下で、ビフテキですか?
手塚治虫87年、「トキワ荘青春物語」
加藤謙一氏と私
「漫画少年」と私、というより学童社と私、
いや、加藤謙一氏・宏泰氏父子と私、という標題で
話を進めた方がよさそうだ。
加藤氏が私の名を耳にされたのは、
どうやら読者からの投書によってらしい。
私がどういう素性の、どこに住んでいる人間なのか
皆目わからなかったそうである。
一方、私の側も、
初めて訪ねた学童社の奥から現れた
小柄で精悍な編集長が、まさか、
「少年倶楽部」「キング」や
吉川英治氏、田河水泡氏などを育て上げた
講談社の名主幹であることは
露ほども知らなかったのである。
、、、しんどい
もっとおもしろいヤツにしとこう
トキワ荘前史 手塚治虫
色んな本や番組で、
ぼくがトキワ荘時代に新漫画党の人たちと
共同生活をしたかのようにいわれて
誤解を生んでいるらしい。
たしかに「漫画少年」という雑誌を通じて
新漫画党のひとりひとりとは
たのしくおつきあいをしていたのだが、
当のトキワ荘では、
ぼくが住んでいた当時はテラさんこと寺田ヒロオ氏
しかおられなかったのである。
藤子不二雄氏はぼくの後3人目の居住者となり、
その他の人々は、もっと後になって入った。
だから、一般にトキワ荘史として
語られるなかにぼくは入っていない。
いうなればぼくはトキワ荘「前史」的な存在なのである。
前史として書けるのは、まず、なぜ「漫画少年」がトキワ荘なる
場所を選び出したかということだろう。
「漫画少年」のオフィスのあった飯田橋と、
トキワ荘のあった西武鉄道の椎名町とは
決して近い距離とはいえない。
ここを見つけてきたのは、「漫画少年」の高橋さんである。
そしてここをぼくの定住先として選んだのには訳がある。
ぼくは、上京してもこれと決まった住まいがなく、
転々と旅館から旅館へ流れて歩いていた。
そのための出費も大きいし、編集者としては
何よりも連絡がとりにくいのに大いに弱り果てた。
そこで、「漫画少年」が最初に紹介してくれたのが
四谷二丁目の八百屋の二階であった。
六畳間の下宿だったが、間もなく、ここも出ることになった。
なにしろ夜っぴてつめかけている編集者が騒ぐので
八百屋は大恐慌をきたしたわけだ。
そこで、完全なプライバシー空間が得られる
アパートを探してもらうことになった。
そしてどうせ住むのなら、西武線の沿線がよいという
条件を出した。
なぜかというに、この沿線には当時の児童漫画の巨匠
である島田啓三氏の住まわれる桜台があったからである。
当時の西武線は桜台あたりまでが
やっと都会のスペースに入り、そこから先は、
文字通り田園一色の農村地帯であった。
中村橋あたりは駅をおりたあたりにもう田圃が広がり、
北は大根畠で、菜の花も咲いていた。
その一つ次の駅の富士見台に住んでいる福井英一氏などは
もう遙かな遠隔の住人だったのである。
といっても、
この沿線には都内でも珍しく大勢の漫画家がいた。
東長崎には山口あきら、茨木啓一、さらにその先には
後に馬場のぼる氏が引っ越してき、しかも当時大手の
アニメ会社である村田安司氏の村田映画も
この沿線にあった。
トキワ荘へ、はじめて行ったのは夏か秋だったと思う。
「漫画少年」編集部の加藤宏泰氏がいっしょだった。
目白通りをずっと行って椎名町の交叉点をすぎると、
もう辺りはほとんど畑で、
夜には降るような星が見えた。
車など滅多に通らず、道ばたにはこおろぎの声がさざめいて
いた。当のトキワ荘は空き地のおくにあって、その第一印象は
ずいぶん静かなところにあるなということだった。
のちの街並みからは想像もつかない時代だ。
(中略)
印象に残っているのは、押入のふすまの紙のデザインである。
丸っこい供奴が無数に踊っている奇妙な絵柄で、
ぼくはそれが奴だということを毎晩しげしげと眺めていて
やっとわかったのだった。
入居したといっても、
ぼくの生活は相も変わらず旅館住まいがほとんどで、
部屋には一週間に一度か二度帰るだけであり、
しかも月の半分は大阪に戻っていたのだから、
こんな無駄なスペースはなかったわけだ。
それでもトキワ荘で仕事をするときには部屋の中に
二,三人も編集者が詰めかけ、一晩中大喧嘩を
しながら待っていた。
この当時は週刊誌などはなかったから、
月刊誌がひととおりすむと月末はマンガ家にとって
天国のような一週間であった。
そこで西武線の住人漫画家たちは、こぞって盛り場へ出かけた。
盛り場は決まって池袋だった。
まだ赤線地帯や闇市の名残があったころのことである。
そこへみんな集まって飲んだくれ、赤線を冷やかして歩いた。
池袋東口にホワイトベアーという
こぢんまりしたキッチンがあって
そこでぼくは来月号の執筆順を
編集者と一緒に決めながらめしを食べた。
その店の名物はバナナ入りカレーライスという珍品だった。
普通のカレーを甘くして
スライスしたバナナを混ぜてあるというしろもので
まともなカレーを食べ慣れている人間ならみんな敬遠する。
「まんが道」の本に、
藤子氏をこのホワイトベアーに
ぼくが招待したことが描かれてあるが、
そのとき藤子氏にバナナカレーライスを食べさせ
たかどうかは残念ながら記憶にない。
寺田ヒロオ氏はぼくより一年ほど遅れて入居したのだが、
先述したようにぼく自身ほとんど部屋にいなかったのだから、
彼と顔を会わすことはめったになかった。
彼の部屋へは二,三度お邪魔した記憶があるが、
一度、本を借りにいったときのことは、
はっきり覚えている。
確か動物のデッサン集かなにかだったように思う。
その時、寺田ヒロオ氏の部屋が実に整頓され、
こざっっぱりしていて、調度品も揃い、
いかにも住み心地がよさそうで、
ぼくの雑然とした部屋と比べてみて
なんともうらやましかったのをおぼえている。
「トキワ荘前史」は、まあ以上のようなものである。
新漫画党の顔がそろったころ、
ぼくは既に引っ越して雑司ヶ谷のアパートにいた。
何度かトキワ荘に遊びに行ったが
たいてい裏階段を上っていった。
この裏階段は
ぼくがトキワ荘を去った後つくられたものである。