522 :
名無し野電車区:2010/07/13(火) 00:26:47 ID:Y3nUtVAbI
つまり、ヒトラーがズテーテン併合で自重し、ポーランドがダンチヒを返還して
とりあえず戦争準備が整わないドイツが2年間自重したが。
1941年にスターリン率いるソビエトがポーランドに侵攻。
ナチスドイツも西から便乗侵攻して第二次大戦が勃発したかんじにした。
1940年東京オリンピックやりたかったから。
321系5000番台
学研都市線の快速及び奈良⇔尼崎の直通快速用に製造した321系。
7両固定編成。225系をベースに、車体の強化と、足回りの若干の見直しが図られる。
L/Cタイプの座席と便所を設置。
524 :
名無し野電車区:2010/07/13(火) 23:37:25 ID:KAEr4mcQ0
113系2500番台
国鉄が製造した113系のオールロングシート仕様で、1982年から製造を開始。
内装は415系500番台とほぼ同一仕様。
東海道線と横須賀線に投入されたが、オールロングシートは長距離運用に不向きで適当な転用先が見つからず2006年に廃車されてしまった。
113系2800番台
国鉄が製造した113系の「セミロングシート(車端部がロングシートのセミクロスシート)」仕様で、1984年〜85年に製造された最終形態である。
201系や415系700番台にように平天井化されている。
1985年に211系が登場したため早々と製造が打ち切られた。
現在は房総地区で細々と活躍している。
>>524をパクリ&史実改変
113系2500番台(国鉄→JR東海)
1982年当時の中央西線は、沿線の高蔵寺ニュータウンなどによる通勤需要が急増しており、
桃花台ガイドウェイバス(ピーチライナー)の高蔵寺延伸によって更なる通勤需要増が見込まれていた。
そこで、近郊型でありながら、かつ、ロングシート車である113系2500番台に白羽の矢が立った。
6両4編成が神領車両区に配置され、国鉄分割民営化後の1988年に、3両8編成に組成変更された。
かつての中間車には、211系に準じた運転台が新造され、
組成変更を完了した編成については、白色にオレンジ・緑帯という、いわゆる「JR東海色」に変更された。
313系増備と共に、座席を廃車発生品のクロスシートに載せ替え、ワンマン装置・ドアスイッチ等を設置した上で、
中津川以北の運用に就いている。
526 :
名無し野電車区:2010/07/14(水) 21:04:14 ID:FfNCqGvS0
415系1000番台
国鉄が製造した415系のセミクロスシート仕様。
211系0番台やサハ411-1701と同一の内装で、車端部がロングシートになっている。
本来九州用に製造されたがごく一部のみ常磐線にも投入された。
常磐線にはサハ411-1000番台も製造されたが、こちらはサハ411-1701と全く同一に見えるものの8両編成用のためMG・CPを搭載していない。
JR化後はJR九州が継続して製造していたが、811系の登場により1988年で製造が打ち切られた。
九州の1000番台には1500番台とは異なり前面にJRマークがあるのですぐ見分けが付く。
12系1000番台
14系客車が急行列車に投入されてくるにつれて
余剰ぎみとなった12系客車を上野発旧型客車列車の置き換えに転用された形式。
全車両北オク所属。側面の白線が消された以外は基本的に手を加えられていない。
この形式の投入で上野口の旧型客車列車は1985年までに一掃された。
置き換え当時は急行形車両の格下げ運用ということで冷房化・自動扉化・便洗面所の一新と
サービスアップと評価されたが、旧客の情緒が無いなどと騒ぐ一部の鉄もいた。
今現在、上野〜一ノ関間に普通列車(実質快速)が1往復運行され日本最長距離を運行する普通列車である。
他にも上野〜福島2往復(上野〜宇都宮間快速),上野〜仙台(常磐線経由・実質快速)3往復,
上野〜高崎1往復が運転されており上野の「北の玄関口」の残滓を保たせている。
現在進んでいる東北縦貫線の工事が完成と同時にこれらの列車の運行の見直しが予定されており,
長距離客車鈍行の歴史も幕が近づきつつある。
113系8000番台
1987年民営化直前に、予讃線電化開業のために四国に投入された。
既に本州では211系が投入されていたが、四国では列車密度が低く回生失効が懸念されたため、
113系の新製投入となった。
車体は211系に準じており、本四備讃線の塩害対策もあってステンレス車体である。
もっとも台車は廃車となった111系から流用したコイルばね台車であり、電気機器は新製ながら
113系標準のCS12/MT54であった。
短編成での運用が可能なようにMc-M'cの2両を基準に、増結用のTcも増備された。
