【戦前形】東武の旧型車両【57形・78形・・5000系】
102 :
小倉川砂利線:03/05/02 10:46 ID:uJoT6WxG
あ、70=95さんからフォローありましたね。失礼しました。
慶應鉄研の『私鉄ガイドブック』(1967年初版)の記述は誤りが多い
ので、ピクトリアルの解説とクロスさせて調べたほうがよいようです。
103 :
名無し野電車区:03/05/02 13:27 ID:ll0m9R33
>>101小倉川砂利線さん
レスありがとうございます。私の見た5490の写真は保育社の私鉄の車輛
(ネコからの復刻版)24 東武鉄道に掲載されていたもので、昭和35年
西新井工場で撮影されたものです。この時期はまだ荷室(郵便室)は
健在のようですね。
実は>88ではうっかり書き忘れてましたが、モハユ5490とモハニ5470は後に
モハになっていますが、1969年の撤去というのはそのことですね?
で、私がよくわからないと思うのはその前の時点で、例えば
モハニ5490になる前にこの車輛は
クハユ6→デハニ1→デハ87→モハニ5470→モハユ5490となっていたと思うのですが
このデハ87になっていた時期というのはどういう状態だったのだろう?
ということなのです。他のモハニ5470も一時的にデハ88や90、92という番号が
与えられている時期がありますが、荷室扉はそのままに客室としてつかって
たのだろうか?とも思うのですが・・・
うーん。ピクトリアル増刊、やはり何とかして手に入れるべきですよねえ・・・・・
105 :
小倉川砂利線:03/05/02 22:03 ID:PK+arE3e
64=88さん
ここらの「前期合造車」あたりがいちばん難易度が高そうですね。ピクトリ
アル115号東武特集の青木栄一・花上嘉成さんの「私鉄車輌めぐり」の記述で
は、「この車は戦前は(中略)目まぐるしくようとを変えたが、外観を左右
するような大きな改造は経験せず、デハ8形であった時期(デハ87のこと)も
独特の荷物室扉を閉切りにして、その部分に普通のサイドシートを設けただけ
であった(仕切そのまま)」とあります。
すなわち、ご想像のとおり、外観は1969年まで基本的に変わらなかったとい
うことのようです。1969年の改造は荷室扉を潰し、客用扉と窓を増設していま
すので、ここで初めて外観が変わり、しかし4年後には3050系に更新されてし
まうという顛末だったようです。
107 :
1:03/05/03 10:00 ID:y4NP/Ttk
皆さんこんにちは!!色々と情報有り難うございます。
自分の知らない事ばかりでかなり勉強になりました^^。
自分は模型もやるんですが、5800系を作ろうと思うんですが
前照灯二灯化・クリーム化後の末期の姿で再現しようと思って
います。どなたかその当時の編成の組み合わせ・詳しい車両形態
または資料をおもちの方、教えてくださいm(__)m
>>105小倉川砂利線さん
たびたびありがとうございます。なかなか奥が深いですね。
勉強になりました。
>>107 5800晩年の姿がのっていて入手しやすいものというと
私鉄電車のアルバム1Bですが、ただし模型化の資料としては
ちょっと不十分だと思います。
なお最晩年の編成は5800-345-5801-344だったと思います。
345、5801は運転台機器が撤去されていました。
凄いスレだね、ここは。
旧型車が異常に多形式で膨大な両数だった、という私鉄は
他にも近鉄や名鉄がある。
だが、両社は極めて多くの私鉄の合併によって成立したものであり、
例えば近鉄なら大軌・参急系、伊勢電系、大鉄系、奈良電系など、
また名鉄なら名岐系、愛電系、美濃電系、三河鉄道系などと、
旧会社毎にある程度の車両体系があるので、
一見複雑な各車両形式も、実は案外把握しやすい。
しかし、東武については、はっきり言って手に負えない。
ほとんど自社1社で半ば場当たりに造り上げた形式体系が
余りに複雑で理解できない。デタラメ過ぎる。
このスレに書き込んでいるエキスパートたちの文章を読んでも
なかなかぴんと来ない。旧国や関西私鉄ならまだわかるのに……
東武型華やかなりし頃の昭和30年代の東武の社史を
一度読んだことがあるが、余計に混乱しただけだった。
当時の浅草駅には、こんな魑魅魍魎が当たり前のように
出入りしていたのか、と思うと頭痛がしてくる。
デッカーって手動加速でしたか。
私は電動式のALかと思っていたが、それじゃ1M2Tは無理か?
