僕ってなに?

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79名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/02 00:52 ID:M27TOFra
>>78
>大宮町史の木地師の記載があります。えたひにん、という記事ではない
>ですが、非差別民との判断が見えます。

大宮町史には、「木地師は被差別民」と明記してある訳ですか?
木地師の発祥地は滋賀県の小椋(おぐら)谷であり、このことから木地
師には小椋姓・小倉姓をなのる者が多いのですが、紀勢町出身の私
の同級生は約半数が小倉で、小椋姓も1人いました。
クラスメートの約半数が被差別民というのは、ちょっとショックです‥‥
80名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/02 11:38 ID:Jg00KkdK
瀧原村には、この小椋姓が実際多い。祖神をまつった所が金竜寺
(禅宗)と筒井八幡宮(同、いずれも滋賀県神崎郡)。同郡の君
が畑、蛭谷、箕川等の村民達が鈴鹿峠を渡り鈴鹿山麓藤原、員弁
をへて、更に奥地の奥伊勢宮川峡谷に定住した。木地屋の祖神社
は三重県の北勢地方と当地の大皇神社三社のみである。木地屋は
宮川以南の山の八合目以上を勝手に伐採できる特権を持ったが
(神宮との関わりからか?)、地域住民との争いが絶えなく伐採
資源枯渇に瀕して炭焼き焼き畑農業、養蚕に転業する者もあった
が、大正期には下駄作りが主業とされた。が近代においては戸籍
を有しない漂白民のため兵役は無く差別を受けた集団で、山窩と
呼ばれた時代もあった。現在も木地屋の末裔が宮川本流域の大杉
谷筋等に小倉、小椋、椋、大倉の姓で集落を形成している(小野
姓の滋賀県小椋荘の小野宮は、これが転じたもの。小野氏は猿女
氏の一族で同系統である)
81名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/02 13:47 ID:nt7SkX5t
大宮町は、杉本京大教授の著作を引用しているように思える。
不見識じゃないだろうか?町は。
8279:01/11/02 20:08 ID:97NqC0PF
>>80

情報、サンクスです。

>瀧原村には、この小椋姓が実際多い。

ふむふむ、瀧原は小椋が多いんですね。
木地師発祥の地は滋賀の小椋谷ですから、こちらが元祖でしょう。
そう言えば昔、クラスで1人だけいた小椋姓の子が、「やーい、にせもの
オグラ〜」てからかわれたとき、「こっちの小椋がホンモンなんやでー」
て、言い返してたのを、思い出しました。

>木地屋の祖神社は三重県の北勢地方と当地の大皇神社三社のみである。

子供の頃、良く境内で遊んだ、紀勢町の大皇神社、祭ってあるのは木地師
の祖神・惟喬親王のようですね。
http://www.webmie.or.jp/~kisei-t/annai.html

>大正期には下駄作りが主業とされた。

江戸時代、下駄作りといえば非人の職業だったそうです。(大正ですか
ら断定はできませんが‥‥‥)

>現代においては戸籍を有しない漂白民のため兵役は無く差別を受けた
>集団で、山窩と呼ばれた時代もあった。

サンカと木地師は別物では?(^_^;)
もしサンカなら、非人確定ですが‥‥‥
83名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/02 22:51 ID:TvKcl1v+
>>74
サンコーって何ですか?
84諸君:01/11/03 00:54 ID:KH9WM+me
サンコー=三高です。
8579:01/11/03 15:34 ID:j7D8rQvJ
昔、クラスの女子が、こんなことを話してるのを聞いたことがあります。
A「なぁなぁ、あんた『まむし捕り』ってみたことある?」
B「あるある。気持ち悪かった〜。こ〜んなおっきな袋に、いっぱいまむし入れて‥‥」
A「あれ、嫌らしいよな〜」
B「んでな、『気持ち悪〜』って言うとったら、おばあさんが、『わしらの先祖は、皆なま
むし捕りやったんやで。』って言われた。」
A「あ、その話私も聞いたことある‥‥‥」