なお121系や6000系とはブレーキが異なるため、当初は混結が不可能であったが、
民営化後に本形式を電気指令ブレーキに改造することにより対応した。
このため後にJR東日本から購入された113系とは、同じ113系ながら混結できない結果となった。
529 :
名無し野電車区:2010/07/16(金) 11:56:12 ID:y4cy24zm0
JR北海道 マヤ30
客車による現金輸送が終了し、余剰となった現金輸送車マニ30を日銀から譲渡を受けて
工事関係の宿泊車として改造された形式
中央部分の警備員室はそのまま使用し、前後の荷物室にベッドを増設した
旧荷物室部分に窓を開けようとしたところ、車体が特殊き・・・あれ?こんな時間にNHKの集金が(ry
530 :
名無し野電車区:2010/07/16(金) 20:39:43 ID:y4cy24zm0
JR北海道 オロハフ25
スハフ14を改造し、発電ユニットを降ろし車掌室側2/3を3列シートのグリーン室、便所側1/3を
密閉式展望ロビー室にした車輛で、北斗星の最後尾に連結して運用される
寝台特急列車に座席車を連結するに至った経緯として、JR北海道が売上が落ちて来たグランシャリオの
ディナー客を集客するために始めた「札幌発着 豪華特急ディナーと函館1泊の旅」という企画までさかのぼる
札幌発の北斗星2号でフランス料理のフルコースを食べて函館で降り、そのまま駅前のホテルに宿泊し、次の日は
函館散策して北斗で返す、というもので、当初はせいぜい1日1〜2組くらいだろうということでロビー室待機させる
つもりであったところ、平日でも3〜4組、休日に至っては15組もの申し込みがあり、ロビー室では収まりきらなくなり
ツアー開始3日後から急きょスハフ14を最後尾に連結し、その座席として使用することとなった
しかし今度は、函館までの乗車なので座席車を函館回転させようとすると機関車付け替え作業も含めて現行の函館停車時間では
収まりきらなくなるため仕方なくそのまま上野まで連結することにしたが、そうすると空身で函館〜上野間と帰りまるまるを回送に
してしまうことになるため、残席を指定席として売ることとなった
この処置は非常に好評を持って迎えられたが、なにぶん16時間を簡易リクライニングシートで過ごすのはさすがに辛いという要望が
出てきたのと、夜間スリや置き引き目的で短距離乗車する事案も発生したことから、普通車指定席を止めてグリーン車に格上げする
ことになり、ついでということで密閉式展望ロビー室も作りカシオペアとの格差是正も同時に図った同車が登場した
現在1往復体制になっても、この車輛がついているのは周知のことであろう
531 :
名無し野電車区:2010/07/16(金) 21:24:18 ID:EZS4VwPNO
国鉄EF68形(1982年)
老朽化したEF60形の置き換えとして開発された。
外観は、EF64形1000番台に似てる。
1986年まで110両が生産。
国鉄EF69形0番台(1988年)
バブル景気により貨物輸送量が増大したため、EF66形のマイナーチェンジとして急遽に開発された。
前世でいうとEF66形100番台。
1988年に試作機が落成して、89・90年に18機が落成。
国鉄EF69形1000番台(1990年)
EF65形0番台・500番台老朽置き換えとして、開発された。
前世でいうとEF200形。
2000年まで120両が生産。
国鉄EF69形1500番台(1999年)
EF65形1000番台老朽置き換えとして開発。
前世でいうとEF210形にあたる。
2010年度いっぱいで生産が終了する予定。
国鉄EF69形2000番台(1998年)
EF64形を長期間にかけて置き換えるために開発された。
前世でいうとEH200形だが、F級というわりにEF200形並の大出力をもつ。
1000番台置き換えを考慮して現在も生産中。
532 :
名無し野電車区:2010/07/17(土) 20:46:23 ID:0ghvZ3+ZI
>>520の続き、戦前半流形モハ63系の戦後史
1940年東京オリンピックの翌年1941年から始まった第二次世界大戦に
日本も巻き込まれ、南方植民地侵攻がアメリカの怒りを買い、1942年、アメリカの横須賀空襲、
日本の真珠湾攻撃の互いの奇襲から始まった太平洋戦争により
末期の米軍空襲で多数の焼失車輌を出し、1945年11月11日の敗戦後
も戦時型100番台(史実モハ63系)ばかり製造されたが1949年の三鷹事故
1951年の桜木町事故により、
モハ63系は73系に改造されたが、その際戦前半流形は
戦時型と違い安全で更に仕上がりがよく、MMがMT30
制御器がCS5のため全車クモハ73-1000番台に更新修繕U工事による
グローブベンチレーター化、雨樋の取り付け、扉の鋼製プレス扉化
貫通路整備と貫通幌取り付けが行なわれた。
