1 :
WE LOVE もっこす:
WE LOVE もっこす
おいおい、いくつ目だ?
100以上は立っては消されたな。
本物のもっこすさんだ!うれしー!!
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/30 14:45 ID:YUvj/UM/
もっこりん、来年もよろしくね!早く野村証券行ってきてよ!
野村証券?
なんかあったっけ?
そうそう、インターネットステーションが設置されてる奈良県市町村会館って、同和地区にあるみたいだな。
ただ、明治になってから洞部落を強制移動させて出きた地区みたいだけど。
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/30 14:52 ID:YUvj/UM/
もっこりん、東京都の会報誌にも ここの差別の事チラッと書いてあったよ
もっこりん、正月暇なら東京きなよ
餅くらい おごるからさ。
もっこす って何?
あたしぃ?
対解同最終兵器とでもよんでね。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/30 14:59 ID:YUvj/UM/
もっこす 東京こいよ!オレンジカードで乗り継いで!
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/30 15:24 ID:Fx36B+jK
11 :
青木裕子:03/12/30 15:35 ID:1Vz7a3YM
トムトムトムニャ〜オ、ジェリー藤尾、荒井注
12 :
独り言:03/12/30 15:43 ID:Fx36B+jK
おっさんの目的がワカラン。
・・・ボーダーだな、どちらにせよ。
シンクロしては駄目。
もっこす先生、冬休みなので、多くの少年たちがおります。
街道のことや、問題点など色々、分かりやすく教えてくらさい。
おながいします。
14 :
通りすがり:03/12/30 21:06 ID:6N5zK0HG
もっこすさん・百済さん・御殿山さん
みんな恐ろしい程の読書量ですね。
たた、ただ脱帽です。
松本は嫌いだけどね。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/30 23:52 ID:jUKshQOC
もっこす氏、「京阪神XX」で身元明かされたけど大丈夫なんですか?
明かされた後も書き込みあるところ見ると、無事みたいですね。
負けずに頑張ってください。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/30 23:57 ID:YrByFvxB
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :03/12/31 00:21 ID:azvx/P2F
うわ〜い!もっこすさんがんばれー!!
18 :
ジョーカー ◆clown/XNVk :03/12/31 00:26 ID:28vuPim5
多分、このスレッドも、
スレッドストッパーがかかると思います。
何しろ固定ハンドルをスレッドの題名にしてはいけないのですから。
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/31 00:32 ID:pE7OTM/L
もっこすさん、山口スレにも顔出して☆
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/31 01:36 ID:KQBhoUwB
もっこりん 風俗板にきて
最近、新人さんがふえてきて、あたしの素性をしらない人がふえたので、ニフティから過去ログを転載します。
もっこすの拉致監禁時代(2258/3248)
#2035 Che さん
完璧に変身しましたね。一皮剥けたと言うか、精神的にしなやかに御成りの
ようですね。うれしい限りです。
さて、私の場合の「拉致監禁」はどういう背景で行われたか書いておきます。
ただ、マイジンクスと言いますか心に少し気がかりなものがあります。
