713 :
名無しさんと大人の出会い:
劉邦
沛県郡豊県中陽里(現在の江蘇省徐州市沛県)で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生した。
長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。
生年については二説ある。
劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に逢い、
劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。
その夢の後に劉邦が生まれたという。また、諱の「邦」は『史記』では記されておらず、
現在に残る文献で一番古いものでは後漢の荀悦『漢紀』に記され、『史記』『漢書』の注釈でそれを引用している[2]。
出土史料から諱が「邦」であったことはおそらく正しいと思われる。
また、字の「季」は「末っ子」のことである[3]。
劉邦の容姿は鼻が高く、立派な髭をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたという。
また太股に72の黒子[4]があった。
714 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 03:12:05 ID:F2ArfY4u0
任侠生活
反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ生活していた。
縁あって沛東に位置する泗水の亭長(警察分署長)に就任したが、任務に忠実な官人ではなかった。
沛の役人の中に後に劉邦の覇業を助けることになる蕭何と曹参もいたが、
彼らもこの時期には劉邦を高くは評価していなかったようである。
しかし何故か人望のある性質であり、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり店が満席になったと伝えられる。
またこの任侠時代に張耳の食客になっていたともいう。
ある時に劉邦は夫役で咸陽に行った事があったが、そこで始皇帝の行列を見て、
「ああ、男たる者はああ成らなくてはいかんな」と言った。
この言葉は項羽が同じく始皇帝の行列を見たときに言った
「あいつに取って代わってやる」という言葉とよく対比され、
劉邦と項羽の性格の違いを表すものとして使われる。
715 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 03:12:59 ID:F2ArfY4u0
あるとき、単父(山東省)の人・呂公が仇討ちを避けて沛へとやって来た。
名士である呂公を歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った。
沛の人々はそれぞれ進物に金銭を持参して集まったが、
あまりに多くの人が集まったので、
蕭何は進物が千銭以下の人は地面に座ってもらおうと提案した。
そこへ劉邦がやってきて進物を「銭一万銭」と呂公に伝えた。
あまりの金額に驚いた呂公は慌てて門まで劉邦を迎えて、上席に着かせた。
蕭何は劉邦が銭など持っていないのを知っていたので、
「劉邦は前から大風呂敷だが、実際に成し遂げた事は少ない
(だからこのことも本気にしないでくれ)」と言ったが、呂公は劉邦を歓待し、
その人相を見込んで自らの娘を娶わせた。これが呂雉である。
妻を娶ったものの劉邦は相変わらずの侠客であり、呂雉は実家の手伝いをし、
2人の子供を育てながら生活していた。
ある時、呂雉が田の草取りをしていた所、通りかかった老人が呂雉の人相がとても貴いと驚き、
息子と娘(後の恵帝と魯元公主)の顔を見てこれも貴いと驚き、
帰ってきた劉邦がこの老人に人相を見てもらうと
「奥さんと子供たちの人相が貴いのは貴方がいるためである。
あなたの貴さは言葉にすることが出来ない」と言い、劉邦は大いに喜んだという。
『史記』には他にもいくつかの劉邦が天下を取る事が約束されていた との話を載せている。
ただ、それらの逸話の中で劉邦は赤龍の子であるとする逸話は漢が火徳の帝朝と称することに繋がっている。
716 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 03:16:27 ID:F2ArfY4u0
陳勝・呉広の乱と挙兵