同時期の半流形クハ79、戦前型サハ78は改番されず
上記モハ63戦前型に準じた更新修繕Uが施工され。
戦前型42系、53系戦前型の戦時型改造車輌と同じ戦前型
という事で同じグループに入れられ。
戦後は関西の片町線、阪和線、東海道山陽鈍行線、電化された
関西本線に追いやられ首都圏から撤退。
昭和40年代には老朽化したため、1967(昭和42)〜1975(昭和50)
年に戦前半流形グループは全車廃車された、最後は阪和線の鳳区
JR東日本サハ108形
103系組み込み用の6ドア車。
車体・台車を含めて基本的な仕様は205系用6ドア車サハ204(0番台)と同一だが、
組み込み先が103系の為ブレーキ方式等は103系に合わせられており、
これは近郊型2階建てグリーン車でのサロ124・125とサロ212・213の関係と同様である。
0番台7両(1〜7)と100番台4両(101〜104)の計11両が近畿車輛で製造された。
0番台:山手線用
民営化後も残存した山手線の103系は国鉄時代に引き続き205系の投入により全車置き換えられる予定だったが、
本来山手線に投入予定だった編成のうち7本を急遽中央・総武緩行線用として習志野電車区への投入に変更(詳しくは後述)した為、
同数の103系が暫くは残存することとなった。
そして1991年に山手線205系にはサハ204が組み込まれ11連化されたが、同時に103系には本形式が組み込まれた。
サハ204同様、座席収納や各ドア上の液晶画面での文字放送にも対応しており、先頭車のクハ103には座席収納スイッチ設置などの6ドア車対応改造が施された。
その後205系に混ざって山手線で活躍したが同線のE231系500番への統一が決定すると103系は真っ先に置き換え対象となり2002年11月をもって撤退したが、
サハ204と同一の車体を持つ本形式は改造の上205系に編入され、サハ204形200番台(サハ204-201〜207)として埼京線に転用されて同線用205系に連結されている。
>>533の続き
100番台:中央・総武緩行線及び京浜東北・根岸線用
山手線への6ドア車連結決定後、中央・総武緩行線と京浜東北線にも6ドア車の導入が検討され、試験的に両線に6ドア車を連結した編成を走らせることとなり、
習志野電車区及び浦和電車区所属の103系のうち各2本ずつに、編成中のサハ103のうち1両を差し替える形で組み込まれた。
基本仕様は0番台に準ずるが、使用路線の都合上文字放送関連の設備が省略された為100番台で区分されている。
全編成に組み込まれると思われたが中央・総武緩行線では103・201・205系の3形式が並存する関係で全編成への組み込みが不可能であり、
また京浜東北線も投入直後に103系の209系量産車への置き換えが決定したことから結局両線で2両ずつの計4両のみの新製に終わった。
その後浦和所属車は209系の増備により京浜東北線から撤退し習志野へ転属、4両全車が中央・総武緩行線に集結した。
そして同線への209系500番台・E231系投入に伴い運用を離脱し保留車となっていたがこちらも0番台同様改造の上205系に編入、
サハ204形250番台(サハ204-251〜254)として川越へ転用の上埼京線用205系のハエ26・27編成(元京浜東北車)に連結されている。
>>534の続き
JR東日本中央・総武緩行線用205系小窓車(習志野電車区所属)
民営化後も中央・総武緩行線には101系が残っており、全て非冷房車であり国鉄時代に引き続き山手線への205系投入で捻出した103系を転用して置き換える予定だった。
しかし、老朽化の進んだ101系に故障が多発した為103系の転用を待たず早急に置き換える必要があった上に、当時ステンレス車のなかった中央・総武緩行線及び千葉支社のイメージアップを図る目的から
山手線に投入予定だった編成のうち70両(Tc54〜60以下10連7本、史実のヤテ54〜60編成)を急遽中央・総武緩行線用として習志野電車区への投入に変更し、当時残っていた101系を直接置き換えたが、代わりに山手線には当面103系が残存する結果となった。
編成番号はラシ501〜507。本来山手線用であった為仕様は同線用の最新グループ(ヤテ49〜53編成)と基本的に同一で、運転台もATC対応となっていたが保安装置はATCの代わりにATS-Bが搭載された(ATCは準備工事のみ)。
後に三鷹電車区にも205系が投入(こちらは史実の通り)されたが、本グループは引き続き習志野電車区配置のまま103系と共通に中央・総武緩行線で運用され、E231系への置き換えまで同線で運用。
その後は山手車などと共に他線への転用対象となったが、現在はモハ1ユニットを抜いた8連7本が5000番台化の上武蔵野線で、残りのモハ7ユニットが3100番台に改造の上山手線・埼京線からの捻出車と組んで仙石線で運用されている。
