届けを出している。
※瀧原村に関する情報は、電力会社のダム事業と思われたが当時、そ のような事業は存在しない。本籍地としての記載の無い瀧原村に慌 しく東京から赴いた理由は何か?瀧原村で撮られて写真が一枚ある が、たいそう幸せそうで服装も紳士淑女の体である。継母は同村に おいて死亡との記載。継母と祖母は険悪な仲であったと聞く。
105 :
1:2001/08/10(金) 16:47 ID:OJclPkWQ
A木地屋・・・1
瀧原村には由緒正しい瀧原宮がある(神宮の摂社だ) 神領のため、江
戸時代より領民の中には租税を免税される者もいた。さらに、既出した
が、当地では伊勢小物で有名な木工細工がある。今でも伊勢土産として
販売されているクラフトだ。作り手は豊富な森林木を背景に、「木地屋」
(「木地師」「轆轤師」)と言われる特異な集団だ。戦国時代から、椀
や盆(ボチ)の他、高坏あるいは汁杓子、柄平、おこ(天秤棒)などを
製作して生活をしていた職人衆だが現在ではその姿は無い。瀧原の木地
師は全国に広まった山渡り職人集団の元祖である。彼らの尊神は55代文
徳天皇皇子惟喬親王であり、歴史上実証された人物である。藤原北家の
陰謀で第一子ながら872年、弾正惟喬親王は出家、比叡山に隠棲後出家
する。その後、近江の小椋荘に住み木地屋を生業としたことが祖神と崇
められる由縁である。
106 :
1:2001/08/10(金) 16:48 ID:OJclPkWQ
A木地屋・・・2
瀧原村には、この小椋姓が実際多い。祖神をまつった所が金竜寺
(禅宗)と筒井八幡宮(同、いずれも滋賀県神崎郡)。同郡の君
が畑、蛭谷、箕川等の村民達が鈴鹿峠を渡り鈴鹿山麓藤原、員弁
をへて、更に奥地の奥伊勢宮川峡谷に定住した。木地屋の祖神社
は三重県の北勢地方と当地の大皇神社三社のみである。木地屋は
宮川以南の山の八合目以上を勝手に伐採できる特権を持ったが
(神宮との関わりからか?)、地域住民との争いが絶えなく伐採
資源枯渇に瀕して炭焼き焼き畑農業、養蚕に転業する者もあった
が、大正期には下駄作りが主業とされた。が近代においては戸籍
を有しない漂白民のため兵役は無く差別を受けた集団で、山窩と
呼ばれた時代もあった。現在も木地屋の末裔が宮川本流域の大杉
谷筋等に小倉、小椋、椋、大倉の姓で集落を形成している(小野
姓の滋賀県小椋荘の小野宮は、これが転じたもの。小野氏は猿女
氏の一族で同系統である)
107 :
1:2001/08/10(金) 16:49 ID:OJclPkWQ
A木地屋・・・3
また、壬申戸籍作成の折、農民などに姓が許されたが、集落名が
姓名となることが多く、発祥地によってそれぞれ小倉、大倉、野
呂、小野姓をつけたが、椋という字はつくりが「京」のため恐れ
多いとして避けた例が多い。なお切畑の由来は「君が畑」に拠る。
昭和40年代に京都大学杉本寿教授は大宮町の集落に踏査を行って
いる。金竜寺に「氏子駈」帖に同地域の阿曽木地屋と藤木木地屋
の記録があったからだ。宮川の木地屋の特徴は、主に杓子を製作
したことである(紀州藩に貢している) 君が畑より入国以来、
柄平、おこ製作は長く続いたが、1681年にはじめて杓子が作られ、
盆や椀は見られず、俗にいう「柄(え)業屋」であった。これは
全国轆轤師村落では稀有のことである。近似の種類としては下駄、
独楽、雉車も作っていたが、それが相模の箱根玩具に転身し、奥
羽に遠征し椀、盆、杓子作りに復古している。なお桑名盆と伊勢
杓子の名声は高いが、度会七保村藤木屋杓子が我が国の杓子の源
地である。
108 :
1:2001/08/10(金) 16:50 ID:OJclPkWQ
さらに
祖父の姓は杉本といい、祖父は男三兄弟の二男だが、本籍地は津
市と記載されている。津市役所は全戸籍を空襲にて焼失している
特殊主自治体なので、本籍地は戦後自己申告された。さらに、祖
父の父にあたる曽祖父は三兄弟を十数年経って認知している(曽
祖父は二回離婚している) 三男は放蕩、ハンパ者で、祖母邸に
よく来て無心を繰り返し祖父母に疎んじられていたという母の記
憶がある。長男は警察官、次男である祖父は大学を出て電力会社
にいた(いずれも立証されていない)とされている。
@ABとしてまとめたメモで、瀧原村と祖父との関係を類推する
に及んだ。奇天烈かもしれないが勘弁して欲しい。
109 :
斉藤守:2001/08/10(金) 16:50 ID:/eHP1Rig
古来より「一寸の虫にも五分の魂」と云います。
石コロには、石コロなりの根性がある!
