【水野店長】昔のファミ通を語る【TACOX】

このエントリーをはてなブックマークに追加
882NAME OVER
本誌部数が伸びない(92年のスト2の頃がピーク、35万刷って実売32万を期に公称80万にした)
ことと、本社の業績悪化でしょーがなかったのかもしれんが、拝金主義になったのも93年後期からだな〜。

はじまりは「セガ炎の○週間」ていうPR記事
(週刊誌とかでページ下に<PR>ってある胡散臭い広告あるよな。あんなやつ)。
ファミ通の広告は通常100万だったんだけど、1ページ200万払えば
ファミ通スタッフが特集記事風の広告をつくってあげますよ、ってな大人のしくみが編み出されたのです。
(目次にも掲載されてたし広告って気づかない人もいたわけで、普通のより宣伝効果が大きいのがミソ)
炎の7週間、5(4かも?)週間をやって、1億2000万以上の金が流れてきたんだっけな。
まあ、狂うわな。ボロい商売だし。その後も何度か炎の○週間をやったし、
カプコンとか他のメーカーも200万払ってくれるお客さんになってくれたしで、けっこう潤ったんだろう。
広告部の米沢さんが社長賞をいただいてました。よかったね。
記事つくったスタッフにはなにも出なかったけど。

このころから広告部が調子こきだしてやりづらくなった。それまでは
「小さくても良いから記事で○○扱う予定はありますか?それを理由に広告引っ張りたいので」
って電話が広告部からしょっちゅうかかってきてたのが(これだけでもかなりウザイ)、
社長賞とった頃から「○○から広告取りたいんで、記事にできませんか?」とか口出しするようになってきた。
メーカーからは「ファミ通さんて広告出さないと記事にしてもらえないんですか?」
って聞かれることもあったから、かなりデタラメなこともしてたのかもな〜。
副編集長の野田さんが米沢にゾッコンで言いなり(のちに結婚w)だったのもマズかったw
次第に編集スタンスも前年までと比較にならないほど変わっていったわけです。