国鉄クモハ20・クハ25 100番代
神戸電鉄が戦時国有化した際に編入された車輌。
昭和34年の車番整理で阪和電鉄系の車輌と形式が統合された。
昭和42年に行われたトンネル改築などの規格拡大と神戸〜湊川の延伸まで改造を重ね使用された。
537 :
名無し野電車区:2010/07/18(日) 00:43:19 ID:ugokwEer0
モハ715・714-100番台
九州用の715系0番台のモハだがモハネ583・582から改造されたため番台が分かれた。
538 :
名無し野電車区:2010/07/19(月) 16:58:44 ID:bd4dM5IH0 BE:1026749478-2BP(50)
JR四国2800(キサロネ)
大阪〜高知の夜行列車に連結される付随寝台車。基本編成は
2300+2800+2500+2400
G指 寝台 指定 自由
国鉄・JR西キハ53-2000番台
ぶっちゃけた話をすると、キハ65の両運転台改造車
キハ53-200番台などの改造車では、冷房を搭載してもその使用が
難しかったため、キハ65に目を付けた当時の国鉄天鉄局は、きの
くにの減便により余剰となり出したキハ65に目を付けて改造に着
手。
基本的には、運転台の増設以外にはゲテモノ要素は薄いがその増
設した運転台が問題だった。廃車となった平面窓のキハ58の運転台
を持ってきてくっつけるという暴挙をやらかしてしまったのであ
る。おかげで前後で運転台が違うなんて言う馬鹿面なことになっ
てしまった上に、接合部の車体断面の処理が若干おかしい。
完成後は関西本線亀山−奈良間に投入され後にワンマン改造を受
ける。キハ120に追い出されたあとは小浜線に移り、小浜線電化と
ともに老朽化により廃車となった。
JR西のゲテモノ改造の元祖
540 :
名無し野電車区:2010/07/19(月) 20:13:13 ID:KoY5LdyK0
クハ450
クハ153を451系の先頭車に改造。
ドアステップを増設している。
低運転台の0番台と高運転台の500番台が存在する。
JR東日本に承継されたが元々種車が古く1991年までに全車廃車された。
国鉄157系200番台、157系0番台延命工事車
昭和39年から151系、161系の181系化改造により
余剰化したMT46やCS12制御器を再利用して製造された
157系耐寒耐雪車、0番台との違いは始めから冷房装置の設置
側窓の固定化、最初から特急列車、急行列車兼任用として製造され。
急行列車に将来格下げを配慮。
製造後、急行日光、特急そよかぜ、急行伊豆、特急あまぎ
157系0番台延命工事車、0番台を200番台に準じた耐雪化や
延命工事で側窓固定化や腐食部補修改造したもの。
・国鉄サハシ157、157系のビュッフェ車で東海道特急ひびきで
初登場、また全席指定急行第三なにわでも使用。
後々上越全席指定急行佐渡や特急ときの一部で157系が使用。
542 :
名無し野電車区:2010/07/19(月) 21:53:45 ID:KoY5LdyK0
モハ111・110-65〜
国鉄で151系・161系の181系化改造時に余剰となったMT46A形モーターを流用して作った111系。
113系に合わせてMG搭載車がモハ110に変更されている。
JR西日本に承継されたものの主電動機出力が低くスピードアップが出来なかったためMT54に交換されてモハ113・112-500番台に改番され、更に110km/h対応改造でモハ113・112-5500番台に改番された。
JR西日本205系1050番台
1989年以降に阪和線用に投入された205系1000番台のマイナーチェンジ車。
車体は1000番台と全く同じ。
走行機器関連では、モーターを騒音対策として内扇タイプに変更。性能は1000番台と同じ。
運転台は221系の技術が反映され、ツインレバータイプを採用。
内装関連では、照明グローブを採用し、乗降用ドアと貫通ドアを化粧板付きのものに変更。全体的に従来の205系に「関西テイスト」を施したような感じになった。
2010年現在も阪和線で活躍中。
544 :
名無し野電車区:2010/07/19(月) 22:08:09 ID:XGcE/6Zh0
国鉄 北海道総局 キハ65−1500
パワー不足が指摘されたキハ56・27の置き換え用として昭和48年に登場した形式
本州仕様のキハ65とは違い、窓は小型化され暖房も強化された
また、座席は簡易リクライニングシートを装備し、台車位置の変更によりドアが引き戸化され
便所・洗面所設備もつけられた
122両が生産され、苗穂機関区と函館機関区に配置、こう配区間&長距離を走る急行宗谷・大雪・狩勝・ニセコを
中心に置き換えられた
