>>946 勿論、夕霧の才能は認めている、その上での話だよ。
ただ、史実でも馬鹿息子と言われながらも大臣になった人はいるし、
才能があっても従六位のままの人だっていた。
文句があっても、当時の源氏に異議を唱えられる人はいないと思うしね。
少し前に大宮の話題が出ていたけど大宮は数ある孫の公達の中でも
夕霧にだけ御簾の内に入るのを許していたんだね。
最高級の皇女である大宮の愛情を一身に受けた夕霧と違い
柏木があんなにせめて女御腹の皇女をと願ったのは
そういう面での焦燥感もあったんだろうな。
原文には源氏須磨帰り後の澪標巻で左大臣の年は63歳と書かれてるんだよね
逆算していくと葵は左大臣が数え年31歳の時に生まれた子になるから、
左大臣は30歳前には大宮と結婚してたみたい
大宮との結婚時の官位は不明だけど、右大臣より出世が早かったのは確かだと思う
>>953 大宮にとって、夕霧は特別だったからね。
息子の子より娘の子を可愛がる人は今でも多いし、それが忘れ形見とあってはね。
でも、柏木の焦燥感という考え方も面白いね。
大宮に可愛がられるのもあったかもしれないし、母方の勢力が弱くなっていく事への
焦燥感の方がより強そうな気もする。
出世には母方の勢力も重要だし、朱雀が退位して以来、右大臣一族は政治の中枢から遠ざかったから。
右大臣の方が左大臣よりかなり年上だよね?
あさきゆめみし
柏木の弟である紅梅と夕霧の年齢差は4、5歳紅梅の方が年上みたい。
柏木と紅梅は年子ってことだね。
>>956 右大臣の年齢ははっきり書かれてないけど、源氏誕生時に
弘徽殿女御は源氏より三歳上の朱雀を生んだ右大臣の娘として紹介されている
官位は普通右→左の順で上がるから、この時35歳の左大臣は既に左大臣職についてるはず
仮に弘徽殿がちい姫並みに12歳で朱雀出産し、右大臣が今上並みに13歳で弘徽殿を
産ませたなら右大臣は28歳位って事も考えられる…
けど左大臣と右大臣は同年代くらいの方が自然な気がする
ごめん訂正
×右大臣が今上並みに13歳で弘徽殿を産ませたなら右大臣は28歳位
○右大臣が今上並みに14歳で弘徽殿を産ませたなら右大臣は29歳位
いろいろぐぐってみたけど、左大臣の方が右大臣よりずっと若いらしい
帝の覚えも目出度く若くして最高位に上る家柄(藤原氏嫡流)であったことは想像に難くない
桐壺帝の信頼の厚さ、あのおっとりとした性格からも生まれの良さが出ているよね
右大臣はその性格からも
新興勢力の成り上がりのニオイがする…
あさきの左大臣、若かりし頃は息子の頭中将よりも
物静かで、しっとりと清潔な色気を放ってた感じがする。(数コマしかアップはないけど)
源氏誕生後は桐壺帝が髭を蓄えたのを機に、自分もお揃いにしてたのが面白い。
>>962 明石入道の父大臣は何らかの政治的な事件で失脚。
右大臣一派に陥れられた?明石入道の父を追い落として大臣に昇進?
