部落民が差別されてるとこって誰か見たんか?

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48名無しさん@お腹いっぱい。
古参住人いる?大道さんって覚えてる?大道芸人の子孫の人ね。なつかしのあの人の書込み。

13 名前: 名無しさん 投稿日: 2003/09/20(土) 20:46
>>12
そんな認識はしてるはず無し。他国との行き来は農民以上に容易で自分自身の置かれている立場を充分認識していた。
他のセンミン身分を筋違いと、お互いに差別しあって事は間違い無いが。
水平者といってもエタ身分の解放であって、その他のセンミンの為の闘争は実際していないのが現実だった。
非人、雑芸能者の部落は現在も未指定地区と云われる所謂貧民街として全国に存在している。
えたと非人は、平民が思っているのとは彼らにとっては全くの別物なのだ。農工商以上に。
通婚はおろか全く付き合いなど無く、お互い敵視していたのだ。それは実は現在でもそうなのだ。

14 名前: 名無しさん 投稿日: 2003/09/20(土) 21:00
草鞋作りのえた部落に対し、箕笠つくりの非人部落では、我々は足では無く頭に付ける物を作っている。我々の方が上なのだ
 と。しかし近辺ではどっちが上か下かは関係なく差別してきた。本来はこの地域ではエタ身分が非人を支配しているのだ。
非人の部落民は解放運動に参加しない場合が多い。しかしそれは参加させられなかったともいえる。
そう云う意味では二重構造というのは正しい。チョウリ、エタ、非人、乞食。その乞食の中でも階級と言うべき物があったのだ。
稼ぎ場所を持つ者、持たない者、またその権利を売買する者、子連稼ぎ用の子供を賃貸する者。

そしてそれらの稼ぎの上前をハネル者。

15 名前: 名無しさん 投稿日: 2003/09/20(土) 21:09
えたと非人の違いの一例。
貧しかった昔の話、給食費をいつも遅れて払った。彼らは最初から払わなくて良かった。
私は後で全額払い戻しされた。それもクラス全員の前で。同じ事なのにとても恥ずかしい想いをした。彼らは所謂えた部落。非人部落の大勢は生活保護世帯だった。

16 名前: 名無しさん 投稿日: 2003/09/20(土) 21:16
私達は最初から別物であった。彼らは表面上は普通であった。
しかし遠足や、席変え等のグループで拒絶されているのを見て私達は内心ほくそえんだ。
今思うと本当に悲しい事だ。そんな時だけ彼らは私達に威張らなかったのだ。
49名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/05(火) 23:07:03 ID:5XVGbXiV0
私の同級生の女の子は市営住まいのB様だったが、
愛想もよく特にこちらが顔を顰めたくなるような事は何もなかったな・・・
でも自分のBがいやだったのか、国際結婚してアメリカに行っちゃった。
50名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/05(火) 23:14:22 ID:/6RzbK9S0
21 名前: 名無しさん 投稿日: 2003/09/21(日) 20:16
よく非人は一代限りとか、犯罪者として非人手下になった者は身元保証人がいれば平民に引き上げられた(足抜き、足を洗うの語源)とか云うが
実際は長く同じ地域に固定され続けた。エタ同様に受け継がれる仕事の為に。非人部落(寺社、皇族の隷属民)の方が歴史としては古いのでは無いか。
北陸地方は元々渡来人が多い所だか、その由来の部落も多く存在すると言う。部落民異民説も再考の必要があるのではないか。
私の住む地域では(非人系と考えられる)非常に出入りが激しい。そこは所々に持ち家もあるが殆んどが低家賃の借家(建て替え前は長屋)であるためだ。
不思議な事に同じ地域内を転々と引っ越す家庭が少なからずある事だ。何の意味があるのかこれは私にも解からない。

29 名前: 名無しさん 投稿日: 2003/09/22(月) 20:50
>>24
団地の道路向こうが本村だった。この地域の用水路向こうがまた別の本村だった。らしい。
それぞれ神社がありこの地区には地主の邸宅にあるらしい。それぞれ数10メートルしか離れていない。本村の家(農家)は広く木が生い茂っている。この地域は密集し今でも雑草が所々に生い茂っている。農地は全く無い。
入り口(石碑の建っている)の家はもう直しはやっていない。地主の親戚らしい。
子供のころ一緒に遊んだ物はほとんど引っ越した。私を含めてその地域に今だ住んでいる人達とは付き合いを絶っている。悲しい事に人によってはかつて自分が住んでいたその地区を差別している。

30 名前: 名無しさん 投稿日: 2003/09/22(月) 21:08
現在の職業としては、工場労働者が多い。といっても所謂下請け専門の町工場。又この市街に多い飲食(酒)店員。今は無くなったがこの地域にホルモン屋、貸本屋、駄菓子屋、藁・竹細工屋、食堂、よろずや、共産党事務所、私に記憶はないが川船の運送屋があった。
一つ気になる話。母親がよく自家製キムチやチャンジャをもらってくるのだが(この地域の住人)本人は中国人と言っているらしい。どう考えても韓国(北朝鮮)のはずであるが。朝鮮人と言われたくないのであろう。
51名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/05(火) 23:14:56 ID:/6RzbK9S0
31 名前: 名無しさん 投稿日: 2003/09/22(月) 21:24
その地区に昔あった公園。みんなで遊んだり、ラジオ体操をした公園。今そこには何かの石碑が建っている。しかしその前に行く事が出来ない。どんな石碑なのか。正直言って人に見られたくない。今度夜にでも行ってみよう。
その公園は今にして思えば、みじめな公園だった。地域の大人達が造ったであろう木製にトタンを貼り付けたすべり台。本当に木を埋め込んだだけの馬とび、ボロボロの木製のブランコ。ちょっと雨がふっただけで泥沼のようになった。
家庭訪問に先生が来た時に みんなここで遊んでいるの と言われた。今思えば別の意味でそう言ったのだろう。
そんな貧しい公園はアスファルトが張られ、駐車場になっている。その隅に石碑が建っている。

32 名前: 名無しさん 投稿日: 2003/09/22(月) 21:31
一緒に遊んだ1人は引っ越して家を建てた。1人は同じ住宅地、同じ1画にすんでいる。あとの10数人は一体どこへ行ったのだろう。誰もが何も言わずにいつのまにか何処かへ消えていった。
みんな今は豊かに暮らしているのだろうか。

33 名前: 名無しさん 投稿日: 2003/09/22(月) 21:35
俺はこの事を誰にも話さない。女房にも子供にも。父親の事も誰にも子供にさえも話さない。