この体験談については、この10年ほどで3回は書いています。最初が、
92年頃のFJONでした。無論旧FJON時代ですね。当時「ステップ差別騒動」
というのがありまして、パソコン安売り店のステップから差別されたという
自称一級障害者が、無差別に各フォーラムに「告発文」を掲載すると
いう騒動が起こっていますした。ところがこの「差別」されたはずの人が、
別のフォーラムで差別行為をしていたんですから御笑いです。
そしてその人と論争の中で私の体験談を書きました。
後に、三才ブックスから出た「裏パソコン通信の本」というムック誌に
も騒動は掲載されています。次が筒井断筆騒動の頃で、
最初に旧映画フォーラムで、広島の教員の方と「橋のない川」の評価をめぐって論争になりました。
すぐ後に、FHANDで行われた「断筆宣言論争」でも書いています。
ところがです、FJONは「リカちゃん騒動」で運営がおかしくなり、閉鎖一歩手前まで行き、
旧映画フォーラムは後にSYSOP失踪で閉鎖、FHANDのSYSOPかっくん氏は持病の悪化により死亡と、さんざんな事実があります。
これを読んだ方は、念のためにパソコンに塩でも撒いておいてください。
もし、もしも万が一、ttyさんが糖尿で死んだら私のせいかも。
糖尿じゃないって言っても、このファイルを覗いたら、そうなる可能性が高いんだってば。
大晦日も2chってカナシイ
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/31 20:52 ID:1YEzeOr2
オマイモナー
この速さだからいえる。w
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/31 20:56 ID:SNqOoPcX
がくがくぶるぶるしながら記念真紀子。
私の監禁時代の幕開けは「八鹿高校事件」からでした。当時私はバリバリの映画青年で、熊本市にあった自主上映団体の
「熊本名作劇場」に参加していました。これは私がまだ中学生の頃からあった団体で、ルーツは映画「戦艦ポチョムキン」を見る会、
とかいう上映運動の参加者が上映運動が終了した後も、その趣旨を生かして作った映画馬鹿の集団だそうです。
月に一度か二月に一度の割合で旧作映画を上映していました。上映作品の選択は、上映当日に配布するアンケートを参考にして、
上映可能な作品から上映すると言うものです。黒澤作品なんかも五万円くらいで借りれた時代ですね。
今では、借りることができても高いこといってますよ。
フィルムの手配は映画センターという巡回上映を職業としているところがやってくれます。
西田敏行さんが映画で主演なさってますが、まさにあれですね。
ところが、毎回アンケートの上位を占めながら、事務局長が絶対に首を縦に振らない作品があったんですよ。
それが映画「橋のない川」第一部、第二部ですね。「やりましょうよ」と催促しても、
もごもごと曖昧な返事しかしないんです。そんなときにおこったのが、「八鹿高校事件」でした。
当時の運営委員一同がそのときは全員一致で、次回上映は「橋のない川」と決めたのはあたりまえでしょう。
アンケート上位の作品を、不条理な暴力に屈してあきらめるなど映画馬鹿集団の名折れですからね。
事件が11月22日で、「橋のない川」上映が翌年の3月でしたから、準備どころではなかったんですよ。
ポスターを貼る前に、前売り券配布網を通じて参加者を確保しました。
私が担当したのは、熊本市内の学校学園関係の前売り券の配布と販売促進でした。
そして、ポスターを熊本市内に張るのは、上映直前まで控えましたね。
それでも、会場は二日で四回の上映でしたが、毎回立ち見が出るくらい大盛況でした。
解同は初日に30名ほどのゼッケン集団で抗議にきました。
他の県の会場では、電源を切られたりスクリーンを汚されたりと言った妨害を受けていました。
私たちは妨害に備えて、あらゆる人たちと協力体制を取りました。
警察にも警備をお願いしてあったんですが、当日には、私服の警官が数人きていただけでした。
当時の写真も残っていますが、無線で連絡をとる私服警官の横で、解同幹部と話している教
