人権ってのは真理なんですか?

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9もっこす ◆ZM08EeniEM
いのちの初夜
北條民雄



 駅を出て二十分ほども雑木林の中を歩くともう病院の生垣(いけがき)が見え始めるが、
それでもその間には谷のように低まった処や、小高い山のだらだら坂などがあって人家ら
しいものは一軒も見当たらなかった。東京からわずか二十マイルそこそこの処であるが、
奥山へはいったような静けさと、人里離れた気配があった。
10もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 20:17 ID:ymLHd0PZ
 梅雨期にはいるちょっと前で、トランクを提(さ)げて歩いている尾田は、十分もたたぬ間にはや
じっとり肌が汗ばんで来るのを覚えた。ずいぶん辺鄙(へんぴ)な処なんだなあと思いながら、人気
の無いのを幸い、今まで眼深にかぶっていた帽子をずり上げて、木立を透かして遠くを眺(なが)め
た。見渡す限り青葉で覆われた武蔵野で、その中にぽつんぽつんと蹲(うずくま)っている藁屋根
(わらやね)が何となく原始的な寂蓼(せきりょう)を忍ばせていた。まだ蝉の声も聞こえぬ静まっ
た中を、尾田はぽくぽくと歩きながら、これから後自分はいったいどうなって行くのであろうかと、
不安でならなかった。真黒い渦巻の中へ、知らず識らず堕(お)ち込んで行くのではあるまいか、
今こうして黙々と病院へ向かって歩くのが、自分にとっていちばん適切な方法なのだろうか、それ
以外に生きる道はないのであろうか、そういう考えが後から後からと突き上がって来て、彼はちょ
っと足を停めて林の梢(こずえ)を眺めた。やっぱり今死んだ方が良いのかもしれない。梢には傾
き始めた太陽の光線が若葉の上を流れていた。明るい午後であった。
11もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 20:21 ID:ymLHd0PZ
 病気の宣告を受けてからもう半年を過ぎるのであるが、その間に、公園を歩いている時でも街路を歩いて
いる時でも、樹木を見ると必ず枝ぶりを気にする習慣がついてしまった。その枝の高さや、太さなどを目算
して、この枝は細すぎて自分の体重を支えきれないとか、この枝は高すぎて登るのに大変だなどという風に、
時には我を忘れて考えるのだった。木の枝ばかりでなく、薬局の前を通れば幾つも睡眠剤の名前を想い出し
て、眠っているように安楽往生をしている自分の姿を思い描き、汽車電車を見るとその下で悲惨な死を遂げ
ている自分を思い描くようになっていた。けれどこういう風に日夜死を考え、それがひどくなって行けば行
くほど、ますます死にきれなくなって行く自分を発見するばかりだった。今も尾田は林の梢を見上げて枝の
具合を眺めたのだったが、すぐ貌(かお)をしかめて黙々と歩き出した。いったい俺は死にたいのだろうか、
生きたいのだろうか、俺に死ぬ気が本当にあるのだろうか、ないのだろうか、と自ら質(ただ)してみるの
だったが、結局どっちとも判断のつかないまま、ぐんぐん歩を早めていることだけが明瞭に判るのだった。
死のうとしている自分の姿が、一度心の中にはいって来ると、どうしても死にきれない、人間はこういう宿
命を有(も)っているのだろうか。
12もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 20:27 ID:ymLHd0PZ
 二日前、病院へはいることが定まると、急にもう一度試してみたくなって江の島まで出かけて行った。今度死ねなければ
どんな処へでも行こう、そう決心すると、うまく死ねそうに思われて、いそいそと出かけて行ったのだったが、岩の上に群
がっている小学生の姿や、茫漠と煙った海原に降り注いでいる太陽の明るさなどを見ていると、死などを考えている自分が
ひどく馬鹿げて来るのだった。これではいけないと思って、両眼を閉じ、なんにも見えない間に飛び込むのがいちばん良い
と岩頭に立つと急に助けられそうに思われて仕様がないのだった。助けられたのでは何にもならない、けれど今の自分はと
にかく飛び込むという事実がいちばん大切なのだ、と思い返して波の方へ体を曲げかけると、「今」俺は死ぬのだろうかと
思い出した。「今」どうして俺は死なねばならんのだろう、「今」がどうして俺の死ぬ時なんだろう、すると「今」死なな
くても良いような気がして来るのだった。そこで買って来たウイスキーを一本、やけにたいらげたが少しも酔いが廻って来
ず、なんとなく滑稽な気がし出してからからと笑ったが、赤い蟹(かに)が足もとに這って来るのを滅茶に踏み殺すと急に
どっと瞼が熱くなって来たのだった。非常に真剣な瞬間でありながら、油が水の中へはいったように、その真剣さと心が遊
離してしまうのだった。そして東京に向かって電車が動き出すと、また絶望と自嘲が蘇(よみが)えって来て、暗憺(あん
たん)たる気持になったのであるが、もうすでに時は遅かった。どうしても死にきれない、この事実の前に彼は項垂(うな
だ)れてしまうよりほかにないのだった。
13もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 20:30 ID:ymLHd0PZ
 一時も早く目的地に着いて自分を決定するほかに道はない。尾田はそう考えながら背の高い柊(ひいらぎ)
の垣根に沿って歩いて行った。正門まで出るにはこの垣をぐるりと一巡りしなければならなかった。彼はとき
どき立ち止まって、額を垣に押しつけて院内を覗(のぞ)いた。おそらくは患者たちの手で作られているので