また、冷房装備・簡易リクライニングシートといった豪華装備を活用し、平坦区間を走行する急行すずらんなどの
指定席車としての運用も一部実施された
なおグリーン車は現用のキロ26を使用したため、56・27系との混結が可能な設計となっている
昭和55年以降、急行列車が削減されるようになると、既存の56・27系を使用していたローカル急行などにも
充当されるようになり、一部は旭川及び釧路に配置となり、名寄・帯広などの地方都市間の快速列車などに
使用されるものと、特急とそん色のない車内設備を買われて続行の臨時特急などに使用されるものなどに
分かれていった
JR化後は、ほぼローカル運用と波動輸送用として各地方に配置されたが、最低2連からの運用ではローカル運用の
ニーズを満たさず、波動輸送もキハ183系の運用に余裕が出てきたため徐々に廃車となり数を減らし、ついに
平成11年に波動輸送用で残っていた苗穂の1編成7両が廃車となり、その幕を閉じた。
42系・52系標準軌仕様
改軌論争の末、試験運用として東海道本線のうち、関西地区の複々線区間では電車線を標準軌にすることとなった。
これに伴い、モハ42や流電などの標準軌仕様が登場した。
しかし、モーターがMT15,16のままで出力不足は変わらず、京阪P-6や阪急900に負けるという屈辱を強いられ、戦時体制突入を口実に狭軌に戻した。
なお標準軌時代、深夜にP-6や参急2200が走行しているのを見たという人が複数いたが、公式記録にはない。
546 :
名無し野電車区:2010/07/20(火) 13:01:44 ID:QCtfFida0 BE:1155092797-2BP(50)
十和田ワフ8
元はヨ8000。同社ではヲタ向けに「撮影用チャーター列車」なる企画を
実施しており、「有蓋車、できれば車掌車を」とのリクに応えるべく
長らくどこかに放置されていた同車を1円で購入して改造。元番号は不明。
座席を設置したので数名なら乗車可能。
トイレは撤去され、機器室になっている。
547 :
阪和線:2010/07/20(火) 17:00:29 ID:c0hX1EBi0
JR貨物EF510 300番台
関門トンネル用に作られたEF81の後継車である。
車体はステンレスと珍しい機関車である。
なお重連総括装置は装備されていない。
2005年から投入され2007年まで5両のみの投入であった。
国鉄キロ65
キロ28の初期車の老朽化が激しくなってきたため製造されたキハ65系
の最後を飾る新製車。ただし、機構的には目新しいところは全くな
く、車体はキロ282500代、足回りはキハ65を合わせただけというお手
軽手抜き車両。
若干数が製造され、各地に分散配備されたが民営化直前に高松と岡
山に集約され、そのままJR西と四国に全車継承された。
JR西では、急行砂丘や急行つやまに使用の後廃車、四国では土讃
線系急行に使用の後高徳系統に移り格下げ改造され消滅した。
阪和電気鉄道モヨ1000型
戦後、再民営化された阪和電鉄が、昭和28年に製造した阪和直通超特急用車両。
京阪1800より半年早くロールアウトし、日本初の鉄道線用高性能車とよばれた。
全電動車で、130kwの東洋電機製直流直巻電動機を中空軸カルダンで駆動した。
最高速度は名目上は110km/hであったが、130km/h走行も可能であった。
ブレーキは試作段階ではAMU自動ブレーキであったが、のちにHSC電磁直通ブレーキに改造された。
台車は当初はペデスタル式が採用されたが、後期車ではシンドラー式も採用された。
車体はモノコック構造の軽量車体で、丸みを帯びた車体、阪和伝統の釣鐘型窓と相まって、
その高性能ぶりとは相反する柔和な印象の車両であった。
扉は2扉で、クロスシートであったが、昭和42年3扉ロングシートに改造され普通運用中心になり、
昭和58年全廃された。
サロ182・サロ188
183系・189系は運行距離が短いことから食堂車の新製は見送られた。
しかし登場時、同区間の格下の急行列車にはビュッフェが連結されており、
サービスがつりあわないということでグリーン車とラウンジの合造車を連結することになった。
予算の都合で車体は新製されず、サシ481形からの改造車で間に合わされた。
総数はサロ182・サロ188合計20両となり、
「とき」の183系編成、中央線「あずさ」信越線「あさま」「そよかぜ」に連結された。
1976年10月に営業を開始したが、同時に急行「信州」「妙高」「アルプス」のビュッフェの営業は終了した。
中央線においては351系・257系の投入、信越線は長野行き新幹線の開業で、
183系・189系の定期運転の終了と共に当系列の営業も終了,廃車となり,
横川駅に静態保存されている189系以外は解体された。
551 :
名無し野電車区:2010/07/20(火) 19:19:37 ID:GsVtJ8q60
