王立宇宙軍オネアミスの翼〜ポウの四っつ目〜

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215お星様!
◎1982年夏。特撮大会。
 当時ぼくは株式会社ポビーの男児玩具開発セクションで、ウルトラマン、ゴジラなどの怪獣商品群の開発を始めており、その開発に生かそうと、マニア間で話題のガレージキットの取材のため、杉並公会堂で開かれた特撮大会というイベントに出かけました。
 その際、後にガイナックスを設立する、ゼネラルプロダクツの岡田斗司夫氏らと出会ったのです。彼らはダイコンフィルムというアマチュアフィルム集団をベースに活躍しており、僕は面白い連中だと思っていました。これが後の企画の発端でした。
216お星様!:03/05/08 09:48 ID:???
◎1982年冬。リアルホビー、バルタン星人。
 ポビーで仕込みをしていた怪獣商品は、まず高年齢向けの怪獣人形リアルホビーとして結実するのですが、その第一弾が
ウルトラマンのライバル、バルタン星人でした。
 その原型があがった丁度そのころ、大阪から岡田さんが上京、西武新宿線の駅のそばにある喫茶店で会うことになりました
。原型の出来がどうか評価してもらおうと、バルタンの頭を持参して赴いた際、岡田氏と一緒にいたのが、王立の監督山賀博
之氏、作画監督庵野秀明氏、そして彼らと大阪芸大で同機の演出家西森明良氏でした。
 なんともいえぬ独特の雰囲気を持った彼ら。まさか映画を一緒に作ることになるとは思いもしない出会いだったのでした。
217お星様!:03/05/08 09:48 ID:???
◎1984年夏。ガンダム、プロモフィルム企画。
 翌年3月、僕はポビーを離れ、ビデオメーカーの設立の仕事に入りました。そして83年11月、EMOTIONレーベルを設立、
映像事業を開始したのでした。オリジナルアニメを何本か手がけつつ、仕事が軌道に乗ってきた84年夏、岡田氏からガンダ
ムのプロモーションビデオを3分ぐらいで作らないかとの申し出がありました。監督は山賀博之。ダイコンオープニングアニメ
で卓越した実力を見せた彼を抜擢しての企画は、確かに魅力的でしたが、サンライズ以外でガンダムのフィルムを作るわけ
にはいかず、大変残念でしたがこの企画は流れました。(後に逆襲のシャアの製作を担当した際、ガイナックスのメンバーを
スタッフに推挙したのも何かの縁だったと思います)
218お星様!:03/05/08 09:49 ID:???
◎1984年冬。イメージボード完成。
 ガンダムは流れましたが、それからしばらくして岡田氏から、ひょっとしたら映画になるかもしれない規模の作品の企画があるむね
申し入れがありました。
 その企画の打ち合わせの際、彼が見せた1枚のボードが僕の目を引きました。第二次大戦中のジェット戦闘機メッサーシュミット2
62に何処か似ながらも、独特の雰囲気のあるその絵を僕はすっかり気に入ってしまいました。
 そして従来の企画にないものを作りたい、という彼らの熱意に打たれ、企画書とイメージボードにまとめてもらうことにしました。結果
上がってきたボードはなんとなく宮崎(駿)さんの作風に似たところはありましたが、全体的には実にいい雰囲気でした。これらは貞本
義之、前田真宏両氏の手でかかれたものでした。(ちなみにLD王立宇宙軍メモリアルボックスの解説書に貞元氏の最初の一枚の絵
を、またイメージボード群をテーマ曲にあわせLD5枚目に収録してありますのでお持ちの方はご覧になってください。)
 この段階で社内で検討会議が行われ、押井守さんらの好意的な評価にも励まされてパイロットフィルム製作が決定したのでした。
 そしてクリスマス。高田馬場のマンションの小さな一室にガイナックスが発足。パイロットフィルム製作が開始されたのでした。
219お星様!:03/05/08 10:28 ID:???
◎1985年春。パイロットフィルム。
 パイロットフィルムの完成までのある夜、宮崎駿さんが差し入れの酒を持参して、高田馬場のガイナックスを訪れたことがありました。