そういえば長野電鉄にデッカー車が昔いたけど、あれも東武の払い下げ
だったのかな?
63系導入に伴う供出車だな。
112 :
70:03/05/05 14:50 ID:gBRnh4ld
>>110 そのとおりでつ。戦後63系(7300)を導入した代わりに、
長野電鉄にはデハ3形11〜13(大正15年製ホハ51〜53客車の電車化)が
昭和23年、モハ131〜133として転出していきますた。
その他には、
上信電鉄…デハ1形3・4(大正13年製、東武初の電車で正面5枚窓のダブルルーフ)
→昭和22年、デハ11〜13として転出
新潟交通…デハ1形6及びデハ2形7・9(大正14年製、正面5枚窓でシングルルーフ)
→昭和22年にデハ17(旧デハ7)・19(同6)、昭和23年にデハ18(同9)として転出。
後年、車体を日車標準車体に載せ替えますたが、足回りはそのままに
同線廃止まで活躍していますた。
上毛電鉄…デハ2形10
→昭和23年、モハ81として転出。
上田丸子電鉄(上田交通)…モハ1001形1003(昭和4年製、旧総武鉄道)
→昭和22年、モハ1001として転出。
高松琴平電鉄…モハ1001形1001・1002及びクハ1200形1201
→昭和23年、モハ710・720、クハ910として転出。
クハ910は後に電装してモハ730、さらに再び制御車化してクハ880となり、
つい最近まで現存していますたな。
(仏生山に留置していた頃、見たことがあります。)
制御装置は、デハ1・2形がウエスチングハウス、デハ3及びモハ1001がデッカーですた。
他社に転出した東武の電車は、野岩・会津鉄道用6050、上毛に逝った3000系列、
岡山電軌に逝った日光軌道100系、草軽に逝った伊香保軌道車両を
除くとこの13両しかありません。
>>109 デッカーは逆転レバーの位置によってHLにもALにもなります。
ただ、私が見た限りでは東武においてALで使用していたのを見たこと
がありませんですた。
113 :
110:03/05/05 15:35 ID:t+xgURD6
>>112 ありがとうございます。デハ3型ということは
>41のリンク先の31に出ている車両と同形ということですね。
114 :
70:03/05/05 16:14 ID:xNu2tdBl
>>113 あ、これは私の書き込みでわないでつか。(w
そうでつ。あの写真と同型でつ。
115 :
常磐線の72系 ◆TQE73cz2Nk :03/05/05 18:14 ID:o/BF0xdF
ようやく鯖が復旧した様ですね。
>>109 確かに東武の旧型車、特に3000系列に更新されたグループは複雑と言うか、解り難い処が
多いのですが、そこが私などは面白い処だと思いますよ。近鉄や名鉄等は案外把握しやすいと
おっしゃいますが、東武でも旧形式(デハ1〜)毎に見ると結構まとまって把握できると感じます。
東武博物館に行けば、デハ10の模型が置いてありますね。
しかも番号は、戦災に遭ったデハ103。
90年12月ピク増刊号の今野智氏著「デハ10系とその頃の東武車両」を
何度か読んでいるうちに、デハ10系が東武の中で、非常に劇的な
車両なのかがかいま見れ、東武博物館で模型を見つけた時は、
感激して20分くらい車両を眺めていしまいました。
後日、日光線で3176Fに乗れて「これがデハ10系なんだ〜」と思って、
家に帰って調べてみたら、実は58系のだった、というのを知って、
損したような得したような…(w
でも、実際のデハ10系の下回りは3050系だったんですよね…。
東武博物館としては、交通博物館に置いてあるDRCも欲しいのが
本音だったりして…。
クハ1型、というのはデハ2型と同形の筈ですが
デハ1型からクハ1型になったやつとか逆に
クハ1型からデハ2型になった奴とかいましたよね。
このあたりもややこしいところですが。
あとクハニ2型はデハ5→デハ7型の同系と思うのですが、
製造時はデハニ1のように専用扉を持った形だったのでしょうか?
