常磐線総合スレッド17

このエントリーをはてなブックマークに追加
283名無し野電車区
ttp://www.arc.or.jp/ARC/200310/ARC03.10gatu/03.10ronnsetu.pdf
『茨城の鉄道とつくばエクスプレスの可能性』
●明治時代からあった鉄道構想
つくばエクスプレスのような茨城県内の鉄道構想というのは、実は明治時代から幾つもあって、
その中ではちょうど今のルートのようなことも提案されていたのです。
歴史的に見ると、明治2 0年前後に常磐線が最初にできたときは今の水戸線で小山から笠間を
通って水戸駅まででした。その次は友部から分かれて土浦まで、その後に日暮里から土浦と行き、
その後常磐までというふうにつくられたのです。
どうして最初に小山からかというと、利根川を橋梁で渡るというのはまだ土木技術としては非常に
難しい。東北線が最初に栗橋のところで渡ったので、それからブランチしていけば一番早いという
ことだったのです。技術的にも経済的にも長い橋をつくるのがかなり困難だったというわけです。
現在の常磐線のルートの要因は徳川家康にまで遡ります。徳川幕府にとって本当に危険なのは身
内と考えた家康は御三家を作るわけですが、尾張と紀州は箱根の山で防げるけれど水戸は何もない
というので、その間を直轄領と藩領とに小さく分割して相互監視させました。明治になって常磐線
をつくろうとしたら旧直轄領と旧藩領が入り乱れていて、みんな鉄道が通ることをいやがった。一
番典型的なのは流山や龍ヶ崎といった江戸時代に米の集散地で水運で稼いでいたところで、迷惑施
設はいらないと言うのでやむなく柏を通ることになった。我孫子の端や龍ヶ崎の端というように藩
領の間を抜けているのが原因で、線全体がうねうねとしている訳です。

●首都圏計画と5方面作戦
戦後、昭和3 1年になって首都圏整備法ができますが、最初の首都圏計画では2 3区の人口は
2 5 0万人で、それがいずれ3 5 0万人になるような計画をしていたのが、整備が始まった瞬間に3 5 0万人を超えてしまったのです。圧倒的な人数が地
方から東京へ集中した結果、農地を全部宅地化し、人を運ぶための鉄道を整備してどんどん輸送力を
増強しました。この時期に対応を誤れば、今の東南アジアのような不法占拠に基づく不良住宅みた
いなことが起こりかねなかったのです。
284名無し野電車区:05/01/23 00:20:07 ID:tmwfaMcE
国鉄はそうやって首都圏の中の鉄道整備をやってきたのですが、今までの線路を改良し列車を長くするとい
う輸送力の増強だけでは間に合わないということになって、昭和3 0年代に5方面作戦というのを
つくったのです。東海道線、中央線、東北線、常磐線、総武線、それが5方面です。複線を複々線
化し、それぞれ既存の線にもう1線つくるというコンセプトで政策を進めました。ただし、その中
で常磐線だけは水戸と東京の間が非常にくねくね曲がって線として効率が悪く、距離の割にスピー
ドを出せない。だから常磐線だけは別線。要するに従来の線に張りつけていくのではなく全く新し
いところに通しましょうということになった訳です。ただし、そのころは線がどこかというのはま
だ誰にも示していませんでした。

