【東京新函館】北海道新幹線210【2016年春開業】

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263名無し野電車区
「お元気そうで、うれしい。本当にうれしい」「その笑顔を皆に見せてあげてください。インドの人も、世界の人も、どんなにか喜ぶでしょう」。
1992年2月、ソニア・ガンジー氏の自宅を訪問した池田大作名誉会長は語った。
その9カ月前、ソニア氏は、最愛の夫ラジブ・ガンジー首相(当時)の暗殺という悲痛な出来事を経験していた。
かつてラジブ氏とも会見し、友情を結んだ池田名誉会長。——祖国のため、民衆のために生命を捧げたラジブ氏の一家が不幸になることがあってはならない。
断じて幸福になってもらいたい——その真情を、率直にソニア氏に語った。
「一番、悲しかった人が、一番、晴れやかに輝く人です。運命を価値に転換してください。ソニア夫人が悲しめば、ご主人も悲しまれるでしょう。
夫人が笑顔で立ち上がれば、ご主人も喜ばれるでしょう。夫人とご一家の勝利が、ご主人の勝利となるでしょう」
イタリア出身のソニア氏は、ケンブリッジ大学在学中にラジブ氏と出会い、21歳で結婚。インドに渡り、文化と生活の隔たりを乗り越え、政界入りした夫を懸命に支えた。
1992年の語らいの席で、池田名誉会長は、自らが作詞した「母」の曲のオルゴールをソニア女史に贈った。「母は太陽です。
太陽は輝いてこそ太陽です」「振り返らないことは、とても難しいことです。
無理なことかもしれません。けれども、偉大な人は、あえて足を踏み出す人です。
前へ、また前へ」と励ます池田名誉会長。——「よくわかりました、お約束します。本当にありがとうございます」とソニア氏は答えた。
1994年10月、ソニア氏は池田名誉会長と再会。その間、ソニア氏は、「ラジブ・ガンジー財団」「ラジブ・ガンジー現代問題研究所」の発展に尽力し、
テロ被害による孤児の救援援助など、ラジブ氏の遺志を受け継ぐ行動を続けてきた。
深い悲しみを乗り越え、笑みを浮かべるソニア氏に「その笑顔が何より私は、うれしいのです」と語る池田名誉会長。ソニア氏は語った。
「池田先生の温かいお心に、いつも感謝しています。前にインドでくださったオルゴール。大好きで、毎日、聴いています。長女のプリヤンカが、よく知っています」
264名無し野電車区:2014/05/19(月) 00:13:08.85 ID:Gs9K2aYX0
20世紀最高峰のバイオリニストと称されるメニューイン氏。1924年、8歳でプロデビューし、18歳の時には、72都市で110回のコンサートを行った。
10代にして、その世界的名声は不動となる。
氏が11歳の時、その妙技に心打たれた物理学者アルベルト・アインシュタインは、感動のあまり舞台に駆け寄り、メニューイン少年を抱き締めて、こう語ったという。
「きょう、君は証明してくれた。天上に神が存在することを」と——。
第二次大戦後、メニューイン氏は高齢者や生活に困窮する人々のために慈善演奏活動を展開。また、音楽祭の開催や「ユーディー・メニューイン・スクール」の設立など、後進の育成にも従事した。
氏は、1951年に初来日。公演では、戦争で荒廃していた聴衆の心に、勇気と希望をおくった。文芸評論家の小林秀雄氏は、その感動をこう記している。
「私はふるえたり涙が出たりした」「あゝ、何という音だ。私は、どんなに渇えていたかをはっきり知った」(1951年9月19日付朝日新聞)
メニューイン氏は綴った。「音楽はどんなにたいへんな時代でも、なんとか私たちを力づけようと、繰り返し繰り返し励ましの言葉をかけてくれる。
深い根底から発した音楽であればなおさらである」(別宮貞徳監訳『人間と音楽』日本放送出版協会刊)
1992年4月、メニューイン氏と池田大作名誉会長は会見。「出会いを待ちこがれていました。今日という日の喜びは、ひとしおです」。
開口一番、氏は満面の笑みで池田名誉会長に語りかけた。
メニューイン氏は、芸術と大衆、芸術と日常の一体化を志向していた。「昼間、町を掃除する人々が、夜には四重奏を演奏する。
それが私たちの目指す世界です」——と。池田名誉会長もまた「庶民が“下駄履き”で行ける音楽会をつくりたい」と願い、民主音楽協会を創立していた。
「音楽には『競争』や『争い』がない。
芸術家と聴衆を一体にします」と述べるメニューイン氏に、「仏法は人間と人間を結び、『分断』と『対立』から『調和』と『統合』を志向します」と語る池田名誉会長。
「音楽」と「仏法」——深く「人間」を尊敬する信念が共鳴した。