>>213の続き
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384 自分:(やわらか銀行)投稿日:2013/04/04(木) 22:13:07.99 ID:XPfTMT9V0
>>195 >面白そうだから時間かかると思うけどちょっと探してみる。
あなた、鹿児島県人の出自に詳しそうなので期待しているよ。
小泉純一郎のWikiを見てみたが、池口恵観との親戚関係はわからんけど、これはこれでおもしろいことが書いてあった。
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生い立ち
1942年(昭和17年)、神奈川県横須賀市に政治家小泉純也と芳江の長男として出生する。
母方の祖父小泉又次郎は第2次若槻内閣で逓信大臣を務め、若い頃に全身に入れ墨を彫っていたことから、“いれずみ大臣”“いれずみの又さん”などの異名で知られる大衆政治家だった。
戦後、又次郎と純也は相次いで公職追放にあったため、小泉家の経済状態は決して恵まれていたわけではない。
結婚と離婚
1978年(昭和53年)にエスエス製薬の元会長泰道照山の孫宮本佳代子と結婚した。この結婚に佳代子の父親的な存在だった泰道照山は反対だったという。宮本家の血縁者は「結局、泰道家とは絶縁寸前までいった。
“出て行くならその身体一つでいけ”という具合。それでも小泉さんから“何の心配もいらない。僕たちの結婚には関係ない。白紙のままで来てほしい。”と言われ、その言葉を信じて嫁に行った」と述べている。
3人の子供をもうけたが、1982年に離婚した。離婚時に妻は三男を懐妊中であった。
家族 親族
祖父・又次郎 祖父・又次郎(とび職人、請負師、小学校代用教員、新聞記者、政治家)
1865年(慶応元年)5月生〜1951年(昭和26年)9月没 父はとび職人・請負師の小泉由兵衛。『小泉又次郎伝』によると、又次郎の少年時代は詳細な記録もなく不明な点も多いが、
“気っ風(ぷ)と腕っ節、根性がものをいう商売”、“意地と我慢の商売”といわれる家業で、又次郎はその血を引き、そのような家風で育った。
普選運動の闘士として庶民人気が高かった。 純一郎が厚生大臣に就任したとき、フォーカスのインタビューで祖父のことをこう語っている。「いまじゃゴルフ場にも入れてくれないのにな。
ところが祖父は、全身刺青で大臣や副議長までやった。首から背中、腕にかけて龍が彫ってあって、それや見事なものだったよ。」
「僕が9才のときになくなった。よく覚えていますよ。マージャン、花札、おいちょかぶ、みんな教えてもらったんだもの」
父・純也(政治家)
父・純也と、純一郎 1904年(明治37年)1月生〜1969年(昭和44年)8月没 純也は鹿児島の出身で、生家の鮫島家が事業に失敗したため上京し、苦学しながら政治の道を志した。
芳江と知り合った頃は、又次郎が幹事長をつとめる立憲民政党の事務職員だった[30]。又次郎のところに出入するうち二人は恋におち、東京・青山の同潤会アパートで同棲をはじめた。
又次郎は「帰って来い」と、新聞の尋ね人欄に広告までだしている[31]。純也と芳江の結婚について、又次郎の養女だった近藤壽子は「本当に大変だったんです。なにしろ駆け落ち同然の結婚でしたからね。
芳江さんはハンサム好みで、ハンサムな男性を見るとイチコロなんです。又次郎さんはもっと立派なところから婿を欲しいと思っていたんでしょう、すごく反対して怒ってました。」と述べている。
在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導した。
母・芳江(父は小泉又次郎、母は石川ハツ) 2001年(平成13年)10月没
又次郎は、正妻ナオとの間に子がなかったので、石川ハツ(富山県の滑川出身が芳江(純一郎の母)を産んだ。
又次郎によると「誰の腹でもいいから、自分の子供はもっておくものだね」という。石川ハツはその後、山口忠蔵という男と結婚し、3人の子を産んだ。
石川ハツが結婚した山口忠蔵はおみこしなどを造る宮大工だった。山口忠蔵にも入れ墨があった。
佐野眞一によると「山口忠蔵は、仕事の性質や入れ墨を彫っていたことなどから考えて又次郎の配下の者、もしくは弟分だったと思われる。
だとすると、又次郎はハツに一人娘の芳江を産ませたのち、遠慮も何もいらない立場の山口忠蔵にハツを“お下げ渡し”したのではないか。
又次郎と山口はいわば “入れ墨兄弟” の関係ではなかったか?」という。
大叔父・小泉岩吉
小泉家の苦しい家計を支えたのは、又次郎が家業を譲った弟の岩吉だった。
兄・又次郎同様、背中にみごとな入れ墨を入れた岩吉は、又次郎の度重なる無心にもいやな顔ひとつ見せず、必要な金を必ず用立てたという。
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小泉家って、政治家を輩出してきた名門と言うよりは、まるっきりヤクザの家系だな。
先日書いたハシシタや石原と繋がるものがある。
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/radiation/1336140499/210