あろう、水々しい蔬菜(そさい)類の青葉が眼の届かぬかなたまでも続いていた。患者の住んでいる家はどこ
に在るのかと注意して見たが、一軒も見当たらなかった。遠くまで続いたその菜園の果てに、森のように深い
木立が見え、その木立の中に太い煙突が一本大空に向かって黒煙を吐き出していた。患者の住居もそのあたり
にあるのであろう。煙突は一流の工場にでもあるような立派なもので、尾田は、病院にどうしてあんな巨(お
お)きな煙突が必要なのか、怪しんだ。あるいは焼き場の煙突かもしれぬと思うと、これから行く先が地獄の
ように思われて来た。こういう大きな病院のことだから、毎日夥(おびただ)しい死人があるのであろう、そ
れであんな煙突も必要なのに違いないと思うと、にわかに足の力が抜けて行った。だが歩くに連れて展開して
行く院内の風景が、また徐々に彼の気持を明るくして行った。菜園と並んで、四角に区切られた苺畑が見え、
その横には模型を見るように整然と組み合わされた葡萄(ぶどう)棚が、梨の棚と向かい合って見事に立体的
な調和を示していた。これも患者たちが作っているのであろうか、今まで濁ったような東京に住んでいた彼は、
思わず素晴らしいものだと呟(つぶや)いて、これは意想外に院内は平和なのかもしれぬと思った。
14もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 20:46 ID:ymLHd0PZ
 道は垣根に沿って一間くらいの幅があり、垣根の反対側の雑木林の若葉が、暗いまでに被(かぶ)さっていた。
彼が院内を覗(のぞ)きのぞきしながら、ちょうど梨畑の横まで来た時、おおかたこの近所の百姓とも思われる若
い男が二人、こっちへ向いて歩いて来るのが見え出した。彼らは尾田と同じように院内を覗いては何か話し合って
いた。尾田は嫌な処で人に会ってしまったと思いながら、ずり上げてあった帽子を再び深く被ると、下を向いて歩
き出した。尾田は病気のために片方の眉毛がすっかり薄くなっており、代わりに眉墨が塗ってあった。彼らは近く
まで来ると急に話をぱたりとやめ、トランクを提(さ)げた尾田の姿を、好奇心に充ちた眼差しで眺めて通り過ぎ
た。尾田は黙々と下を向いていたが、彼らの眼差しを明瞭に心に感じ、この近所の者であるなら、こうして入院す
る患者の姿をもう幾度も見ているに相違ないと思うと、屈辱にも似たものがひしひしと心に迫って来るのだった。
15もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 20:51 ID:ymLHd0PZ
 彼らの姿が見えなくなると、尾田はそこへトランクを置いて腰を下ろした。こんな病院へ
はいらなければ生を完うすることのできぬ惨(みじ)めさに、彼の気持は再び曇った。眼を
上げると首を吊(つる)すに適当な枝は幾本でも眼についた。この機会にやらなければいつ
になってもやれないに違いない、あたりを一わたり眺めて見たが、人の気配はなかった。彼
は眸(ひとみ)を鋭く光らせると、にやりと笑って、よし今だと呟いた。急に心が浮きうき
して、こんな所で突然やれそうになって来たのを面白く思った。綱はバンドがあれば充分で
ある。心臓の鼓動が高まって来るのを覚えながら、彼は立ち上がってバンドに手を掛けた。
その時突然、激しい笑う声が院内から聞こえて来たので、ぎょっとして声の方を見ると、垣
の内側を若い女が二人、何か楽しそうに話し合いながら葡萄棚の方へ行くのだった。見られ
たかな、と思ったが、始めて見る院内の女だったので、急に好奇心が出て来て、急いでトラ
ンクを提げると何喰わぬ顔で歩き出した。横目を使って覗いて見ると、二人とも同じ棒縞の
筒袖を着、白い前掛が背後から見る尾田の眼にもひらひらと映った。貌形(かおかたち)の
見えぬことに、ちょっと失望したが、後ろ姿はなかなか立派なもので、頭髪も黒々と厚いの
が無造作に束ねられてあった。無論患者に相違あるまいが、どこ一つとして患者らしい醜悪
さがないのを見ると、何故ともなく尾田はほっと安心した。なお熱心に眺めていると、彼女
らはずんずん進んで行って、ときどき棚に腕を伸ばし、房々と実ったころのことでも思って
いるのか、葡萄を採るような手付をしては、顔を見合わせてどっと笑うのだった。やがて葡
萄畑を抜けると、彼女らは青々と繁った菜園の中へはいって行ったが、急に一人がさっと駈
け出した。後の一人は腰を折って笑い、駈けて行く相手を見ていたが、これもまた後を追っ
てばたばたと駈け出した。鬼ごっこでもするように二人は、尾田の方へ横貌(よこがお)を
ちらちら見せながら、小さくなって行くと、やがて煙突の下の深まった木立の中へ消えて行
った。尾田はほっと息を抜いて女の消えた一点から眼を外(そ)らすと、とにかく入院しよ
うと決心した。
16もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 20:56 ID:ymLHd0PZ
 すべてが普通の病院と様子が異なっていた。受付で尾田が案内を請うと四十くらいの良く肥えた事務員が出て来て、
 「君だな、尾田高雄は、ふうむ」
と言って尾田の貌(かお)を上から下から眺め廻すのであった。
 「まあ懸命に治療するんだね」
 無造作にそう言ってポケットから手帳を取り出し、警察でされるような厳密な身許調査を始めるのだった。そして
トランクの中の書籍の名前まで一つひとつ書き記されると、まだ二十三の尾田は、激しい屈辱を覚えるとともに、全
然一般社会と切り離されているこの病院の内部にどんな意外なものが待ち設けているのかと不安でならなかった。そ
れから事務所の横に建っている小さな家へ連れて行かれると、
 「ここでしばらく待っていてください」
と言って引きあげてしまった。後になってこの小さな家が外来患者の診察室であると知った時尾田は喫驚(びっくり)
