1989年5月20日(土)「赤旗」
追跡女子高生監禁殺害事件 <1>
甘かった親の認識
魔の40日間
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東京・足立区内の少年たちが一人の女子高生のかけがえのない生命を無残
にも奪った事件で、東京家庭裁判所は、主犯格の少年A(18)、同B(17)、同
C(16)、同D(17)の四人を刑事処分相当として東京地検に送致しました。事
件は、両親が階下に住むCの自宅で引き起こされました。親は一体何をし
ていたのか≠ニ社会的責任を問う声とともに、事件当時Cの両親が日本共産
党員だったことから、なぜ、このような事件が≠ニの強い疑問が寄せられ
ています。共働き、母子家庭など子育ての困難に胸を痛めている人々の中に
は、事件を特別な思いで受け止めた人も少なくありません。もちろん学校教
育の問題、暴力団とのかかわりを含めた社会的問題を指摘する声も強くあり
ます。これらの疑問や声をもとに、取材班は事件の真相を追究してきました
。残念ながら現在、Cの両親は直接取材できない状況にあります。限定され
た範囲ですが、中間報告としてリポートします。
埼玉県三郷市の女子高生Eさん(18)がアルバイトを終えての帰宅途中、少
年たちに襲われたのは昨年11月25日の夜でした。足立区内のC宅の二階に連
れ込まれ、1月4日に殺されるまでの監禁は40日におよびました。
C宅は、父親(48)、母親(42)、兄(17)との四人暮らし。兄も犯行に一部か
かわったとして東京地検に書類送検されています。同じ屋根の下で暮らして
いて、両親はなぜ犯行に気づかなかったのか。この点に疑問の多くが集まっ
ています。
EさんをC宅に連れてきた少年たちは当初、「お前はヤクザに狙われてい
るからかくまってやる」などと言葉巧みにいいくるめていました。
自宅に数回電話した女子高生
Eさんはその間、自宅に数回電話しています。C宅からだけでなく、外の公
衆電話からかけたこともありました。「誘拐されたわけではないので心配しな
いで」という内容。少年たちに脅かされてのことでしたが外見的には「自発的」
とも見える状況でした。
Cの両親は女の子が二階の部屋にいることに気づかなかったわけではありま
せん。一度はEさんを階下に連れ出しています。十二月の十日ごろでした。E
さんとCらに食事をさせ、Eさんを帰宅させるために外に送り出しもしていま
す。Eさんが「一人で帰れる」というので自宅まで送ることをしなかったとい
います。
監禁されていたというよりCらの非行グループの仲間の女の子というのが両
親の認識だったようです。この甘さが事件を防ぐ決定的チャンスを逃がしまし
た。
実際Eさんは、このとき自宅に帰ることなく少年たちに連れ戻されました。
しかも、この日以後、少年らは親に気づかれないようにしながら、それまで以
上の残虐な暴力をふるい、許すことのできない結末へと突き進んでいきました。
当時の両親に女の子が監禁されているとの認識はなかったとしても、少なく
とも不審は感じ取っていたはずです。秋以降、ひんぱんに出入りするAら。近
所から寄せられる騒音の苦情。
非行の芽つみとる具体的処置なく
非行グループのたまり場となっていることを知りながら、非行の芽を摘み取
る具体的処置は取れませんでした。女の子や他の子の親とも連絡をとり、親同
士で対処する努力が必要でした。この時期、一切を母親まかせにしていた父親
の責任も厳しく問われます。
許せぬことには、一歩も引かず、きぜんとし立ち向かう親の姿勢があれば、
最悪の結末だけは避けられたはずでした。
Cの両親は事件後、弁護士を通じて「被害者の両親にはおわびのしようがな
く、償いようがありません。深く反省しています。............賠償金などで
済むようなことではありませんが、事件の現場となった家と土地を売って、裸
になってでもやっていく覚悟です」と語り、眠れぬ夜を過ごしているといいま
す。魔の40日間への認識、対応の甘さが招いた結果はあまりにも重大でした。
(つづく)
1989年5月21日(日)「赤旗」
追跡女子高生監禁殺害事件 <2>
C(16)の場合
普通≠フ共働き家庭
少年たちの成長の過程のどこかに、事件を起こすまでに至った人間としての
