最高裁(第一小法廷)は、90年11月28日、八鹿高校事件を頂点とする
いわゆる「八鹿・朝来暴力事件」について、主犯丸尾良昭ら部落解放同盟
(「解同」)側被告人13名からの上告申立に対し、適法な上告理由がないとして、
これをいずれも棄却する決定をくだした。
この結果、1983年12月14日神戸地裁が言い渡した、
全被告人、全事件有罪の一審判決が確定した。
「八鹿・朝来暴力事件」というのは、1974年9月から11月にかけて発生した「解同」による
集団暴力事件で、兵庫県南但馬地方に誕生したばかりの「解同」丸尾派が
勢力拡大のため、暴力主義と利権あさりの体質を露呈し、南但馬の自治体や学校教育現場を
その支配下におさめるべくいわゆる「朝田理論」と「解放教育論」をふりかざして
暴力と洞喝の限りをつくし、多くの住民をも震憾させた事件であり、起訴された事件だけでも8件、
被害者数200余名にたっする一大暴力犯罪であった。
八鹿高校事件は、そのなかでも最大の事件であり、同年11月22日、部落解放研究会(「解放研」)
問題を口実に県立八鹿高校に対する教育介入をはかった「解同」が、これに抵抗する教職員(同校のほぼ全員)
にたいし、これを校内に拉致監禁したうえ、「糾弾」と称する凶悪・凄惨・陰湿な集団リンチを加え、
内48名に瀕死の重傷を含む傷害を与えた(入院も29名に達した)事件である。
主犯丸尾良昭らが逮捕、監禁(致傷)、強要、傷害の罪で起訴された。
今回の最高裁の上告棄却決定により、一連の事件発生以来、被害者側の告訴、告発を受けて
「長年月の裁判に耐えうる証拠の確実な事件、被告人に絞って起訴した(捜査主任検事の言明)
とされる日本の教育史上前例のない、あるいは裁判史上有数とされるこの一大刑事事件は、
その後の神戸地裁の一審有罪判決、それにたいする「有罪」を不服とする被告「解同」側と
「量刑不当」を理由とする検察側の双方の控訴、これにたいする1988年3月29日の
大阪高裁における双方の控訴を棄却する判決、さらにこれにたいする被告「解同」側の
上告申立(検察側は上告理由が見当たらないとして上告を見送った)という流れを経て、
刑事事件としては丸16年ぶりに決着をみたことになる。
この事件の有罪確定により、「解同」の凶悪な集団暴力犯罪が明確に断罪されるとともに、
「解同」の運動論の中心に位置してきたいわゆる「糾弾権」なるものも、
社会的にはもとより法的にも完全に否定されたことになる。
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