朝高で学習班に入ってたよ2

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208389
>>207
これを読んで、自分の体験を思い出しています(遠い目。

私は歳の離れた兄三人のあと、ひょっこり生まれた末の妹だったのですが。
そういうと、たいてい世間の方は「それは可愛いがられたでしょう〜」とお決まりの
反応を示すのですが、、まあ、別の意味で大変「可愛がられ」ました(w。

三人ともチョン高では鳴らしたイイ男で、背もデカイし、女にもモテモテで、そんな息子
を持って母もいい気になっていたのと、さらに父もフツーに「朝鮮人的教育」だった
ので、私も容赦なくそういう教育をされました。

ともかく、逆らったら殴る。父には一度足首をつかまれて逆さ吊り@フレアスカート
された事もある(流石に困っていた。ヘリコプター柄のパソツ…)。
母もともかくすぐ殴る。鼻血が出たことは未だに覚えているし。終いには、兄を呼び
つけて、私を懲らしめろと命じ、大男二人に殴る蹴るさせるもしょっちゅうでした。
目にはブルーのアイシャドウ、、ぽっぺた膨れてパンパンのまま学校に逝ったことも
あります(だいたい、高校時代頃まで続きました)。

ようやく私も成人する頃、親も私の意見を聞くようになり、そのことを糾弾したの
ですが、「お前を思っていたからこそ」とか「親に逆らうからだ」という言い訳を
のらりくらりとされるのみでした。

それに私も何でいつも殴られているのかさっぱり解らず、「さあ、謝れ!!」という
段になって「何でこんなことになっているのか教えて」と聞いているんですが、もう
それを聞く、といって更に怒られるんです。逆らうからだ。悪いものは悪い、と。
ともかく謝れというから、(たぶん睨みつけながら)謝ると、「何だその目は!!」
「ちゃんと謝れ!!」と訳わかんない状態でした。

つづく
209389:01/11/29 17:30 ID:X0HI2+0Q
つづき

私は考えました。どう考えれば彼らの行為を納得できるのだろうか、と。
愛情がないのではない、というのも理解できたし(そうした行為が愛情の裏返しだとか)、
私も相当生意気で、中学卒業する頃は、親には殴られたら殴り返す、、ということを
覚え、それを実践もしていたし(w。でもさすがに兄貴には反撃出来なかった…だって
まともにやっても勝ち目無いもん…父親はさすがに娘には手加減するだろう、、と踏んで
いたし)。

で、思ったのは、うちは「封建制家父長制度」に則っていて、私はそれに逆らったという
理由で殴られたのだ、と。
「父」は絶対であり、「兄」は絶対であり、「年長者」が絶対であり、「序列」が絶対
であり…と。

そう考えれば、腹立たしいが我慢はできる。納得は出来る。
私はそういう過程で、育った環境を相対化したのです。


でも、結局そんなのは彼らの詭弁にすぎす、兄も何も情けないものです。嫁が両親に
逆らったって、結局家で尻に敷かれているんだろう、、子供を人質に取られたりしたら
もう男なんて情けないものです。
「今はもうそんな時代じゃない」などとジンマシンでそうなことまでのたまう始末です。

また、夫の両親というのも「ニュー・ファミリー」ていうの?「嫁」じゃないんだって。
「奥さん」なんだってさ。はぁぁぁ〜。

結局、今の「常識」で考えれば、私は「殴られ損」のままです。じゃあ、あれは何だった
んだ…と。ていうか、だったら誤れよ!!!と思うじゃないですか。

で、親は謝ったんです。間違っていた、と。だけど、兄達は謝らない。「そういう環境
だったんだからしょうがないだろ」「今さら何を謝れっていうんだ」「あいつ(=私)の
思い通りにはさせない」。
ていうか、こいつら親にやらされたやった以外に、それに乗じてかなり陰険な折檻を
したんですよね。それを言っているのに、もう意固地?それとも奥様のご意向?
今さら、糞生意気な妹に頭なんか下げれるか!と。こういうことなんだと思いますね。
210389:01/11/29 17:40 ID:cNZIYl3V
結局何が言いたいかというと、、「暴力」というものには必ず思い責任が伴う、と
いうことです。

きちんと「やる」という意思を持ち、最後までその行為に責任を取らなければならない。

後から、「そんな積りじゃなかった」「悪くない」「お前も悪かったじゃないか」「もう
言うな」「うるさい」「ほっとけ」「関ってくれるな」・・・いや、これは私に向けられた
兄達の台詞です。
まるで、日本の「植民地政策」での「蛮行」を指摘されて、ヒステリックになっている人と
姿がダブります。


相手が相手なら(言っても解んない奴)暴力も辞さない、、ということを私は反対
「しません」!!。旦那がゴチャゴチャうるさかったら、容赦なくグーで殴ります。
皿も割ります。屏風も破きます。悪いけど、手加減はしません。

だげ、それをするには覚悟を持って、「暴力行為」自体の負は全面的に私は負います。

だからこそ言いますが、自分(たち)のやった行為には責任を、ともかく誰かが取る
べきだ、ということ。「された」という人たちがいる限りは、それは社会的な立場を
持つ以上必ず必要なことだ、と思います。