●筑波研究学園都市開発と鉄道の検討
筑波研究学園都市建設法が4 5年に成立しますが、その計画をつくったのは昭和4 0年ぐらいか
らです。つくばをどういう街にするかというときに、研究機関だけの移転で住宅は周辺都市にとか、
幾つかの議論はあったのですが、最終的には全国で初めて職住近接型の学園都市をつくろうという
ことになったのです。そうなると、地域内の足とそこまで行く足をどうするかが問題になる。ちょ
うどそのころ東海道新幹線ができて、角本良平さんという人が『通勤新幹線』というのを文藝春秋
の新年号に発表しました。東海道新幹線のやり方を首都圏にアプライすると、途中駅をとめずに新
幹線を引けば遠い地域でもそれほど不便でない宅地の大量供給ができる。その土地に建設費を乗せ
れば可能だというので通勤新幹線構想というのが出てきたのです。
この構想は、実はその後の全国新幹線網計画という中に幾つか残っています。今の成田空港、JRと京成線が入っているところは実は成田新幹線
のための構造物なのです。今、新幹線が走るなど
というのはとても世論に耐えられないのでJRと京成が使っているわけです。
そんな中、「常磐新幹線」をつくろうかという話も実はいっときあり、計画は書かれていたので
す。
285名無し野電車区:05/01/23 00:21:48 ID:tmwfaMcE
東京側のどこかを基点にして最初の駅はつくばになるわけです。学園都市の中のセンター地区
あたりが駅ということで、つくばに鉄道が来たら駅はここだという場所はそのころ決めたのです。
そこは公団の処分用地として確保して、建物とか変なものをつくるなとリザーブしておいたのです。
こうした中で、新幹線はだめだけれども5方面作戦の一環というので第二常磐線という名前がつく
わけです。別線だから常磐線ではないよという意味で。それでどこを通すかという話が具体的に
なってきたのです。

●科学万博をきっかけとした鉄道検討
昭和6 0年に万博をやろうという話になってくると、これをきっかけに鉄道建設の話が本格化し、
万博をやると決めた1 0年前、昭和5 0年ぐらいにはどこを通すかという話が始まりました。そのと
きに検討されたのは、上野から柏までは混雑緩和だけれども、柏から茨城県へ入って後の話は混雑
緩和ではない。そういう開発がないというので、開発適地やルートなどいろいろな議論をしたわけ
です。そういう意味では、当初から柏を境に明らかに性格が違う線路ということで計画が考えられ
たのです。
運政審の昭和6 0年1 0月の答申には柏までは混雑解消だとしてあり、そのときに第二常磐線から
常磐新線という名前に変わっています。柏までというのが運輸省の原案で下手をすると利根川を渡
りません。どうしたらいいかという中で出てきたのが、鉄道で一番困る車両基地を提供すればそこ
までは線が伸びていくというアイデアです。鉄道の開業を考えると、車両検査とか走行試験とか最
初に車両基地でいろいろな仕事が出てくる。ただ、車庫は金を生まないので経営上は一番最後につ
くったほうがいい。茨城県が守谷に車庫を提供するということがあって、答申には守谷までとなっ
た訳です。
他の鉄道新線、例えば東急の田園都市線とかは開発の段階では一番終点のお客さんは見えないの
が普通です。常磐新線のように既に終点に学園都市というあるオーダーのお客さんが見えているの
は非常に魅力なのです。だけど、その間の全くの農業地帯をどうするのかが見極められないと鉄道
はつくれないというのが当時の運輸省の考え方です。その区間は開発動向を見ながら考えるという
答申なのです。
286名無し野電車区:05/01/23 00:24:44 ID:tmwfaMcE
●宅鉄法の成立
そこで、平成元年に宅鉄法(「大都市地域における宅地開発及び鉄道整備の一体的推進に関する
特別措置法」)が登場するわけです。宅地開発と鉄道を一体化するというのは、鉄道の用地を確保
するだけでなく、そこからお客さんが発生してこないとまずいという意味です。鉄道が来ると周り
の土地が上がる。その値上がり部分の半分以上は鉄道が来たからだからその開発利益を鉄道に還元
すればいい。沿線を土地開発するのは区画整理で事業者を募る、鉄道事業者は指定した区画整理の
中ならどこでも土地を買っていい。要するに通したい場所の土地を買う必要がない。今まで鉄道が
苦しいのは、線路の場所そのものを買わなければいけないところです。区画の中のどこでも好きに必要な面積を買えば予定線のところに区画整理の
換地をしましょうということで、開発利益を還元するということを入れた新しいつくり方というの
で進めましょうという話だったのです。
宅鉄法が出てきた時代背景を考えると、宅地を供給すれば間違いなくさばけるという時期でした。
少し後には首都圏内で年収の5倍以内の住宅を提供していくという公約も出てきた。ですから、か
なり大量に宅地開発をしても需要はあるという状況です。まだそのころは今の少子・高齢社会というのはみんな読み切っていないし、日本全体とし
てはそういうことが起こっても、首都圏にはまだ来ないと考えていました。