ある時、劉邦は亭長の役目を授かり、人夫を引き連れて咸陽へ向かっていたが、
秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡し、
やけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫を逃がし、
自らも一緒に行くあてのない人夫らと共に沼沢へ隠れた。
紀元前209年、陳勝・呉広の乱が発生し反乱軍の勢力が強大になるとと、
沛の県令は反乱軍に協力するべきか否かで動揺、そこに蕭何と曹参が「県令では誰も従わない、
人気のある劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ。
一旦はこれを受け入れた県令であったが、劉邦に使者が行った後に考えを翻し、
沛の門を閉じて劉邦を締め出そうとした。
劉邦は一計を案じて絹に書いた手紙を城の中に投げ込んだ(中国の都市は基本的に城塞都市である)。
その手紙には「今、この城を必死に守った所で、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。
そうなれば沛の人々にも災いが及ぶことになる。
今のうちに県令を殺して頼りになる人物(劉邦自身のこと)を長に立てるべきだ」と書いてあり、
それに答えた城内の者は県令を殺して劉邦を迎え入れた。
しかし、劉邦は最初は「天下は乱れ、群雄が争っている。
自分などを選べば、一敗地に塗れることになる。
他の人を選ぶべきだ」と辞退した。しかし、蕭何と曹参までもが劉邦を県令に推薦したので、
劉邦はこれを受けて県令となった。以後、劉邦は沛公と呼ばれるようになる。
717 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 03:16:59 ID:F2ArfY4u0
この時劉邦が集めた兵力は2、3千という所で、配下には蕭何・曹参の他に犬肉業者をやっていた義弟の樊?、
劉邦の幼馴染で同日に生まれた盧綰、県の厩舎係をやっていた夏侯嬰、機織業者の周勃などがいた。
この軍団で周辺の県を攻めに行き、豊の留守を雍歯という者に任せたが、
雍歯は旧魏の地に割拠していた魏咎に誘いをかけられて寝返ってしまった。
怒った劉邦は豊を攻めるが落とすことができず、仕方なく沛に帰った。
当時、陳勝は秦の章邯の軍に敗れて逃れた所を殺されており、
部下の景駒がィ君と秦嘉というものに代わりの王に擁立されていた。
劉邦は豊を落とすためにもっと兵力が必要だと考えて、景駒に兵を借りに行く。
718 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 03:17:50 ID:F2ArfY4u0
紀元前208年、劉邦はィ君と共に秦軍と戦うが敗れて引き上げ、
新たに?(トウ、現在の安徽省?山。?は石偏に昜)を攻めてこれを落とし、
ここにいた5、6千の兵を合わせ、更に下邑(河南省鹿邑)を落とし、
この兵力を持って再び豊を攻めてやっと落とした。
719 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 03:19:25 ID:F2ArfY4u0
豊を取り返した劉邦であったが、
この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを手に入れていた。
張良である。張良は始皇帝暗殺に失敗した後に、旧韓の地で兵士を集めて秦と戦おうとしていたが、
それに失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた。
張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、
自らの兵法をさまざまな人物に説いていたが、
誰もそれを聞こうとはしなかった。ところが劉邦は出会うなり熱心に張良に言葉を聞き入り、
張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ」と劉邦の事を褒め称えた。
これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れ、
ついには天下をつかむことになる。劉邦と張良の関係は君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる。