AもBも、小倉姓です。
サンカの副業は、まむし捕りだったそうです。
やはり小椋・小倉一族はサンカなんでしょうか!?
86役所:01/11/03 20:17 ID:8qqFxCLo
資料を掲載するから、ちょっと待って。忙しいので。
87名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/04 01:06 ID:dJXEByP0
小椋の椋という字は維新の折、平民は使用できなかったと言う。
京という字が入っているので、恐れ多いとされたとか。
88名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/04 01:10 ID:D0Hqe+cB
>87
そんなことはない
89名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/04 10:27 ID:WK5OH38G
>88
町史に書いてあったよ。
90名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/04 11:49 ID:15NDfboY
カタワ氏ネ
91僕ってあれ:01/11/26 22:36 ID:D3ToAj7A
1>相手と相談して、貴方の気持ちを貫くべきです。もし相手家族がうる
さくいうようなら、その程度の人間(くず)と見下してやって下さい。
どうしても腹が立つのなら相手の素性を調べてみたら。きっと、ぼろが
出ますよ。貴方の場合、その情報だけでは確定できません。
85> 名前だけなら木地師。木地師も蝮を捕ることがあり、サンカも
身分証明証として木地師の免状を持つことがあるようです。そして
そのまま戸籍登録をするからです。例えば田山花袋の『帰国』。
地名や彼らのお付き合いなどを調べないと判断できません。
92名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/26 23:46 ID:sL9z2niD
合掌造りで有名な某県の出身のおばあさんを知っています。
子供時代、マムシを食べさせられたそうで、それがご馳走だったといいます。
その後、京都の七軒に売られて芸妓になり、流れて東京の津守芸者になって
30代には東京・落合の有力者の妾になったそうです。
93僕ってあれ :01/11/27 23:01 ID:34e7BtVx
92>津守芸者は何ですか?
 美濃や三河のサンカは生蛇を食べるとか。蛙と蛇の肉団子もあった
ようです。サンカかどうか分りませんが長良川沿いで食べた人がいる
と、先日聞きました。昭和の20年代に四十万川の発電所に勤めてた
人が2人で生蝮を食べ半分は残した。鼻血がでるからだそうです。
蛇の皮を干している所があれば今でも食べているのでしょう。猪が多
い所は蝮がいます。スタミナがつくのでしょう。
94名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/28 13:49 ID:7H/SB26r
>>91
>木地師も蝮を捕ることがあり、サンカも身分証明証として木地師の免状を持つこと
>があるようです。

