http://www.jita.jp/kawa/text/hyouron-1.html <友常>マッチ工業は、神戸に限らず明治30年くらいから部落の生業と
なります。硫化硫黄を使いますので大変危険な作業でしたが、職業選択の自
由を奪われ、生きて行くためにはどんな危険があっても、またどんなに安い
賃金でも働かざるを得なかったと思います。
<河>このような経緯により、林田はマッチ工業の集積地となります。番町
部落の生業にマッチ工業が加わったのです。少数ながら韓人のマッチ工も確
認されています。部落民の生業を模倣したと考えます。
しかし、大戦終了後、スウェーデンマッチが市場を席巻し、日本のマッチ
工業は苦境に立たされます。とくに、零細業者が多かった林田のマッチ工業
は深刻でした。大部分が廃業に追い込まれます。当然、部落民の失業者も急
しました。この苦境を救ったのが、新たな産業として台頭したゴム靴工業で
した。その嚆矢は、奈良の部落産業で修業した後、林田にもどって開業した
部落民業者であったと私は考えています。前述したように、零細業者の存立
基盤は低賃金労働力です。しかもゴム靴工業は、マッチ工業同様、労働集約
型工業です。当然、新興のゴム靴工業者は、低賃金労働力を希求します。林
田にゴム靴工場が群生したのは、衰退したマッチ工業から大量の低賃金労働
力を吸収することができるという目論見があったからだと思います。また、
マッチ工場からゴム靴工場に転業する業者もあらわれました。結果、マッチ
工から、ゴム靴工へと転職する部落民が続出したのです。
ちょうどその頃、番町部落には新たな被差別マイノリティが増加してい
ました。韓人です。番町部落に流入した韓人無計画渡日者は、近隣の林田
ゴム靴工業地域、現在の長田を徘徊し、求人の張り紙を目安に飛び込みの
自己申込みを行ったと考えます。そしてその一部はゴム靴工業に就労しま
した。それを容易にしたのは、番町部落の先住部落民が、すでにゴム靴工
業に就労していたからだと考えます。