したのであったが、そこには別段診察器具が置かれてある訳でもなく、田舎駅の待合室のように、汚れたベンチが一つ
置かれてあるきりであった。窓から外を望むと松栗檜(ひのき)欅(けやき)などが生え繁っており、それらを透して
遠くに垣根が眺められた。尾田はしばらく腰を下ろして待っていたが、なんとなくじっとしていられない思いがし、い
っそ今の間に逃げ出してしまおうかと幾度も腰を上げてみたりした。そこへ医者がぶらりとやって来ると、尾田に帽子
を取らせ、ちょっと顔を覗(のぞ)いて、
 「ははあん」
と一つ頷(うなず)くと、もうそれで診察はお終(しま)いだった。もちろん尾田自身でも自ら癩に相違ないとは思っ
ていたのであるが、
 「お気の毒だったね」
 癩に違いないという意を含めてそう言われた時には、さすがにがっかりして一度に全身の力が抜けて行った。そこへ
看護手とも思われる白い上衣をつけた男がやって来ると、
 「こちらへ来てください」
と言って先に立って歩き出した。男に従って尾田も歩き出したが、院外にいた時のどことなくニヒリスティクな気持が
消えて行くとともに、徐々に地獄の中へでも堕(お)ち込んで行くような恐怖と不安を覚え始めた。生涯取り返しのつ
かないことをやっているように思われてならないのだった。
17もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 21:02 ID:ymLHd0PZ
 「ずいぶん大きな病院ですね」
 尾田はだんだん黙っていられない思いがしてきだしてそう訊ねると、
 「十万坪」
 ぽきっと木の枝を折ったように無愛想な答え方で、男はいっそう歩調を早めて歩くのだった。
尾田は取りつく島を失った想いであったが、葉と葉の間に見えがくれする垣根を見ると、
 「全治する人もあるのでしょうか」
と知らず識らずの中に哀願的にすらなって来るのを、腹立たしく思いながら、やはり訊(き)
かねばおれなかった。
 「まあ一生懸命に治療してごらんなさい」
 男はそう言ってにやりと笑うだけだった。あるいは好意を示した微笑であったかもしれなか
ったが、尾田には無気味なものに思われた。
 二人が着いた所は、大きな病棟の裏側にある風呂場で、すでに若い看護婦が二人で尾田の来
るのを待っていた。耳まで被さってしまうような大きなマスクを彼女らはかけていて、それを
見ると同時に尾田は、思わず自分の病気を振り返って情けなさが突き上がって来た。
 風呂場は病棟と廊下続きで、獣を思わせる嗄(しわが)れ声やどすどすと歩く足音などが入
り乱れて聞こえてきた。尾田がそこへトランクを置くと、彼女らはちらりと尾田の貌を見たが、
すぐ視線を外(そ)らして、
 「消毒しますから……」
とマスクの中で言った。一人が浴槽の蓋(ふた)を取って片手を浸しながら、
 「良いお湯ですわ」
 はいれと言うのであろう、そう言ってちらと尾田の方を見た。尾田はあたりを見廻したが、脱衣籠もなく、ただ、
片隅に薄汚ない蓙(ござ)が一枚敷かれてあるきりで、
 「この上に脱げと言うのですか」
と思わず口まで出かかるのをようやく押えたが、激しく胸が波立って来た。もはやどん底に一歩を踏み込んでいる
自分の姿を、尾田は明瞭に心に描いたのであった。この汚れた蓙の上で、全身虱(しらみ)だらけの乞食(こじき)
や、浮浪患者が幾人も着物を脱いだのであろうと考え出すと、この看護婦たちの眼にも、もう自分はそれらの行路
病者と同一の姿で映っているに違いないと思われて来て、怒りと悲しみが一度に頭に上るのを感じた。逡巡(しゅん
じゅん)したが、しかしもうどうしようもない、半ば自棄(やけ)気味で覚悟を定めると、彼は裸になり、湯ぶねの
蓋を取った。
18もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 21:09 ID:ymLHd0PZ
 「何か薬品でもはいっているのですか」
 片手を湯の中に入れながら、さっきの消毒という言葉がひどく気がかりだったので訊いてみた。
 「いいえ、ただのお湯ですわ」
 良く響く、明るい声であったが、彼女らの眼は、さすがに気の毒そうに尾田を見ていた。尾田は
しゃがん[#「しゃがん」に傍点]でまず手桶に一杯を汲んだが、薄白く濁った湯を見るとまた嫌
悪が突き出て来そうなので、彼は眼を閉じ、息をつめて一気にどぼんと飛び込んだ。底の見えない
洞穴へでも墜落する思いであった。すると、
 「あのう、消毒室へ送る用意をさせて戴きますから――」
と看護婦の一人が言うと、他の一人はもうトランクを開いて調べ出した。どうとも自由にしてくれ、
裸になった尾田は、そう思うよりほかになかった。胸まで来る深い湯の中で彼は眼を閉じ、ひそひそ
と何か話し合いながらトランクを掻(か)き廻している彼女らの声を聞いているだけだった。絶え間
なく病棟から流れて来る雑音が、彼女らの声と入り乱れて、団塊になると、頭の上をくるくる廻った。
その時ふと彼は故郷の蜜柑(みかん)の木を思い出した。笠のように枝を厚ぼったく繁らせたその下
でよく昼寝をしたことがあったが、その時の印象が、今こうして眼を閉じて物音を聞いている気持と
一脈通ずるものがあるのかもしれなかった。また変な時に思い出したものだと思っていると、
 「おあがりになったら、これ、着てください」
と看護婦が言って新しい着物を示した。垣根の外から見た女が着ていたのと同じ棒縞の着物であった。
 小学生にでも着せるような袖の軽い着物を、風呂からあがって着け終わった時には、なんという
見窄(みすぼ)らしくも滑稽な姿になったものかと尾田は幾度も首を曲げて自分を見た。
 「それではお荷物消毒室へ送りますから――。お金は拾壱円八十六銭ございました。二、三日の