荒廃をくいとめるきっかけはなかったのでしょうか。自室が犯行現場となり、
両親が共産党員だったCの場合。
Cの両親は、診療所に勤める共働きでした。母親(42)は、少年が生まれる前
から仕事に就いていました。Cが小学生のとき、子育てをしながら夜間学校に
通って正看護婦の資格を取った努力家でした。
父母が力合わせた子育ての日々…
父親(48)も人一倍仕事熱心。薬局に働く一方、党の活動として、職場に近い
地域で数十軒の「赤旗」の配達、集金を受け持っていました。母親はそんな夫
を尊敬もし、彼を支えようと考えていたようです。夫の帰宅が遅くなる分、家
事の多くは母親の肩にかかっていました。
父親が子育てにまったく参加しなかったわけではありません。子どもたちの
幼いころ、朝、保育園に子どもを送っていくのは父親。迎えは夕方帰宅する母
親。週に一度、母親が職場の「遅番」で帰宅が夜九時を過ぎる日は、父親が早
く帰って夕飯のしたくをするのが常でした
父親は、ふだん忙しい分、保育園の父母会や、Cが小学校時代、入っていた
地域の少年野球クラブの父母の集まりにもよく顔を出していたといいます。「
場所取り当番」の日は、前夜の帰宅が遅くても早朝からグラウンドの確保に出
かけていました。
夏にはキャンプに、また原爆展へと息子を連れていったという父親…。小学
校時代の子育ても、簡単に物を買い与えず、小遣いをためて計画的に使うよう
にさせる、決められた家事分担は責任を持ってやらせる、といったものでした。
Cは階段のぞうきんがけ、雨戸の開け閉めなどを分担していたといいます。
このころまでの両親の子どもへの対応は、共働きだから、あるいは共産党の
活動があるからといって手を抜いていたとはいえません。
しかし子どもたちの人間としての成長に、親がどれだけ踏み込んでいってい
たかは、疑問の残るところです。
問答無用のしつけと納得欠いた体罰
家事分担などのしつけ≠ノしても、「なぜそうしなければならないか」を
父親が子どもに語るかけることはありませんでした。「決められたことだから」
という、いわば問答無用の「しつけ」でした。
そればかりではありません。子どもが決められた仕事をやらなかったときは、
父親がきびしくしかり、体罰もふるっていました。父親は、酒を飲むと静かに
なる方だったといいますが、毎日かなりの量を飲んで帰宅していました。決め
られた仕事をやらず就寝していた息子を起こして家事をさせたこともあったと
いいます。
体罰はCが小学校中学年になるころまでふるっていました。主観的にどうだ
ったかは別にして、父親の行動が機械的で子どもの納得を無視したものであっ
たのは事実のようです。
(つづく)
1989年5月22日(月)「赤旗」
追跡女子高生監禁殺害事件 <3>
急転落の3ヵ月
ためらっている内に
自宅を監禁場所にした少年C(16)は、スポーツ好きでした。中学校に入ると
運動クラブに熱中します。一年の終わりごろでした。この運動部を他の部員と
ともに集団で退部します。指導の教師がことあるごとに体罰をふるうことに嫌
気がさしてのことでした。Cらは他の運動部を希望しましたが、学校からは拒
否されました。「一つの部がつとまらないで他の部でやれるはずがない」とい
うのが理由でした。母親らのあいだで学校への抗議が持ち上がりましたが、子
どもたちがとめたといいます。Cの両親も学校と話すことはしませんでした。
放課後の時間を持て余すようになる
その後、Cらは、放課後の時間を持て余すようになります。ゲームセンター
に出入りしたり、部屋で漫画本をくったり…。
受験指導に重点が置かれる三年になると成績はぐんと下がり、卒業を控えた
ころからCの家庭内暴力が始まったようです。自分の気にいらないことがある
と母親を殴る。当時「体罰はやってはならない」と思い直していた父親は、
「話せばわかる」と話し合おうとしますが、Cは「昔のことを忘れたのか」と
かつての父親の体罰を指摘し、反発したといいます。
Cは、都立の職業高校へ進学。その高校を怠学し始めたのは六月ころでした。
夏休みには、今回の事件のグループとのつき合いが加わり、つながりを深めて
いきました。髪を赤茶色に染めたのもこのころです。