●民間の動き(プロジェクト推進協議会)
民間では、常磐新線プロジェクトの推進協議会が立ち上げられて様々な検討が開始されました。
しかし、本当に鉄道会社を設立したころから、どうもバブルが危ないという状況になってきたので
す。会社が立ち上がった段階で事業計画は固まっていた訳ですが、本当に新線はつくれるのかとい
う雰囲気が出てきており、バブル時の計画は既に見直しが必要となっていた訳です。
さらに、会社設立の段階では市町村や県の資金
287名無し野電車区:05/01/23 00:26:32 ID:tmwfaMcE
負担は前提だったし、会社ができないと鉄道側は土地の先買いはできない。宅鉄法ができたから県
とか都市公団が土地の先買いに入れるわけです。ですから、土地を買い始めていよいよ事業という
話になったときにちょっと情勢が違ってきたことと、地域によって先買いの値段が余りにも違いす
ぎるという状況も生まれてきてしまったのです。つくばの人たちは学園都市やバブルの経験があり
ますから、それに比べて今度の開発は条件が悪いというプレッシャーがかかってきます。先買いの

土地の値段を幾らにするか、何割先買いするかということでは四苦八苦している。場所によっては
買値で3倍以上の開きがあり、具体的な処分の話になると難しくなってくるでしょう。
民間も最初は、土地が供給されればその土地を買ってディベロッパーとして幾ら儲けるかと計算
をしていったのだけれども、どうも状況がおかしい。推進協議会でも最初は儲ける話の繰り返し
だったけれども、その前につぶれては困るからということで民間の出資金も集めることになりまし
た。茨城県サイドでも産業会議をつくったりしましたが、そのころはこれで儲かるという話がなか
なかしにくい状況、そう安直にはいかないという状況になってきていたわけです。

●つくばエクスプレスのインパクト
それでも、鉄道のプロジェクトとしては、全く何もない所から6 0キロメートルに及ぶ新線建設
というのは2 0世紀最後、あるいは2 1世紀でも最後かもしれないという大きなプロジェクトなので
す。また、全線がこんなに短期間に完成する鉄道も例がありません。
宅鉄法によって開発利益を鉄道に還元していくというのが難しくなってきたというのはあるので
すが、それはそれとしても、鉄道自体を敷いてそれを動かすということについては、再来年の秋に
開業が予定され工事も進んでいます。
今、つくばエクスプレスの一番有利なところは、東京都が秋葉原に非常に力を入れて、メディア系
の世界的なセンターにしようとしているということです。それから、柏には東大のキャンパスの移
転が着々と進んでいます。我々が柏周辺の開発構想を開始したときには通信所跡地というだけでし
た。
288名無し野電車区:05/01/23 00:27:47 ID:tmwfaMcE
本当に誰が買えるかといったら、警察官の射撃訓練、麻薬対策と千葉大の園芸の移転しかなく
て、大蔵省時代の処分審議の中ではそう決めたのです。我々は、もっと常磐新線のイメージアップ
になるものをという検討を進めていく中で、後になって初めて東大が移転してくるという話が出て
きたわけです。
一方つくばは、1 9 8 5年の科学博効果によってオールジャパンではなく世界ブランドになりまし
た。今でも、例えば九州の人に「茨城県」と言うと「東北のどこか」と聞かれますが、「つくば」
と言うと「知っている」というし、海外でも「T s u k u b a」はグローバル・ブランドです。外資系の研究所が日本に立地しようとしたときに、土
地があるならすぐに買えと言ったのは、日本中でつくばと富士山麓の2カ所だけでしたし、現在で
は3 0 0社ぐらいの民間研究所がつくばに集積しています。
そういう意味では、つくばに一つのコアがあって、柏にある東大と、秋葉原のI Tセンター開発とがこの線のキャラクターを決めることになるで
しょう。2 1世紀の日本の産業から見ると、ITとか、ゲノムとか、ノーベル賞をとっているよう
な材料部門とか、そういう新しい産業を支える研究機関があるということは非常に強力な味方です
から、そういうものを沿線の整備と開発にうまく活かしていかなければいけないでしょう。
289名無し野電車区:05/01/23 00:29:29 ID:tmwfaMcE
当初、新線を敷くのに当たっては反対運動もあり、余り人が来ると困るという意見もありました。
ところが、最近のアンケートをみると建設促進を望む声が圧倒的に強くなってきました。住んでい
る人の中にも意識の変化があって、新しい人たちが来るということも覚悟しよう、それならもう
ちょっと違うチャレンジをするかということもあるのではないかと思います。駅や車両が現実に目
に見える形になって初めて、どうやってプラスに使うか考えるところが出てきたのではないでしょ
うか。
ただし、鉄道が敷かれても周辺地区の開発というのは待っていて進むものではありません。誰か
にお任せして進むとは訳ではないので、ある種それなりの魅力づけ、味つけをしていかないといけ
ないのだと思います。