中に金券と換えて差し上げます」
19もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 21:14 ID:ymLHd0PZ
 金券、とは初めて聞いた言葉であったが、おそらくはこの病院のみで定められた特殊な金を使わされるのであろうと
尾田はすぐ推察したが、初めて尾田の前に露呈した病院の組織の一端を掴(つか)み取ると同時に、監獄へ行く罪人の
ような戦慄(せんりつ)を覚えた。だんだん身動きもできなくなるのではあるまいかと不安でならなくなり、親爪をも
ぎ取られた蟹(かに)のようになって行く自分のみじめさを知った。ただ地面をうろうろと這い廻ってばかりいる蟹を
彼は思い浮かべて見るのであった。
 その時廊下の向こうでどっと挙(あ)がる喚声が聞こえて来た。思わず肩を竦(すく)めていると、急にばたばたと
駈け出す足音が響いて来た。とたんに風呂場の入口の硝子(ガラス)戸が開くと、腐った梨のような貌(かお)がにゅっ
と出て来た。尾田はあっと小さく叫んで一歩後ずさり、顔からさっと血の引くのを覚えた。奇怪な貌だった。泥のように
色艶が全くなく、ちょっとつつけば膿汁が飛び出すかと思われるほどぶくぶくと脹(ふく)らんで、その上に眉毛が一本
も生えていないため怪しくも間の抜けたのっぺら棒であった。駈け出したためか昂奮した息をふうふう吐きながら、黄色
く爛(ただ)れた眼でじろじろと尾田を見るのであった。尾田はますます肩を窄(すぼ)めたが、初めてまざまざと見る
同病者だったので、恐る恐るではあるが好奇心を動かせながら、幾度も横目で眺めた。どす黒く腐敗した瓜に鬘(かつら)
を被せるとこんな首になろうか、顎にも眉にも毛らしいものは見当たらないのに、頭髪だけは黒々と厚味をもったのが、
毎日油をつけるのか、櫛(くし)目も正しく左右に分けられていた。顔面とあまり不調和なので、これはひょっとすると
狂人かもしれぬと尾田が、無気味なものを覚えつつ注意していると、
 「何を騒いでいたの」
と看護婦が訊(き)いた。
 「ふふふふふ」
と彼はただ気色の悪い笑い方をしていたが、不意にじろりと尾田を見ると、いきなりぴしゃりと
硝子戸を閉めて駈けだしてしまった。
20もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 21:21 ID:ymLHd0PZ
 やがてその足音が廊下の果てに消えてしまうと、またこちらへ向かって来るらしい足音がこつこつと聞こえ出した。前のに比べてひどく静かな足音であった。
 「佐柄木さんよ」
 その音で解るのであろう。彼女らは貌を見合わせて頷き合う風であった。
 「ちょっと忙しかったので、遅くなりました」
 佐柄木は静かに硝子戸を開けてはいって来ると、まずそう言った。背の高い男で、片方の眼がばかに美しく光っていた。看護手のように白い上衣をつけていたが、
一目で患者だと解るほど、病気は顔面を冒していて、眼も片方は濁っており、そのためか美しい方の眼がひどく不調和な感じを尾田に与えた。
 「当直なの?」
 看護婦が彼の貌を見上げながら訊くと、
 「ああ、そう」
と簡単に応えて、
 「お疲れになったでしょう」
と尾田の方を眺めた。貌形(かおかたち)で年齢の判断は困難だったが、その言葉の中には若々しいものが満ちていて、
横柄だと思えるほど自信ありげな物の言いぶりであった。
 
21もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 22:17 ID:ymLHd0PZ
 「どうでした、お湯熱くなかったですか」
 初めて病院の着物を纏(まと)うた尾田のどことなくちぐはぐな様子を微笑して眺めていた。
 「ちょうどよかったわね、尾田さん」
 看護婦がそう引き取って尾田を見た。
 「ええ」
 「病室の方、用意できましたの?」
 「ああ、すっかりできました」
と佐柄木が応えると、看護婦は尾田に、
 「この方佐柄木さん、あなたがはいる病室の附添いさんですの。解らないことあったら、この方にお訊きなさいね」
と言って尾田の荷物をぶら提(さ)げ、
 「では佐柄木さん、よろしくお願いしますわ」
と言い残して出て行ってしまった。
 「僕尾田高雄です、よろしく――」
と挨拶すると、
 「ええ、もう前から存じております。事務所の方から通知がありましたものですから」
 そして、
 「まだ大変お軽いようですね、なあに癩病恐れる必要ありませんよ。ははは、ではこちらへいらしてください」
と廊下の方へ歩き出した。
22もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 22:19 ID:ymLHd0PZ

 木立を透して寮舎や病棟の電燈が見えた。もう十時近い時刻であろう。尾田はさっきから
松林の中に佇立(ちょりつ)してそれらの灯(ひ)を眺めていた。悲しいのか不安なのか恐
ろしいのか、彼自身でも識別できぬ異常な心の状態だった。佐柄木に連れられて初めてはい
った重病室の光景がぐるぐると頭の中を廻転して、鼻の潰れた男や口の歪んだ女や骸骨のよ
うに目玉のない男などが眼先にちらついてならなかった。自分もやがてはああ成り果てて行
くであろう、膿汁(のうじゅう)の悪臭にすっかり鈍くなった頭でそういうことを考えた。
半ば信じられない、信じることの恐ろしい思いであった。――膿(うみ)がしみ込んで黄色
くなった繃帯(ほうたい)やガーゼが散らばった中で黙々と重病人の世話をしている佐柄木
の姿が浮かんで来ると、尾田は首を振って歩き出した。五年間もこの病院で暮らしたと尾田
に語った彼は、いったい何を考えて生き続けているのであろう。
23もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 22:22 ID:ymLHd0PZ
 尾田を病室の寝台に就(つ)かせてからも、佐柄木は急がしく室内を行ったり来たりして立ち働いた。手足の不自由なものには
繃帯を巻いてやり便をとってやり、食事の世話すらもしてやるのであった。けれどもその様子を静かに眺めていると、彼がそれら
を真剣にやって病人たちをいたわっているのではないと察せられるふしが多かった。それかと言ってつらく[#「つらく」に傍点]
当たっているとはもちろん思えないのであるが、何となく傲然(ごうぜん)としているように見受けられた。崩れかかった重病者
の股間に首を突っ込んで絆創膏(ばんそうこう)を貼っているような時でも、決していやな貌(かお)を見せない彼は、いやな貌
になるのを忘れているらしいのであった。初めて見る尾田の眼に異常な姿として映っても、佐柄木にとっては、おそらくは日常事
の小さな波の上下であろう。仕事が暇になると尾田の寝室へ来て話すのであったが、彼は決して尾田を慰めようとはしなかった。
病院の制度や患者の日常生活について訊くと、静かな調子で説明した。一語も無駄を言うまいと気を配っているような説明の仕方
だったが、そのまま文章に移して良いと思われるほど適切な表現で尾田は一つひとつ納得できた。しかし尾田の過去についても病
気の具合についても、何一つとして尋ねなかった。また尾田の方から彼の過去を尋ねてみても、彼は笑うばかりで決して語ろうと
はしなかった。それでも尾田が、発病するまで学校にいたことを話してからは、急に好意を深めて来たように見えた。
24もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 22:47 ID:ymLHd0PZ
 「今まで話相手が少なくて困っておりました」
と言った佐柄木の貌には明らかによろこびが見え、青年同志としての親しみが自ずと芽生えたのであった。だがそれと同時に、今こうして癩者佐柄木と親しくなって行く自分を思い浮かべると尾田は、
いうべからざる嫌悪を覚えた。これではいけないと思いつつ本能的に嫌悪が突き上がって来てならないのであった。
25もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 22:59 ID:ymLHd0PZ
 佐柄木を思い病室を思い浮かべながら、尾田は暗い松林の中を歩き続けた。どこへ行こうという的(あて)がある訳ではなかった。
眼をそ向ける場所すらない病室が耐えられなかったから飛び出して来たのだった。
26もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 23:03 ID:ymLHd0PZ
 林を抜けるとすぐ柊の垣にぶつかってしまった。ほとんど無意識的に垣根に縋(すが)ると、力を入れてゆすぶってみた。金を奪われてしまった今はもう逃走することすら許されていないのだった。
しかし彼は注意深く垣を乗り越え始めた。どんなことがあってもこの院内から出なければならない。この院内で死んではならないと強く思われたのだった。外に出るとほっと安心し、あたりをいっそう
注意しながら雑木林の中へはいって行くと、そろそろと帯を解いた。俺は自殺するのでは決してない。ただ、今死なねばならぬように決定されてしまったのだ、何者が決定したのかそれは知らぬ、が
とにかくそうすべて定まってしまったのだと口走るように呟いて、頭上の栗の枝に帯をかけた。風呂場で貰った病院の帯は、繩のようによれよれとなっていて、じっくりと首が締まりそうであった。
すると、病院で貰った帯で死ぬことがひどく情けなくなってき出した。しかし帯のことなどどうでも良いではないかと思いかえして、二、三度試みに引っ張ってみると、ぽってりと青葉を着けた枝が
ゆさゆさと涼しい音をたてた。まだ本気に死ぬ気ではなかったが、とにかく端を結わえてまず首を引っかけてみると、ちょうど具合良くしっくりと頸にかかって、今度は顎を動かせて枝を揺ってみた。
枝がかなり太かったので顎ではなかなか揺れず、痛かった。もちろんこれでは低すぎるのであるが、それならどれくらいの高さが良かろうかと考えた。縊死体(いしたい)というのはたいてい一尺くらいも
頸が長くなっているものだともう幾度も聞かされたことがあったので、嘘かほんとか解らなかったが、もう一つ上の枝に帯を掛ければ申し分はあるまいと考えた。しかし一尺も頸が長々と伸びてぶら下がって
いる自分の死状はずいぶん怪しげなものに違いないと思いだすと、浅ましいような気もして来た。どうせここは病院だから、そのうちに手ごろな薬品でもこっそり手に入れてそれからにした方がよほど
よいような気がして来た。しかし、と首を掛けたまま、いつでもこういうつまらぬようなことを考え出しては、それに邪魔されて死ねなかったのだと思い、そのつまらぬことこそ自分をここまでずるずると
引きずって来た正体なのだと気付いた。それでは――と帯に頸を載せたまま考え込んだ。
27もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 23:07 ID:ymLHd0PZ
 その時かさかさと落ち葉を踏んで歩く人の足音が聞こえて来た。これはいけないと頸を引っ込めようとしたとたんに、穿(は)いていた下駄がひっくり返ってしまった。
 「しまった」
 さすがに仰天して小さく叫んだ。ぐぐッと帯が頸部に食い込んで来た。呼吸もできない。頭に血が上ってガーンと鳴り出した。
 死ぬ、死ぬ。
 無我夢中で足を藻掻(もが)いた。と、こつり下駄が足先に触れた。
 「ああびっくりした」
 ようやくゆるんだ帯から首をはずしてほっとしたが、腋(わき)の下や背筋には冷たい汗が出てどきんどきんと心臓が激しかった。