720 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 03:20:05 ID:F2ArfY4u0
その頃、景駒は項梁によって殺され、項梁が新たな反秦軍の頭領となって、
旧楚の懐王の孫を連れてきて楚王の地位につけ、
祖父と同じく懐王と呼ばせた(後に項羽より義帝の称号を送られる)。
劉邦は項梁の勢力下に入り、項梁の甥である項羽と共に秦軍と戦う。
項梁は何度となく秦軍を破ったが、
それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、
章邯軍の前に戦死した。劉邦たちは遠征先から軍を戻し、
新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の江蘇省徐州市)へと集結した。
項梁を殺した章邯は軍を北へ転じて趙を攻め、趙王の居城鉅鹿を包囲したため、
趙は楚へ救援を求めてきていた。
そこで懐王は宋義・項羽・范増を将軍として主力軍を派遣し、
趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、
その一方で劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。
そして懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした一帯)に入った者をその地の王とするだろう」
と約束した。
趙へ向かった項羽は、途中で行軍を意図的に遅らせていた宋義を殺して自ら総指揮官となり
、渡河した後に船を全て沈めて三日分の兵糧を配ると残りの物資を破棄し、
退路を断って兵士たちを死に物狂いで戦わせるという凄まじい戦術で秦軍を撃破、
一気にその勇名を高めた。
しかしその後、咸陽へ進軍する途中で秦の捕虜20万を生き埋めにするという、
これも凄まじい虐殺を行う。
このことは後の楚漢戦争でも項羽の悪評として人々の心に残り、
多大な影響をもたらす事になる。
721 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 03:23:59 ID:F2ArfY4u0
関中入り
劉邦は西に別働隊を率いて行ったが、その軍勢は項羽軍に比べて質・量ともに劣っており、
道々苦戦しながら高陽(河南省杞県)という所まで来た。
ここで劉邦は儒者?食其の訪問を受ける。劉邦は大の儒者嫌いで、?食其に対しても、
足を投げ出してその足を女たちに洗わせながら面会するという態度であった。
しかしこれを?食其が一喝すると、劉邦は無礼を詫びて?食其の進言を聞いた。
?食其は「近くの陳留は交通の要所で食料が蓄えられているのでこれを得るべきである。
城主は反秦軍を脅威に思っているので、降っても身分を保証すると約束して頂ければ、
帰順させるよう説得する」と言った。劉邦はこれを採用し、陳留の城主は説得に応じて降り、
交通の要所と大量の兵糧を無血で手に入れた。
さらに劉邦はその兵力を合わせて進軍し、開封を攻め落とした。
次いで韓に寄り、寡兵で苦戦していた韓王成と張良を救援して秦軍を駆逐し、韓を再建。
そしてその恩義を以って張良を客将として借り受ける。
722 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 03:24:47 ID:F2ArfY4u0
更に南陽を攻略し、この城主が逃げ込んだ宛(河南省南陽)を包囲、降伏させると、
秦の領域へ近づいていった。
この侵攻の際、劉邦は陳留のように降伏を認め、
降伏した場合は城主をそのままの地位に任命したため無駄な戦闘はしておらず、
その進軍は項羽よりも早かった。
そしていよいよ関中の南の関門である武関に迫った。
この頃、趙で項羽が秦軍の主力を撃破し、秦の内部では動揺が走った。
始皇帝の死後、二世皇帝を傀儡として宦官趙高が専権を奮っていたが、
この敗戦がばれれば自分が責任を取らされると考え、二世皇帝を殺し、
紀元前207年になってから劉邦に対して関中を二分して王になろうという密書を送ってきた。
劉邦はこれを偽者だと思って、自らの軍を持って武関の守将を張良の策によってだまし討ちにし、これを突破した。
後、趙高は王に建てようとしていた子嬰におびき出されて逆に殺されている。
