私の監禁時代の幕開けは「八鹿高校事件」からでした。当時私はバリバリの映
画青年で、熊本市にあった自主上映団体の「熊本名作劇場」に参加していまし
た。これは私がまだ中学生の頃からあった団体で、ルーツは映画「戦艦ポチョ
ムキン」を見る会、とかいう上映運動の参加者が上映運動が終了した後も、そ
の趣旨を生かして作った映画馬鹿の集団だそうです。月に一度か二月に一度の
割合で旧作映画を上映していました。上映作品の選択は、上映当日に配布する
アンケートを参考にして、上映可能な作品から上映すると言うものです。黒澤
作品なんかも五万円くらいで借りれた時代ですね。今では、借りることができ
ても高いこといってますよ。フィルムの手配は映画センターという巡回上映を
職業としているところがやってくれます。西田敏行さんが映画で主演なさって
ますが、まさにあれですね。
ところが、毎回アンケートの上位を占めながら、事務局長が絶対に首を縦に振
らない作品があったんですよ。それが映画「橋のない川」第一部、第二部です
ね。「やりましょうよ」と催促しても、もごもごと曖昧な返事しかしないんで
す。そんなときにおこったのが、「八鹿高校事件」でした。当時の運営委員一
同がそのときは全員一致で、次回上映は「橋のない川」と決めたのはあたりま
えでしょう。アンケート上位の作品を、不条理な暴力に屈してあきらめるなど
映画馬鹿集団の名折れですからね。事件が11月22日で、「橋のない川」上映が
翌年の3月でしたから、準備どころではなかったんですよ。ポスターを貼る前
に、前売り券配布網を通じて参加者を確保しました。私が担当したのは、熊本
市内の学校学園関係の前売り券の配布と販売促進でした。そして、ポスターを
熊本市内に張るのは、上映直前まで控えましたね。それでも、会場は二日で四
回の上映でしたが、毎回立ち見が出るくらい大盛況でした。解同は初日に30名
ほどのゼッケン集団で抗議にきました。他の県の会場では、電源を切られたり
スクリーンを汚されたりと言った妨害を受けていました。私たちは妨害に備え
て、あらゆる人たちと協力体制を取りました。警察にも警備をお願いしてあっ
たんですが、当日には、私服の警官が数人きていただけでした。当時の写真も
残っていますが、無線で連絡をとる私服警官の横で、解同幹部と話している教
師の方が写っているものがあります。穏やかそうに見える風景ですが、教師の
方はつい最近まで解同と協力して同和教育に取り組んできた方で、対する解同
幹部は、その少し前に解同熊本市支部を排除して、新たに熊本市支部を名乗っ
ている坂口という方でした。もうお亡くなりになったそうですが。
解同の妨害に合いながらも、大成功をおさめた「橋のない川」上映会でした
が、その直後に私の「拉致監禁時代」が始まるとは思いもしませんでした。映
画「橋のない川」の第一部は完成当時、解同の協力の元、全国上映を成功させ
ていました。第二部については、熊本のように上映した県もあれば、上映でき
なかった県もありました。この映画がきっかけになって、各地に部落問題を考
える会が作られました。映画を見た人々が再び上映を成功させたわけです。
最初の拉致監禁は1975年3月下旬でした。朝からの講義があったので、9時には
学内にいました。教室への移動中に後ろから呼び止める声がします。振り向く
と、三人ほどの学生がいました。彼らは私を取り囲むと、口々によくも差別映
画を上映したな、とか,おまえのために部落大衆が迷惑してるとかいろんなこ
とを言っていました。とにかく、講義に行こうとすると逃がさないように邪魔
をするんです。小一時間も押し問答をしていると、何事かと私たちの周りには
見物人の山ができました。やがて、学内に巣くう暴力主義学生までもやってき
て、私は彼らの溜まり場のひとつに無理やり引きずり込まれました。彼らが監
禁場所に選んだのは、学内の学生の自主的な研究会がある棟でした。いくつか