E237系
JR東日本が製造したアルミ製通勤型車両。
車体形状はE233系に似ているがアルミ車体となっている。
JR東日本管内でのアルミ車体の通勤車両の製造は203系以来。
アルミ車体であるために新津車両製作所では製造できず、止む無く東急車輛と近畿車輛、日立製作所で製造されている。
一部203系の車体を溶かしてリサイクルしている車両があるとも言われている。
鉄道省⇒国鉄モハ53系戦前型新造車
戦前の鉄道省で東海道本線の画期的輸送力増強とスピードアップには
全線電化と近郊区間の電車化が必要との回答、更に
イタリアで中空軸カルダン駆動の流線型特急電車ETR200の
活躍にも刺激されてまず関西地区の京都〜大阪〜神戸〜明石の
電車化に続き関東では東京〜横浜〜小田原〜熱海まで電車化して
電車が走れるようになったが、丹那長大トンネル内に電車を走らせるには
電車火災が起きた時の保安問題のため実現できずにいた。
続く。
続き更に6大都市の中で省線電車が走っていない名古屋地区の岐阜から一ノ宮〜名古屋〜豊橋市間の電化と電車運転開始
と豊川〜鳳来寺〜三信までの省線電車直通のため関東地区、関西地区から
非力なモハ43系や32系を名古屋地区電化用に転用するため
鉄道省モハ53、クハ58-100番台、サハ48-100番台
サロ45-100番台、サロハ46-100番台
上記の丹那トンネルや逢坂山トンネルの走行や長大編成化
将来の電車による高速列車の構想のため、東海道本線関東地区、横須賀線
関西地区東海道本線用に製造された新形式。
新形式モハ53はMT30(750V=142kw)を装備、更にモハ52も
MT30に換装、内装の金属化、乗務員扉設置が行なわれ
車体は長大トンネル通過を考慮し保安上全鋼鉄車体に。
更にブレーキ装置も電車列車として最大12両連結のため
省線電車初のAMUE自在弁付き自動ブレーキ装置にし
モハ52系もAMUEブレーキ装置に改造
編成は
モハ53=サハ48-100=サロ45-100=モハ53+モハ53=クハ58-100
の6両貫通幌付き編成を基本編成とする
始めて丹那トンネル通過し沼津まで電車運転開始したり。
関西地区ではこの車輌の性能を生かし今まで95km/h運転を
5km/h速度向上し、鉄道省曰内地初の100km/hの高速運転開始
と宣伝し、実際に関西地区ではP-6と高速性能で並び。
加速性能は省モハ53が勝ってたために抜き返し。
京都〜大阪間を32分運転、大阪〜神戸間を22分運転で
運行開始し、新京阪や阪神急行を青ざめさせた。
計画では更に105km/h〜110km/hまで最高速度向上し
京都〜大阪間30分、大阪〜神戸間20分運転を目指す予定だが
太平洋戦争開戦により計画は中止となる。
阪和電車線に入線しての高速運転では阪和電車と遜色ない
速度で走り持ち前の速度ては最高速度110km/hだした
という伝説がある。なおモハ53系の足回りはTR25A、TR23A
コロ軸付き、制御器はCS5を高速対応にしたCS5Aと省線電車装備だが、無理な100km/h越えの高速運転による故障が多発したとか。
保守
EF510形1000番台
JR西日本は車両検修効率化のため、寝台特急「トワイライトエクスプレス」、
及び「日本海」の牽引をJR貨物に委託することとした。
これを受けてJR貨物が投入したのがこのEF510形1000番台車である。
ATSや無線装置などが変更されているが、性能的には0番台車と差異はない。
1001〜1003号機の3両が「トワイライト」専用色、
1004号機以降が「RED THUNDER」色(識別のため金色の帯が入る)となっている。
旅客列車のほか、JR貨物所属のEF81形を置き換え、貨物列車を牽引する。
EF510PF形としてファンを狂喜させたことは周知の事実であろう。
556 :
名無し野電車区:2010/07/23(金) 02:39:05 ID:a+aielbU0
JR東日本 サヤE230
電車の非電化区間牽引用の電源確保や、
電車牽引のブレーキ協調機能を持たない通常の機関車で牽引
などで活躍してきたマニ50の置き換え用として、
山手線のオール4ドア化で余剰となったサハE230(6ドア車)を
改造の上用意されたもの。
必要な機器(非電化区間用ディーゼル発電機やブレーキ読み替え装置等)を
床上に設置したため、一部のドア部分が板で塞がれてルーバーとなったほか、
電化区間では、作業用に必要な電源を架線からとって充電するため、
パンタグラフが設置されている。
557 :
名無し野電車区:2010/07/23(金) 02:40:15 ID:a+aielbU0
JR東日本 クモヤE241
首都圏の牽引車として、長年クモヤ143・145が使われてきたが、
国鉄型世代の車両がほぼ首都圏から絶滅すると、
