江戸時代までの日本人と明治以降の日本人は、深刻な断絶がある
情感が豊かな体験から、情感が粗末な体験に緩やかに移行すると、うしなった情感にに気づかない。
何かのきっかけでフワッと子供時代をリアルに感じるとき、失われてた
情感がいっぱいあることに愕然とする。
「犬の伊勢参り」
犬は伊勢神宮にとっては不浄の生き物だったと言う。犬が神宮の敷地内に入ることは禁じられていたばかりか、
穢れの対象でさえあった。そうした千年の時代背景を持ちながら、犬が単独で伊勢参りを果たしたのは1771年のこと。
江戸時代の人々にとって伊勢参りは一生に一度は果たしたい夢。式年遷宮に合わせて起きたお蔭参りや抜け参りのブームを見てもわかる。
伊勢参りに行くためなら奉公先の主人の目を盗んだり、お札を降らせたりするのは日常茶飯事。
しかし経済的な理由や多忙を理由に断念せざるを得ない者がいたのも事実。そんなとき一人の男が自分の犬に代参させることを思いつく。
犬の首に「伊勢参り」の札と道中のエサ代や宿場代をくくりつければ旅犬のできあがりだ。
信心深いのは飼い主だけで、犬が自発的に行ったわけではないのが面白いところ。
そんな旅犬を江戸庶民は放ってはおかない。宿場ではエサと寝床を用意してやり、いくばくかの銭まで喜捨してやり、
次の宿場まで人をつけて継ぎ送りにした。飼い主こそ同行しなかったが、地域ぐるみでちゃんと伊勢まで送りとどけたのだ。
なにやら人間が参詣の旅に出るよりも効率がよいような気さえしてくる。現に無事飼い主のもとに帰還した犬の首には
出かけたときより多くのお金がくくりつけられていたという。重過ぎで気の毒に思った人が両替までして持ってやったというから
至れり尽くせりである。誰もが憧れた伊勢参りであるから、それが人であろうと犬(ときには豚や牛まで!)であろうとみんなで協力するのだ。
動物であっても伊勢参りに行く者には敬意を払う。
参詣の人々でにぎわう宿場町を、多くの人に見守られ、気にかけられながら伊勢をめざす犬。
なにやら考えるだけでもほほえましい。その時代のおおらかさを実感できる。