723 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 06:53:59 ID:F2ArfY4u0
秦王子嬰は覇上にまで迫っていた劉邦の所へ白装束に首に紐をかけた姿で現れ、
皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏した。
部下の間には子嬰を殺してしまうべきだという声が高かったが、
劉邦はこれを許した。
咸陽に入城した劉邦は宮殿の中の女と財宝に目がくらみ、
ここに留まって楽しみたいと思ったが、樊?と張良に諫められ、覇上へ引き上げた。
田舎の遊び人だった劉邦にとって、咸陽の財宝と後宮の女達は極楽にさえ思われただろうが、
部下に諌められると一切手を出さなかった。こうした諌言を聞き入れる劉邦の度量と配下への信頼は、
項羽と対照的であり、その後の天下統一にも非常に大きな作用をもたらすことになる。
ちなみにこの時、蕭何は秦の文書殿に入って法令などの書物を全て持ち帰っている。
これがその後の漢王朝の法の制定などに役立ったと言われている。
724 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 06:59:38 ID:F2ArfY4u0
漢王劉邦
覇上に引き上げた劉邦はこの地に関中の父老(村落のまとめ役)を集めて“法三章”を宣言する。
これは秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈な法律(故に役人が気分次第で罰を与えたりも出来、
特に政道批判の罪による処罰はいいがかりとしても多用された)を「人を殺せば死刑。
人を傷つけたものは処罰。人の物を盗んだものは処罰」とだけに改めたものである。
この施策によって関中に於ける劉邦の人気は一気に高まり、劉邦が王にならなかったらどうしようと話し合うほどになった。
後世、「法三章」は簡便な法律を表す法諺となっている。
その頃、東から項羽が関中に向かって進撃してきていた。
劉邦はある人の「あなたが先に関中に入ったにも係わらず、
項羽が関中に入ればその功績を横取りする。
関を閉じて入れさせなければあなたが関中の王のままだ」というを進言を聞いて、
関中を守ろうとして関中の東の関門である函谷関に兵士を派遣して守らせていた。
劉邦が関中入りできた最大の要因は秦の主力軍を項羽が引き受けたことにあり、
それなのに劉邦は既に関中王になったつもりで函谷関を閉ざしていることに激怒した項羽は、
英布に命じてこれを破らせた。項羽は関中に入り、先の激怒と軍師范増の進言もあって、
40万の軍で攻めて劉邦を滅ぼしてしまおうとした。
劉邦の部下である曹無傷は、これに乗じて項羽に取り入ろうと「沛公は関中の王位を狙い、
秦王子嬰を宰相として関中の宝を独り占めにしようとしておりまする」と讒言したので、
項羽はますます激怒した。
725 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 07:00:16 ID:F2ArfY4u0
劉邦はこの危機を打開しようと焦っていたが、ちょうどその時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中に来ていた。
項伯はかつて張良に恩を受けており、その恩を返すべく危機的状況にある劉邦軍から張良を救い出そうとしたのである。
しかし張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びる事を断り、項伯を劉邦に引き合わせて何とか項羽に弁明させて欲しいと頼み込んだ。
項伯の仲介が功を奏し、劉邦と項羽は弁明のための会合を持つ。
この会合で劉邦は何度となく命の危険があったが、張良や樊?の働きにより虎口を脱した。
項羽は劉邦を討つ気が失せ、また弁明を受け入れたことで討つ名目も失った。
これが鴻門の会である。陣中に戻った劉邦は、まず裏切者の曹無傷を処刑してその首を陣門に晒した。
726 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 07:00:49 ID:F2ArfY4u0
その後、項羽は彭城に戻って“西楚の覇王”を名乗り、名目上の王である懐王を義帝と祭り上げて辺境に流し、
これを殺してしまった。紀元前206年、項羽は諸侯に対して封建(領地分配)を行う。