早稲田大学卒 斉藤守
中学の基礎程度から!
大検・大学受験併用コース 宮崎 実途さん
高校時代はクラブと遊びばかりで、結果的には高校2年で中退。
その頃友達の紹介でグリーンコースに入学。
勉強は全然自信のなかった私ですが、学院の授業は中学の基礎程度
(プレ講座)から始め、補習・補講の連続でした。
今は大学受験併用コースで頑張っています。
どんな相談でものってくれた先生方や職員の方々、本当にありがとう。
自由な雰囲気!
通信制高校補習コース 大野 篤子さん
母の仕事の関係で栃木から転校することになったのですが、
1学年の途中だったので転入学できる高校がありませんでした。
学校の先生の紹介で通信制コース(NHK学園)
を知り入学しました。今は、大学受験を目指して頑張っています。少人数制なので、
厳しい中にも、自由でのびのびとした学院の雰囲気がとても気に入っています。
君も当学院で頑張ってみないか?
http://www.chuo-school.ac/ 掲示板はこちら
http://freedom.mitene.or.jp/~hajime-n/board/apeboard.cgi 頼むぞ!
110 :
1:2001/08/10(金) 16:52 ID:OJclPkWQ
B推測・・・1
大正11年、祖母一家は東京に移住している。未婚の祖母は女児を
出産直後に亡くしている。大正12年は関東大震災。大正13〜14年
頃、身重の祖母は養子待遇の祖父と、仲の悪い継母と共に瀧原村
に居る。昭和3年、三女が津市で生れている。3年間の空白があ
る。三女出産以降は安定している。四女、長男とも津市で生れて
いる。三女である母は祖父方の本籍地戸主より除籍されている
(四女独身、長男死亡)推論の一つとして、祖父が木地屋の息子
であったという可能性がある。瀧原の杉本に認知された三兄弟と
考えられるのだ。杉本の出は例の戸籍焼失で本当のところが分か
らない。母の記憶では「みせ」の出身で家業は大商いの米問屋だ
という。「みせ」とは三重県内では宮川の三瀬しか該当する有力
地名は無い。しかし母は宮川の三瀬ではない、松阪と津の間にあ
った地名だと言い張る。明治、大正期の鉄道状況を調べたが、当
時は軽便か伊勢線という路線があるのだが、該当する駅名は無い。
さらに郷土史によると当時、宮川には大店の米問屋は無かった。
米問屋でなく、しかも瀧原に居た過去がある以上、宮川の三瀬に
違いないと思う。母が嘘をついているというよりも祖父母が隠し
た過去だと考えたら合点がいく。何故隠したかが問題である。
111 :
1:2001/08/10(金) 16:53 ID:OJclPkWQ
B推測・・・2
最初に戻るが、三瀬谷の木地屋(被差別民)の三人の兄弟は、杉
本に認知された子供達だ。母が言うところの長男と次男の学歴職
歴もいかがわしいが、はっきりしていることは三男がヤクザ者で
あったことは実証されている。祖父母が隠しきれなかった人物だ
からだ。祖母は東京で私生児を身ごもっている(ここでキリスト
教に改宗したのかもしれない)
翌々年、祖父と婚姻しているが、傷物で当時としてはハイミスの
女性(28歳)には良縁は難しい。しかも養嗣子縁組をした男子を
得た後に祖母は生れているので余計な存在であり、実母は産後に
死亡し、義母の存在も疎ましかったろう。曽祖父と義母との年齢
差は20近いのだから。
112 :
1:2001/08/10(金) 16:54 ID:OJclPkWQ
