【シビけるところが】広沢虎造(二代目)2【コマツ村】
明治6年、ウィーンで開かれた万国博覧会に日本刀を出品。
国際社会に日本人の技術と精神を示すものであった。しかし廃刀令以後は新たな刀の需要は殆んどなくなり、
当時活躍した多くの刀鍛冶は職を失った。また多くの名刀が海外に流出した。それでも政府は帝室技芸員として、
月山貞一、宮本包則の二名を任命。伝統的な作刀技術の保存に努めた。
一方で西南戦争における抜刀隊への評価から、日本陸海軍が将校の主要兵器として軍刀を採用し続け、
サーベル様式の軍刀拵えに日本刀を仕込むのが普通となり、さらには日露戦争における白兵戦で近代戦の武器としての
日本刀の有効性が確認され、また昭和に入り国粋主義的気運が高まった事から、
陸海軍ともにサーベル様式の軍刀拵えに代わり鎌倉時代の太刀拵えをモチーフとした、
日本刀を納めるのにより適した軍刀拵えが開発された(しかし同時に、軍刀として出陣した古今の数多くの刀が
戦地で失われることともなった)。