後の写真(モハ1403やクハ251)を見るとほぼ3210と同一の形態で、
窓配置更などのような大規模な改造を受けたようには見えないのですが。
118 :
小倉川砂利線:03/05/06 21:32 ID:Ai8d7vKB
鯖復旧。めでたしめでたし。
>>116さん
制御器は3050系ですが台車は3070系だったりするし。何をもってデハ10系
の忘れ形見とするのか、悩ましいところですね。
>>117さん
「後期合造車形」に属するクハニ2形は専用扉を持っていました。しかし、
荷室の場所が運転室の直後ではなく、運転室と反対側の端面にあり、連結面
からすぐのところに、客用扉ほどの幅の片開き荷物扉があったのです。それ
を潰して、窓にして、トイレを荷室前から端面に移す工事がクハニ270→
クハ250の改造です。クハ250形はこうして生まれました。
119 :
70:03/05/06 22:21 ID:T/gU24pE
>>117-118 終戦直後の混乱期の写真に、北千住で停車する2両編成の浅草逝き電車の写真が
よく掲載されていまつが(最近では鉄ピク97年12月の臨時増刊「東武鉄道」)
この制御車が件のクハニ2形26のはずでつ。(辛うじて番号が読める)
デハとの連結側の扉は一見、乗務員室扉の様にも見えまつが、これが荷物室扉
でつな。(乗務員室扉よりサイズが一回り大きく、天地方向に寸詰まり)
>>31 超亀レスですみまそんが、大改番時の百位の謎が解けますた。
ご存知の通り、百位の番号は制御装置の種類を表しているわけでつが、
当初の区分は
1…ウエスチングハウス(HL)
2・5…デッカー
3…CS-5系統
4…MC・PR系統
6…ES156系統(TDK)
7・8…MMC
のとおりだったようでつ。
どうやら、デッカーの両数から5を使うことは無かったものと思われまつ。
でも、もしかしたら32系更新車が当初モハ3000でなくモハ3500を
名乗っていたのは、この附番方式の名残りなのかも知れませんね。
うっ〜、連休留守している間に凄い深いスレになっている(・∀・)ニヤニヤ♪
あとでゆっくり読ませていただきます、ちなみに漏れも古い「私鉄電車ガイドブック」所有しております。
121 :
117:03/05/07 21:16 ID:hrIJsz87
>>118さん
>>119さん
ありがとうございます。そういう形状だったんですね。
うーん深い・・・
age
123 :
ひろぽん:03/05/08 16:54 ID:TLjM79Kb
age!
124 :
小倉川砂利線:03/05/08 22:22 ID:gyjOt160
>>119 70さん
あっ本当だ。この写真、浦原さんの撮影されたものですね。たしかファン誌
にも載っていた記憶があります。このクハニ26、大改番でクハニ270形286、
改造でクハ250形261になって、3231と組んで日光線準快速用の車輌になって
ベージュ+ブルーの旧快速色をまとい、準優等車輌としてフカーツ。思えば
数奇な運命です。
3000系の付番の考察、私はその可能性について考えたことがなかったので、
なるほどなーと感服しました。1970年ごろまで、3000系は、その後の8000系
に準じた付番と違うやりかた――モハ3500形とクハ・サハ3600形に形式を分
けた番号を振っていたのです。しかし、クハとサハが3600形と付番されてい
るので、制御器で5をつけたと言い切れなさそうではあります。
しかし、3000系が登場した1964年という年は、100番台を編成順に振ってい
く付番方式が2000系(中間車増備で崩れましたが)、8000系、6000系と
定着しているのに、明らかに3000系は違うやりかたで番号を振り始めた
(台車形式と窓の形態、というなんとも謎な付番だったといいますが)
のはいったい何故なのか? というのは今も明らかではありませんね。
>>124 3000系の付番なんですが、改番後の付け方を最初からやってしまうと、まだ更新の済んでいない3210形などと末尾番号がダブるので、モハ3500形とクハ・サハ3600形で付番され始めたのではないかと思うのですが、どうでしょう?