の研究会は、過激派各派の溜まり場となっていました。なにせ、一時は革マル
派が自治会を牛耳っていた学校でしたので、三派系は言うに及ばず、すべての
セクトがあったようです。
溜まり場に拉致されてから、大学解放研の連中だけではなく、彼らと協力関係
にあるセクトの連中まで集まってきました。数を数えてみたら、約30名くらい
でしょうか。彼らはよく電話連絡をしていたようです。すべては解同県連の指
示によって行われていたようです。よく知った顔もいました。驚いたのは、解
放研の中に中学、高校、大学を通じての知人がいたことでした。彼の家は部落
ではなかったはずなんですが。
後に、熊本を私が離れてから知ったことですが、彼の家があった地域は、いわ
ゆる「未指定地区」だったのです。ただ、どの同和団体もその地区に組織を作
るまでにはいっていなかったそうです。その「地区」は、いかなる団体の介入
も拒んでいました。自分たちにかまわないでくれと言うことだったそうです。
さて、彼らに監禁された私ですが、彼らと口論になりましたが、あいての論理
ミスをついて、相手もそのことをみとめました。だいたいが映画も見てはいな
い相手です。二度も映画「橋のない川」を鑑賞している私に原作さえ読んでい
ない連中が、いくら差別映画だと言っても馬鹿にされて当たり前でしょうね。
彼らは「警察に言っても無駄だ。警察はやさしいんだぞ」とか警察とつながり
があることを匂わせていました。ところで、監禁中におもしろいことに気づき
ました。幾人かが興奮して、私にに殴りかかろうとすると周りの連中が止める
んです。私は、よく訓練された自制が聞いた連中だなと思いましたが、そうで
はなかったようです。彼らの中のえらいさんが兵隊と思われる血の気の多いの
を部屋の隅につれていってなにやらひそひそささやいていたのですが、途切れ
途切れに「あかつき」とか「報復」とかいう単語が聞こえてきます。私には思
い当たることがありました。当時の学生の間でささやかれていたひとつの「伝
35 :
(^^)御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg :03/04/17 23:55 ID:RfjKYE1p
>31
美濃部都知事の緑色の丸型バッヂを模写した
赤色のANPOHANTAIと書かれたバッヂ持ってない?
映画サークルとゆう全国組織の事務所で貰った・・。
「戦艦ポチョムキン」は名古屋ATGの試写室で見たけど
面白くなく途中で出て来た。
それ、持ってないな。
ベトナム人民支援カンパ記念指輪くらいか。
説」です。昔、ある暴力学生が学内で民青と口論になり、民青にびんたを食ら
わせたら、殴った学生の下宿がなぞの集団に教われて、ぼこぼこにされたとい
うのです。もっとも、その「伝説」を知る以前から「あかつき」または「あか
つき部隊」のことは知っていました。たぶん、一九六八年くらいだったかと記
憶していますが、夜遅く父が興奮して帰ってくると、「もう我慢することは無
いんだぞ」と話してくれたことがあります。68年当時は、暴力学生が各地の大
学でのし歩いていた時期でしたが、それを批判する学生共産党員が、殴られ死
亡する事件が続発していました。当時の共産党の方針は、暴力反対というもの
で、なぐられても我慢しろといったものだったそうです。父は職場の共産党に
入っていたそうです。おそらく共産党の会議かなんかで、「突破者」とか「査
問」に出てくる共産党の反撃の方針が出たのがこの時期だったんでしょう。私
の家が、父の職場の共産党の溜まり場になっていて、よく共産党の会議なども
おこなわれていました。家が狭いんで隣の部屋で勉強していても、話が聞こえ
ました。その中に「あかつき部隊がどうした」とかいろんな話がありました。
もっとも、私が高校に入学した頃には、学生は勉強が本分という方針になった
みたいですが。