いくら不覚のこととはいえ、自殺しようとしている者が、これくらいのことにどうしてびっくりするのだ、この絶好の機会に、と口
惜しがりながら、しかしもう一度首を引っ掛けてみる気持は起こって来なかった。
 再び垣を乗り越すと、彼は黙々と病棟へ向かって歩き出した。――心と肉体がどうしてこうも分裂するのだろう。だが、俺は、
いったい何を考えていたのだろう。俺には心が二つあるのだろうか、俺の気付かないもう一つの心とはいったい何ものだ。二つ
の心は常に相反するものなのか、ああ、俺はもう永遠に死ねないのではあるまいか、何万年でも、俺は生きていなければならな
いのか、死というものは、俺には与えられていないのか、俺は、もうどうしたら良いんだ。
28もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 23:10 ID:ymLHd0PZ
 だが病棟の間近くまで来ると、悪夢のような室内の光景が蘇って自然と足が停ってしまった。激しい嫌悪が突き上がって来て、
どうしても足を動かす気がしないのだった。仕方なく踵(きびす)を返して歩き出したが、再び林の中へはいって行く気にはなれ
なかった。それでは昼間垣の外から見た果樹園の方へでも行ってみようと二、三歩足を動かせ始めたが、それもまたすぐいやにな
ってしまった。やっぱり病室へ帰る方がいちばん良いように思われて来て、再び踵を返したのだったが、するともうむんむんと膿
の臭いが鼻を圧して来て、そこへ立ち停るより仕方がなかった。さてどこへ行ったら良いものかと途方にくれ、とにかくどこかへ
行かねばならぬのだが、と心が焦立って来た。あたりは暗く、すぐ近くの病棟の長い廊下の硝子戸が明るく浮き出ているのが見え
た。彼はぼんやり佇立したまま森(しん)としたその明るさを眺めていたが、その明るさが妙に白々しく見え出して、だんだん背
すじ[#「すじ」に傍点]に水を注がれるような凄味を覚え始めた。これはどうしたことだろうと思って大きく眼を瞠(みは)っ
て見たが、ぞくぞくと鬼気は迫って来るいっぽうだった。体が小刻みに顫え出して、全身が凍りついてしまうような寒気がしてき
出した。じっとしていられなくなって急いでまた踵を返したが、はたと当惑してしまった。全体俺はどこへ行くつもりなんだ。ど
こへ行ったら良いんだ、林や果樹園や菜園が俺の行き場でないことだけは明瞭に判っている、そして必然どこかへ行かねばならぬ、
それもまた明瞭に判っているのだ。それだのに、
 「俺は、どこへ、行きたいんだ」
29もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 23:14 ID:ymLHd0PZ
 ただ、漠然とした焦慮に心が煎るるばかりであった。――行き場がないどこへも行き場がない。曠野に迷った旅人のように、孤独と不安が犇々(ひしひし)と全身をつつんで来た。
熱いものの塊(かたまり)がこみ上げて来て、ひくひくと胸が嗚咽し出したが、不思議に一滴の涙も出ないのだった。
 「尾田さん」
 不意に呼ぶ佐柄木の声に尾田はどきんと一つ大きな鼓動が打って、ふらふらッと眩暈(めまい)がした。危うく転びそうになる体を、やっと支えたが、咽喉が枯れてしまったように声が出なかった。
 「どうしたんですか」
 笑っているらしい声で佐柄木は言いながら近寄って来ると、
 「どうかしたのですか」
と訊いた。その声で尾田はようやく平常な気持を取り戻し、
 「いえちょっとめまい[#「めまい」に傍点]がしまして」
 しかし自分でもびっくりするほど、ひっつるように乾いた声だった。
 「そうですか」
 佐柄木は言葉を切り、何か考える様子だったが、
 「とにかく、もう遅いですから、病室へ帰りましょう」
と言って歩きだした。佐柄木のしっかりした足どりに尾田も、何となく安心して従った。
30もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 23:19 ID:ymLHd0PZ
 駱駝(らくだ)の背中のように凹凸のひどい寝台で、その上に布団を敷いて患者たちは眠るのだった。尾田が与えられた寝台の端に腰をかけると、佐柄木も黙って尾田の横に腰を下ろした。
病人たちはみな寝静まって、ときどき廊下を便所へ歩む人の足音が大きかった。ずらりと並んだ寝台に眠っている病人たちの状(さま)ざまな姿体を、尾田は眺める気力がなく、下を向いた
まま、一時も早く布団の中にもぐり込んでしまいたい思いでいっぱいだった。どれもこれも癩(くず)れかかった人々ばかりで人間というよりは呼吸のある泥人形であった。頭や腕に巻いて
いる繃帯も、電光のためか、黒黄色く膿汁がしみ出ているように見えた。佐柄木はあたりを一わたり見廻していたが、
 「尾田さん、あなたはこの病人たちを見て、何か不思議な気がしませんか」
と訊くのであった。
 「不思議って?」
と尾田は佐柄木の貌を見上げたが、瞬間、あっと叫ぶところであった。佐柄木の美しい方の眼がいつの間にか抜け去って
いて、骸骨のようにそこがぺこんと凹んでいるのだった。あまり不意だったので言葉もなく尾田が混乱していると、
 「つまりこの人たちも、そして僕自身をも含めて、生きているのです。このことを、あなたは不思議に思いませんか。
奇怪な気がしませんか」
 急に片目になった佐柄木の貌は、何か勝手の異なった感じがし、尾田は、錯覚しているのではないかと自分を疑いつつ、
恐々(こわごわ)であったが注意して佐柄木を見た。佐柄木は尾田の驚きを察したらしく、つと立ち上がって
当直寝台――部屋の中央にあって当直の附添いが寝る寝台――へすたすたと歩いて行ったが、すぐ帰って来て、
 「はははは。目玉を入れるのを忘れていました。驚いたですか。さっき洗ったものですから――」