B推測・・・3
そこで、同時期に在京もしくは縁のあった養子待遇の婿を探して
いたのかもしれない。それが祖母より三歳年下の杉本姓の祖父で
ある。祖父が東京専門学校に在籍している事実確認ができれば
(今は申請中)、この縁組は同県人であるし祖父母共在京してい
たのだから結婚への経緯は容易に解ける。しかし、虚言が多いこ
とを考慮すると、祖父は学生ではないと思える。ただワケ有り娘
に釣り合う婿であれば良かったのだ。
興味深い事実がある。祖母の本籍地となっている東京市浅草区高
原町一番地は現在は臨済宗(禅宗)の金竜寺と重なる地所なのだ。
金竜寺。木地屋の祖神をまつる寺である。高原町の金竜寺は東京
市における木地屋の集う寺ではなかったのかと推察する。住職や
縁者の伝手で縁談が整ったのではないかと思うわけだ。なお、浅
草区高原町一番地は高原焼が地名の由縁となっているが、この高
原焼は摂津の釜師が創設したものであるが、その詳細は余りにも
資料が無い(将軍献上焼物ということだけが分かっている) 区
画整理地名変更を重ね、現在は台東区寿二丁目に該当するが、当
地は穢多頭浅草弾左衛門縁の土地であることは言うまでもない。
113 :
1:2001/08/10(金) 16:55 ID:OJclPkWQ
B推測・・・4
ここで不思議なのは、木地屋因縁の金竜寺に祖母の本籍地が転籍
されていることだ。母の記憶では「おじいさんは、ずーっと昔か
ら津市の城近くで煙草屋と質屋を商っていた」という実証である。
ずーっと昔というのは実証的ではないが、幼少時の母は祖父(曽
祖父)が当地の名家として市内に多くの土地を持ち、維新の後に
与えられた俸禄金で質屋を商っていたことや祖母(曾祖母)も武
家の出であったことをイメージ(得てして実情に沿うことがある
イメージ)に刻んでいるようだ。読み辛いが曾祖母が武家越智氏
の出であることは祖母の葬式に来た親戚・越智の家系譜により私
も見聞した(@の後妻の記述参照)また昨年亡くなった叔母(次
女)も母も津市町が仲人となっている(但し、母は恋愛に走り破
談としたが) 母は「丸の内のおじいさん(曽祖父)が東京に居
たはずがない」と断言するが、祖父は江戸訛り(古典的なもの訛
りであった)が抜けなかったことを思い出すと、祖父はやはり東
京で暮らしていた時期がかなりあったのだ。
114 :
1:2001/08/10(金) 16:56 ID:OJclPkWQ
B推測・・・5
結婚に当たって、近在者を避けて東京者を見出したのかもしれな
い。ここでは本籍地が恐らく祖父の本籍地は三瀬であったので当
時、祖父が暮らしていた東京市の住所に、祖母方の曽祖父は転籍
したのかもしれない。大正13年にて、東京市浅草区に転籍、戸主
は祖母の父。既にこの時期には曽祖父は高齢であり、嗣子は死亡
したか蒸発したか、または日清日露戦争で戦死したのかもしれな
い(母は彼の存在を知らない) 頼りの孫は女児で私生児で夭逝
し、結婚した後の孫も女児、昭和元年に男子の孫が生れたがやは
り夭逝した。そして、その後も女、女と孫が生れた。次男の孫は
昭和8年生まれなので恐らく曾祖母は亡くなっており養嗣子縁組
は出来なかったのかもしれない。妻を三回亡くし、養嗣子と長男
を亡くし、孫の長男も夭逝したわけだから、さすがに気落ちした
のだろうと思うに至る。@の「昭和二年改正に付本戸籍を抹消す」
というのは曽祖父の死亡を意味するのだろうか?
