【常磐線】我孫子駅2【成田線】

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52名無し野電車区
>>4
「成り上がりの柏」が我孫子を格下に見るのが許せないなら、この種の一部我孫子市民は
旧布佐町民に半万回謝罪するか、または旧布佐町の独立回復を主張すべきだな。
そうでなければ、この種の一部我孫子市民はただのワガママなクズ野郎だ。


江戸期〜明治後期までは、町の隆盛の面で旧布佐町>旧我孫子町>旧湖北村の順位だった。

ところが常磐線開通(1896年12月)により、我孫子は近代への本格的な出発を始めた。
舟運から鉄道への交通輸送の転換は、旧我孫子町において
大規模な生糸・工作機械工場の操業や、東京文化人の別荘地化などの近代化を推し進めた。
それは大正〜昭和初期において、
町の隆盛の面で旧布佐町と旧我孫子町の地位の逆転をもたらした。

つまり旧布佐町民からすれば我孫子も「成り上がり者」「汽車成金」にすぎなかったわけだが
町の隆盛の面で逆転されてから半世紀もたたないうちに旧布佐町は旧我孫子町に吸収合併された。


一方、明治後期まで一農村にすぎなかった柏は、常磐線開通(1896年12月)・
〜野田町の鉄道開通(1911年5月)・〜船橋の鉄道開通(1923年12月)により交通の要衝となり
大正末(1926)年9月には町制を施行し、昭和戦前期には町の隆盛の面で流山・我孫子を抜き去り
戦後期には既に町の隆盛の面で松戸・野田に次ぐ域内列強の地位を有していた。
その後の変貌は周知の通りなので割愛する。


我孫子が凋落しても長年、国鉄は特急・急行の全てを柏通過・我孫子停車にしてきたのに
一体そのあいだ我孫子は再起を賭けてどのような手を打ってきたというのだろう。
何もしてこなかったではないか。 天は自らを助けざる者は助けない。 自業自得だ。