 ナウシカに庵野氏が参加したこともあって、どうやっているか心配でいらっしゃったのだと思いますが、酒を飲みつつ話した結果、若い
スタッフが何を考えてこの作品を作るのかその意図が皆目解らなかったらしく、ショックを受けられた、と後で聞きました。(ちなみにこれ
は、87年公開時のキネマ旬報における山賀×宮崎対談でも同じ結果になっています。興味のある方はバックナンバーで読んでみてく
ださい。)
 そんなことがあったりしながらも、押入れを3段ベッドにして、寝泊りしながら奮闘した彼らの努力の甲斐もあって、パイロットフィルムは
85年春完成しました。
 東京現像所での試写が行われ、僕も立ち会いましたが、正直コンテでイメージを膨らませすぎていたせいか、今一歩の感がありまし
た。岡田氏らには60点、といったのを覚えています。
 しかしこれはパイロット。本番でよければいいのだし、問題点を明確にするのもこのパイロットの目的な訳ですから、その意味では成
功でした。
220お星様!:03/05/08 10:28 ID:???
 とにかくこれをもとに映画の可能性への摸索が始まりました。まず社内での試写。そして外部の評価。押井さん、宮崎さんなどに
見てもらい、いい点、悪い点を自分流に聞いて回りました。宮崎さんからはアマチュアはディティールに走って、根本を見失う危険
があることを諭されましたが、一方で、若者が徒党を組んで新しい波を作っていくことは大切なこと、その企画成立にあたって自分
の協力が必要であればバンダイの役員会で発言してもいい、とまで言っていただきました。
 後にバンダイの社長をいれた企画会議で、岡田氏をはじめとするスタッフが、熱弁をふるい、会社が企画に賛同したのは勿論な
のですが、担当者として僕がこの企画を何とかできるかも知れないと思ったのは、この宮崎さんの励まし、そして押井さんのアドバ
イス抜きには考えられないことだったと思います。
 ともかく、会議の結果、企画進行は本製作のための設定製作までOKということになったのでした。それにともないガイナックスは
設立時と同じ高田馬場地区ながら、より早稲田に近く、やや広いマンションに移動し、スタッフを増員して山賀監督中心に、昼夜を
いとわぬ設定製作を開始したのでした。
221お星様!:03/05/08 10:29 ID:???
◎1985年夏。全米取材旅行。
 設定製作を進める上で王立の世界観を本物にするため、アメリカに行って取材しよう、ということになり、8月僕らは渡米しました。

