たしかに「幸や不幸ではかりしれない」厳粛な人生の意味は
誰がなんといおうと存在するものであるのかもしれない
私たちが、今生きて、ここに在ること
存在するということ
何かの手段ではない、ただただ厳粛で純粋な意味だけがそこにはある、のかもしれない
私たちはそれぞれがどれだけ不幸でも幸福でも
オリンピック選手でもニートでも
アラブの石油王でも借金まみれの工場労働者でも
みんな生まれてきて、そしてまもなく平等に死ぬ
生は何かの手段ではない、それ自体に意味がある
のだろうけども
そのようなことを「悟れる」ということは
ほとんどの場合、世俗的で偶発的な「幸福」を前提にしている、ということだ
果たして仏陀は貴族の大金持ちの子息として誕生してこなかったら
あのような悟りの境地に達することができたであろうか
いや、そもそもそのような時間的・精神的余裕があったかどうか
たまたま偶然「大金持ち」として生まれた。だから仏教と言う思想が生まれた。
幸江の場合も同じだ
たまたまイサオという男に出会った
悟りの境地に至ることのできたキッカケは間違いなく偶発的な「幸福」であったはずなのに
「幸や不幸ではからない」とはどういうことか
何がしかの欺瞞を含んでいると感じるのは私だけだろうか