この夏、両親は、それぞれの休暇をずらせてとりました。親が息子といっし
ょにいる時間を少しでも長くと考えてのことでした。
この休みに父は、息子を連れ、東北の実家に旅行しています。母親は「旅行
中に学校のことをどうするのか、よく話してほしい」と頼んでいましたが、旅
行中父子のあいだで、その話は交わされなかったといいます。Cは夏休み後、
高校を退学しています。
元高校教師で教育評論家の小島昌夫さんは次のように指摘します。
「両親はいろいろと考え、苦しみ、やってきたのではないでしょうか。しか
し、その認識と行動は、子どもが置かれた危機の深さに見合うものになってい
なかったのだと思います」
親の背中を見る@ヘを育て
たとえば、Cが退学を考え始めた高一の夏。父子が旅行したことは、Cが立
ち直る転機にしえなかったでしょうか。
小島さんはいいます。
「父親は恐らく、旅の間はお説教はしないで息子との時間を大切にすること
を優先させたかったのでしょう。それが間違いだとはいいきれない。けれども、
旅の一日、じっくりと息子の生活を振り返り、自分の生きてきた道を語るとい
うことがあったら、とも思います。親は、どんなに忙しくても、子どもの成長
の転機、あるいは進学や誕生日など意識的につくる節目に、子どもと向き合い、
正面から親の生き方を語らなければならない。子どもに親の背中を見る@ヘ
を育て、きずなを強めることにもつながるのだと思います」
(つづく)
1989年5月23日(火)「赤旗」
追跡女子高生監禁殺害事件 <4>
遅すぎた相談
「今度」の機会訪れず
C(16)の生活が崩れ、非行に走っていったころ、両親はそれにどうとりくん
でいたのでしょう。
警察に相談したが有効な手だてなし
Cが高校を中退し、事件に関与した少年グループとのつきあいを深めていった
秋。母親は、グループのAやBの家を何度も訪ね、「うちの子とつきあわない
ように、いってほしい」と頼んでいます。Aの母は、そのたび「私が何かいえ
ば殺される」と泣き崩れたといいます。Cの母親はCが窃盗事件にかかわった
容疑で警察に呼ばれた際、相談をもちかけています。AやBの母親も、何回と
なく警察に相談していましたが、有効な手だてはとられませんでした。
夏から秋にかけ、わずか三ヶ月の間に急激に変化し、荒れていくわが子。そ
の姿にとまどい、奔走しながら、母親は体重が減るほど精神的にまいっていた
といいます。
その母親の切実さとはちぐはぐに思えるほど、周囲の知人などへの相談はた
めらいがちなものでした。
昨年六月ごろ、近くに住む友人に、父親から「子どもの非行のことで相談し
たいのだが、いい先生はいないだろうか」と電話がありましたが、翌日には「夫
婦で相談したが大丈夫そうなのできのうのことはなかったことに」と断りがあ
りました。
九月ごろにも、父親は町で別の知人にあった際、「息子のことで困っている
んですよ。今度相談にのってください」ともちかけています。しかしその「今
度」の機会はとうとう訪れませんでした。そのころ、悩み疲れていた妻に、夫
はみずからとまどいながらも「思春期の子どもが荒れるのはよくあることだよ」
となだめていたといいます。しかし現実にはまさにそのころ、CはAを通じて
暴力団ともつながり、今回の事件に向かって荒廃への道を引きずられていまし
た。
悩みを打ち明けてくれていたら…
Cの両親は共産党員でしたが、住んでいる地域では活動をしておらず、地域
の党支部のほとんどの人たちは両親が党員であることを知りませんでした。「子
どもが育っていく地域。そこで親たちがしっかり結びついていることがどんな
に大切か…。このご両親がそういう結びつきのなかにいて、地域に悩みを打ち
明けていてくれていたら、と残念でなりません」。事件後、地域の党員の一人
はそう語りました。
両親は、所属する職場の党支部では息子のことをどう相談していたのでしょ
うか。
父親は、酒の席で支部の人たちに「家が荒れて大変だ」と話したことがあり
ましたが、それ以上の突っ込んだ話にはなりませんでした。支部にCの非行の
話が伝わったのは事件後の今年一月末。Cが別の事件で逮捕されたときでした。
「息子がひったくりで逮捕された」という内容でした。
当時監禁殺害事件≠ヘすでにひき起こされていましたが、まだ発覚前でし
た。