しかしこの封建は非常に不公平なもので、その基準は功績ではなく、項羽との関係が良いか悪いかに拠っていたため多くの不満を買い、
すぐ後に次々と反乱が起きるようになる。
劉邦にも約束の関中の地ではなく、その西側の一地方であり奥地・辺境である漢中及び巴蜀が与えられた。
劉邦を「左に遷す」と言ったことから、これが左遷の語源になったと言われている(もっとも当時において、
「関中」には単に関中盆地のみを指す場合と統一以前の秦の領土全域を指す用法があって、
両方の用法が併用されていた。
つまり後者の用法に従えば、関中を与えるという約束が果たされたと言えなくもない)。
さらに劉邦の東進を阻止するために、関中は章邯ら旧秦軍の将軍3人に分割して与えられた。
727 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 07:01:19 ID:F2ArfY4u0
当時の漢中は、流刑地とされる程の非常な辺境であった。
そこへ行くには蜀の桟道と呼ばれる人一人がやっと通れるような道があるだけで、
劉邦が連れていた3万の兵士は途中で多くが逃げ出し、残った兵士も東に帰りたいと望んでいた。
ちなみに、関中入りしても秦王の命を奪わず宝物もそのままにした劉邦に対し、
項羽は降伏した子嬰ら秦王一族や官吏4千人を皆殺しにし、宝物を持ち帰り、
華麗な宮殿を焼き払い、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。
このことが、人心が項羽から離れて劉邦に集まる一因となっている。
728 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 07:04:03 ID:F2ArfY4u0
項羽との対決
この時期に劉邦陣営に新たに加わったのが韓信である。
韓信は元は項羽軍にいたがその才能がまったく用いられず、
劉邦軍へと鞍替えしてきたのである。最初は単なる兵卒や下級将校であったが、
やがて韓信の才能を見抜いた蕭何の推挙により、大将軍となった。
その際に韓信は、「項羽は強いがその強さは脆いものであり、
特に処遇の不満が蔓延しているため東進の機会は必ず来る。
劉邦は項羽の逆を行えば人心を掌握できる」と説いた。
また、「関中の三王は20万の兵士を犠牲にした秦の元将軍であり、
人心は付いておらず関中は簡単に落ちる。劉邦の兵士たちは東に帰りたがっており、
この帰郷の気持ちをうまく使えば強大な力になる」と説いた。
劉邦はこの進言を全面的に用いた。
729 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 07:04:24 ID:F2ArfY4u0
そして韓信の予言通り、項羽に対する反乱が続発し、項羽はその鎮圧のため常勝ながら東奔西走せざるを得なくなる。
項羽は劉邦にも疑いの目を向けたが、劉邦は張良の策によって桟道を焼き払って漢中を出る意志がないと示し、
更に項羽に対して従順な文面の手紙を出して反抗する気がないように見せかけていた。
これで項羽は安心し、反乱を起こしていた斉の田栄を討伐に向かった。
それを見た劉邦は、桟道以前に使われていた旧道を通って関中に出撃し、
一気に章邯らを破って関中を手に入れ、ここに社稷を建てた。
一方、遠征先の斉でも、
項羽は相変わらず城を落とすたびにその住民を皆殺しにする蛮行を繰り返したため、
斉の人々は頑強に抵抗した。このため項羽は斉攻略にかかり切りになり、
その隙に乗じた劉邦はさらに東へと軍を進め、
途中の王たちを恭順・征服しながら項羽の本拠地・彭城を目指した。
730 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 07:09:15 ID:F2ArfY4u0
大敗
紀元前205年、劉邦は味方する諸侯との56万と号する連合軍を引き連れて彭城へ入城した。
城した漢軍は勝利に浮かれてしまい、日夜城内で宴会を開き、女を追い掛け回すという有様となった。
一方、彭城の陥落を聞いた項羽は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、
油断し切っていた漢軍を散々に打ち破った。この時の漢軍の死者は10万に上るとされ、
川が死体のためにせき止められたという。
劉邦は慌てて脱出したが、劉太公と呂雉が楚軍の捕虜となってしまった。
この大敗で、それまで劉邦に味方していた諸侯は一斉に楚になびいた。
