歌舞伎・能楽界における【世襲】の功罪

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 今日は、歌舞伎について、ちょっと考えてみた。
 歌舞伎についてというより、歌舞伎ファンの考え方について。
なんとなく、前々から気になっていた、歌舞伎ファンっていう存在が。
 で、それを説明するには、ちょっとまどろっこしいけど、歌舞伎に
関してから考え始めなきゃいけない。
 歌舞伎は、一つの演目が20人から50人の登場人物で構成されて
いる。そのうち、見せ場があったり、せりふがたくさんある中心人物
は10人ほど。これらの役を演じる役者は、すべて世襲制なのだ。
 本人に才能があるないは関係ない。どんなに才能があっても、
その血筋でない者は一生、端役しかできない。逆に、その家の跡取
に生まれさえしたら、どんに才能がなくても歌舞伎役者になると決め
られ、練習させられ、三歳で初舞台を踏む。
 論理的に考えればわかることだが、歌舞伎役者の家に生まれたから
といって、かならず歌舞伎の才能があるはずはない。
 いくら小さいころから練習しても、限界はある。
 血筋と環境で何とかなるなら、野球選手の子供はみな、野球選手に
なっているはずだ。長嶋親子の例をあげるまでもない。実際には親子
とも選手ということすら難しいのだ。林家三平とこぶ平を見ても、差は
歴然としている。「芸」は遺伝しない。これが当たり前の、冷徹な事実だ。
もし才能が確実に遺伝するなら、日本の伝統的なスポーツ「相撲」は、
世襲制のように見えるはずだ。
 どんなに伝統を重んじる世界であっても、実力の差が明確になる世界
では、世襲制はありえない。
 言いかえれば、世襲制である限り、実力は必ずないがしろにされると
いうことだ。何代も世襲制が続いている歌舞伎や能、狂言の世界では、
才能のある人が主役をやっている可能性はほとんどないと言える。
 はっきり言ってしまおう。
 歌舞伎は、上手な役者が主役を演じているわけではない。
 たいして上手くもない役者が、主役を演じているのだ。
 だからおもしろくなくても当然なのだ。
 僕たちは、歌舞伎は伝統芸能で、昔のメディアだからおもしろくないのだ
と思っている。でも、主役クラスの役者が下手だからおもしろくない、という
要素も、大きく影響しているに違いないのだ。
 才能のない人間が跡取りになって、そいつが次の世代に芸を教えても、
それはダビングを重ねたビデオテープのようなものだ。元の素晴らしさは
どんどん失われ続ける。
 そこはそれ、「それでも日本が世界に誇る伝統芸能だから、守るべきだ」
と考えて、お客様がガマンして見ているのなら、別にかまわない。そういう
心もわからなくはない。絶滅寸前の動物を守るように、絶滅寸前の芸術も
守るのも、立派な行為だと思う。
 絶滅寸前の動物は、かわいいとか、かっこいいとか、役に立つとかに
関係なく、絶滅寸前という理由で守られる。多少、不自然な形でも、種を守る
ことのみに主眼がおかれる。
 茶道や華道にとって、伝統で引き継がれてきた「形」が大切なのと同じことだ。
画期的な才能は歓迎されない。ずば抜けた才能も必要ない。そのままの「形」
を守ることを大切にする。当然、現在の華道や茶道には、メジャーな客層を
感動させるほどの美は存在しない。それでもいいのだ。
 伝統を守るためには、自由競争の波にさらしてはいけない。波から守る
システムが必要なのだ。
 大切なのは、それがまだ、生き残っていること。
 だから、歌舞伎の役者が世襲なのも、その結果、下手なのも、仕方ない
ことだと思う。
 と、ここまで納得している僕が不思議なのは、そんな歌舞伎や能を鑑賞
するファンが、そうは考えていないらしいことだ。
 「やはり厳しい芸の世界」とか「動かぬはずの能面が、いいようのない
悲しみを映し」とか。なんだか、崇高な芸術扱いなのだ。
 確かに歌舞伎や能は、見る人に教養を要求する。その要求レベルが
異常に高い。百人に一人もわかればいい、というレベルだ。
 これはいけない。
 僕が書いているくだらない文章だって、百人のうち五十人にはわかって
もらおう、おもしろがってもらおうと考えて書いている。これが百人に一人
でいいなら、実は表現者にとってはすごく楽だ。自分の世代にだけ伝わる
言い回しや常識、知識を使っていいし、内輪受けのネタも使える。
 百人に一人で構わない、というのは、表現者を堕落させる姿勢なのだ。
 ところが、そういう表現者を堕落させる部分も、歌舞伎ファンはOKらしい。
 なぜ?人間ってフシギだ。
 歌舞伎ファンは、役者の世襲制はOKと言う。伝統芸能だから、伝統を
守るためには世襲が一番だという。にもかかわらず、いやいや、芸が
すばらしいという。
 すばらしいはず、ないでしょ?世襲制なんだから。
 理解させようという努力もないんだから。
 例えば、歌舞伎のせりふって、よく聞きとれない。
 でも、あれって古い日本の言葉だからってわけだけじゃない。
 もっと声量ゆたかな人が、きちんと発音の練習もして演じれば、聞きとれる
はずなんだ。実際に、一流の声楽家に演じさせてみれば、わかる。
 歌舞伎で有名な、六法。あれも、ダンス大会の優勝者が演じたら、もっと
すごいんじゃないかな。足ももっとあがって、静止位置も高いし、空中で
とまっているように見えることも可能だろう。本来の演出意図も、誰が
見てもわかるほど明確になるんじゃないかな。
 スポーツ選手やバレーダンサーなんかを見ればわかるけど、超一流の
人間の身体能力、表現能力って、普通の人間の創造をはるかに超える
ものがある。
 そういう強烈な才能で演じたら、実は歌舞伎って、もっともっとエキサイティ
ングなメディアなのではと思う。
 多分、歌舞伎や能の創世記は、そういう圧倒的な才能を持つ人が演じて
いたんだと思う。だからこそ、大ヒットしたんだ。
 歌舞伎は昔、面白かった。それは才能のある役者が観客と勝負していたから。
 歌舞伎は今、おなじみさんしか見に行かない。なぜかというと、才能のない
役者が観客に甘えているから。
 今の歌舞伎を、江戸時代のお客さんの前で演じても、喜ばないと思う。
 こんな当たり前の理屈を、なぜ歌舞伎ファンの人は認めようとしないんだろう。
 ほんとに歌舞伎が好きなら、歌舞伎の何が好きなのか、中身なのか、パッケ
ージなのか、よく考えたほうが良い。もし「中身がおもしろいんだ」と言うのなら、
伝統を守るのではない、別のアプローチを提唱するのもアリだと思うんだけどね。
岡田斗司夫の新オタク日記
12月 その2
20日(木)

歌舞伎ファンの考え方について
http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/nikki/o2001/o0112b.html