窃盗などぬきさしならない犯罪にいたる前に、すべてをさらけ出し、相談し
ていれば…、と大きな悔いが残ります。あわせて、子育てを含む家庭の悩みを
互いに出しあい、力になりあうことのできる党の活動の大切さも、改めて胸に
刻まれねばならないでしょう。
(つづく)
1989年5月24日(水)「赤旗」
追跡女子高生監禁殺害事件 <5>
生徒指導指定校
管理、体罰の影で
犯人の少年たちは、いずれも東京・足立区内の同じ公立中学校の卒業生です。
少年たちの荒廃の軌跡を取材していて、その中学校の抱えていた問題が浮か
びあがってきました。同校は、今回の事件のほかに、別のグループが同時期、
在学中に母子絞殺事件を引き起こしており、これまでの教育を厳しく問い直す
声が起きています。
生徒を押さえ込もうとする方向
80年代初め、全国的に校内暴力などのあらしが吹き荒れて以降、大きくいっ
て、学校の対応の仕方に二つの方向が現れました。
一つは体罰を含む厳しい管理≠ナ生徒を押さえ込もうとする方向。もう一
つは生徒が主人公となり、生きいきと輝ける学校を目指そうとする方向です。
同校は前者の典型的な学校でした。
数年前まで同校には教師の体罰が横行していました。試験の成績が悪いと長
時間の正座を強いられる。私語が多いといっては殴られる。生徒の耳の鼓膜が
破られることも一度ならずありました。
自室が女子高生監禁の現場となった少年C(16)が、一年の終わり、所属して
いた運動部を集団で退部したのは、練習中のふざけや私語を理由に教師が体罰
をふるうのに嫌気がさしてのことでした。
Cが所属した部を指導していたのは若い教師でした。同校は新卒間もない職
場。周囲の教師は体罰を含む力≠ナ生徒を押さえ込む。「自分もそうできな
ければ一人前に見られない、と夢中だった。いま思えば、もっと別のやり方も
あった…」。その教師は、他の学校へ転任する際、そう語ったといいます。同
校の管理主義は、生徒だけではなく教師の成長をもゆがめていたのではないで
しょうか。
同校は、85、86年度、文部省の生徒指導総合推進校に指定されていました。
東京都教育委員会などとの緊密な連携のもとで、全校的に体制もとり、生徒指
導にとりくみました。二年間の実践を経て文部省に提出された研究成果報告書
には、「二年間で荒れ≠ェおさまり、落ち着きをとりもどしてきた」旨の報
告がありました。
子どもの素顔′ゥえていたのか
しかし、まさにその二年間に、二つの殺人事件に関与した少年らが在校して
もいました。学校が、「落ち着いた」という一方で、子どもの素顔≠ェ見え
なくなってはいなかったか。今回の事件は、生徒指導のあり方の根本からの問
い直しを求めています。
同校は、この一、二年、体罰をなくし、不登校の子どもをなくすことを柱に、
いわば教育の再生≠ヨの道を歩み始めようとしていました。その矢先に、今
回の事件が起きました。
東京都教職員組合の足立支部は、来月14日、「今、子どもの危機を考える」と
のシンポジウムを計画しています。教師、父母、弁護士や教育学者…。子どもを
健やかに育てたいと願うすべての人の知恵と力を集めようと。
在校生の母親の一人は「あまりにも大きな犠牲をうんでしまいました。命の大
事さ、他人の痛みのわかる子どもを育てられる学校に、地域に、生まれ変わらな
くては、殺された方々が浮かばれません…」と言葉をつまらせました。
(つづく)
1989年5月25日(木)「赤旗」
追跡女子高生監禁殺害事件 <6>
暴力団の影
試されずみの手口で
少年たちが住んでいた地域には、暴力団が数多く事務所を構えています。埼玉
県、千葉県との県境に近く、行政単位で動く警察の捜査から逃れやすいのが暴力
団にとって地理的に有利だというわけです。この暴力団の存在は、地域の子ども
たちのあいだに暗い影を落としています。
集められた金を吸い上げる暴力団
足立区などで長く児童相談にたずさわってきた児童福祉司の上坪陽さん(57)
はこう指摘します。
「中学生のあいだに、だれかが妊娠したときの堕胎のための費用を集める、い
わゆるカンパのシステム≠フあるところがある。これが卒業後に引き継がれ『
金をいくらもってこい』といわれたら下級生などに割り当てる。末端の子どもは
