大塚康生氏講演
「日本のアニメーションに期待すること」
『鉄腕アトム』の放映が始まり、私たち東映のアニメーターも早速観まし
たが、一人として評価する人はいませんでした。極論すると「あれじゃ誰も
見ない」と思うほど拙劣な技術でした。それでも、虫プロではスタッフに死
人が出るほどの重労働をせざるを得なかったようです。3コマ撮りとは言いま
すが、3コマに1枚の絵どころじゃなくて・トメ(静止画)・・バンク(同じ
ものを兼用して使う)・の連続で、「アニメーションは動かすものだ」と信
じていた私たちにとっては、到底受け入れ難いものでした。
しかし、放映されてみると爆発的に人気が出たんですね。『アトム』によ
って突然生まれた、小さいとはいえ、新しいマーケットに業界が色めきたっ
たのは当然です。老舗の東映は敏感に反応しました。大工原さんと森さんに
TVシリーズへの進出を打診しましたが、お二人とも二の足を踏んでいまし
た。しかし時間はない。…という状況の中で、若干22歳の月岡(貞夫)さん
を中心に『狼少年ケン』(1963年11月〜65年7月放映)、楠部(大吉郎)さん
を中心に『少年忍者 風のフジ丸』(1964年6月〜65年8月放映)をスタートさ
せました。他社も、雪崩をうったようにテレビアニメに参入し始めました。
「動いてこそのアニメーションではなかった!」「企画さえよければ日本の
お客さんはあれでも充分満足してくれるんだ!」となれば、どっと新規参入
が押し寄せるのが資本主義的生産の通例です。
東京ムービーは、TBS系列の会社でしたが、アニメーション事業に乗り出す
ために「アニメーターとやらを集めれば何とか出来るらしい」と聞いて、東
映の玄関にスカウトを派遣して「あんた、アニメーター?ウチに来てくれな
い?」という調子で求人した言います。当時の熱狂ぶりが想像出来るでしょ
う。手塚先生は、こういうことを見越して、随分安い額を設定されたため、
スタッフを苦しめただけではなく、テレビアニメの標準価格さえ低いものに
押さえてしまい、禍根を残しています。