なるほど、両者の区別は必ずしも明確とは言えないわけですか。
95名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/28 14:01 ID:JCEJpwEt
新宿・津の守坂の芸者(現在は新宿区荒木町)
摂津の守の屋敷があったそうじゃ。
96僕はこれ:01/11/28 17:10 ID:GsyxUiRZ
94>田山花袋小説『帰国』は東北サンカ、椋鳩十は本人がその系統
であるように山窩調小説で木地師の生態を反映してるのでしょう。
山窩調とは山窩に似てると言う事で、柳田からも話を聞いた田山が
「山窩とすれば流行で儲かるぞ」と考えたのでしょう。が明治政府
は自己の秘密に触れてるので?発禁にしました。読むと両者の違い
が分ります。またサンカの中にも木地師がいたり『鳴けない山鳥
の唄』、木地師もサンカに入ったりしてるよう。前者は多人種で、
後者はもともと百済人(古い伝承や俗には雉です)で江戸時代は
「山ノX合目より上は切りたい放題」の特権で保護されました。
97僕はこれ:01/11/28 17:17 ID:GsyxUiRZ
96>3行目、田山は椋の間違いです。信仰、組織、人間関係、
 特に男女関係、村里との関係などは、両者に違いがあります。
95>津守だけなら港の舟の番人かとも思いました。
 ありがとう。
98名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/28 20:08 ID:oOmKsGPT
あと少しで100だ… ハァハァ
99名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/28 20:49 ID:Py0SrBaz
1>今住んでいるところは同じように、かつて藤堂藩支配でした。
でも、藤堂藩が被差別民をつくったのではありません。地域社会
のなかで、部落問題に関していうならば、差別・被差別の関係に
なってしまったのです。
100名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/28 20:53 ID:Py0SrBaz
T市出身の被差別民とつながりがある
とのことですが、大いに結構なことでは
ないですか。
海沿いの近くでいいところですよ。
それで、差別をしてしまう周囲がいけな
いんだと思います。
101名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/28 22:28 ID:4gJ/LMT1
私は卑しい
102分らない僕:01/11/29 10:49 ID:POgMPBIU
99>藤堂藩が被差別民をつくったのではない
 徳川幕府や藤堂藩が生き延びるために、制度を確立し維持したと
考えてます。あなたの主張の理由を簡単に教えて下さい。
103自治労:01/11/29 11:13 ID:Cej+FW3h
99>はちょっとアホ。
104名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/29 12:01 ID:Wdnp4YwD
藤堂藩から生き延びるために、えた身分をつくる法令は出てはいないでしょう。
105分らない僕:01/11/29 12:49 ID:POgMPBIU
104>文書の有無は学者にまかせましょう。エタ文書は恐らくあるはず。
藤堂藩も徳川幕府に右に習えですから。エタ身分が治安維持機能があっ
たか否かです。文書がないとしても暗黙の法律か、江戸浅草団左衛門の
直轄では?また無足人制度は、経済負担が係らない治安維持として他藩
でもやってたと記憶です。小林一茶、松尾芭蕉などは表稼業俳人の隠し
目付(忍び)は士分でなく、無足人か、郷士のどちらかでしょう。
103>一部?幹部は腐敗。自治労幹部を不信任(首に)して下さい。
106名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/29 12:57 ID:Yod4p4Mw
T市にはエタ親分がいた(いる)そうな。
ついでに、昔の三重県T知事は33回も戸籍を変えたが、県民で彼が
B民であることを知らない者は居なかったとさ。
107名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/29 14:59 ID:G5M/WmkA
105>のような思い込みがこれまで支配的であったように思います。
ちなみに、藤堂藩は団の支配ではありません。
108名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/29 19:30 ID:G7CaQD/w
105>かわた村に治安維持機能があったのはなぜ?背景を
教えてね。
109名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/29 19:43 ID:G7CaQD/w
102>T村の近隣の県の研究では、
県内に存在するかわた村の多くは、
鎌倉期か室町期にすでに存在して
いたことが実証されています。
110名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/29 19:46 ID:G7CaQD/w
藤堂藩支配のかわた村も
多くは、近隣の他の村々
と同様に、江戸時代以前
から存在していたと考え
られているのです。
111名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/29 21:58 ID:M05ywj8B
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112名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/29 22:00 ID:XDT82lIf
今、テレビ東京で映画がやってます
113僕ってあれ:01/11/30 00:46 ID:IwKFC1ob
108,109>部落史を勉強してないので良く分りませんが革作りは侍共の
武具として重要ですから、室町辺りから保護し、城下に住ませ特権を
与えたようです。が革しか作ってはならぬ、他へ勝手に売ってはなら
ぬ(一色というそうです)事があったようです。江戸時代は特権を与
える代りに十手や刀、槍を持たせて治安維持に当らせたとあります。
 最大で太鼓一個で5千万円とかで、今でも太鼓屋は儲かります。
革関係でも階層があり、上は大金持(販売)ですが下(製作)は惨め
でした。107>藤堂藩が団の配下でなく、藩内のエタが配下では?。
114じょにー個別にたってともにうて ◆iVSxGs0w :01/11/30 01:35 ID:woj9DIUB
勧進と御用だね。>>113
関八州えた頭弾左衛門と言われるくらいだから
藤堂藩城下えたにも影響があったのかは疑問だね。
浅草は車善七、これは弾左衛門直轄の勧進場を安堵された。

代々木久兵衛、品川松右衛門、深川善三郎
これらは皆 弾左衛門支配下のえた小頭支配の勧進場を
安堵された。太鼓 これは吉凶勧進の際に用いられた
商売道具でもあるね。
115じょにー個別にたってともにうて ◆iVSxGs0w :01/11/30 01:39 ID:woj9DIUB
追記 >>114の4氏は江戸四ヶ所の非人頭。
116名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/30 05:37 ID:jHqc2i+d
もう聞きたくない!
117名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/30 11:22 ID:IfriBb28
113>記述不十分でした。関西のかわた村は、結構独立して
ネットワークを組み、けっこう連携をもっています。
118僕ってあれ:01/11/30 14:42 ID:OtocwTpd
114>藤堂藩のエタはどこに隷属したのでしょうか?
江戸末期に団左衛門は安芸(広島)横川の河野家から養子を入れ
後継ぎにしたとありましたが。河野は海賊の末裔でしょうか?
117>大坂渡辺村年寄が元締めでしょう。地方へ移動して庄屋に
なったケース(高知)もあり、江戸時代末期に大坂城定番に
なった者もいます。雑業のほかに、隠し目付(家紋から推定)
や横目付の配下で、忍者、目明や同心になったように推測します。
119じょにー個別にたってともにうて ◆iVSxGs0w :01/11/30 14:55 ID:qMKRn9mJ
藤堂のことは勉強不足ですが、その箇所のえた職場権域が株化
していたのかどうかで支配する側の力の入れ方も変わりますね。