家の金を持ち出したりする。そうして少額ずつだが広範囲から集められた金が暴
力団に吸い上げられていくんです」
上坪さんの体験では暴力団の周辺には必ずといっていいほど暴力団になりきれ
ない遊び人≠フ層が作られていきます。中学を出て高校にいかず、あるいは中
退したまま職業につかない無職少年がこの層に取り込まれていく例は珍しくない
といいます。
そうした子どもたちは、組織とも呼べない群れ≠ニなり、シンナーや万引き
などをくり返す。群れ≠ヘ普通十人から二、三十人の規模で、群れ%ッ士が
中学校の学区域を超えたつながりをもち、広域化しています。事件の「主犯格」
の少年A(18)の名も、足立区内だけでなく隣接する葛飾区の少年らにも広く知ら
れていました。
しかし管理の厳しい学校ほど、それらの子どもたちの学校の外での姿は見えな
くなりがちだ、と上坪さんはいいます。
暴力団はその群れ≠ノ目をつけ、組織の拡大をはかります。少年を取り込む
ため、一見人当たりのいい専門の人間を置く暴力団もいるといいます。
今回の事件に加わった少年B(17)、少年C(16)、少年D(17)らは、Aに出会う
までは群れ≠フなかの一員でした。暴力団の「極東関口一家」の準構成員を自
認していたAは、少年らにゆがんだ性的快楽を覚えさせるために、まず女性を添
わせました。
少年らを飲ませ食わせでもてなす
またAは軍資金として与えられていたらしい百万円の札束を見せて「汗水たら
して働くのなんかバカだ。オレはそんなことをしなくてもこれだけの生活ができ
る」といい放ち、少年らを飲ませ食わせでもてなしました。「極東関口一家」の
青年部を作ろう、ともちかけ、高校中退後、求人雑誌を見て賃金の低さ、待遇の
悪さを知ってうんざりしていたCらは、その誘いに引き込まれていきました。A
は少年らに窃盗、恐喝などをはたらかせ、三分の一をAに上納≠ウせるまでに
なっていました。
一人の若者を、人間として荒廃させることで組織に引き込んでいく‐‐。それ
は暴力団の試されずみ≠フ手口でした。
(つづく)
1989年5月26日(金)「赤旗」
追跡女子高生監禁殺害事件 <7>
十字路
地域が急変する陰で
事件現場に近い足立区内の駅。週末の深夜、狭い道路は若者の車でひしめいて
います。
足立区などで児童相談にたずさわってきた児童福祉司の上坪陽さん(57)は「こ
こは、いろんな地域の子どもが集まるいわば十字路のようなところ」といいます。
深夜営業の店急増学校近くにゲーム店
古くからこの地域に住む人は「このあたりはここ三、四年のあいだに急激に変
わった」と。深夜営業のファーストフード店、ファミリーレストランなどが多数
進出し、マンションなどの建設も相次いで、新しい住民が増えました。駅前には
若者が集まるようになり、「子どもを見ても、地元の子か遠くからきた子か、わ
からなくなった」といいます。
先日、事件を起こした少年らが卒業した中学校でおこなわれた緊急保護者会で
は、父母から地域の環境への不安の声もだされました。学校のそばにゲームセン
ターやアダルトビデオを置いたビデオショップが開店しています。中には、つ
け≠ナ子どもを遊ばせるゲームセンターもあるといいます。
十年ほど前、この地域でも、母親が中心になって、ポルノ雑誌の自動販売機撤
去などの運動が起こりました。。いま、子どもたちを取り巻く退廃文化の実態は
、当時から大きく変化しています。中学生のあいだに「実録もの」「SMもの」
などと呼ばれる「裏ビデオ」が出回り、個室にテレビとビデオを持つ生徒の部屋
に集まって見る、ということも珍しくなくなっています。今回の事件でも、そう
した映像による異常な性体験の蓄積が少年たちの人間としての理性、感情を極端
に破壊していたのではないか、とみる人もいます。一方で、そうした実態がおと
なに見えにくくなっている状況も広がっています。
こうした事態につけこんで、暴力団が暗躍していることも、前回とりあげまし
た。
事件が起きた地域の周辺には、都内としてはまだ比較的低家賃の賃貸アパート
などが残されています。「仮の住まい」としてここに住み、また出ていく住民が
多いのも特徴です。
少年A(18)、少年B(17)、少年D(17)の家庭は、事情は違いますが、実質的に
父親が不在でした。証券会社に勤め、ほとんど家に帰らなかったというAの父。
