千日デパートは、昭和33年までは大阪歌舞伎座と言う劇場だった。
ところが千日の芝居はどうも道頓堀の役者と比べて2流扱いされた
らしく、また陰惨な事件も続いたらしい。
さかのぼれば昔、ここは刑場になっていて、さらし首の台が並んで
いたという。
千日前と言う場所自体が曰く因縁のある土地だったのである。
千日前の歴史を調べてみると、その始まりは元和7年と言うから
1621年、江戸時代の初期である。
元和元年、難攻不落の大坂城が落城焼失。大坂(大阪になったのは
明治維新後の事)の町の大半もこの時戦火により灰と化してしまった。
新しく城主に任ぜられた松平忠明は、大坂の町の再現を計画、この時、
風水で見て大坂城の裏門に当たる千日前の界隈に、大坂の陣の戦没者の
屍を埋葬する墓所を定め、
同時に散在していた墓所をも一カ所に集めたのが始まりだという。
最も当時は西成郡難波村領墓所、あるいは道頓堀墓所と言われた。
難波村や大坂住民の墓がここに集められただけでなく、
夥しい無縁仏の墓地も作られた。
ちなみに享保年間での大坂の餓死者の数は、年末年始の4ヶ月だけで
100人以上に達したといい、その数は年々増え続けたと言う。
また、幕府令によって大坂の街には乞食は住めず、その代わり垣外を
作ってそこに閉じこめたが、それも千日墓地の前にあった。
弾圧されたキリスト教信者たちも、その信仰を捨てた後も4代に渡って
ここで監視されたと言う。
飢餓者、男女の心中、捨て子、罪人、買われた女など、虐げられた人々が
露と消えては無碍に葬られた。
また、罪人の磔柱も並んでいたようだ。罪人は引き回しの上、ここで
磔にされ、首を落とされ、さらし首となった。
この生首が並んでいる3尺の高さの獄門台は道頓堀角座の楽屋から
見えたと言う。
石塔や卒塔婆の立ち並ぶ中に火葬場があってその死者の灰を積み上げる
灰山もあった。当時は昼間でも通れたものではなかっただろう。
千日間、弔いの念仏が絶えなかった。その千日供養が聞こえる寺の前の
通りという事で千日前と名付けられたというのは本当のことである。
明治4年になって刑場は廃止され、墓地は阿倍野に移転された。
新政府は土地の発展策として、この地を繁華街にしようとしたが、誰も
恐ろしがって買おうとしない。
しょうがないので政府は一坪につき50銭をつけてまで土地を売ろうとした。
ようやく買い手がついて横井座と言う劇場が作られる事となった。
この時、残っていた墓石を劇場の基礎工事に使ったところ、座主は
殺され、劇場は焼けたと言う。
最初の頃はかなり怪しげな因果の見せ物小屋や軽業、お化け屋敷と、
随分インチキなものが千日前にはびこったらしい。
目と鼻の先にある道頓堀には、古くから角座、中座、竹本座など歌舞伎や
浄瑠璃の伝統ある常設小屋があった事を考えると、千日前と道頓堀の間
には、はっきりとした結界が存在していたと思われる。