 そう言って尾田に掌手(てのひら)に載せた義眼を示した。
 「面倒ですよ。目玉の洗濯までせねばならんのでね」
 そして佐柄木はまた笑うのであったが、尾田は溜まった唾液(つば)を呑み込むばかりだった。義眼は二枚貝の片方と同じ恰好(かっこう)で、丸まった表面に眼の模様がはいっていた。
31もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 23:25 ID:ymLHd0PZ
 「この目玉はこれで三代目なんですよ。初代のやつも二代目も、大きな嚏(くさめ)をした時飛び出しましてね、運悪く石の上だったものですから割れちゃいました」
 そんなことを言いながらそれを眼窩(がんか)へあててもぐもぐとしていたが、
 「どうです、生きてるようでしょう」
と言った時には、もうちゃんと元の位置に納まっていた。尾田は物凄い手品でも見ているような塩梅(あんばい)であっけに取られつつ、もう一度唾液を呑み込んで返事もできなかった。
 「尾田さん」
 ちょっとの間黙っていたが、今度は何か鋭いものを含めた調子で呼びかけ、
 「こうなっても、まだ生きているのですからね、自分ながら、不思議な気がしますよ」
 言い終わると急に調子をゆるめて微笑していたが、
 「僕、失礼ですけれど、すっかり見ましたよ」
と言った。
 「ええ?」
 瞬間解(げ)せぬという風に尾田が反問すると、
 「さっきね。林の中でね」
 相変わらず微笑して言うのであるが、尾田は、こいつ油断のならぬやつだと思った。
 「じゃあすっかり?」
 「ええ、すっかり拝見しました。やっぱり死にきれないらしいですね。ははは」
 「………」
32もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 23:30 ID:ymLHd0PZ
 「十時が過ぎてもあなたの姿が見えないのでひょっとすると――と思いましたので出かけてみたのです。初めてこの病室へはいった人は
たいていそういう気持になりますからね。もう幾人もそういう人にぶつかって来ましたが、まず大部分の人が失敗しますね。そのうちイン
テリ青年、と言いますか、そういう人は定まってやり損いますね。どういう訳かその説明は何とでもつきましょうが――。すると、林の中
にあなたの姿が見えるのでしょう。もちろん大変暗くて良く見えませんでしたが。やっばりそうかと思って見ていますと、垣を越え出しま
したね。さては院外(そと)でやりたいのだなと思ったのですが、やはり止(と)める気がしませんのでじっと見ていました。もっとも他
人がとめなければ死んでしまうような人は結局死んだ方がいちばん良いし、それに再び起ち上がるものを内部に蓄えているような人は、定
まって失敗しますね。蓄えているものに邪魔されて死にきれないらしいのですね。僕思うんですが、意志の大いさは絶望の大いさに正比す
る、とね。意志のないものに絶望などあろうはずがないじゃありませんか。生きる意志こそ絶望の源泉だと常に思っているのです。しかし
下駄がひっくり返ったのですか、あの時はちょっとびっくりしましたよ。あなたはどんな気持がしたですか」
33もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 23:35 ID:ymLHd0PZ
 尾田は真面目なのか笑いごとなのか判断がつきかねたが、その太ぶとしい言葉を聞いているうちに、だんだん激しい忿怒(ふんぬ)が湧き出て来て、
 「うまく死ねるぞ、と思って安心しました」
と反撥してみたが、
 「同時に心臓がどきどきしました」
と正直に白状してしまった。
 「ふうむ」
と佐柄木は考え込んだ。
 「尾田さん。死ねると安心する心と、心臓がどきどきするというこの矛盾の中間、ギャップの底に、何か意外なものが潜んでいるとは思いませんか」
 「まだ一度も探ってみません」
 「そうですか」
 そこで話を打ち切りにしようと思ったらしく佐柄木は立ち上がったが、また腰を下ろし、
 「あなたと初めてお会いした今日、こんなこと言って大変失礼ですけれど」
と優しみを含めた声で前置きをすると、
 「尾田さん、僕には、あなたの気持が良く解る気がします。昼間お話しましたが、僕がここへ来たのは五年前です。五年以前のその時の僕の気持を、
いや、それ以上の苦悩を、あなたは今味わっていられるのです。ほんとにあなたの気持、良く、解ります。でも、尾田さんきっと生きられますよ。きっと
生きる道はありますよ。どこまで行っても人生にはきっと抜け道があると思うのです。もっともっと自己に対して、自らの生命に対して謙虚になりましょう」
 意外なことを言い出したので尾田はびっくりして佐柄木の顔を見上げた。半分潰れかかって、それがまたかたまったような佐柄木の顔は、話に力を入れると
ひっつったように痙攣(けいれん)して、仄(ほの)暗い電光を受けていっそう凹凸がひどく見えた。佐柄木はしばらく何ごとか深く考え耽っていたが、
 「とにかく、癩病に成りきることが何より大切だと思います」
と言った。不敵な面魂が、その短い言葉に覗かれた。
34もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 23:39 ID:ymLHd0PZ
 「まだ入院されたばかりのあなたに大変無慈悲な言葉かもしれません。今の言葉。でも同情するよりは、同情のある慰めよりは、あなたにとっても良いと思うのです。
実際、同情ほど愛情から遠いものはありませんからね。それに、こんな潰れかけた同病者の僕がいったいどう慰めたら良いのです。慰めのすぐそこから嘘がばれて行くに
定まっているじゃありませんか」
 「良く解りました、あなたのおっしゃること」
 続けて尾田は言おうとしたが、その時、
