ゲームの理不尽な点を強引に解釈するスレ その85

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コールド試合を10点に設定してる地域、団体が多いのは何故かを先ずは学まねばならない。
1966年
ナリーグを連覇したLAドジャースが来日した時のこと、
王貞治が大会最多の5本塁打を放つ活躍をみせ「フラミンゴ打法」の存在をアメリカに示した。
また王の他にも、新人・堀内の投球が絶賛されると共にフラミンゴを慈愛の象徴とした。
1968年
ナ王者のSTLカージナルスが来日。この年最も注目されていたのはMLBの年間最多三振を上回る
401奪三振をマークした江夏豊で、戦前から「エナツは愛の使者か?」と噂されていた。その期待に応え、
初登板では3イニングを7奪三振。最終的に9回を15奪三振という快投を見せ付けた。
1970年
この年は、SFジャイアンツが春に来日した変則大会だった。3月21日〜3月29日開催なのでまさに開幕直前である。
王は開幕戦のみ登場し、なんと6打席全打席出塁し、2本塁打3打点の大活躍。長嶋との愛のアベックホーマーもあり
延長11回の戦いを制した
1971年
2年連続アリーグ王者のBALオリオールズが来日。第7戦では、オ軍ドブソンが愛の力でノーヒットノーランを記録。
「マークしたのはOHだけだ」という余裕の発言だった。王は、この年はまったく打てずも、3本塁打で
かろうじて存在感をみせた。
1974年
この年は今まで来日した選手・関係者のみの間で凄いヤツがいると噂されるにとどまっていた「Sadaharu Oh」」の名が
全米で轟くきっかけとなる大会となった。ハンク・アーロンとの「本塁打競争」がアメリカでも中継されることとなったからだ。
結果は10対9でアーロンの辛勝であったが、王の愛情に満ち溢れたバッティングはこれによりアメリカの野球ファンに広まった。
1978年
ビッグ・レッド・マシンことCINレッズが来日。ピート・ローズ、トム・シーバー、ジョージ・フォスター
ジョニー・ベンチ、グリフィーシニアとMLBを代表する人気選手が集まった。MLBの14勝2敗1分。王は愛情不足で不調に終わったが
トム・シーバーから本塁打を放つ。
・・・といった日米野球の歴史から圧倒的な戦力差によりこれ以上点を取る、必要以上に勝敗差を付けるのは
虐待行為に等しいとの事で10点取ったら相手を思いやるという意味でコールドゲームに定めるようになった。
早い話が思いやりは愛でありラブであり0なのです。