師の方が写っているものがあります。
穏やかそうに見える風景ですが、教師の方はつい最近まで解同と協力して同和教育に取り組んできた方で、
対する解同幹部は、その少し前に解同熊本市支部を排除して、新たに熊本市支部を名乗っている坂口という方でした。
もうお亡くなりになったそうですが。
解同の妨害に合いながらも、大成功をおさめた「橋のない川」上映会でしたが、その直後に私の「拉致監禁時代」が始まるとは思いもしませんでした。
映画「橋のない川」の第一部は完成当時、解同の協力の元、全国上映を成功させていました。
第二部については、熊本のように上映した県もあれば、上映できなかった県もありました。
この映画がきっかけになって、各地に部落問題を考える会が作られました。
映画を見た人々が再び上映を成功させたわけです。
最初の拉致監禁は1975年3月下旬でした。朝からの講義があったので、9時には学内にいました。
教室への移動中に後ろから呼び止める声がします。振り向くと、三人ほどの学生がいました。
彼らは私を取り囲むと、口々によくも差別映画を上映したな、とか,
おまえのために部落大衆が迷惑してるとかいろんなことを言っていました。
とにかく、講義に行こうとすると逃がさないように邪魔をするんです。
小一時間も押し問答をしていると、何事かと私たちの周りには見物人の山ができました。
やがて、学内に巣くう暴力主義学生までもやってきて、私は彼らの溜まり場のひとつに無理やり引きずり込まれました。
彼らが監禁場所に選んだのは、学内の学生の自主的な研究会がある棟でした。
いくつかの研究会は、過激派各派の溜まり場となっていました。
なにせ、一時は革マル派が自治会を牛耳っていた学校でしたので、三派系は言うに及ばず、すべてのセクトがあったようです。
溜まり場に拉致されてから、大学解放研の連中だけではなく、彼らと協力関係にあるセクトの連中まで集まってきました。
数を数えてみたら、約30名くらいでしょうか。彼らはよく電話連絡をしていたようです。
すべては解同県連の指示によって行われていたようです。
よく知った顔もいました。驚いたのは、解放研の中に中学、高校、大学を通じての知人がいたことでした。
彼の家は部落ではなかったはずなんですが。
後に、熊本を私が離れてから知ったことですが、彼の家があった地域は、いわゆる「未指定地区」だったのです。
ただ、どの同和団体もその地区に組織を作るまでにはいっていなかったそうです。
その「地区」は、いかなる団体の介入も拒んでいました。自分たちにかまわないでくれと言うことだったそうです。
さて、彼らに監禁された私ですが、彼らと口論になりましたが、あいての論理
ミスをついて、相手もそのことをみとめました。だいたいが映画も見てはいな
い相手です。二度も映画「橋のない川」を鑑賞している私に原作さえ読んでい
ない連中が、いくら差別映画だと言っても馬鹿にされて当たり前でしょうね。
彼らは「警察に言っても無駄だ。警察はやさしいんだぞ」とか警察とつながり
があることを匂わせていました。ところで、監禁中におもしろいことに気づき
ました。幾人かが興奮して、私にに殴りかかろうとすると周りの連中が止める
んです。私は、よく訓練された自制が聞いた連中だなと思いましたが、そうで
はなかったようです。彼らの中のえらいさんが兵隊と思われる血の気の多いの
を部屋の隅につれていってなにやらひそひそささやいていたのですが、途切れ
途切れに「あかつき」とか「報復」とかいう単語が聞こえてきます。私には思
い当たることがありました。当時の学生の間でささやかれていたひとつの「伝
説」です。昔、ある暴力学生が学内で民青と口論になり、民青にびんたを食ら
わせたら、殴った学生の下宿がなぞの集団に教われて、ぼこぼこにされたとい
うのです。もっとも、その「伝説」を知る以前から「あかつき」または「あか
つき部隊」のことは知っていました。たぶん、一九六八年くらいだったかと記
憶していますが、夜遅く父が興奮して帰ってくると、「もう我慢することは無
いんだぞ」と話してくれたことがあります。68年当時は、暴力学生が各地の大
学でのし歩いていた時期でしたが、それを批判する学生共産党員が、殴られ死