3210形は原形はもちろん萌えですが、日光準急改造車も最後までWパンだったりしてそそるものがありますね。
ちなみに、チョッと前に話題になっていたモハニ5470形の荷室撤去後の末期の写真はピク増刊の72年版に出ています。
126 :
70:03/05/09 01:37 ID:rqeUFl2u
>>124-125 レスありがとうございまつ。
おっしゃられるように、もちろん3500→3000系の附番方法が
モハ3100+クハ3200(当初は全部2両固定の予定だった)
とすると、3200形や3210形と番号が重複してしまう
ため、モハ3500+クハ3600とした、ということで本筋は正解だと思います。
ただ、昭和44年の4両固定編成誕生時に改番するチャンスがあったのに
(既に32系列とサハ3600を仮に3200とした場合、番号が重複する車両は
数えるほどしかなく、重複期間も最大2年であって、なおかつモハとサハで
区分が可能なことから、それほど問題は発生しなかっただろうと思いまつ。)
行わなかったことを考えると、当時の3500系は大改番時の附番方法をどこかに
残しておきたいとあえて意識した番号付与だったのではないかと私は推測しまつ。
53系、58系の更新のときも、たった34両のために「旧特急車の番号を
残したい」という理由で、当初5000番代を与えられていたくらいでつから。
小倉川砂利線さま
あくまで私見でつので、お褒めいただくほどのものではありません。(赤面)
むしろ、貴方のレスで勉強させていただいている一人でつから。
>>125 DML30さん
あなるほど。たしかに番号が32系と思いっきりかぶることになりますね。
新系列を用意することを考えると、当時5000番台は存在していましたから、
9000番台に飛ばすしかなかったわけですね。5320、5310系列を更新するとき
に初めて5000系(のちの3070系)を立ち上げており、その過程でも4両固定
で5300形が発生しますが、先に5100、5400形の先頭車から登場させるなどし
て、混乱を防いでいる跡が伺えますね。
3000系ですが、Mc、M共に3500という同一形式だったこともあるのでしょうが、
3500→3000への改番はかなりバラバラですね。
3210等からの更新の際はある程度種車毎に順番に3500に更新されたようですが。
129 :
DML30 ◆JxJRAxA3AQ :03/05/10 00:36 ID:TsP5RDSM
3000系の番号は、小倉川砂利線 さんが
>>124で書かれているとおり、台車や窓形態などで分類されて、あらかじめ更新後の車番が決められていた模様です。
そのため編成にした時の番号がバラバラで、その上54系更新車が3550&3650番台を付けることになり、車番が重複しそうになったために編成ごとにあらためて車番をふり直されました。
改番後はほぼ更新順に車号が付けられたとピク増刊(72年版)には記述されています。
3000系登場当時は車号が3500番台だったので、雑誌などには「3500系」と書かれていることも多かったようでつ。
東武って趣味的には面白いけどなんだかものすごく無駄なこと
してるような・・・・それともその煩雑さを上回るメリットはあったんだろうか?
ようやく鉄ピク特集入手できました。(といっても最新の97年12月増刊ですが)
これで少しは話についていけそうです。
前のレスで言及されておられた戦後すぐの写真、すさまじいものがありますね。
前面貫通扉からも人が溢れてるなんて・・・・・
ところでデハ4型は17、18と21〜36に分かれていますが、
これは17、18の方が増備車という記述を上のリンク先で見かけましたが、
そうなると(ここからは想像ですが)
デハ11〜20はもともとホハ51〜60用の番号としてとっておかれた。
そのためデハ4型は最初からデハ21〜の番号をつけて登場
ところがホハ51〜60は一部がクハになり空番が生じた。
その後デハ4を増備する際、37以降は既にデハ5になっているのでつけられない。
よって空番になっていた17、18をデハ4増備車につけた。
ってことなんでしょうか?