使い勝手のみならず、牽引車自身のメンテの観点からも、
さまざまな不便が生じるようになった。
そこで、クモヤ143・145の後継車を設計する運びとなり、クモヤE241が製造された。
鋼体はステンレスで新調されたが、ドア部分やクーラーはサハE230、
台車や運転台機器に253系など、廃車部品が多数流用されている。
また正面はE世代の旅客車と異なり、実用本位の貫通式スタイルである。
周知のとおり、近年の新系列は編成単位で管理することが多いため、
以前よりも牽引車の必要性が少なくなったことから、
製造両数もクモヤ143・145世代より少なくなっている。
旅客会社全体の機関車の取り扱いの縮小を考慮して、
ある程度の編成両数の無動力牽引も難なくこなせるよう、
高出力のモーターを採用している。
ただし、本形式は電気指令ブレーキしか対応しないため、
電磁直通ブレーキや貨車の場合は、ブレーキ読み替え装置を備えた、
サヤE230をはさんで運転される。
558 :
名無し野電車区:2010/07/23(金) 17:34:01 ID:s41abffV0 BE:366696645-2BP(50)
つくばエクスプレスTX−5000系
特別快速専用の交直流両用車。
最高速度130km/hは他の車と同一。
ただし、普通車は座席定員制のため乗車整理券が、
特別車(JRのグリーン車に相当)にはプラチナ・チケットが必要。
国鉄D51形貨物用蒸気機関車戦後形
昭和20年の終戦から昭和24年のドッジラインまで貨物用蒸気機関車の
製造は中断され、更にGHQからマッカーサー機関車を
無理矢理押し付けられるなどの惨状だったが
1950年の朝鮮戦争勃発から、老朽蒸気機関車の置き換え
のために。
C59、C57、C58、C11、C12の戦後形の製造再開と共に。
貨物用蒸気機関車の製造再開としてD51形の製造再開したもの。
車番は1200番台となる、戦前形、戦時形D51形との違いは。
メカニカルストーカー(自動給炭機)を装着、ボイラーに
燃焼室がある、軸重14tに戻される。
更に戦後形D51形1200番台は合計1950〜1952年まで
50両が製造され、更に戦後形D51をベースに従台車を2軸に
した戦後形D61も50両製造したため。
当初のD50形をD60形に改造する計画は計画中止になった。
製造後は各線区で主に貨物輸送に活躍し、状態良好な事から
廃車は昭和45年から始まり昭和51年の蒸気全廃まで活躍し。
保存機としてJR北海道のD51-1201、JR貨物のD51-1250
JR東日本のd
続き、JR東日本のD51-1231、JR西日本のD51-1221、
JR九州のD51-1240、何故か台湾に渡った後も日本時代の
車番のD51-1210が動態保存されている。
貨物のD51-1250はイベントで貨物列車を牽引したり、
入れ替えイベントや、重油やアルコールなどの燃焼試験機も兼ねて
JR貨物に在籍動態保存。
東武鉄道9600形蒸気機関車
戦後、東武鉄道は貨物輸送の電化と明治時代の蒸気機関車置き換えを
計画したが、昭和20年代前半の終戦直後ではそれも適わず。
止むなく明治時代の古典蒸気機関車の置き換えとして。
戦後国鉄で余剰になった9600形蒸気機関車の払い下げを
受けたもの。
払い下げ譲受は昭和24年〜昭和27年まで行われ。
明治時代の古典蒸気機関車の置き換えに貢献したが。
東武鉄道職員からは力があるがスピードが出ない、
サイズがデカく支線の貨物列車には使い勝手が悪いとか。
そのため昭和32年から東武鉄道形電気機関車の増備と
貨物輸送の電化が始まると、伊勢崎本線、日光本線、東上本線など
主に本線の貨物輸送に活躍していた9600形蒸気機関車は真っ先に
置き換えの対象となり、昭和40年に全車廃車された。
562 :
名無し野電車区:2010/07/24(土) 09:06:04 ID:DubjW9wg0
age
国鉄C64形試作旅客蒸気機関車
戦後国鉄は電化計画を発表し蒸気機関車を置き換える
計画であったが、南アフリカ国鉄の1829mm動輪で1067mm
軌間では世界最速の最高速度113〜115km/hで走行した事。
太平洋戦争中占領したインドネシアのC53機関車も四シリンダー複式ながら。
最高速度100km/h〜110km/hで運行していたのに。
計画では1850mm動輪のKC51、KC54を計画していた国鉄は
刺激されて。
おりしも製造再開していた戦後形C59、C60新造を
ベースにKC51、KC54の1850mm動輪を採用し。
2軸従台車、燃焼室付16kgボイラーで近代化し。
ブレーキ装置を先輪、動輪、従輪に両抱き合わせ式にして
強化し、最高運転時を日本内地の1067mm最速の110km/h運行を
目標にした物。
1950〜1951年にかけて試作試験機関車として
