※…なんというか、ネタとしか思えんのだが、とりあえず推敲+改変した上でうpしとく
僕には義理の妹がいます。
セミロングのおとなしい眼鏡っ娘。兄である僕が言うのもなんですが結構美人です。
本をこよなく愛する図書委員長みたいな感じ、といえばわかりやすいでしょうか。
まだ小さいときに親が再婚したものだから、お兄ちゃんができて嬉しかったらしく
本当に良くなついてくれたことは、よく憶えています。
家に帰るとまず「お兄ちゃんは?」
どこに行くにも「お兄ちゃんと一緒じゃなくちゃやだ〜」
そして、「大きくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになってあげる」といつも話してくれました。
僕のほうもそれまでは父親との二人暮しの鍵っ子だったので、
家族が出来た事が嬉しく、「よく妹の面倒をよくみて、いいお兄ちゃんになるんだぞ」
という言葉を真に受け、無意識にですが、理想の兄を演じていました。
月日が流れ、俺が家を出て一人暮らしを始めたころ、
義理の妹は制服を着て学校に行く年頃になりました。
そうなると、まぁ少しづつ世の中の事もわかってきたようで…、
記憶を辿るとある日突然兄ができたこと、
普通の兄妹はそんなに仲がいいものじゃないこと
父親や兄に顔やその他もろもろが似ていないこと、
そういった自分の家族に不信な点がいろいろあることにも気付き始めていきました。
もっとも、夏休みに俺のところに東京見物ついでに一人で遊びに行きたいと言った妹を
両親が血相を変えて止めた時、妹の不信感はピークに達していたのでしょう。
妹は役所に行って、進学名目で戸籍標本を取り寄せ、真実を知った次第だそうです。
東京での一人暮らしを満喫していたころの自分には思いもしませんでしたが、
今から考えるとたぶん人生で一番楽しかった時期なんだろうと思います。
義理の妹を空気としてしか感じてなかったその頃は、やたらと僕に近づく彼女を
ひたすら厄介者扱いしていました。
理想の兄を演じることに、もう飽きたというのが正直なところだったのでしょう。
時々、妹から電話が掛かってくることがありました。
「お兄ちゃん…。…今日は、お兄ちゃんのところへ行ってもいい……?」
「……悪い。これから家庭教師のバイトだから」
「…うん…。わかった…」
万事こんな感じで、きても、ほとんど取り合わず、すぐ切ってしまうのが常でした。
そして、あの時、妹から電話がかかってきました。
「話したいことがあるから、…今度そっちに行っていいかな」
普段とは少し違う、何か重々しい声でした。しかし、その時もほとんど取り合わず、
僕はムゲに断ってしまいました。
「…でも、お兄ちゃんお正月もお盆も全然帰ってこないし……、……一度会いたい…」
当時、両親が妹と俺のことに過敏に反応することが、嫌でたまらなくなっていた僕は、
「お前も、いつまでもお兄ちゃん、お兄ちゃん言ってないで、
そろそろ彼氏の一人でもつくれよ」と酷い言葉を投げかけてしまいました。
「…………………………」
少しの沈黙の後、
「わかった、今までありがとう、お兄ちゃん」…彼女はそう言って電話を切りました。
その切ない声は今でも僕ははっきりと憶えています。
そして、それが義理の妹が僕のことを「お兄ちゃん」と呼んだ最後でもありました。
僕には生き別れになった妹がいました。
妹が2歳の時に両親が離婚。僕は父のところで、妹は母のところでそれぞれ過ごしていました。
月に一回、僕は母と会っていたのですが、その時、妹は父と会っていたので、
すれ違いのまま僕たち2人が出会ったのは随分先になりました。
当時、妹はこの複雑な家庭環境で育ったためか、グレてしまい、
ある日とうとう警察に補導されて母のほうに引き取るようにとの連絡が。
たまたま帰省していた僕が車を運転し、母と一緒に妹を迎えに行ったところ、
どうやら僕を母の新しい男と勘違いしたのか、酷くかんしゃくを起こし、
「誰だ、てめぇは!」と声を張り上げてました。
母親は僕が妹の生き別れの兄であることを説明しましたが、
妹の疑いはそれでも晴れず、「うそをつけぇ!」と抵抗するばかり。
警察の人がなんとかなだめようと「よく見りゃ、頭蓋骨の形がそっくりじゃないか」
と今にして思えばかなり説得力のないことを言ってましたが、それで妹の怒りは収まりました。
…と思いきや、安心したのか気が抜けたのか彼女が突然さめざめと泣きはじめてしまったのには、びっくりした思い出があります。