あげ
トク500はわざわざ復元したのに屋外展示がたたって解体。
惜しいことをしたな。一両まるまる復元ってのも
珍しいと思うけど。(それを行ったアルナも今や存在しないというのも
何だか・・・・)
135 :
70:03/05/12 22:56 ID:5BPzZv+7
>>132 デハ4形の番号の件でつが、
17・18も21〜36も昭和2年の製造で、17がファーストナンバーとなりまつ。
昭和3年製造のデハ5はまだ登場していません。
従って、37以降の数字はまだ空いていたはずでつ。
で、ここからは私見(またか…)になりまつが、
その1…大正15年系「電車形客車」であったホハの電装化は昭和2年。
相前後してデハ4形が製造されたが、デハ4形の最初の2両が
デハ3形16と19の間の登場となってしまった。東武の当時の附番が
「とにかく形式と無関係に登場順から番号を振る」方法だったこと
から、デハ17・18となった。
その2…ホハ51〜60は当初全部モハ化の予定だったのが、このうち、
ホハ59・60は初の全鋼製だったこともあり、モハ化は後回しとなり、
とりあえずクハ化(クハ2形)した。
デハ4形はデハ3形の欠番を埋めるため、最初の番号をデハ17・18とした。
と、いう2つの仮設をたててみますたがどんなもんでしょう。
前者の説はホハのデハ化の時期とデハ4形の登場時期が月日まで判明すれば
いいのでつが、そんな資料はあるんでつかねー。←多分無い(w
デハ…いや、では後者はどうかっつーと、なぜ、ホハ56をデハ16にしておいて
ホハ57をデハ17にしないで19に飛ばしたかが激しく疑問…
(ホハ51〜58は全くの同型なので、…ホハ59・60は前述のとおり…
常識的に考えて電装してもデハ11〜18にすると思いまつが…)
てなことで、私の拙い頭と資料ではここまでが限界でつ。
誰かフォローして下さるエキスパートの登場キボンヌ。
なかなか手強いテーマでつ。
70さんの仮説について、私の手元の資料でわかることについて検討してみます。
・ホハ51〜60の大正15年系(電車形客車)の設計変更認可は1927(昭和2)年2月
及び4月となっています。
・デハ4形デハ17、18、21〜については、入線時期・認可時期等月まで記述さ
れている資料は見つかりませんでした。
・ホハ59→クハ7、ホハ60→クハ8の全鋼製車については、モハ化の予定があっ
たがクハのまま残されたとあります。写真を見ると、パンタ台やランボードが
装備されており、モハ化計画の傍証となっています。
以上のことから、
その1の場合……客車から電車への設計変更認可が2度にわたっていることか
ら、その間にデハ4形が新製されたと見る。
その2の場合……全鋼製車のモハ化遅れで空番が生じた場合。ホハ56→デハ16
の次がホハ57→デハ19に飛んでいるのは、17,18を全鋼製車のモハ化に充てる
ことを予定していて空いたため? デハ19の電車化も遅れた? 2回の認可に
謎を解くカギがある?
「その1」についてはデハ4形の入線・認可時期を特定する必要があります
が、電車化の認可のタイミングからするとデハ4よりも早く工事が終わってい
る可能性があると思います。ただし、認可時期と登場時期と平気でずれている
ことがありますから、これだけでは信用しきれません。私としては、どちらか
といえば「その2」かなと思うのですが、こちらも、付番の事情そのものを解
明しなければ確証をもって言えません。
ホント私も、教えを乞いたいです。
137 :
常磐線の72系 ◆TQE73cz2Nk :03/05/13 09:48 ID:Bg6YSJQ2
つ、付いていけない展開になっていますねぇ・・・。これは何としてもピクの増刊号を手に入れたい
ものですが・・・。
ところで流れからはずれる様で申し訳無いのですが、旧デハ7系、後の3210形等の車体裾の形状に
二種類有る事はよく知られています。台枠が見える物と裾が直線の物の二つなのですが、個々の車両が
どちらの形状だったのか、判る資料を探しています。どなたかご存知でしょうか?
