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2011-11-26 13:30:28
談志への献花へ
冥福を祈って参ります。
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2011-11-26 16:44:21
立川談志最後の一席
蛛籠だった。
3月22日喉の切開をする前にご子息にビデオを回させて蛛籠を噺た。
今朝まで弟さんの家に談志のお骨は預かられていた。
今日13時に戻り私達が献花に伺った…という訳だった。
あまり長居したくなかったけれども、談志最後の一席を流すので居てほしい…と言って頂き聞いて来た。
最後まで噺家だった。
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2011-11-27 08:12:57
11月23日桂三木男独演会の裏側
11月21日談志危篤の報は入っていた。
勝手なようだが『願わくは独演会の後まで生きていて!』と思った。
三木男は徹夜で稽古していた。
独演会当日ゲスト立川志の輔
私はオレンジに扇子模様の派手目な着物を用意していた。
午後一時半テレビ朝日から亡くなったらしいので確認したい!と言う連絡があった。
とりあえず関係者にあたるが全て携帯電話が繋がらなかった。
万が一を考えて薄いブルーの三木柏の紋付を着る。
三木男には黒紋付を用意させる。
やっと関係者と連絡が取れた。
だんしがしんだ。
慌ただしく私の携帯電話は唸りをあげ始めた。
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2011-11-27 08:12:57
11月23日桂三木男独演会の裏側
とにかく『本日三木男独演会の為』をリフレインする。
三木男慌てながら『独演会に集中させてくれ!』と言うので放っておく。
朝から何も食べていないが食欲等毛頭ある筈もない
出掛けに拠無い局から独占取材の申し込みが入る。
少し早めに内幸町ホールへと入った。
×××ちゃんや○○さんの顔が見えたと同時くらいにマイクとカメラが回された。
ともかく志の輔師匠に迷惑がかかってはいけないので対応に追われる。
開場時間となりたくさんのお客様が入場される。
全日警の奥様を始め三木男を支えて下さる方々
フジテレビからは阿部千代さんも駆け付けて下さる。
三木男『祇園祭』が始まると同時に少し遅れて入るという志の輔師匠のお出迎えの為楽屋に引き篭る。
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2011-11-27 08:12:57
11月23日桂三木男独演会の裏側
志の輔師匠ご到着
私に向かい深々と頭を下げる。
三木男二席目の『一文笛』の間志の輔師匠と数少ないお喋り
志の輔師匠は談志が死んだ事を枕で触れながらも会場を沸かす。
中入り
三木男『三方一両損』終わってお客様を送り出したロビーで志の輔師匠は
『談志への思い』をテレビカメラに囲まれて話していた。
私達も次の取材があるが志の輔師匠を見送らねばならない。
三木男一人で見送った。
その際『お前が一番可愛いがられたのだから談志との思い出を10分〜15分くらいの新作にして話せるようにならなきゃダメだ!』と言われたそうだ。
私達は1時間以上待たせたハイヤーに乗り込みテレビ朝日へ
そこで談志との思い出話して一日終わった。
何とも長い一日だった。
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2011-12-02 00:50:59
立川談志の余命
7月27日銀座のバーに残った私にお内儀さんは
『パパの命は後2ヶ月なのよ!』と切り出した。
3月22日に喉の切開までして落語を噺せなくなった談志の命が後2ヶ月…
『それでね、茂子ちゃん私はこの銀座のバーで弟子を2〜3人ずつ呼んでパパを会わせてあげたいのよ!