現実に、10何年ぶりにあった妹なんて俺にとっては赤の他人みたいなもので、
現実味がない以上、ただ気分が滅入っただけでした。
実の妹も興奮から覚めてみると、やっぱり僕と同じ感想をもっていたみたいです。
帰りにファミレスで飯を食うことになり、そこで改めて挨拶をして
半分冗談「見違えるようにきれいになったね」といったら、
「そういうのマジで気持ち悪いのでやめてくれませんか?」と妹。
「俺もそう思う」と返したその時は二人で爆笑しあってました。
それから妹は先輩のヤンキーと18で結婚、今では2児の母。
旦那はヤンキー上がりで頭は良くないですが、裏表のないイイ奴です。
妹は今でも俺のことはお兄ちゃんではなく、他人行儀に○○さんと苗字で呼んでいます。
…実を言いますと、彼女と義理の妹はいつのまにか交友関係になり、
義理の妹は僕の実の妹にいろいろと相談などをしていったのだそうです。
そんなわけで…あの日も、義理の妹は気を紛らわすために
実妹夫婦の方へ遊びに行ったわけですが…。
ある日、実妹の旦那から電話があり、
義妹が救急車で運ばれ、緊急入院したという旨を聞かされました。
そして、すぐさま「おまえ、何をやったんだ」と怒鳴られました。
話を聞くと、実の妹にところに遊びに行ったときに義理の妹が倒れたのだそうです。
そして、ベットでうなされている中、「お兄ちゃん……。…お兄ちゃん…」
とうわごとを言ったらしいのですが、僕は何がなんだかわからず困惑状態。
どうやら、実妹の旦那は僕が義妹に何か酷いことをしたのだと思ったそうです。
あとで誤解だとわかると、彼は非礼をわびましたが、
僕は何故義妹がこんなことになったのか、それだけが気がかりで眠れぬ夜を過ごしていました。
結局義理の妹は、半年ほど心療内科だかなんだかそんな感じのところに半年ほど通院しました。
結果的に、前に比べてすっかり性格も明るくなり、
以前のどこか不安定なところもすっかり影を潜めていました。
実妹夫婦の介護が義妹の病状を快方へ向かわせたのもあったのでしょう。
さて、病気の原因ですが、専門的なことはよくわかりませんが、
義理の母親の影響が大きかったようです。
義理の母親は、不幸な母親を演じることで周りから同情を得ていました。
…そして娘に対しても、「お母さん一生懸命やっているのだから」という名目で、
「兄弟仲良くしてね」だの「辛いことがあっても我慢しないとダメよ」だの
いろいろ言っていたようです。
要するに、妹は無理をして自分を押し殺し、
そのために肉体的にも精神的にも参ってしまったのでしょう。
お兄ちゃんだと偽って、理想の兄妹を演じていたことには、義妹は納得してくれていました。
「ただ、あの家庭であの時、
それ以外に選択ができたか…というと、やっぱり無理だったんじゃないかな…?」
と彼女は付け加えて話してくれました。…その意見には僕も強く頷きました。
結局、その後両親は離婚し、義理の妹は母方の姓にもどりました。
それ以来、僕のことは実の妹と同じく、○○さんと苗字で呼んでいます。
それからだいぶたった頃、「散々電話で邪険にしてごめんな」と一応謝ったら
マジな顔で「そんなことないよ、今では感謝している…」との返事が。
理由を聞いてみると、彼女はこう言ってくれました。
「もしあのまま歪んだ理想の兄弟ごっこを続けていたら
どこまでもエスカレートしていったんじゃないかな…」
結果的にそのまえに距離が離れて疎遠になったのが良かったみたいで、
両親も俺のところに遊びに行かせることにあれほど過敏に反応したのも、
薄々やばいことがわかっていたのではないかと。
…理屈では何となく話が合わないような気がしますが、何となくですが納得しました。
まぁ、本当のところなんて聞くことなんてできないけど…、
…あの電話の「話したいこと」がなんだったのか、今ならわかるような気がします。
今では僕のことをお兄ちゃんと呼んでくれる妹はいなくなりましたが、
…でも、兄妹という壊れやすい表現より、今のようなつかず離れずの関係となったことで、
僕たちはほどよい関係を築いたのだと信じています。
正直、昔の妹のことを話すと僕は凄く気が滅入るのですが、
生き別れの妹、義理の妹を持っていた僕にとって、これがいかに幻想なものであるのか
知らせようと思って筆をとった次第であります。
…どうも、ご迷惑をおかけしました。