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名無し野電車区:
ローマ市内人力鉄道(ferrea roma)
厳密に言うと鉄道ではなく石道ではあるが、新交通システムやガイドウェイバスを鉄道に含むことをかんがみここに記す。
BC100年ごろ、馬車や荷車による摩滅で道路に自然発生した轍を利用し、通常の車より高速で走る輸送手段として発明された。
ローマ市内は坂が多く、また馬でははみ出したり、カーブなどでの制御が難しいということもあって車夫が牽引するようになった。
車体を連結して数名で牽引したり、続行して走る(続行を記す板をつけていたことが当時の資料に描かれている)こともあった。
軍事移動に支障が出ないように軍の訓練や移動には使われない裏道を利用することが多かった。
衝突を避けるため、同業者での交通ルールなどの合意が進み、BC70年頃にはすでに経営者の組合があったとされる。
車夫は当初奴隷が用いられたが、人気が出たため徐々に市民の仕事となり、当時のローマ市民の憧れともなった。
カエサルは晩年「もっと早く市民の仕事になっていたなら、私も車夫になったであろう」と述べたという。
車体には椅子や屋根がつけられるようになり、雨天でも乗車が出来るようになった。また車輌は組合の共有品であった。
車輌の装飾は車夫たちに認められた特権として尊重されていた。アウグストゥスの出した法令には「車の持ち主といえど車夫に許可なくして装飾を取り除いたり変えたりしてはならない」とある。
神々や自分の出身地を描かれるものが多かったが、中にはエジプト風のデザインにしたり、当時の剣闘士を描いた車輌もあったという。
路線は市内各地に及び、なかでもコロッセオ〜カラカラ浴場や現在のテルミニ駅からバチカンまでを走っていたものは現在の鉄道同様にダイヤを組んで定期運行したという。
ローマの衰退とともに忘れられていたが、19世紀の発掘で車体や車庫の遺構が発見され、存在が再び知られるようになったのは有名である。
19世紀のローマ史研究の大家・モムゼンは「惜しいのは2000年前この鉄道の祖を生んだ偉大な人物の名が残っていないことだ」と記している。