115 :
1:2001/08/10(金) 16:57 ID:OJclPkWQ
B推測・・・6
母が言っていた「祖父が養子待遇であった」という意味はこうい
うことだったのかもしれない。あとは、養嗣子の謄本と曽祖父を
埋葬した寺を探すことしかないであろう。後者はかなり難物だ。
東京転籍前の曽祖父の本籍地は寺内町で腐るほど寺がある。さら
に津市は小さい町だが空襲銀座と言われたほど消失家屋が多いの
で(消失家屋80%弱)、寺も過去帖も焼けているかも知れない。
戸籍疎開もしなかった町だから過去帖も疎開していないだろう。
また、曽祖父の姓は地元では少ないので親戚も探し出せないだろ
う。実際、電話帖での該当姓は無い。坂東武士の姓であるが、こ
の姓で平安時代からとされる家系図を所持している東北の某家主
に連絡をしたが、伊勢国での同姓の家系は検討が付かないとの返
事を頂いた。坂東武士の家系はだいたいが元を辿れば近江、大和
、山城、摂津、河内、伊勢あたりの出身が多いと思うのだが、や
はり、この主の家系図の頂点にあるのは近江出身の平家の某であ
るとか。
116 :
1:2001/08/10(金) 16:57 ID:OJclPkWQ
B推測・・・7
戦前、戦中、母の実家は裕福であった。冷蔵庫があり倉には砂糖
や米が詰まっていたそうだ。祖母は祖父を虐げていたらしい、カ
カア殿下であったそうだ。見てくれでは全くそうではないおしと
やかな女性だったが、気性は激しく我侭で、気位が高かった。田
舎の町で、母たち三姉妹はヒールの靴とドレスで通学していて近
所の目を惹いたらしい。祖父は会社を辞めたあと、これといって
働かなかったが、戸長をやっていた。祖母は死ぬまで家事が出来
なかった。米さえ炊けない人で、女学校へは人力車で送り迎えの
育ち。未だに末娘の叔母の家には伝来の琴が置いてある。戦後、
母は銀行に入り、叔母は電電公社に入公した。戦後、土地はかな
り無くしたのであろうし、娘二人が相次いで嫁いだ後は資産を食
い潰す生活となった。
117 :
1:2001/08/10(金) 16:58 ID:OJclPkWQ
B推測・・・8
母が嫁ぐ頃は家内で下駄作りに励んでいたので、母は結婚すると
きに難儀したと言っている。どこの家庭でも戦後はなんとかして
暮らしを繋いだ時勢だから賎業であっても金になれば下駄を作っ
た。それが祟って、母は最近まで父の実家の者とは一線置いてい
る。余程悔しかったのであろう。下駄が一般内職としても権益と
いうのがあるわけだから、家を養うほどの収入を得るのは内職の
域を越えているだろう。多分、養子待遇の祖父の力が発揮される
時代を得たのかもしれない。祖父は「瀧原ルート」に顔が効いた
のだろうと推察する。母の姉は土地付きで内務省の役人に嫁いだ
が、屋敷の奥に牛を飼っていた。石榴の樹の下で牛がウロウロし
ていたのを奇妙な風景として憶えている。叔母の夫も「養子待遇」
だったので、叔母は商売を優先し公然と愛人を屋敷内に住まわせ
ていた。市内長者番付に載るほど財を成したが、元手は夫の退職
金の前借だったというから吃驚した記憶もある。
118 :
1:2001/08/10(金) 16:59 ID:OJclPkWQ
B推測・・・9
50代の祖父母は末っ子の叔父の放蕩に悩まされて一切を無くした
らしい。昭和30年代に祖父は精神疲労が祟って60歳そこそこで病