●つくばエクスプレスの課題−外からの眼を意識した新しい沿線イメージを創出する−
今後は、この新しい鉄道を茨城全体として生かす手だてを考えて行かなくてはならない訳ですが、
これはそう簡単な課題ではありません。しかし、駅や開発地区がある市町村ばかりでなく、近隣の
市町村や県内の観光地もアクセス環境がよくなる訳です。エクスプレスをうまく使える町と使えな
い町とでは大きな差が出るでしょうが、それは自分たちがどうするかであって誰かに頼ることでは
ないということを言っておかないといけません。もちろん周辺市町村が連携して利用を考えること
も有効でしょう。
しかし、なかでも一番重要なのは、沿線開発をしたときにどんな企業が立地し、誰が住むのかを
考えることです。もちろん、つくばや県内の企業が沿線に立地する、県内の人たちが新しい駅周辺
に住む可能性は大きいのですが、それだけでは茨城県のためになりません。本当に来て欲しい人た
ち。今は他県に住んでいる人や企業たちがあそこなら住みたいという沿線なり鉄道の“イメージ”
を創らなければいけないのです。
私自身は、鉄道会社が免許の名前を常磐新線で登録したことに非常に不愉快な思いをしていまし
た。「磐」城に行く線ではないのですから、そもそもが常磐線ではないのです。さらに、常磐新線
と名乗れば他の地域の人たちはそこに常磐線のイメージを重ねるでしょう。
290名無し野電車区:05/01/23 00:31:57 ID:tmwfaMcE
5方面の中でも総武線と常磐線のイメージは極めて悪い。夕方の列車に
乗れば車座で花札、イカと酒のにおいという常磐線のイメージを引き継ぐことにつながるわけです。
つくばエクスプレスという名前は公募ですが、一番の決め手はこの線名を支持したのが神奈川の
人だという事実なのです。地域外の人たちに良いイメージを持ってもらえる名前が選ばれたという
ことです。つくばエクスプレスは茨城だけのものではありません。そういうことにもっと敏感にな
る必要があるのです。今後開業までの2年間にできることは限られて
はいますが、これから決まるであろう駅の名前なども、茨城内だけの発想ではなく、外部からの発
想や視点を重視し、従来の「茨城」「常磐線」のイメージではない、新しい鉄道のイメージをどの
ように創り上げていくのかという戦略が最も重要だと考えています。
つくばエクスプレスは茨城だけのものではありません。つくばエクスプレスの今後を考えるに当
たっては、常に「外からの眼」を意識していく必要があるのです。

財団法人 計量計画研究所 理事長黒川 洸

長文すみません。常磐線とTXに関して重要な内容(既に知ってると思いますけど)で、これから常磐線を話す中で重要だと思いました。
PDFファイルで読めない人もいると思うので。