金沢市と金沢区ってどっちが身分高いの?

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65格無しさん
国際交易港、文化の集積地、そしてベイブリッジw 歴史は繰り返されるのねw

鎌倉時代、六浦津(現在の横浜市金沢区)は鎌倉への要港で、中国船の入港をみるほど賑わっていました。
ソース:国土交通省関東地方整備局
http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/tokyo/history/pdf/e-do_all.pdf#search=%22%E5%85%AD%E6%B5%A6%E6%B4%A5%20%E8%B3%91%22

http://ch.kanagawa-museum.jp/jyosetu/jyosetu02.html
北条氏は、鎌倉に和賀江島、武蔵国金沢に六浦津(現在の横浜市金沢区)と呼ばれる港を開き、
中国大陸や朝鮮半島との交流を積極的にすすめましたので、鎌倉は国際港湾都市としての性格をもつようになりました。

http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/monogatari_folder/asahina_folder/asa001.html
鎌倉の和賀江湊は物質供給地でありましたが船舶の着船には不向きなところでありました。
そこで六浦方面の湊が船着きに良い場所として認められ、六浦津はしだいに幕府の重要な外港となって行くのでした。
また六浦荘は幕府の実権を握りつつある北条一門の金沢氏の所領であり、(ry

金沢文庫は、12〜14世紀を代表する文化の集積地のひとつでした。
http://uuuzen.exblog.jp/2586520

http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/nishioka-yoshifumi-setobashi.htm
六浦湊に建造された中世鎌倉のベイブリッジ(六浦瀬戸橋)は、日本の橋の歴史の中で特異な意味を持っていた。
66格無しさん:2006/10/03(火) 22:52:41
六浦津の今ww
http://www.keikyu-fu.co.jp/net/ereainfo/kanazawabunko/

海と歴史の風が出会う街

貴重な文化財・レジャーの名所の玄関口「金沢文庫」。
言わずと知れた、シーパラや海の公園、ベイサイドマリーナなど人気スポットが充実しています。
京浜急行・シーサイドライン・パラダイスラインが通っていて、都市部へのアクセスも良好です。
海や山に囲まれながら利便性にも富み、情緒もある、なんとも贅沢なエリアです。
澄んだ空気に心が洗われます。
http://www.keikyu-fu.co.jp/net/ereainfo/kanazawabunko/
67格無しさん:2006/10/03(火) 22:54:51
>漁民が町民を羨む遺伝子は

湊って書いたから漁港とでも勘違いしたのかなw?w?w?w

横浜市歴史博物館だと六浦湊は一応常設展示扱い
展示室の中央には、中世横浜の海の玄関口で、文化・交易・産業の中心地となった、
六浦湊(金沢区)や周辺の地形を復元した大型模型が置かれています。
六浦は、鎌倉幕府が開かれてから、鎌倉の外港として中国との貿易や江戸内湾の交易によって栄え、
武士や商人・職人・宗教者などが多く集まり、にぎわいをみせた地域です。
http://rekihaku.city.yokohama.jp/kanai/jyost/jyost.html
(↑中世のコーナー)

北条三代・金沢貞顕の頃は、称名寺や金沢文庫が最も繁栄した時代で、
称名寺では連歌や和歌の会がさかんに催され、各地から学僧たちが多数集まったといわれる。
画像は兼好が庵を結んだ上行寺(横浜市金沢区)近くの浜でとれた甲香の図
http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/60/5.jpg

徒然草(34段)
(徒然草絵抄上巻)
「甲香<かいこう>というのは、ほら貝に似ているが、それよりも小さく口のあたりが細長く突き出し蓋がついている。
武蔵の金沢という海辺にあったが、以下略」
http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/60/3.htm

六浦津の今 http://www.keikyu-fu.co.jp/net/ereainfo/kanazawabunko/
海と歴史の風が出会う街
貴重な文化財・レジャーの名所の玄関口「金沢文庫」。
言わずと知れた、シーパラや海の公園、ベイサイドマリーナなど人気スポットが充実しています。
京浜急行・シーサイドライン・パラダイスラインが通っていて、都市部へのアクセスも良好です。
海や山に囲まれながら利便性にも富み、情緒もある、なんとも贅沢なエリアです。
澄んだ空気に心が洗われます。 http://www.keikyu-fu.co.jp/net/ereainfo/kanazawabunko/
68格無しさん:2006/10/03(火) 22:56:58
【江戸期の六浦津周辺】
http://www.city.yokohama.jp/me/kanazawa/hiroshige.html
作:歌川広重(代表作、東海道五十三次絵)

鎌倉幕府崩壊後、南北朝、室町、戦国と時代が下っても、その文化性は失われず、江戸期には、この地域そのものが金沢八景として、絵画や文芸等の芸術表現の対象となった。
そして美しい自然と歴史環境のある観光地として改めて脚光を浴び花開くのである。
その為再整備され
そして再び明治の世になってその環境が大日本帝国憲法創案の地として生かされる事になった。
http://www2.u-netsurf.ne.jp/~bnatnsvu/event8.htm

【江戸末期〜明治初期の六浦津】
コンプレックスがあると、反べみたいに女性と話ができなかったりするものだけど、
どうも、幕府本体とは違って、ハマの庶民はもっとフレンドリーだったようだよ。

翌 6月10日、ペリーは早朝から江戸湾内の測量を命じたが、
うち 3隻の測量用ボートが平潟湾(←六浦津)に漕ぎ入れてきた。
このときの様子を「ペリー提督・日本遠征記」は次のように記している。
「ボートが進むにつれて、村人たちは異国人を珍らしがって岸いっぱいに群がってきた。」
「身振り手ぶりで歓迎する人もいるし、飲み水やうまそうな桃を呉れたものもいる。」
「そのうち互に煙草の火を吸いつけ合うほど親しくなった。」
「愛想のいい歓迎のお礼に、ピストルを発射して見せたところ、彼等は驚きもしたが大変に面白がってもいた。」
「乗組員たちは日本人の親しみある気質や、絵のように美しい風景がすっかり気に入った…」と。

このほほえましい情景こそ、「日米親善の事始め」と私は思っている。
http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/13/13.htm
69格無しさん:2006/10/03(火) 22:58:39
http://www.atmap.jp/home/atmap01/p/26099120060929.jpg
↑ペリー投錨地周辺/左奥に六浦津↑



横浜市・平潟湾(六浦津)周辺
大学が2つ。
湾の右手に関東学院大学(関東学院付属小学校に小田和正や小泉純一郎Jr)
手前の緑地左に横浜市立大学(卒業生に平井堅他)
http://www.atmap.jp/home/atmap01/p/26212120060929.jpg
【鎌倉期】↑写真手前中央の緑地は、吉田兼好が庵を結んだかつての六浦津の中心地・上行寺境内へと続いている

【江戸期】緑地自体は武蔵国六浦藩陣屋跡一帯↓
http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/49/2.htm

【江戸末期】歌川広重の金沢八景
http://www.geocities.jp/toru0298/kanazawahakkei/kanazawahakkei.html

【明治期】伊藤博文、憲法草創の地・東屋から臨む琵琶島弁才天↓(源頼朝の妻・北条政子による勧進)
http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/gazou.html/azumaya.jpg

【現在の写真】るるぶ 平潟湾に突き出した現在の琵琶島神社
http://www.rurubu.com/sight/sightdetail.asp?BookID=B1702880