 岡田斗司夫、山賀博之、庵野秀明、貞本義之、プロデューサーの井上博明、それに僕という6名。今はなきパンアメリカン航空の
エコノミークラスに乗り、ほとんどヒッチハイクに等しい貧乏旅行。ロサンゼルス、ワシンシン、ニューヨーク、フロリダとほぼ全米を
横断しつつ、本物の飛行機、日本では見られない建築物、そしてなにより本物のスペースシャトルの打ち上げ。むさぼるように見て
回った2週間。
 なんと言ってもスペースシャトルの打ち上げは人生最大のスペクタクルショーでした。光と音のすさまじさ。王立のクライマックス
はこの僕らの見た打ち上げ以外の何物でもありません。これにはスタジオぬえの河森正治氏も同行し、感動を共にしました。機会
があったら何としても見る価値はありますのでぜひご覧になることをお勧めします。
 王立で爆発した、という台詞がありますがそれはこの時の僕らの印象だったのでした。
222お星様!:03/05/08 10:29 ID:???
◎1986年。正式決定、製作開始。
 紆余曲折ありながら、ようやく全編製作決定。興行を東宝東和、音楽を坂本龍一が担当することに決定し、6月帝国ホテル
で製作発表。
 新人類作品などとマスコミ、関係者には冷ややかに見られながらも、僕は彼らを全面的に信じて製作担当を続けました。
 彼らはアマチュアだからなにもできない、完成などするものか、この企画の何処がいいのだ、キャラクターが暗い、若い彼
らは生意気だ―――、社の内外から、こんな陰口を毎日のように聞きました。
 悔しかったけれど、僕らには前進しかない、そして何とか軌道に乗せたい、それを思いつつ、日々を過ごしました。ガイナッ
クスのみんなも、本当に頑張り続けたと思います。
 苦しい葛藤は続きました。
 前売り券を売るのが公開の条件であり、その押し付けをしなければならなかったこと、内容からかけ離れても興行サイドと
の折り合いの中で宣伝をしなければならなかったことなど、本当にこんなことでいいのかと何度思ったことか。
 その内実の諸々はとてもここで書き尽くせないことです。毎日が理想と妥協の狭間での戦いを続けていた日々でした。
223お星様!:03/05/08 10:30 ID:???
 その結果として、いびつな宣伝、試写会の数々が世に出ていったことは残念ながら事実です。これはガイナックスの皆のせい
ではなく、一にかかって僕の責任でした。
 そんな中で僕ができたことと言えば、ガイナックスの必死の説得に従い、興行サイドの言に屈せず、この作品を何とか2時間版
として切らずに公開できるところまでこぎつけたことでした。
(興行サイドからは1時間40分に切るよう要求されていました。ちなみにLD完成版メモリアルボックスにある幻の1分は、公開条
件で切ったのではなく、もっと前に、僕らとガイナックスとの話し合いで切ったものです。ラッシュフィルムまで完成していたこの1
分をビデオの時復元することは、製作時からガイナックスと話をしていたことでした。)
飛行機オタの渡辺氏を狙って見せたそのイメージボードにうまく釣られ。
「これはメッサーシュミット262だね。」などと飛行機話を始めると
「いやぁ、さすが、わかりますか」などとうまいこと話を合わせていた、
山賀監督だがじつは本人は兵器や飛行機に興味がなくオタ知識のない人
だというのは当時は内緒。
若い力を信じ情熱を捧げて彼らを守った渡辺氏を
大ボラ吹いてうまく丸め込んだんだなあ
すごいもんだ
226お星様!:03/05/08 11:10 ID:???
◎1987年3月14日。公開そして休職。
 様々な困難。理想と現実のギャップ、矛盾。まるで王立のドラマそのままに時間は進行し、ついに打ち上げ、つまり公開の日が
やってきました。
 僕は東京ではなく劇場回りに炒った大阪OSで見ました。公開した結果は、必ずしも満足はいきませんでしたが、大健闘でした。
ただ世間は否定的なものが大半でした。覚悟はしていました。坂本竜馬のごとく、世の中の人はなんとも言わば言え、我が成す
ことは我のみぞ知るとうそぶきつつ、しかし内心はもっとできたことがあったのでは、と反省と自問自答の日々が続きました。
 そして公開後の5月、疲れ果て、とうとう身体を壊し、以後7ヶ月休職しました。
227お星様!:03/05/08 11:10 ID:???
◎(これでラストだよーん)

 20代最後の青春のあの時期、燃え尽きるほどに自分が作品とともに過ごせたのは、非常に幸せなことだったと思います。
 バンダイとして始めての映画、王立宇宙軍に関わることで、僕はシロツグの立場にならざるをえなかったのかも知れません。

 またあの宇宙ロケット打ち上げのドラマは、初めて映画を作って公開するという、当時のバンダイの姿でもあったかも知れな
いとも思います。
 この作品が今後どんな評価を得るか僕にはわかりません。
 それは世の中の皆さんの自由です。
 しかし王立は紛れもなく、あのときの、僕の、ガイナックスの、みんなの分身であることは、胸をはって永遠に言えることだと
思います。
 関わったのは何かの運命。これからも王立の時の諸々の思いを忘れず、未来の可能性目指して、進んで行かなければと
思います。

 いやな奴は帰れよ!
 俺はやるんだ!
 十分立派に元気にやるんだ!

 シロツグの叫びは僕らの叫びでもあるのです。
228お星様!:03/05/08 11:12 ID:???
・・・とまあ、これが、渡辺繁氏語るところの王立宇宙軍製作秘話「王立宇宙軍の頃」です。

読んでて涙チョチョ切れそうですわ(T_T)。


(もう疲れました。ブラインドタッチできるほど器用でない。これ打つのに4時間近くかかった)
どうかこのスレを読んでい(て尚且つ製作記録集持って)る人。お願いです。33Pに載ってるプレスシート「愛の奇跡
信じますか?」をアップして下さい!

できたら…キネ旬も全文キボーン。
持ってるけど(コンプリートファイルもザ・セレクトも小説もアニメ★ノベルズも)、気力が続かない。漏れは氏にますた、
ばたり。