という具合に右大臣が成り上がりなら、娘達全員が同母っぽい(つまり早世ではない)
のに母に関する描写がないのも身分が低いから?って納得がいく。
あれだけ栄えてる一族なのに正室に関する記述がないのも不自然に感じてたから。
>>953 夕霧への嫉妬じゃないと思う
柏木はあんまり頭良くなさそうだし勉強をしてる姿ないし
夕霧に関係なく最高級の妻が欲しかっただけ
ただ身分だけが高いからいいというだけでなく
帝から寵愛されてるという点も重要だろう
朱雀に中宮がいてそこからの姫がいたとしても
朱雀が可愛がっていなかったら誰も求婚しなかったろう
柏木は身分高く評判の姫を貰いたかっただけ
つまり単なるミーハー
>>953 >>955 大宮は息子の頭中将より娘の子、夕霧を一番に溺愛していたしなw
大宮薨去の時は、頭中将より柏木の方が悲しんだことからも
柏木が祖母であり内親王である大宮に憧憬の念を抱いていたことがわかる。
柏木はいつも、感情と理性の間で苦闘しているよねw
家族だけでなく、ちょっと声をかけられたような人でもその死を嘆いているから、基本は情深い男だったと思う。
>>966 母親のいない夕霧を柏木より可愛がってたとかいう人わからない
両親揃って何不自由なく暮らす長男の子の方可愛がる方が大宮の人柄疑われるし
大宮は贔屓をするような人でないし
娘葵が生きていたら出過ぎずに後方支援に回っただろうし
母親が最初からいないし、父親は遊んでばかりで滅多に顔見せないし
むしろグレたかもしれないのは寂しかった夕霧の方でしょうに
両親揃っている上に両親から溺愛されて育った柏木見て育ったわけだから
柏木ヲタは柏木甘やかしにもほどがあるw
この時代は娘が家を継ぐから、娘が産んだ孫が可愛いのは普通のことだよ
そもそも大宮と柏木は、一緒に暮してないんだから、エコヒイキも何もない
>>968 「柏木より」ではなく「息子の頭中将より」だよ
でもね、これは仕方のないことだと思うよ
私有財産は娘が継ぐけど、公の地位は男系で継ぐんだよね。
中納言藤原兼輔の娘桑子は醍醐天皇の更衣として入内した後
母方祖父の藤原定方は大臣に昇進したけど更衣のままだったし。
(つまり母方祖父が大臣になってもその恩恵には与れない)
源氏物語では藤大納言(右大臣の息子)や頭の中将の娘は祖父のおかげで女御になれたのに。
>>937 一条御息所が受領の娘なんて原作にないよ
受領なのは甥っ子の大和守
明石入道や右大臣家の跡取りみればわかるように
大臣家の嫡男でも受領になるケースは多々あるから
甥の身分で彼女が受領の娘なんて断定できない
むしろ娘を入内させることができたんだから
父親の代は公卿だった可能性のほうが高いよ
>>953 夕霧自身を溺愛してたってこともあったろうけど
同じ孫でも完全に臣下の柏木じゃ
皇女の大宮が御簾の内ゆるさないのはしょうがないね
(浮舟母が宮家に認知されてない娘でも
弟といえど顔は見せなかったのと同じで)
夕霧は臣籍降下したとはいえ皇子の息子で元皇族だから
その点もかなり関係あると思う
むしろ大臣の息子で受領にならず公卿のままでいられたひとのほうが
確率的にはずっと少ないしね
他の大臣家蹴落として権力維持している家の
正妻腹の長男か次男くらいしか大臣にはなれないのが実情だもん
>>973 夕霧は幼少のころから大宮の手元にいたから
御簾内に入れただけでしょうよ・・・
大宮は、成人後は、実の息子である頭中将すら物ごしの対面だ。
「乙女」で雲居雁のことについて語る頭中将に対して、
大宮は我が子とはいえ立派すぎて気の引ける方なので、という理由から
几帳を隔てて対面している。
柏木は幼少のころは大宮の手元ではなく母右大臣四の君のもとにいたのだし、
成人してからは祖母に会いに行くこともあったかもしれないが、
なにも嫡孫柏木の位が低いから孫を御簾内に入れなかったわけではないということ。
>>966 大宮は我が娘葵が夕霧の誕生と引き換えに命を落としたために
葵の生まれ変わりだと思って可愛がってたからでしょ。
息子の頭中将は大宮より長生きしているのだから、
どうしても早世した娘を不憫がる気持ちから夕霧に愛情を注いだだけ。
大宮だって、左大臣一家としては嫡孫の柏木を盛りたてる気持ちに変わりはない。
夕霧は元服後は父源氏に返したしね。
ときどき遊びに来る程度。
大宮ってあさきを読む限りでは内親王とは思えない気さくな人柄で
頭中将の人柄はここから来たのかな、と思った
夕霧は大宮が一人で暮らす三条邸へはしょっちゅう顔を出していたよ。
大宮もとても楽しみにしていたし、息子の頭の中将より優しく接してくれる夕霧は特別な存在。