下段のカキコは御用(警吏)の職場のことですね。
大阪4ヶ所垣内仲間では特に盗賊方とのパイプが太く
諸事問題については盗賊方に直接具申するような
ケースもあったのだと非田院文書に記される史実。
非田院とは四天王寺に相対する天王寺のこと。
120名無しさん@お腹いっぱい。:01/11/30 21:42 ID:EHYn7Ens
118>関東の事例は勉強不足なのでよくわかりませんが、
藤堂藩のかわた村をひとくくりにして、帰属を聞いても
そういう実態がないので、答えようがありません。
むしろ、その土地のかわた村の歴史は藤堂藩が入部する
より古いと考えられているのですから.
121僕ってそれ:01/12/01 11:41 ID:Far1Rit/
119>株化するのは雪田株・萱場株など利益がでるビジネス関連で、尾行
・盗聴・検察・訊問・拷問・逮捕・留置・処刑を好き好んでやる人は
いないでしょうから、いくら袖の下が入っても株化しないのでは?。
江戸時代の番太の警察・公安調査庁・機動隊的な役割が、民衆の反感・
憎悪を積み残した事が、今にも続く部落差別の重大要因と推測します。
現在でも点数稼の鼠取が民の反感と憎悪を呼び、警察内部の罪状隠し
がそれを増幅してます。それを根本反省せず「職務に精励」(鼠取を
厳しくなど)は国民を愚弄です。江戸時代の腐敗と同じでしょうか?
 部落史学屋はこの辺りを徹底的に解明しないのが不思議ですが。
122名無しさん@お腹いっぱい。:01/12/01 13:50 ID:YcRyaJ6D
株の発祥は伊勢国ってことは知ってるよね?
藤堂ではなく神宮領内、ここは公界ですんでね。
藤堂は神宮を擁する役目をもった藩。歴史学的に藤堂を思うと、
家康の一の子分でありながら、汚れ役を一手に引き入れている。
神宮お陰参りで、伊勢街道の庶民は無銭の旅人を救済したという。
123僕ってそこ:01/12/01 19:09 ID:u45n0hyC
132>そうですか、知らなかった。ありがとう。
 事情を教えて下さい。
124kekare:01/12/02 00:16 ID:qlHU+ygZ
フランス語で、ケ カレ というのは、
これ食べるって意味。
125名無しさん@お腹いっぱい。:01/12/02 21:30 ID:WT8dPo+O
121>どうも、2001年に続く部落差別の要因としては、
枠組みが違うように思われるのですが???
126僕ってそれ :01/12/04 18:08 ID:2FIx3zkI
125>確かに枠組みが違います。人権・平等の観点ではない観点も必要と
いうことです。人権という観念や用語がなかった歴史、また制度的なもの
です。これが差別解消のためにも大切でしょう。
127酒飲みになっていた:01/12/04 20:44 ID:m8qaEpiJ
素朴でばかーな質問すんね。

 ・浅草弾左衛門とかいうけど、左衛門と右衛門って何か特徴的な名前なの?
 ・播隋院長平、安濃津の長五郎、清水の次郎長、長って何か特徴的な名前なの?

 
128僕ってそこ
127>明治の初期までは職業や身分を表し、左衛門と右衛門は村では
身分の高い者や大商人で、左衛門が付けば本家筋、右衛門は分家筋に
多かった。吉・松・助・郎や数字のつく者は身分の低い者に多かった
と宮本常一は書いています。江戸時代は医者は賎民ですが、ゲンを付
けていました。杉田玄白、平賀源内は有名です。老舗の商店などは
商号の紋で、本家と分家が今でも分ります。