亡する事件が続発していました。当時の共産党の方針は、暴力反対というもの
で、なぐられても我慢しろといったものだったそうです。父は職場の共産党に
入っていたそうです。おそらく共産党の会議かなんかで、「突破者」とか「査
問」に出てくる共産党の反撃の方針が出たのがこの時期だったんでしょう。私
の家が、父の職場の共産党の溜まり場になっていて、よく共産党の会議なども
おこなわれていました。家が狭いんで隣の部屋で勉強していても、話が聞こえ
ました。その中に「あかつき部隊がどうした」とかいろんな話がありました。
もっとも、私が高校に入学した頃には、学生は勉強が本分という方針になった
みたいですが。
彼ら「あかつき部隊」の伝説的な暴力が、私を暴力から守ったわけです。こう
いった事情と言うのは、宮崎さんの本が出るまでは知りませんでした。当時出
された暴力学生に対抗する決定の中には、暴力のぼの字もありませんでしたか
らね。宮崎さんも川上さんも、暴力学生に殺されていった共産党員には言及し
ていませんね。それと、全国一斉に暴力学生退治は行われたはずですから、
「一万人」で済むはずもありません。
とにかく、事情はわからないが、拉致監禁されても殴られることはないと感じ
た私は、それから何度も監禁されながらも彼らを論破しつづけました。のべ
200時間以上は監禁されています。二年間ですからそんなもんです。最長で18
時間くらいですか。そうこうするうちに母が会社の定期検診で不整脈があると
診断されました。会社から帰ってくるなり、玄関で倒れこむことも多くなりま
した。真っ青な顔色で、一時間ほども横になっていました。私の拉致監禁が心
労をかけていたことは間違いありません。母の死期が近いのではないかと感じ
ました。
私は、母の生きている間に卒業して社会に出る決心をしました。すべての闘い
から手を引いたんです。言いたいやつには何でも言わせておけ。私の母は一人
しかいないんだから。私はなり振りかまわず卒業だけを目標にしました。です
が、1976年12月31日の夕方、私がアルバイトから帰ってくると、家の明かりが
全部消えていてだれもいないんです。家に入ると、すぐに隣の家の人が、母が
救急車で病院に行ったと教えてくれました。バイクを飛ばして病院に駆けつけ
たときには、すでに死亡した母の体がありました。私が学校を卒業したのは翌
年の三月でした。
母の死以来、私は年賀状の類は一切書いていません。解同が消滅するまでは私
には正月はこないでしょう。しかし、同和対策事業も終了する時代になってい
ます。資金源を断たれ、社会的に孤立しつつある解同が消滅する日はそう遠く
ないと感じています。まず、解同本体が解散する。私個人のリベンジはそれか
らです。私を監禁した大学解放研の足跡など調べるのは簡単なものです。熊本
の市営食肉工場に勤務している叔父が解同分裂の時に解同側に残っていますか
ら、叔父に調べてもらえばどこにいるかはすぐにわかるんですよ。
それと、私が卒業してから半年ほどして、警官をしている従兄から、飲みにさ
そわれました。小さいときから遊んできた従兄ですので、なんの不信も抱かず
に遊びに行ったんですが、一軒目のスナックで飲んでいるときに、見知らぬ男
が従兄に声をかけてきました。そのときの自己紹介では、従兄が警官になるに
あたって協力した警察の人ということでした。何軒か飲み歩いて家に帰ってか
ら父にそれを報告すると、従兄が世話になった警察官とは別人だとわかりまし
た。スナックであったときもらった名刺には「熊本県警警備一課警部」という
肩書きが刷り込まれていました。警備一課とは俗に言う「公安警察」のこと
で、一課は共産党担当の部署です。このとき私は悟りました。解同に売られ
た、とね。共産党ルートでは、私の父は共産党員ですから、接触してくるはず
が無いのです。解同が警察に私を売ったと考えるのが自然です。
私は卒業後一年で上京しました。それまでは、時々家に無言電話がかかってい
ましたが、たまたま電話に出た父が私が熊本を離れたと返事をしたら、それ以
来無言電話もかからなくなったそうです。
一族騙も転載するか?