葵の一粒種を赤ん坊の頃から引き取って面倒をみているのだから。
勿論、柏木だって一人息子の嫡男だし可愛いに決まっている。
臣下だから云々というのはまったく見当違い。
左大臣と大宮は二人とも温厚な性格で人柄が良く最高権力者なのに
そういった素振りを見せない所が好感持てる
源氏に対してもとても良い義父母だった
夕霧と頭中将の息子たちってすごく仲が良くて微笑ましい。
年がそんなに近いという訳でも無いけど、本当に馬が合うとい感じで。
いとこ同士といってもライバル関係だけが前面に出される時代としては珍しいんじゃないかな。
雲居の雁=DQN
源氏と頭中将のいとこ同士も当初は仲が良かった。
須磨に行ったあたりとか。
お互いの娘&養女を入内させたあたりからライバル関係に入った。
紅梅も夕霧が長女を入内させている東宮に自分の長女を入内させたし、
柏木も当然生きていれば自分の娘or養女を入内させただろうから
ライバル関係になるのは時間の問題だったかも。
宇治十帖の夕霧と紅梅もライバル関係に入ったのかな
薫と匂宮は権力争いとか関係なくライバルっぽい
左大臣と大宮はあんなに素敵な人柄なのに葵を権高く育てたのが不思議
結局帝に差し出すのは止めたけどあのまま帝のとこ行ってたら弘き殿大后
みたいになってたかも
後宮は女の戦場だから強くないと生き残れない。
例→桐壺更衣
ほんわりした朱雀に、実は可愛い所あるけど表面はきつめの葵、組み合わせとしてはいいかも。
あと葵が源氏につんけんしてたのは若すぎる夫への意地から入っちゃったからの様な気がする
(あさき限定)
>>984 それはないだろw
生まれた時から東宮妃になるべく深層の姫として育てられたゆえの誇り高さであれが普通
弘徽殿大后みたいな意地悪さはないよ
葵は源氏に対してツンデレだっただけで、誰かに意地悪をしたとかはないもんな。
女房も可愛がっていたし
>>973 受領だって地方の役人だし紫式部だって受領の娘か嫁でしょ
和泉式部も最後の夫は受領だったし
決してそれほど低い身分ではなかったろうけど
一条御息所は最初から家族に恵まれてないとかかも
亡くなった時点で親兄弟はすべく死に、残っているのは兄弟の子の甥っ子だけだし
もし娘の宮に先立たれていたら帰る家なかったね
実際更衣たちって帝が死んだり出家したりしたあと
頼る家族がない場合は困っただろうな
出家も出来ずに僅かばかりの金貰って市井に身を隠し長屋あたりで人しれず暮らして朽ち果てたとかかも
>>987 ホントにそうだね 夕霧生んで死んだ時も女房は(あのおやさしいお方様)がって泣いてからね
>>988 紫式部のお父さんの藤原為時は受領。で、その為時の生母は大臣の娘。
大臣になれる人はごく一部なわけだから、大臣や納言の息子や孫でも受領ってのは
珍しくないんだろうね。
だから八の宮の「身分高い正室」の姪(浮舟の母)が「身分低い女」って蔑まれるような
図式がなりたつんだろうね。
一口に姪といっても自分のどの兄弟姉妹の娘で、かつもう片方の親が誰かによって全然違うよね
雲居の雁も玉鬘も近江の君も葵にとっては姪だし
浮舟だって源氏からみれば姪の一人だし
八の宮正妻と浮舟母は葵と近江の君くらいのおば姪関係だったのかも
>>986 そこが弘徽殿大后と違い、葵上の血筋の高貴さ育ちの良いところだよね。
背負っている皮を剥がすと可愛らしくてたまらないだろうな。
>>990 スレやあさき等を読んでいると大臣は沢山いそうなんだけど、
実際は三角形の頂点で就ける人は極々わずかなんだよね。
>>977 大宮の姉妹宮、朝顔に結婚すすめてたね
大宮の親が気さくで現実的思考のひとだったかも
>>993 朝顔は大宮の姉妹ではなくて姪にあたる姫君だよ
桐壺帝・大宮とは別腹のきょうだいの桃園式部卿宮の娘
桃園とは同腹じゃなかった?腹違い?
大宮と桃園は腹違い
大宮と同母は桐壺帝・先東宮(六条の夫)だけ
桃園と同母の女五宮はのちに姪の朝顔と同居したけど
葵・大宮の存命中は異母姉大宮が気の毒なので結婚を勧められなかったけど
両者がすでに没したいまなら源氏と朝顔が結婚して何の不都合もないと勧めてた
あさきの中の君がふっくらしていったのは、妊娠のせいもあるだろうけど
貧しい宇治の暮らしから匂宮に引き取られて、食生活も裕福になったからかな
とふと思った。
原文にそんな記述がなかったのなら、大和さんすごいな
自分は、初登場の中君の唇が色が塗っていなかったのが、少女性の強調なのか、
キャラが定まっていなかったのか、それとも塗り忘れなのか、気になるw
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