彼ら「あかつき部隊」の伝説的な暴力が、私を暴力から守ったわけです。こう
いった事情と言うのは、宮崎さんの本が出るまでは知りませんでした。当時出
された暴力学生に対抗する決定の中には、暴力のぼの字もありませんでしたか
らね。宮崎さんも川上さんも、暴力学生に殺されていった共産党員には言及し
ていませんね。それと、全国一斉に暴力学生退治は行われたはずですから、
「一万人」で済むはずもありません。
とにかく、事情はわからないが、拉致監禁されても殴られることはないと感じ
た私は、それから何度も監禁されながらも彼らを論破しつづけました。のべ
200時間以上は監禁されています。二年間ですからそんなもんです。最長で18
時間くらいですか。そうこうするうちに母が会社の定期検診で不整脈があると
診断されました。会社から帰ってくるなり、玄関で倒れこむことも多くなりま
した。真っ青な顔色で、一時間ほども横になっていました。私の拉致監禁が心
労をかけていたことは間違いありません。母の死期が近いのではないかと感じ
ました。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:03/04/18 00:34 ID:Vijao3hQ
もっこす氏ありがとう。拉致監禁
出席妨害ってその事だったんだ。ふと思ったんだけど、某国と当時の(今は知らないが)某団体はそっくりだね。恫喝とプロパガンダで相手を攻撃する。そこには正義はない。気にいらない奴は
あぼーんってね
私は、母の生きている間に卒業して社会に出る決心をしました。すべての闘い
から手を引いたんです。言いたいやつには何でも言わせておけ。私の母は一人
しかいないんだから。私はなり振りかまわず卒業だけを目標にしました。です
が、1976年12月31日の夕方、私がアルバイトから帰ってくると、家の明かりが
全部消えていてだれもいないんです。家に入ると、すぐに隣の家の人が、母が
救急車で病院に行ったと教えてくれました。バイクを飛ばして病院に駆けつけ
たときには、すでに死亡した母の体がありました。私が学校を卒業したのは翌
年の三月でした。
母の死以来、私は年賀状の類は一切書いていません。解同が消滅するまでは私
には正月はこないでしょう。しかし、同和対策事業も終了する時代になってい
ます。資金源を断たれ、社会的に孤立しつつある解同が消滅する日はそう遠く
ないと感じています。まず、解同本体が解散する。私個人のリベンジはそれか
らです。私を監禁した大学解放研の足跡など調べるのは簡単なものです。熊本
の市営食肉工場に勤務している叔父が解同分裂の時に解同側に残っていますか
ら、叔父に調べてもらえばどこにいるかはすぐにわかるんですよ。
それと、私が卒業してから半年ほどして、警官をしている従兄から、飲みにさ
そわれました。小さいときから遊んできた従兄ですので、なんの不信も抱かず
に遊びに行ったんですが、一軒目のスナックで飲んでいるときに、見知らぬ男
が従兄に声をかけてきました。そのときの自己紹介では、従兄が警官になるに
あたって協力した警察の人ということでした。何軒か飲み歩いて家に帰ってか
ら父にそれを報告すると、従兄が世話になった警察官とは別人だとわかりまし
た。スナックであったときもらった名刺には「熊本県警警備一課警部」という
肩書きが刷り込まれていました。警備一課とは俗に言う「公安警察」のこと
で、一課は共産党担当の部署です。このとき私は悟りました。解同に売られ
た、とね。共産党ルートでは、私の父は共産党員ですから、接触してくるはず
が無いのです。解同が警察に私を売ったと考えるのが自然です。
私は卒業後一年で上京しました。それまでは、時々家に無言電話がかかってい
ましたが、たまたま電話に出た父が私が熊本を離れたと返事をしたら、それ以
来無言電話もかからなくなったそうです。
99/2/11(Thu) 04:28pm QFG02265 もっこす