戦後犯罪史再検分

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20御殿山 ◆Pdi7T.x7Zg
『獄中獄外』巻末に林房雄の児玉誉士夫小論が有り、三回発禁処分にて改定している。
きまり文句の愛国書ではない・・
巣鴨でのA級戦犯の人々のホノボノとした生活が垣間見ることが出来る。
笹川良一は率先して雑役を嬉々としてやっていた。
三つ子の魂百まで・・彼は武士の子である。
先祖は代々二本松藩で槍術の指南役をつとめていた。
父は二本松藩の御典医・児玉家から望まれ養子になる。
仙台にて医学の勉強するも学友の中に後年政治家となる後藤新平がいた。
当時は板垣自由党の草創期で医業をすて政界に身を投じる。
この頃の政治家は「井戸べい」で清貧の父が息子に残したものは
釣好きの癖と維新敗戦の側に立った二本松藩士の意地と初期自由党員の
国士的反骨だけであった。郷里から東京に出た後、姉の居る朝鮮京城〜神戸〜
東京・向島の小さな鉄工所で被搾取側の微力な労働者となる。
夜学に通いたいと鉄管配達の夜業を引き受ける。
職場では、すでに小さな労働組合が出来ていた、労働者である以上、左へ行くのが
常道であるが「武士の子の魂」「日本人の心」が押しとどめた。
この選択は正しかった、昭和四年、児玉(18歳)が選んだ右翼は「大日本正義団」や
「赤化防止団」型の既成右翼団体ではなかった。東大教授・上杉慎吉博士、元東京市長・
永田秀次郎、国家社会主義者・津久井竜雄、赤尾敏氏などによる主唱創立の「建国会」
である。隊員になって間もなく昭和4年11月3日に「天皇直訴」で六ヶ月間、下獄する。
出獄したのは昭和五年八月で「昭和動乱」の前夜であった。大川周明と北一輝の国家主義
勢力が出現していた。11月建国会を去り津久井竜雄の「急進愛国党」に入り、翌昭和6年
の春、大川周明の「行地社」を中心にする「全日本愛国者共同闘争協議会」に参加し、その
「青年前衛隊」五十人の中に選ばれた。この中から後に「昭和動乱」の激流の中で活躍する
多くの闘士が生まれる・・・つづく