■■花柳界(東京版)■■PART 3

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75重要無名文化財
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小泉純一郎は、1967年4月、慶応大学の4年生(すでに、2浪、2留年をしていたが、1967年の3月にも卒業できなかったため、3留年が決定していた直後)であったときに、婦女暴行事件を起こして、神奈川県警に逮捕されたことがある。
場所は、湘南であり、相手は慶応大学の女学生であった。(当時)
当時、防衛庁長官であった父親の小泉純也氏が政治的圧力を使い、この事件をもみ消したが、学内でうわさの広まるのを恐れ、小泉純一郎氏を急遽1967年の5月にロンドンに留学という口実で日本から出した。これは慶応大学には休学扱いとした。
そして、9月から通常始まるロンドンの大学に留学という形をとる予定であったが、英語ができないため、すべて合格できなかった。
そのため仕方なく聴講生として一般に開放されている大学の講座をとっていた。2年間ロンドンにいて、とった単位はゼロであった。
小泉純一郎氏は、代議士2年目のときにも同様の事件を起こし、このときも逮捕されている。これは相手は諸事情あるため秘すが(未確認であるが、女子高生だったという話である)、結局示談で処理をした。

小泉氏は、サドの趣味があり、よく相手の首をしめてプレイするという。それで一度死にそうに相手がなり、半死の状態になってしまった。驚いた飯島秘書官が500万円を支払い、示談にしたことがあるという。

新橋の芸者の小はんという女性が、小泉とつきあっていたが、そのときに、なぞの死をとげている。これは自殺として処理されているのだが、別に悩みもなく、人気もあり、死ぬ理由も動機などなかったという。
自殺であるという処理であるから「首吊り」として処理されているのかは知らないが、後で浜田幸一元代議士が、小泉に対して「この芸者殺し野郎!」と代議士仲間の前で、ののしったことがある。

3人子供を生ませて、離婚をしているが、その離婚の動機も、妻が、小泉の殴る蹴るのドメステイックバイオレンス・家庭内暴力に耐えられずに離婚をした。