台枠が見えるのは日車東京支店製、
見えないのが汽車会社製でしたっけ?
139 :
70:03/05/13 22:50 ID:ht6uqUAO
>>137-138 昭和2〜4年系の車体裾切り欠きの有無については、138さんの
おっしゃるとおり、
日車…裾の切り欠きがあり、台枠が露出している
汽車…裾の切り欠きが無く直線となっている
と、いうことでつ。
以下、製造会社別にまとめてみますたのでご参考まで。
なお、形式、番号、窓配置は登場時、掲載順はほぼ古い順からとしておりまつので
お間違えの無いように。
1 前期普通車形(3扉・クロスシート・窓配置1D7D7D1)
日車…デハ4形17、18、26〜28 クハ3形9、10
汽車…デハ4形21〜25、29、30
川造…デハ4形31〜36
2 前期合造車形(荷物室面積20.6u・窓配置d1B13D7D1)
日車…クハユ1形1〜4
3 後期普通車形(2扉・ロングシート・窓配置d2D10D3…デハの場合)
日車…クハニ1形1〜6、デハ5形37〜66、デハ6形81〜86、クハ二2型7〜25
汽車…デハ5形67〜80、クハ二2形26〜31
4 後期合造車形(荷物室面積9.88または10.01u・窓配置dB5D7D1)
日車…クハユ2形5、6、クハニ4形32〜34
汽車…クハユ3形7〜10
さて、この中で「前期普通車形」に川崎造船製(デハ31〜36)が
混じっているのでつが、裾の切り欠きの有無については現在鋭意調査して
おりまつので、判明したら追ってご報告いたしまつ。
(どっかの東武関連の掲示板で見たような…)
先に判った方がいらっしゃいましたら、ご教示ください。
140 :
常磐線の72系 ◆TQE73cz2Nk :03/05/14 00:08 ID:Rbj73QsJ
>>138、
>>139 早速のレス、有難うございますm(__)m
やはりメーカーで分かれていましたか。新製時はこの様にきれいに分かれていても
戦時中〜戦後の改番でバラバラになってしまいましたから、一層、複雑になってしまった
気がします。これ等が3000系に更新前は何番だったのかを合わせるのに一苦労しそうですが
この辺ならば「私鉄ガイドブック」「私鉄電車のアルバム」で何とかなりそうなのでやってみます。
141 :
小倉川砂利線:03/05/14 00:21 ID:mh4rGkxB
デハ32→モハニ3281、デハ34→モハ二3282の写真を確認しました。切り欠き
はありです。旧下野電鉄(現鬼怒川線)のモハ1600形、モニ1670形も川造製で
すが、切り欠きか裾全体が上げてあって台枠がのぞいている形態です。
デハ36→モハ5430の戦後の姿は、下野系のように裾全体が上がっています。
ちょっと異端ですね。ただし火災復旧車ですので、その際の改造とも考えられ
ますが……モハ5430は、裾の切り欠きのない写真も残っていますが、これは19
59(昭和34)年に老朽化のため車体を載せ替えているからです。
142 :
小倉川砂利線:03/05/14 00:30 ID:mh4rGkxB
↑デハ32→モハニ3280の誤りです。失礼しました。
>>140 改番表で便利なのは90年東武増刊号(537号)のものです。これは大
変よく整理されていて、3500系更新→3100系更新もカバーされています。
ただし、デハ31を日車製としていて、115号東武特集や『東武鉄道六五年
史』が川崎製としてあるのと相違しています。
143 :
小倉川砂利線:03/05/14 00:41 ID:mh4rGkxB
↑たびたびスマソ。日車製→汽車製です。
余談。
1952(昭和27)年に坂戸で米軍のトラックと衝突して全焼したモハ
3201は運輸省規格型のような車体を新製している前例があるのに、モハ
5430は、昭和34年にわざわざ原形とほぼ同じ車体を新製して載せ替えて