意識のある内に…だけど誰かが他の人に話しちゃうのよね!だからどうしたら良いのかわからない…
でも弟子だってパパに会いたいでしょう。』と相談された。
お内儀さんは、ずっと談志を弟子に会わせたかった。
私はひそかにある師匠に連絡をしてその旨を伝えるが、
また返事は私の所に戻らずに別に行く。
立川談志とは私が思っているより大きな人だった。
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2011-12-02 00:50:59
立川談志の余命
その談志から去年入院した時に『茂子!俺は来年死ぬからな!お前カッコイイ喪服買っておけよ…
喪服の洋装っていうのは寸胴でいけない…お前にはカッコイイ喪服着て来てほしいから
きちんと用意だけはしておくんだぞー』と言われ、綺麗なステッチの入った喪服を用意した。
皆は談志の母も健在だし長生きの家系だから…と言うが談志は既に心の準備を終えていたのは、
去年の2月の入院だった。
その時にたくさんの見舞い客と存分に話し、病室から手まで振って別れを告げていた。
続く
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2011-12-02 23:28:29
立川談志の余命
去年の2月談志自身の口から余命の事を聞いたのは、病室で二人きりの時だった。
ちょうど息子さんが帰られて『間もなく母が来ますので茂子さんすみません。
父を宜しく』と出て行った直後だった。
談志が日記をつけながら『なぁ茂子俺の魂に死神が入って来てお前のろうそくは後これだけだ!って
見せられてよく見ると2年と残ってない…さいですかってな具合よ!』
誰かに聞いたのでもなく談志自身が見極めた出来事だった。
『家族には話したの?』という私の問い掛けに『家族になんか言える訳無いだろう…お前にだけ話す!』
『なんで私なの?』
『一人じゃあ荷が重いんだよな…いろいろ考えたがお前しか居ない。お前が俺の最期の生き証人だ!
談志は余命を悟っていたってな…』
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2011-12-02 23:28:29
立川談志の余命
去年の2月は父三代目三木助の50回忌法要興行もあり私は2日に一度しか談志の元へ通えなかった。
入院したのが1月の末だったので1月末はよく通った。
息子さんからお内儀さんへの病室のバトンダッチに私は談志と二人きりになり、
お内儀さんが来ても三人てよく喋った。
小さんの談志への思い…等を談志は喜んで聞いていた。
あれから1年と10ヶ月…談志は覚悟の上で亡くなっていった。
私にはまだ実感がわかない。
いつも私の携帯電話の番号を持ち歩いていた。
私の電話に『あっ俺だ!』と電話が掛かって来るような気がする。
続くかもしれない
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2011-12-04 22:56:37
立川談志の死
今日NHKで初めて談志の高座を見た。
35年の付き合いの中で談志の落語を聞く機会はあったが高座を真正面から捉えた事はなかった。
今日NHKの演題は『芝浜』だった。
私の聴いた談志の『芝浜』は下げの部分のお内儀さんが異常にクサかった…
しかし談志は俺の芸は業の肯定だから此処までクサくなけりゃいけない!と言い切った『芝浜』だった。
談志の訃報が全国を駆け回るのが11月23日になるような予感はあった。
11月23日三木男独演会ゲスト立川志の輔と役者が揃いすぎていた。
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2011-12-04 22:56:37
立川談志の死
喉の切開を8月に再度して談志の余命は10月いっぱいとなった。
10月28日談志の容態の急変を知らされた私は尚一層
11月23日に何かが起きるような気持ちになった。
無地の三木柏の紋付をこっそり用意して三木男にも黒紋付を用意させていた私がいた。
11月23日私は肩の荷が降りたようだった。
弟子にも漏らさず談志は旅立った。
ゲストの志の輔師匠にも堂々と挨拶できる。
一門ではなかったが、終始談志と一緒だった。
ブログにも書けない日々だった。
談志への言葉は『お疲れ様でした。』松岡家の方々にも『お疲れ様でした』
そして私に『お疲れ様でした。』
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2011-12-05 21:22:40
誰か忘れてない
メッセージをたくさん戴いた。
もう一人いた!
談志が患ってから約4年談志をご機嫌にする噺家
家族の了解を得て、きちんと約束の時間に会いに行った…
正式に談志に最後に会った噺家
三木男である。
談志師匠から貰った最後のメッセージは『落語頑張れ』だった。
誰よりも一番稽古を付けて貰った。
また三木男に稽古付けるのを談志は楽しみにしていた。
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2011-12-05 21:22:40
誰か忘れてない
三木男の持って行ったりんごジュースを美味しそうに飲んだと聞く。
口では言わないけれども、三木男『お疲れ様でした。』
立川談志に見込まれ、独演会に謝礼も取らず出演して貰い最後は対談までして貰った。
三木男に大舞台を踏ませたい…と談志ひとり会の最後の開口一番をやらせて貰った事もあった。
桂三木男噺家生活の中で立川談志大きな存在だった。
弟子でもないのによく可愛いがって貰った。
幸せだったね!三木男…