死した。商売に夢中の叔母は全く援助はしなかったので、それが
原因で母とは半ば絶縁していた。私の父も祖母が放蕩息子に「○
○ちゃん」とか甘ったれたことを最後まで言っていたので、大喧
嘩となり、行き交うことは少なかった。しかし、私は三歳の時、
祖父母に一時預けられている。鮮明に覚えているのだ。この頃、
祖父母はどこかの学校の寮母になっていたみたいだ。私は施設の
子ってこういうものなのかあと思っていたので、両親が迎えに来
ても逃げて回った。まだ傷痍軍人が居た時代だった。ペンキで塗
った家がいっぱいあったし、車といえばルノーかフォードだった。
119 :
1:2001/08/10(金) 16:59 ID:OJclPkWQ
B推測・・・10
ようやくプリンス自動車が出てきた頃、祖父母たちは暗い貧乏の
どん底の中で末娘だけをよすがに、温泉地に仕事を求め市内を離
れた。祖母は持ち前の和裁と毛筆書きの仕事でこじんまりと暮ら
していたようだが、些細な収入も息子に盗られていたようだ。
初詣の帰り道で交通事故を起こし、息子と共に祖母は即死した。
84歳だった。まわりは「大好きな○○ちゃんと死ねて良かったね
」と言っていた。死亡保険金は一億近かったが、殆どをヤクザが
持ち去った。不思議なことに父は号泣していた。「下駄事件」が
最後まで絡んでいたので父は懺悔したい気分だったのかもしれな
い。事実、祖父の葬式には母は行くことを許されなかった。言い
たくないが、私の母にも愛人がいて始終、父と喧嘩していた。誠
に、女の業の深い家系ではないか。これ以上は省略しても想像で
きうると思う。
120 :
1:2001/08/10(金) 17:00 ID:OJclPkWQ
どうして祖母は高齢の曽祖父を残し、仲の悪い継母を連れて瀧原
に行ったのか?そこで直ぐに亡くなっているのだとしたら病気味
だったと思うのだが。もしかしたら、事故死かもしれない。曽祖
父を姉妹が取り合った禍いが祖母と義母の仲を悪くさせたのかも
しれない。そうなると、それはそれで祖母の陰謀が見え隠れする、
とは勘ぐり過ぎかな。なぜなら祖母も長男と共に自殺しているの
だから。
木地屋の踏査に赴いた杉本寿京大教授とは、いったい誰だろうか?
祖父の姓は杉本であり、転籍した本籍地は寿なのだから、気にな
るのだが。偶然だろう。
さらに、私の調査は続く。
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/10(金) 17:51 ID:OJclPkWQ
養嗣子(判読難)入籍(明治24年?死亡記載無し)削除の形跡あり。
長男入籍直後死亡(明治28年)削除の形跡あり。
次女入籍(明治29年、長女の記載無し)我祖母、後に婚姻送付除籍。
とあるので、明治28年まで子供がなくて養子縁組をしたのだろう。
しかし、その後長男が生れた。しかし直ぐに亡くなった。養嗣子はその影響で
家督相続をできなくなったかもしれぬ。
しかし、普通に考えると養嗣子と次女と結婚させれば良かったのではないか?
孫がまた産後に亡くなっているが、届出があるので、この孫は次女と養嗣子との
間の子供ではなかったのか? 業を煮やして家を断絶させたと思える。
122 :
18才の芸能人:2001/08/10(金) 17:55 ID:VWNt8Ve.