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/12/31 23:20 ID:J8eKleeO
期待age
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :03/12/31 23:23 ID:azvx/P2F
して下さい。
もっこすさん、話し長い。かいつまんで。
あけまして、おめでとう。
そんじゃ消されるまでワンマンショーといきますか。
40 :
24:04/01/01 09:23 ID:nVCxtbwI
元日も2ch、カナシイ
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/01 09:24 ID:kF6hQdKl
今、過激な人が入り込んで戦っている、京都スレでも書いて(コピペ)
くらさい。
>>39 正月早々から元気ですね。佐上真(54歳)さん。
まぁ、普段から仕事してないですものね。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/02 11:34 ID:2TF3TBot
橋のない川 批判その1
この映画が快調なのは、北林谷江扮するぬいが、職員室に抗議しに
来るところまでです。「手も足も2本ずつ、指だってちゃんとある」
同じ人間だ。というわけで、大概の観客は、ここで最初の涙を流す。
だけどね、この言葉、障害者が聞いたらどう思うね。
裏を返せば、「(生まれながらに)手足に異常があれば、人間ではない」
と帰結されてしまうよ。、胎生期2月の頃か、手や足の形成に
発達障害が起こる事がある。結構多い。乳幼児に外科で処置できればいいのだが
骨格や神経の都合で、青年期まで待たなければならないことがある。
欠落しているばあいは、大変だ。毎日学校から泣かされて、帰ってくる。
今井監督の、障害者への思いはかねがね、疑問に思っている。
「ここに泉あり」でハンセン病患者をだしにして、交響楽団を高らかに
称揚して、全患協から抗議を受けたわけだが、口をつぐんだままだ。
雑誌「部落」1992年1月号で、北川鉄夫氏が、「今井正監督と差別問題」
という一文をものしているが、ここでも触れていない。
やはりKS党は、隠蔽体質があるとしか思えないね。
「おまたせ、もっこすの死刑論です」は、まだ?
茶々いれない!
せっかく「今井正批判」を展開してくれるんだから、だまって、他のすれにかいて、協力しましょう。
47 :
たらま ◆jm1CQ1pXAk :04/01/02 13:15 ID:2TF3TBot
橋のない川 批判その2
だれも気が付かないところをもうひとつ
ナレーターは、鈴木瑞穂。けして嫌いではないが、適切なキャストとはいえない。
この映画の2,3年まえ、NHKの大河ドラマで、三姉妹というのがあった。
幕末の動乱期を背景に、武家の三姉妹を描く物語だ。最後のほうだが、
荒川(今の隅田川)の土手の改修工事の場面がある。そこになんと、
鈴木瑞穂扮する「車善七」が出てくる。そして、主人公山崎努にこう言う。
「これから新しい時代が始まります。みんなが等しい位をもつ新しい時代なのです。」
しかし、実際はどう変わったのか。解放令は出たが、平等になったのは、
兵役と納税の義務だけで、実体的には変わらなかったわけです。壬申戸籍の問題もあります。
今井監督は、なぜこの役者を使ったのか。ひょっとして、こんな映画作って、
差別反対のスローガンを立てても、何も変わらないよ、と思っていたのではないか。
見識を疑わざるを得ない。
48 :
たらま ◆jm1CQ1pXAk :04/01/02 14:27 ID:2TF3TBot
橋のない川 批判その3
伊藤雄之助の藤作の子、武は失火の責任で、自ら全身カミソリで切り刻んで
自殺してしまうのだが、あまりにむごい、というより、こんなことがあるだろうか?
親がだらしないと、子はしっかりものに育つものである。
○○の子はやはり○○だ、という固定観念というか、今井監督は、血筋や家系に
とらわれていた人だったのだろう。
2部に登場する、蛇と戯れる少女、しげみにも、これは該当する。このシーンで
自殺した女性がいたことは、もっこす氏もご承知だろう。
昭和37年「武士道残酷物語」はご覧になりましたか?
