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名無し野電車区:
鉄道省 スイネ30000系
第一次世界大戦も終わり、日本は戦争特需で潤っていた。同じく戦火をまみえなかったアメリカで
旅行ブームが巻き起こり、日本にも客船を仕立ててやってくるようになっていた。
しかしながら、東京以外に大量の外国人を受け入れるだけの宿泊施設はなく、当時の日本旅館では
到底アメリカ人をはじめとする西欧人の生活習慣に合うものではなく、トラブルが頻発していた。
日本政府は、外国人受け入れ可能なホテルの建設を奨励していたが、毎日外国人が来るわけもなく
当時の日本人にはまだ敷居も高いため、日常の採算割れが心配され、遅々として進んでいなかった。
見かねた当時の政府は、鉄道省に対し、移動式ホテルとなりうる列車の作成を指示し、外国人客への
対応をすることとなった。
大正10年、その期待にこたえるべく、当時ヨーロッパ随一と言われたワゴン・リ車の寝台車を参考に
1両の定員がわずか8名という、豪華個室寝台車スイネ30000と、シャワー室とラウンジを備えた
スイ30000、フルコースが提供できるだけの大型テーブルを備えたスシ30000、そして食糧庫と
してのスニ30000、給仕や食堂要員の休憩室を備えたスヤ30000、といった一連の車輛を製作した。
これらは、チャーターのクルージングトレインとしてスイネ8両、スイ1両、スシ2両、スニ1両、スヤ2両に
手荷物用の一般の荷物車2両の総勢16両を1編成として運用し、日光や京都・奈良といった観光地を
走り回った。
また、外国人観光客がいないときには、不定期「富士」として、定期富士の10分続行で運行されたりも
して、洋行帰りの日本人や外国人客に好評であった。
その後、昭和に入り地方都市のホテルも充実しはじめ、更に戦争などもあり昭和17年にはほとんどの車輛が
普通車や荷物車に改造されてしまった。
しかし、その設計思想は現在でもJR東日本のE26系などの豪華寝台列車に引き継がれている。