123 :
1:2001/08/10(金) 17:56 ID:OJclPkWQ
上も1ですが、
というふうにも思えるのですが、養嗣子の謄本をとるべきなんでしょうね。
しかし、これっきりしかない謄本ですので(断絶)、無理でしょうね。
養嗣子っていう字ではなくて他の表記でしょうか?なにせ素人なんで、
判読が困難なんです。マメに出生届けを出しているかんじなので、
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/10(金) 19:57 ID:cUj8Aa02
うーん。泣けてくるね。
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/10(金) 21:08 ID:fefW.1GE
ここは人権板だろ。もっとわかり易く説明してくれよ。
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/10(金) 21:23 ID:nE7Kvz1U
アポーンされなように書いてんだよ。
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/10(金) 22:27 ID:xcctdBWA
いや実に見事に隣接地域が舞台となっている小説だ。いま流行っている参加
も出てくるし。登場人物の苗字の設定は秀逸であると思わざるといえまい。
さらに、特出すべきは壬申戸籍に抵触する難解な序章である。
そして、祖母と祖父のどちらがBなのか否かが当初は祖母に求めていたが、
後半の論文形式の展開になってからは祖父への疑問視から唐突に言及されている。
で、肝心なところよう分からん。
ので、
イマイチまとめてくれや。
128 :
出版社:2001/08/11(土) 19:27 ID:tN2ri2kY
ずっと拝読してました。39歳の女性?ということですが、ずいぶん昔のことも
ご存知ですね? 瀧原というのは知りませんが、私も同郷人ですので興味が湧き
ました。よければ続きをかいてください。
もっとブラッシュされれば面白い本になるかなあ、と僭越ながら応援いたします。
では。
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/11(土) 23:48 ID:d8EoPh3c
ag
130 :
名無し@鞍馬口:2001/08/12(日) 00:29 ID:bQ5D8MJ6
デザインは至ってシンプル。5xx 系のように背面に大きな「i」ロゴがないのでデザイン的に少し寂しい気もしますが、スタンダードで飽きのこないデザインであるといえるでしょう。というか私はもう SO503i のデザインには飽きてしまって、そろそろ買い換えたいかな、とか思っているんですけどね(^^;ところどころ間延びした感じのある SO503i と違ってよくまとまっている SO210i のこのデザインなら長く使えそうです。ジョグダイヤルとマイク周辺だけ色が違っているところもいいアクセントになっています。
本体カラーはウイングブルー、エンジェルピンク、ヴィーナスホワイトの 3 色から選べますが、やっぱりウイングブルーでしょう。エンジェルピンクはいわゆる「ギャル」にしか使えないだろうし、ヴィーナスホワイトはちょっと白すぎて面白みがないので。ウイングブルーはちょうど「C404S」のブルーを少し明るくしたような感じ。デザインも相まってどことなく某ウイ○グマンを彷彿とさせるところも少年の心をくすぐります(謎)。
そんな感じでムラムラと私の物欲を沸かせてくれている SO210i ですが、私はまだ SO503i の 10 ヶ月縛りが思いっきり残っているんですよね。まだ 5 ヶ月しか経ってません。本当ならもう機種変更したいのに・・・(泣)。とりあえず 6 ヶ月経過すれば多少機種変更価格も安くなるので、そしたら考えてみようかな。当面 DoCoMo 中央のみの取り扱いなので、DoCoMo 北陸が発売するまでにはもう少し時間もあるでしょうし。
関東では 8/14(火)発売。
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/12(日) 01:51 ID:cBL3m4pM
なにが言いたいのかはわかるが、
ここにいる馬鹿には
あんたの意図はわからんぞ。
132 :
ななし85:2001/08/12(日) 05:36 ID:KAbCBrqc
なんか、戸籍だけを手がかりに出自を調査するのは、
もう無理のような感じですね。
もし可能であれば、遠回りだけれど傍系(祖父・祖母のご兄弟)
を調査していくというのはどう?ご先祖様は同じだから。
上記その傍系の子孫の方に、
