俺達の右腕は最強の剣だ。「まんが道」スレッド1

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279愛蔵版名無しさん
下で、ビフテキですか?

手塚治虫87年、「トキワ荘青春物語」

加藤謙一氏と私

「漫画少年」と私、というより学童社と私、
いや、加藤謙一氏・宏泰氏父子と私、という標題で
話を進めた方がよさそうだ。
加藤氏が私の名を耳にされたのは、
どうやら読者からの投書によってらしい。
私がどういう素性の、どこに住んでいる人間なのか
皆目わからなかったそうである。
280愛蔵版名無しさん:03/02/19 13:53 ID:???

一方、私の側も、
初めて訪ねた学童社の奥から現れた
小柄で精悍な編集長が、まさか、
「少年倶楽部」「キング」や
吉川英治氏、田河水泡氏などを育て上げた
講談社の名主幹であることは
露ほども知らなかったのである。
281愛蔵版名無しさん:03/02/19 13:55 ID:???
、、、しんどい
もっとおもしろいヤツにしとこう

トキワ荘前史 手塚治虫

色んな本や番組で、
ぼくがトキワ荘時代に新漫画党の人たちと
共同生活をしたかのようにいわれて
誤解を生んでいるらしい。
たしかに「漫画少年」という雑誌を通じて
新漫画党のひとりひとりとは
たのしくおつきあいをしていたのだが、
当のトキワ荘では、
ぼくが住んでいた当時はテラさんこと寺田ヒロオ氏
しかおられなかったのである。

藤子不二雄氏はぼくの後3人目の居住者となり、
その他の人々は、もっと後になって入った。
だから、一般にトキワ荘史として
語られるなかにぼくは入っていない。
いうなればぼくはトキワ荘「前史」的な存在なのである。
前史として書けるのは、まず、なぜ「漫画少年」がトキワ荘なる
場所を選び出したかということだろう。
282愛蔵版名無しさん:03/02/19 13:55 ID:???
「漫画少年」のオフィスのあった飯田橋と、
トキワ荘のあった西武鉄道の椎名町とは
決して近い距離とはいえない。
ここを見つけてきたのは、「漫画少年」の高橋さんである。
そしてここをぼくの定住先として選んだのには訳がある。

ぼくは、上京してもこれと決まった住まいがなく、
転々と旅館から旅館へ流れて歩いていた。
そのための出費も大きいし、編集者としては
何よりも連絡がとりにくいのに大いに弱り果てた。
そこで、「漫画少年」が最初に紹介してくれたのが
四谷二丁目の八百屋の二階であった。
六畳間の下宿だったが、間もなく、ここも出ることになった。
なにしろ夜っぴてつめかけている編集者が騒ぐので
八百屋は大恐慌をきたしたわけだ。
283愛蔵版名無しさん:03/02/19 13:57 ID:???
そこで、完全なプライバシー空間が得られる
アパートを探してもらうことになった。
そしてどうせ住むのなら、西武線の沿線がよいという
条件を出した。
なぜかというに、この沿線には当時の児童漫画の巨匠
である島田啓三氏の住まわれる桜台があったからである。

当時の西武線は桜台あたりまでが
やっと都会のスペースに入り、そこから先は、
文字通り田園一色の農村地帯であった。
中村橋あたりは駅をおりたあたりにもう田圃が広がり、
北は大根畠で、菜の花も咲いていた。
その一つ次の駅の富士見台に住んでいる福井英一氏などは
もう遙かな遠隔の住人だったのである。

といっても、
この沿線には都内でも珍しく大勢の漫画家がいた。
東長崎には山口あきら、茨木啓一、さらにその先には
後に馬場のぼる氏が引っ越してき、しかも当時大手の
アニメ会社である村田安司氏の村田映画も
この沿線にあった。
284愛蔵版名無しさん:03/02/19 13:58 ID:???
トキワ荘へ、はじめて行ったのは夏か秋だったと思う。
「漫画少年」編集部の加藤宏泰氏がいっしょだった。
目白通りをずっと行って椎名町の交叉点をすぎると、
もう辺りはほとんど畑で、
夜には降るような星が見えた。
車など滅多に通らず、道ばたにはこおろぎの声がさざめいて
いた。当のトキワ荘は空き地のおくにあって、その第一印象は
ずいぶん静かなところにあるなということだった。
のちの街並みからは想像もつかない時代だ。

(中略)

印象に残っているのは、押入のふすまの紙のデザインである。
丸っこい供奴が無数に踊っている奇妙な絵柄で、
ぼくはそれが奴だということを毎晩しげしげと眺めていて
やっとわかったのだった。
285愛蔵版名無しさん:03/02/19 13:58 ID:???
入居したといっても、
ぼくの生活は相も変わらず旅館住まいがほとんどで、
部屋には一週間に一度か二度帰るだけであり、
しかも月の半分は大阪に戻っていたのだから、
こんな無駄なスペースはなかったわけだ。

それでもトキワ荘で仕事をするときには部屋の中に
二,三人も編集者が詰めかけ、一晩中大喧嘩を
しながら待っていた。
この当時は週刊誌などはなかったから、
月刊誌がひととおりすむと月末はマンガ家にとって
天国のような一週間であった。
そこで西武線の住人漫画家たちは、こぞって盛り場へ出かけた。
盛り場は決まって池袋だった。
まだ赤線地帯や闇市の名残があったころのことである。
そこへみんな集まって飲んだくれ、赤線を冷やかして歩いた。

池袋東口にホワイトベアーという
こぢんまりしたキッチンがあって
そこでぼくは来月号の執筆順を
編集者と一緒に決めながらめしを食べた。
その店の名物はバナナ入りカレーライスという珍品だった。
普通のカレーを甘くして
スライスしたバナナを混ぜてあるというしろもので
まともなカレーを食べ慣れている人間ならみんな敬遠する。
286愛蔵版名無しさん:03/02/19 13:59 ID:???
「まんが道」の本に、
藤子氏をこのホワイトベアーに
ぼくが招待したことが描かれてあるが、
そのとき藤子氏にバナナカレーライスを食べさせ
たかどうかは残念ながら記憶にない。

寺田ヒロオ氏はぼくより一年ほど遅れて入居したのだが、
先述したようにぼく自身ほとんど部屋にいなかったのだから、
彼と顔を会わすことはめったになかった。
彼の部屋へは二,三度お邪魔した記憶があるが、
一度、本を借りにいったときのことは、
はっきり覚えている。
確か動物のデッサン集かなにかだったように思う。
その時、寺田ヒロオ氏の部屋が実に整頓され、
こざっっぱりしていて、調度品も揃い、
いかにも住み心地がよさそうで、
ぼくの雑然とした部屋と比べてみて
なんともうらやましかったのをおぼえている。

「トキワ荘前史」は、まあ以上のようなものである。
新漫画党の顔がそろったころ、
ぼくは既に引っ越して雑司ヶ谷のアパートにいた。
何度かトキワ荘に遊びに行ったが
たいてい裏階段を上っていった。
この裏階段は
ぼくがトキワ荘を去った後つくられたものである。