C64-1、C64-2が製造され、ただちに客車を牽いて高速試験に
使われた。
スハ42系客車を10両牽いた場合は最高速度110km/hを達成し
客車7両牽引した場合は最高速度120km/hを達成。
そしてC62が機関車単機で129km/h出した事に刺激されて。
スハ42系客車4両牽引で125km/h、そして機関車単機では133km/h
の狭軌1067mmでは南アフリカ、インドネシア、ニュージーランド、を越えた記録をだした。
後々ナハ10系客車編成や20系客車編成をC64形蒸気機関車に牽引させて
最高速度120km/hの高速試験をやる予定だが何故か中止にされた。
564 :
名無し野電車区:2010/07/25(日) 11:21:32 ID:BxkjxFQE0
鉄道省 EF52−500
昭和5年、北海道の石炭輸送状況はひっ迫しはじめ、特に夕張から室蘭への列車本数は
上限に達しつつあった
そのため、増発よりも1列車あたりの輸送量を増強するため、蒸機による重連運転などで対応
していたが、運用効率その他の問題もあり、抜本的な対策を施す必要性が認識された
そこで、当時の鉄道省では技術革新著しい電気機関車に目をつけ、夕張〜室蘭間を直流電化
することとなり、そこに投入されたのが同形式であった
酷寒地向けではあったが、気候が比較的温暖かつ積雪量も少ない地域で、平坦区間がほとんどのため
絶縁関係の防水強化と旋回窓化程度の付加装備で投入され、特に大きなトラブルもなく石炭輸送の
増強効果が発揮された
昭和16年に太平洋戦争に突入すると、さらなる石炭増産のために重連運用されるなどいろいろなエピソードが
生まれ、戦後もしばらく活躍していたが、老朽化と他列車との速度差が問題となり昭和40年に登場した酷寒地向け
EF65−500の投入により、昭和45年までに全廃された
現在、小樽の鉄道博物館に1号機が静態保存されている
565 :
名無し野電車区:2010/07/28(水) 15:26:51 ID:SZqP6++I0
サルE231
サハE230-500番台の台車や部品を流用して作った大型ダンプトロ。
保線機械扱いではあく車籍があるため線路閉鎖なしで走行できるのが特徴。
566 :
名無し野電車区:2010/07/28(水) 15:27:46 ID:SZqP6++I0
>>565 訂正
保線機械扱いではあく→保線機械扱いではなく
567 :
名無し野電車区:2010/07/28(水) 21:22:48 ID:SZqP6++I0
EF81形350番台
国鉄が1985年に製造したEF81のステンレス仕様。
車体構造の変更により300番台とは異なりコルゲートが極限まで減らされ、205系のようにリブが3本あるのみである。
568 :
名無し野電車区:2010/07/28(水) 21:42:59 ID:SZqP6++I0
>>484 423系900番台
国鉄が製造した423系のステンレス車体バージョン。
こちらはオールステンレス車体である。
先頭車はクハ421-911・912を名乗っている。
やはり後年塗装されてしまっている。
こちらは2001年まで残存。
569 :
名無し野電車区:2010/07/28(水) 23:20:09 ID:5E5Fw6/80
国鉄 北海道総局 781系9000番台
国鉄末期、1年後に開業を控えた青函トンネル用に製造されたオールステンレスの
交流専用特急車両
完全無塗装で、早い話が銀ピカの781系である
「気持ち悪い」と不評だったため、登場後1週間で窓枠周りと先頭に赤いステッカーで特急色風に
されたが、いまいちだったため、青函トンネル開業時には普通の特急色に塗装された
現在でも8編成48両が現役である
>>569 9000番台って何か試作車っぽいw
JR北海道703系電車
1998年、JR東日本から103系を購入し、交流化改造のうえ札沼線に投入した。
4両編成で、交流機器は先頭クハに積まれ、ここにパンタグラフが設置された。
耐寒性を高めるため、戸袋窓は埋められ、外観は西日本の103系N40車に似る。
また冬季は中間の扉2つは開かず、実質2扉車として運用される。
もっとも着雪による機器トラブルが多く、731系が投入された後は夏季のみの運用となり、
2008年までに全廃された。
571 :
名無し野電車区:
JR北海道723系
快速「海峡」の客車の置き換え、合理化、サービス向上、速度向上を目的に製造。
早い話、721系を2扉にしたような感じの車両である。
731系をベースとしたIGBT-VVVF(MT723)を採用し、青函トンネル内での運行(特に故障など)に備えるべく2M1Tの3両編成を組む。最高時速は130km/h。
中間車は指定席でリクライニングシートを備えたuシート。普通車は転換クロスで、デッキ付近には吊り革も設置。