>>1 さんの思いを伝えれば、
色々と教えてくれるかもしれませんよ。
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/12(日) 10:27 ID:MQ0B.d4M
祖母はたった一人の娘です。実質兄弟がいないのです。
祖母の子供で生き残っているのは私の母と叔母の二人だけです。
母は何度も申し上げたように、「何も知らない」の一転張りだし、
叔母は「関係ない」と半ば怒ってます。従兄弟に聞いても、やっぱり
祖母の家は絶えたので全く思い出がないと言います。
70代の母が薄っすらと曽祖父の記憶を持っているに過ぎないので
困っています。こうなれば意地ですね。歩いて聞き取りすることも行い
ますが、遠距離なので、ある程度傍証を固めてから、巡りたいと思ってます。
祖父母の墓は叔母が墓守をしていますが、宗教の違いからか、墓にも
母も私の行けないのです。叔母の改宗について私の両親は険悪になった経緯
もあります。ここまで書けば分かると思いますが、祖父母と叔母は苦労の果てに
草加に入会しました。これは私達の、はっきり言って誰にも言えないタブー
なんです。
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/12(日) 11:36 ID:Mvqp3LB2
祖父の親戚縁者はまだ辿れることが可能ですので役所に申請します。
ただ、類推の域ですが、「木地屋」の出?で曽祖父に認知されたとしか
分からないので、祖父の出自を明かにすることは困難を極めるでしょう。
確か、祖父が死んだときは誰も葬式に行った模様もなく、祖母と叔父が
事故死したときには上述の通り、草加に入信していたので非常に寂しい
葬式でした(親戚は殆ど来なかった) 敢えて、叔母は親戚を呼ばなかっ
たであろうし、所在さえ知らなかったと思います。やはり、当時草加に
入るということは親戚の縁を断つという覚悟の業であったし、また周囲
は入会を知るや離れて行く人が殆どだったのです。凄い宗教差別とお思い
でしょうが、そういう時代だったのです。だから、難しい。
部落差別問題も、宗教の問題も、非常にデリケートにして複雑です。
その根底は人の心というのがベースにあることだからですね。
叔母が亡くなっても、私たちは葬式に行けますが、血族以外(嫁や夫)は
多分拒否するでしょう。私はもうじき結婚しますが、婚約者は部落民より
草加を忌み嫌っています。祖母はとても優しくて婚約者とも和やかに
交際できていますが、この事実を聞けば、嫌な顔をするでしょう。
もちろん、大人ですから何もなかったような振りは一生するでしょうが、
私との関係には溝ができます。婚約者の前の恋人は熱烈な草加だった
ようで、ま、それが直因ではないにしろ、破談の一つであったことを
言ってます。それを悟った叔母は隠してくれています。
したときも
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/12(日) 11:41 ID:Mvqp3LB2
出自を調べたい意図は、靖国神社参拝問題ととても似ています。
悲しい運命だったであろう祖父母の人生を見つめたいのです。
いま、私は婚約期でウキウキですが、反面、祖父母、両親の不運
の人生がいつか私に襲い掛かるような気がするのです。私が以前、
軽い神経症を患ったときに、母が一言いいました。
「やっぱり不幸なんだ・・・」と。
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/12(日) 11:42 ID:Mvqp3LB2
133−135は1です。
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/14(火) 17:27 ID:enTlnEr.
戸籍の文章中で、消された跡と、黒く塗りつぶしたとは、違いがあるの?
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/08/14(火) 18:54 ID:cnXeOZdU
ドラマの北条時正に出てくる平頼綱も乞食の子って設定よね?
んな馬鹿な話あるわきゃないけど、一応。
それから、中世から橋がある地域ってしれているよね。
さらに、近世初期までは橋ではなく浮橋か船橋という舟を繋いだもの
が橋だったので、「橋の下」という言葉は、現代で言う「高架下」という
変遷があったと思われるね。橋の下の前は一体なんと言ったのかな?
端の下(町)かな?
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
上は間違いでした。ゴメソ
変なレスが上に来るなよ。