劉邦は夏侯嬰と劉盈(恵帝)と魯元公主と一緒に馬車に乗り、
夏侯嬰が御者となって楚軍から必死に逃げていた。途中で追いつかれそうになったので、
劉邦は車を軽くするために二人の子供を突き落とした。
あわてて夏侯嬰が二人を拾ってきたが劉邦はその後も落とし続け、
その度に夏侯嬰が拾ってきた(「親から子は生まれるが、子から親は生まれない。」という事で、
親である劉邦を保全するために子を犠牲にするというのは、
儒教的倫理からすればそれほど非難されるものではない)。
731 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 07:10:08 ID:F2ArfY4u0
劉邦は?で兵を集めて一息ついたものの、ここで項羽に攻められれば防ぎ切れないことは明らかだったので、
随何に命じて英布を味方に引き込もうと画策し、これに成功した。
しかし英布は楚の武将・龍且と戦って破れ、劉邦の元へと落ち延びてきた。
劉邦は道々兵を集めながら軍を?陽(河南省?陽)に集め、周囲に甬道(壁に囲まれた道)
を築いて食料を運び込ませ、篭城の用意を整えた。
この時期、劉邦の幕僚に謀略家・陳平が加わっている。
732 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 07:11:06 ID:F2ArfY4u0
その一方、別働隊に韓信を派遣し、魏・趙を攻めさせて項羽を背後から牽制しようとした。
また元盗賊の彭越を使い、項羽軍の背後を襲わせた。
紀元前204年、楚軍の攻撃は激しく、甬道も破壊されて漢軍の食料は日に日に窮乏してきた。
ここで陳平は項羽軍に離間の計を仕掛け、項羽とその部下の范増・鍾離昧との間を裂く事に成功する。
范増は軍を引退して故郷に帰る途中、怒りの余り、背中にできものを生じて死亡した。
離間の計は成功したものの漢の食糧不足は明らかであり、将軍の紀信を偽の劉邦に仕立てて項羽に降伏させ、
その隙を狙って劉邦本人は西へ脱出した。
その後、?陽は御史大夫の周苛が守り、しばらく持ちこたえたものの項羽によって落とされた。
733 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 07:12:20 ID:F2ArfY4u0
西へ逃れた劉邦は関中にいる蕭何の元へ戻り、蕭何が用意した兵士を連れて?陽を救援しようとした。
しかし袁生が、真正面から戦ってもこれまでと同じことになる、
南の武関から出陣して項羽をおびき寄せる方がいいと進言。
劉邦はこれに従って南の宛に入り、思惑通り項羽はそちらへ向かった。
そこで項羽の後ろで彭越を策動させると、こらえ性のない項羽は再び軍を引き返して彭越を攻め、
その間に、劉邦も引き返してくる項羽とまともに戦いたくないので、北に移動して成皋(河南省氾水)へと入った。
項羽は戻ってきてこの城を囲み、劉邦は支えきれずに退却した。
夏侯嬰のみを供として敗走していた劉邦は、韓信軍が駐屯していた修武(河南省獲嘉)へ行って、
韓信が陣中で寝ているところに入り込み、韓信の軍隊を取り上げた。
更に劉邦は韓信に対して斉を攻めることを命じ、曹参と灌嬰を韓信の指揮下とした。
また盧綰と従兄弟の劉賈には項羽の本拠地である楚へ派遣し後方撹乱を行わせた。
韓信はその軍事的才能を遺憾なく発揮し、斉をあっさりと下し、
楚から来た20万の軍勢と龍且をも打ち破った。ただ斉を攻める際に手違いがあり、
斉に漢との同盟を説きに行った?食其が殺されるという事が起きている。
734 :
名無しさんと大人の出会い:2009/12/15(火) 07:14:46 ID:F2ArfY4u0
再び敗れる
紀元前203年、劉邦は項羽と対陣して堅く守る作戦をとっていたが、一方で項羽の後ろで彭越を活動させ、
楚軍の兵站を攻撃させていた。項羽は部下の曹咎に「15日で帰るから手出しをしないで守れ」と言い残して出陣し、
彭越を追い散らしたが、曹咎は漢軍の挑発に耐えかねて出陣し、大敗していた。漢軍は項羽が帰ってくると再び防御に徹し、
項羽が戦おうと挑んでもこれに応じなかった。
その頃、韓信は斉を完全に制圧し、劉邦に対して鎮撫のため仮の斉王になりたいとの使者を送ってきた。
これを聞いた劉邦は怒って声を荒げそうになったが、それを察知した張良と陳平に足を踏んで諫められ、
もし韓信が離反してしまえば取り返しがつかないことを悟り、韓信を正式な斉王に任命した。