三島由紀夫@伝統芸能板

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351重要無名文化財
三島:日本人はアジアでも特殊な民族で、外来文明に対する抵抗力はいちばん強いと思う。肺結核の黴菌に
対しても、清浄な空気の田舎から出てきた人は非常にかかりやすく、都会でもまれて免疫になっている人は
かかりにくいのと同じで、日本は外来文化の吹きだまりと言われているぐらいなので、抵抗力はアジアでいちばん強い。
インド人は依然としてサリーを着ている。インド人は外来文化に対して立派に抵抗している。日本人の男は
似合いもしないセビロを着、女はドレスを着ている。皮相な観測をする外国人は、日本人は無節操で外来文化に
対する抵抗力がないというが、そんなことはない。似合わないセビロを着ていられるから抵抗力があるのだ。
そういう恰好ができないということは、逆にいえば抵抗力がないということだ。ガンジーが糸車で抵抗したのは
それを知っていたからだ。

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
352重要無名文化財:2011/05/20(金) 12:23:17.75
三島:トインビーが言っているように、東南アジアから近東地方にかけての西洋文明の侵略に抵抗しえたのは
ガンジーの糸車である。もし、たとえ小さな機械でも、あれを機械に変えていれば、堤に穴があいたように、
そこからどっと西洋文明が入って来る。そして社会が改革され、経済が改革され、西洋人が教えたとおりにやっていく。
現に東南アジア諸国は西洋をまねて革命を起こそうとしているが、日本はその点、いつもぐずらぐずらしている。
明治維新だってしようがないからやったんだ。のらりくらりで、相手を受け入れても抵抗力を失わない。これは
自信を持っていいと思う。冷蔵庫やテレビをおいても、もう一つの世界を持っていける力がある。人生を
フィクションにする力は、日本人の大きな力だ。

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
353重要無名文化財:2011/05/20(金) 12:24:59.55
三島:アメリカ人をご覧なさい。アメリカ人は六つの頃からセビロを着て、死ぬまでセビロを着なければならない。
ほかに着るものがない。人生をフィクションにする部分は一つもない。教会に行ってもプロテスタントの教会だから、
カソリックと違って飾り物やお祭があるわけでもない。その一生は、人生のフィクションを味わうものがなにも
ないから、じつにさびしいものだろう。そうだから、日本の文化に見られる人間精神の、純粋な結晶に、憧れを
感じる。日本人はそれをケロっとして持っている。自信を持っていい。
千:私もそれを考えて、ある席で言ったことがある。日本人は模倣性が強いというが、そんなことは考えなくともよい。
無意識のうちに外にいるときは洋服、畳の上にいるときは着物を着る。衣食住に関しては、外国人ができないことを
平然としてやれる。ですから、こういう機械文明の時代になっても、茶室で静かに自分の境地をさがし出すこともできる。

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
354重要無名文化財:2011/05/20(金) 12:30:43.59
編集者:(中略)お茶事は演出するもの、フィクションである。しかも、それは歌舞伎の「先代萩」とか
「菅原伝授」とか、たとえ俳優がかわっても繰り返してなんべんでもやれるというものではない。だから一期一会……。
千:一期一会はお茶から出ているんだが、べつにお茶だけに限らなくともいいでしょう。人間はおたがいに生活に
追われているから、一日の一瞬間でも、ほんとうに心からとけあってお茶事を構成していこう、そういう解釈で
いいんじゃないですか。今日会えば二度と会えなくても満足だという真剣勝負のような気持、そういう気魄は
当然あるべきだと思う。ただ、それを押しつけては、おたがいに窮屈になってしまうけれど。
三島:最高の快楽というのはそういうもんじゃないか。現在の一瞬間を最高に楽しむ。非常にストイックな
快楽ということになりますね。

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
355重要無名文化財:2011/05/20(金) 12:32:07.46
千:瞬間瞬間をいかに満足するか。お茶を出す亭主はどういうようにすればお客さんに喜んでもらえるか、また
客のほうは、どうすれば雰囲気のなかに溶け込んで、自分というものが亭主に快く受け入れられるかという
瞬間的なふれあい、それは今言われたように、最高の快楽、和・敬・清・寂というものだろうと思う。
三島:たいへん教養のあるアメリカの婦人が、日本にきて、北鎌倉のあるお寺に行ってそこの高僧に会った。
春で庭に梅の花が咲いていた。その人は日本語ができないので、おそるおそる座敷に入って、端近に座った。
やがて和尚さんが現われてニッコリした。彼女もなにもわからないがニッコリした。その瞬間、彼女はここで
死んでもいいと思ったそうです。これまで五十何年間生きてきたけれども、自分が死んでもいいと思った瞬間は
あのときがはじめてだといっていたが、ここに道を求むる人ありという感じでした。(笑)

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
356重要無名文化財:2011/05/20(金) 12:37:25.46
三島:(中略)これは古い言葉ですが、伝統芸術というのはおしなべて「捨身飼虎」の精神がほしいと思う。
身を捨てるということは、現代ではセビロを着ること、テレビを見ること、洗濯機を使うこと、地下鉄を乗ること、
これが現代の捨身。お茶はほんとうにおそろしいものですよという位置まで高めるのが飼虎。そうしなければ
いけないと思う。いま歌舞伎や能の人のやっていることは、虎が檻から勝手に出てしまって、自分では虎を
飼っていない人が多い。そこで身を捨てないで、着物、羽織、袴をはいても、虎がいないのでは人の心をつかめない。
お客さんは檻のなかに虎がいないことを知っている。
編集者:お茶は虎だというのは非常に大切だと思います。盲蛇におじずで、虎を猫だと思っている人が多いから、
猫じゃなくて虎だということを知らせるのは伝統を守るために必要なことでしょう。外人を茶室に入れたら、
キチッと坐らせて、猫じゃなく虎だと思わせることは非常に必要なことですね。
三島:ますますこれから必要でしょう。総理大臣までチョロチョロしている世の中で、日本の凜然たるものを
持っているのは伝統文化だけだということになるかもしれないね。

三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より