(゜Д゚)まぁファンタ(レモン風味)とサラミ(国内産)飲み食いしながらゲームでもやるさ
しかし...ゲーム機の電源を入れた俺は、一瞬躊躇せずには
いられなかった。
ゲームをしようとするWhiter(又は俺)とは一体何なのであろうか?
まず、俺はWhiterのコトを、Whiterとしての俺、俺としてのWhiterという両義的カタチで
把捉しようとする。この際、「Whiter」という言語表象がその現前性の裡に明示する
一般的記号内容とその現前性を間テクスト的に身にまとう「俺」という同一性の間に
ある乖離は敢えて不問に付すことが良策である。
何故か?テクストしての自己は常に既に他者性に横断され、自己充足的な様態を保つ
ことが出来ないからである。そして「一者性」に最も根源的に肉薄し、そのエロス(Eros)的
側面とタナトス(Thanatos)的側面が極限状態で併存されている危うい中空情態としてのバルト的
「生きた不動性」において最もよく為され得る美的実践としての言語活動においては、
自己と他者−構造−世界の主客二元性は限りなく揺曳し、消失しかけるからである。
そしてそのようなエロス的側面とタナトス的側面が極限状態で共棲する「恩恵を
もたらす不動性」において最もよく成され得る芸術的実践とは、「一者性の悦楽」の
可能性−純粋性−精神性−生の欲動と不可能性−空虚性−物質性−死の欲動が激しく
せめぎ合う危機的状況以外の何物でもなく、必然的にこの状況に身を置きながら、
芸術的実践に取りかかる人間実存の内面世界もその異質的要素のしのぎを削る相剋
状態に責め苛まれる躁鬱気質の性向を有さざるを得ないからである。
そう言えば、フロイト的二元論における論理的不全性は、この「一者性の悦楽」の
両義的性格を想定することで簡単平易に解消可能である。まあ、それはいいとして、
このような芸術的活動に従事する偉大なる芸術家は大抵に於いて躁鬱気質にあるという
歴史的事実からも、上記のことは証明されていよう。
つまり、思索に適した密閉状態を創出することこそが第一義であり、これに水を差す
ような行為は断じて許されはしない。カントを越えてニーチェに、フロイトを越えて
ライヒになりきろうとするのだ。天上天下唯我独尊とは正にこのことだろう。
そのような流れの中で俺はWhiterのように思う。
日常生活での感情や精神の苛立ちを抑制して、思考機能を機能的且つ
多元論化したり中毒性をもたらす この薬理作用のあるゲームは
平均的な日常生活において感得される内攻的情動や
激情的鬱憤を自らの中で生産的且つ有効的に解消できない情操能力が致命的に欠落
してる第2級精神障害者を満面の笑みを臭気共々浮かべながら自称しながら、
情動性のもどかしさを想像的言語化過程の裡に有機的に昇華する美的実践としての言語
活動の慢性的機能不全状態に陥っているWhiterにとっては、セミオティックな微分−差異化
装置の客体具象であり、それを外的作用として持ち込むことで自らのうちに快楽の
散種を意識的に、加虐的に施し、その「悦楽」に向かって漂流する眩惑的な「快楽」の
渦の中で破断された自己の同一性を想像的に取り戻そうとする象徴的契機をもたらして
<れる、そんな精神性の救命装置なのさ(嘲笑