議論:サンカについて★★★

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14名無しさん@お腹いっぱい。
天智天皇と藤原鎌足を中心とする政府は、まず「戸籍」を作って自分たちの仲間だけ登録しておき、
つぎに例の「班田収受の法」によって戸籍に登録していない、
政敵や異民族や賤民たちが開拓した土地を「浮浪者が不法占拠している土地」と称してどんどん没収した。
こうして、山に追いこまれたのが山窩となり、河原の荒地に追われたのが河原者、すなわち穢多になった。
穢多は田畠を作ることができないから、瓦焼きや、皮革工業を専業とするようになり、
その結果 、逆に莫大な経済力をもつようになった。その最大の実例が、浅草を中心とする江戸の穢多部落だった。
穢多は一般 の寺にも神社にも詣ることを許されなかったから、彼等は、彼等だけの力で、彼等自身の寺や、
神社を作った。それが浅草寺と「おとり様」である。この新興勢力を最初に利用したのが源の頼朝であり、
最大に活用したのは徳川家康だ。家康は浅草財閥とタイアップするために江戸をその本拠とし、浅草財閥の力をもって、
大阪財閥をバックとする豊臣家を打倒した。だから大阪の陣が終ると、家康の旗本たちよりも威張ったのは穢多部落の代表、
花川戸の助六であり、番随院の長兵衞 だった。同時に、家康から最大の信頼を受けたのは、穢多財閥を紹介した、
無名の穢多僧天海だった。家康は天海の功績にむくいるために、東叡山寛永時を作って浅草寺をその傘下に入れた。