Bの父は、Bが小学校四年のころに家を出、いったんはBを引き取りますが育て
きれず、Bは着のみ着のままで母親のところにもどってきました。
Dの父は、いったん離婚。復縁の話し合いに向かう途中、交通事故死しました。
子どもの育ちにくさの根っこに…
上坪さんは「この地域に限りませんが、いま、家庭が不安定になっているとい
われる背後には、経済や雇用、家族生活の不安定があります。おかみさんの暮ら
しにくさ。父親の働きにくさ。それと、子どもの育ちにくさとは、一つの根っこ
のものではないでしょうか」と話します。
「その現実のなかで、失われてしまった地域のきずな≠再生させることは
大変な仕事ですが、その大きな努力なしには、子どもを守り育てることはできな
い。それは、社会的なたたかいだといえるのではないでしょうか」と上坪さんは
指摘します。
(つづき)
1989年5月27日(土)「赤旗」
追跡女子高生監禁殺害事件 <8>
一大事業
今、思春期の子育ては
埼玉県三郷市にある事件の被害者となった女子高生Eさん(17)宅はいまもひっ
そりと静まり、悲しみと苦痛の深さを物語っています。事件発覚から二ヶ月。E
さんの母は、いまも病床に伏せ、家の外に出ることもないといいます。
なぜ救えなかったの思い胸に追跡
一人の少女の命が残虐の限りをつくした暴力によって奪われた今回の事件は、
社会に大きな衝撃を与えました。それは事件の比類ない残虐性とあわせ、事件が
二人のおとなが寝起きしていた同じ家屋の中で起きたということの衝撃でした。
なぜ少女を救えなかったか=Bその思いは多くの人の胸をえぐりました。
それゆえに本紙では、事件現場となった少年C(16)宅の魔の40日間≠フ両親
の対応と子育てから追いました。
連載中、読者のみなさんから寄せられた声には「(Cの両親へ)やや身びいき
なのを感じます。眠れぬ夜をすごしているのは少年たちの親だけではありません
でしょう」(47歳、女性)というご指摘の一方、「弁明の余地のない両親をさら
に追いつめるものではないか」(女性)、「『あのときああしていれば事件は防
げたかも』と、結果論をいうのはたやすいことだ」(31歳、男性)というご意見
もありました。
私たち取材班は、今回のあまりに重大な結果を前にして、なぜこんな事件が起
きてしまったのかということ、同時に二度とこのような事件を生まないための手
掛かりを一端であってもつかみたいと思いました。そして事件の経過のなかには、
たとえ結果論≠ナあってもなお、その対応が適切であったかどうかを問われね
ばならない局面もあると感じました。
取材を通じ、Cが幼いころの両親の子育てには、多忙な共働きのなかでの努力
があったことを知りました。同時に、Cが思春期を迎え、荒れていったときの対
応がか弱いものであったことも感じさせられました。そこに暴力団の手が伸びま
した。教育評論家の小島昌夫さんの「いま、思春期の子どもたちを健やかに育て
ていくことは一大事業です。それをおとなたちが共通の認識にし、力をあわせな
くてはいけないのではないでしょうか」という指摘が思い起こされました。
またCの両親は共産党員でした。職場や地域での共産党員、党支部のあり方に
ついて、されに取材し考えていきたいと思います。
寄せられた声を正面から受けとめ
「二年前、離婚した」という東京・世田谷区の女性は、電話で涙ながらにみず
からの苦しかった子育てを語ってくれました。「私の子も、家のお金を持ち出し
たり万引きをしたり、登校拒否もあった。私自身必死だったし、恥も外聞もなく
新婦人の会の仲間に駆け込んだ。子どもたちが元気で大きくなったら、みんなの
ところを回ってお礼をいいたい」と。また、大阪市の父親(46)からは「私の周囲
にも、思春期の子どもの非行にとことん悩みながら、それを乗り越え、親子とも
ども立ち直っていった人もいる。民主的な活動、共産党の活動にとりくみ、子育
てとも格闘している人の姿も紹介してほしい」という声も寄せられました。ご意
見を正面から受けとめ、「追跡」を続けようと思います。
(おわり)
(女子高生監禁殺人事件取材班)
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