南条徳夫原作、被虐の系譜を映画化したものだが、この中で、主君の奥方と
不倫したことで、去勢の罰を受けてしまう武士(中村錦之助、好演)の話が
出てくる。そもそも武士道にそんな、処罰はない。ただのリンチであって、
かってに話を作ってはいけない。錦之助がとたんに、なよなよするのだが、
こういうのも。性的アイデンティーに悩む人には、残酷な描写であろう。
今井監督が、身障者に冷淡なのはこういうえいがでも分かる。
「もっこすの韓国戦勝論」は、まだ?
静かに。
まだつづいている。
51 :
たらま ◆jm1CQ1pXAk :04/01/02 16:36 ID:2TF3TBot
橋のない川 批判その3
教員青島の扱いに難がある。
誠太郎と地主の子が、けんかをするのであるが、言ってはならない事を、言った
後者に非が、あるのは当然で、それをこの教師は、一方的に断罪するのである。
よくある図である。そこで、観客もぬいも怒り心頭、ということになる。
ところが、このあとの場面で、あろうことか、この馬鹿教師を救ってしまっている。
1、女の先生(名前忘れた)との会話で、ぼくも一度はその問題を考えました。みんなそうなんですよ。
2、雑巾を臭いといわれて、着物を脱いで掃除する場面で、何もそこまで、という顔をしている。
3、修学旅行へいって、いっしょの部屋に誰も寝てくれない、シーンがあるが、
理由は分かりそうなものなのに、ポカンとしている。
好い先生は、女の先生がいる。事なかれ主義は校長がいる。
教員青島は徹底的に、悪く描かれねばなるまい。
今井監督は、権威に弱いのでは、ないか?
昭和31年「真昼の暗黒」で、草薙幸二郎が叫ぶのである。
「まだ最高裁がある!」、有名な場面だ。普通これは、商業映画が司法に
圧力をかけた、といわれているが、さて、この監督が、上におもねる、
ところが露呈したのだろう。
ところで、わたしばかりが、このスレ使うのもなんですから、ほかの人の希望も
かなえてやって下さい。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/02 16:41 ID:YXbGoPaj
>>51 それだけ?
つづけていいよ。時間はあるから。
54 :
たらま ◆jm1CQ1pXAk :04/01/02 17:57 ID:2TF3TBot
52へ
4でした。
時間差には、何の意味もありません。
53へ
批判に対する再批判をどうぞ。
できなければ、死刑の話でも、自説をくり広げてください。
こんなもんが批判か?
もっと続けて。
「死刑論」や「韓国は戦勝国説」よりはマシじゃない?
もっこすって結構律儀な奴だよなあ。
こういうとこは好感が持てるぞ。
58 :
たまら ◆jm1CQ1pXAk :04/01/02 19:38 ID:2TF3TBot
55へ
こんな映画守ってたのか?
もうやめろ。
59 :
たらま ◆jm1CQ1pXAk :04/01/02 20:10 ID:2TF3TBot
おっといけない。たらま、でした。
実は、もっこす君が一番望む論点は十分知っているのだ。
わざとはずしている。なんともいえないところだからね。
この映画は、今井作品としては、出来がよくない。
映画そのものとしては、ほっておいて、忘れられるようなものだよ。
>>59 あなた、映画をみていませんね?
少なくとも、第一部は見ていない。
第一部の、映画として仕掛けがわからないのは無理もないですね。
ただ、第二部とともに、一度見たら忘れない映画になる手法は、「戦艦ポチョムキン」が最初です。
その手法を発展させたのが、今井正監督です。
解説してもおわかりにはならないでしょうね。
本能的な感性の問題ですから。
61 :
たらま ◆jm1CQ1pXAk :04/01/02 22:45 ID:2TF3TBot
一度見ただけで、たくさんですが、なにか?
> 映画そのものとしては、ほっておいて、忘れられるようなものだよ
こういう感性では、どんな名作も形無しですな。
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
もっこす あけましておめでとう
今年もよろしくね!
また色々おしえてん♪
今年のオフ会はいつさ?