 「どうじょぐざん」
と嗄れた声が向こう端の寝台から聞こえて来たので口をつぐんだ。佐柄木はさっと立ち上がると、その男の方へ歩んだ。「当直さん」と佐柄木を呼んだのだと初めて尾田は解した。
 「なんだい用は」
とぶっきら棒に佐柄木が言った。
 「じょうべんがじたい」
 「小便だなよしよし。便所へ行くか、シービンにするか、どっちが良いんだ」
 「べんじょさいぐ」
 佐柄木は馴れきった調子で男を背負い、廊下へ出て行った。背後から見ると、負われた男は二本とも足が無く、膝小僧のあたりに繃帯らしい白いものが覗いていた。
 「なんというもの凄い世界だろう。この中で佐柄木は生きると言うのだ。だが、自分はどう生きる態度を定めたら良いのだろう」
35もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 23:46 ID:ymLHd0PZ
 発病以来、初めて尾田の心に来た疑問だった。尾田は、しみじみと自分の掌を見、足を見、そして胸に掌をあててまさぐってみるのだった。何もかも奪われてしまって、
ただ一つ、生命だけが取り残されたのだった。今さらのようにあたりを眺めて見た。膿汁に煙った空間があり、ずらりと並んだベッドがある。死にかかった重症者がその
上に横たわって、他は繃帯でありガーゼであり、義足であり松葉杖であった。山積するそれらの中に今自分は腰かけている。――じっとそれらを眺めているうちに、尾田は、
ぬるぬると全身にまつわりついて来る生命を感じるのであった。逃れようとしても逃れられない、それは、鳥黐(とりもち)のようなねばり強さであった。
 便所から帰って来た佐柄木は、男を以前のように寝かせてやり、
 「ほかに何か用はないか」
と訊きながら布団をかけてやった。もう用はないと男が答えると、佐柄木はまた尾田の寝台に来て、
 「ね、尾田さん。新しい出発をしましょう。それには、まず癩に成りきることが必要だと思います」
と言うのであった。便所へ連れて行ってやった男のことなど、もうすっかり忘れているらしく、それが強く尾田の心を打った。
佐柄木の心には癩も病院も患者もないのであろう。この崩れかかった男の内部は、我々と全然異なった組織ででき上がっている
のであろうか、尾田には少しずつ佐柄木の姿が大きく見え始めるのだった。
36もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/19 23:55 ID:ymLHd0PZ
 「死にきれない、という事実の前に、僕もだんだん屈伏して行きそうです」
と尾田が言うと、
 「そうでしょう」
と佐柄木は尾田の顔を注意深く眺め、
 「でもあなたは、まだ癩に屈伏していられないでしょう。まだ大変お軽いのですし、実際に言って、癩に屈伏するのは容易じゃありませんからねえ。
けれど一度は屈伏して、しっかりと癩者の眼を持たねばならないと思います。そうでなかったら、新しい勝負は始まりませんからね」
 「真剣勝負ですね」
 「そうですとも、果し合いのようなものですよ」
37もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/20 00:13 ID:QI6kF052

 月夜のように蒼白く透明である。けれどどこにも月は出ていない、夜なのか昼なのかそれすら解らぬ。ただ蒼白く透明な原野である。その中を尾田は逃げた、逃げた。
胸が弾(はず)んで呼吸が困難である。だがへたばっては殺される。必死で逃げねばならぬのだ。追手はぐんぐん迫って来る。迫って来る。心臓の響きが頭にまで伝わって
来る、足がもつれる。幾度も転びそうになるのだ。追手の鯨波(とき)はもう間近まで寄せて来た。早くどこかへ隠れてしまおう。前を見てあっと棒立ちに竦んでしまう。
柊の垣があるのだ。進退全く谷(きわ)まった、喚声はもう耳もとで聞こえる。ふと見ると小さな小川が足もとにある、水のない堀割りだ、夢中で飛び込むと足がずるずる
と吸い込まれる。しまったと足を抜こうとするとまたずるりと吸い入れられる。はや腰までは沼の中だ。藻掻(もが)く、引っ掻く、だが沼は腰から腹、腹から胸へと上っ
て来る一方だ。底のない泥沼だ、身動きもできなくなる。しびれたように足が利かない。眼を白くろさせて喘(あえ)ぐばかりだ。うわああと喚声が頭上でする。あの野郎
死んでるくせに逃げ出しやがった。畜生もう逃さんぞ。逃すものか。火炙(あぶ)りだ。捕まえろ。捕まえろ。入り乱れて聞こえて来るのだ。どすどすと凄(すご)い足音
が地鳴りのように響いて来る。ぞうんと身の毛がよだって脊髄までが凍ってしまうようである。――殺される、殺される。熱い塊が胸の中でごろごろ転がるが一滴の涙も枯
れ果ててしまっている。
38もっこす ◆ZM08EeniEM :03/02/20 00:14 ID:QI6kF052
ふと気付くと蜜柑の木の下に立っている。見覚えのある蜜柑の木だ。粛条(しょうじょう)と雨の降る夕暮れである。いつの間にか菅笠(すげがさ)
を被(かぶ)っている。白い着物を着て脚絆(きゃはん)をつけて草鞋(ぞうり)を穿(は)いているのだ。追っ手は遠くで鯨波をあげている。また近寄って来るらしいのだ。
蜜柑の根もとに跼(かが)んで息を殺す、とたんに頭上でげらげらと笑う声がする。はっと見上げると佐柄木がいる。恐ろしく巨きな佐柄木だ。いつもの二倍もあるようだ。
樹から見下している。癩病が治ってばかに美しい貌なのだ。二本の眉毛も逞(たくま)しく濃い。尾田は思わず自分の眉毛に触ってはっとする。残っているはずの片方も今は
無いのだ。驚いて幾度も撫(な)でてみるがやっぱり無い。つるつるになっているのだ。どっと悲しみが突き出て来てぼろぼろと涙が出る。佐柄木はにたりにたりと笑っている。