います。これ如何に。
144 :
常磐線の72系 ◆TQE73cz2Nk :03/05/14 09:43 ID:nx55teHv
>>141-143 補足のレス、参楠です。
90年の増刊号ですか、う〜ん、何とか探して手に入れたい物ですが・・・。
3201と5430の件、確かにそうですね。はっきりした理由は判りませんが、昭和30年代に
なってからわざわざ戦前仕様の車体を造るというのが如何にも東武らしい処ですね。
145 :
70:03/05/14 22:54 ID:h8dEkmPD
>>143-144 モハ3201が事故を起こした昭和27年(65年史には25年とある)当時は、
運輸省規格形が導入されていた頃でつが、
その頃の事情が「東武鉄道65年史」に記載されていまつ。
要約すると、
…戦後の極度の資材不足のため、昭和23〜25年に運輸省規格形を導入した。
導入に対し、他社は極力自社タイプの車両に似せて設計したが、
この頃の東武は通勤形電車の設計から遠ざかっていたため、従来とは
全く違ったタイプとなった…
3201が運輸省規格形に似せた車体となったのは、この辺にヒントが
隠されていそうでつ。
またその後、事故に遭って車体を新製更新した昭和2〜4年系車両は3両あるのでつが
いずれも従来どおりの車体(ただし、貫通扉をつけてノーリベット、車体裾の
切込み無し)に載せ替えた更新となっていまつ。
デハ5形51→モハ5420形5420+クハユ1形1→クハユ290形290
昭和34年2月に太田で2両とも脱線転覆大破。津覇車両において車体新製更新。
デハ4形36→モハ5430形5430
昭和34年8月に川越で事故全焼。津覇車両において車体新製更新。
モハ3210が日車で更新されたのに対し、
いずれも更新が「津覇車両」で行われたというのがミソかと…
146 :
70:03/05/14 22:56 ID:h8dEkmPD
訂正。
モハ3210はもちろんモハ3201の間違いでつ。スマソ。
その3200型ですが、鉄ピク増刊号no.647(97年12月増刊)の東武特集号、
P75中段の写真で「川越市駅に進入するモハ3200(後部)」というキャプションの
ついた写真があります。(撮影年月日は55年1月)
この3200型ですが、5300型を出自とする3200型に似ているようで
微妙に違うのです。
5300型は前面非貫通、正面雨樋は直線で全体の裾が上がっていて台枠が
露出している、というのが特徴だと思うのですが、この写真の3200型は
窓配置こそ5300と同じd1D4D4D2ですが前面貫通で幌付、
前面雨樋も湾曲しており、何より裾が上がっておらず
台枠が完全に隠れています。ちょうど7800系の短縮板のようなスタイルを
しているのですが、この車両の正体はなんでしょうか?いま話題になっている
3201かな?とも思うのですが。
(キャプションの3200が車番でないことはあきらかですが)
148 :
名無し野電車区:03/05/15 00:41 ID:27IJzqtT
しかし、東武の旧型って南海とタメ張るな。
南海も車体長・モーター出力で番号統一するまで大変だったわけだが。
149 :
名無し野電車区:03/05/15 09:26 ID:B1Ofco3I
>>148 その昔、形式・車番の煩雑さから、
「南海(難解)過ぎて、東武ん(当分)分からん」
と言われていたそうです。
150 :
名無し野電車区:03/05/15 09:33 ID:B1Ofco3I
連続スマソ。
>>147 それこそ、かのモハ3201ではないかと思われます。
復旧時期から推測(昭和27〜28年)するに、
新車体は7800系と同様のデザインのものになったのではないかと。
ちなみに、7800系の最初の車が竣工したのは、昭和28年4月とされていますね。