アフォーダンス

このエントリーをはてなブックマークに追加
395381
>>394の一番最後の行は
カットアンドペーストの残りかすなので忘れて。
--------------
>>390
「自発的」について。
これはやはり意識の問題に絡んでいると思う。
「自発的」に行動して目的に適った行動をする生き物がいるとして、
それが意識を持っていなかったら、
果たして自発的といえるかどうか。

でもおそらく>>390で言っていることからすると、
生物が環境に対応して学習などによって適応的に行動を変化させ、
脳内のネットワークを変えていくさまに
164は「自発的」というものを見ているのかなと思う。

ただ、それなら「決定論」的にならずにすむかというと
そういうわけでもないだろう。
遺伝的に決まっていない、ということが
決定論的でない、ということを差すわけではない。
同じ条件でも行動が毎回違う、
そういうところにこそ「決定論」的という言葉を使うべきだと思う。
その文脈でのはなしだが、生理学実験において同じ条件でも
生物の反応がばらつくのは反応が決定論的でないからではなくて、
毎回の反応がそれまでの履歴と独立でないために
全く同じ条件を繰り返しているわけではないからだろう。
だから話はさらに難しくなる。
--------------
ついでに「自発的」および意識について。
文脈なし。ほとんど随想。

下條先生の本を読んで、
別に自由意志がなくても問題なく説明できてしまうのだなと思った。
意識(とくにクオリアを含んだ意識)は随伴的(epiphenomenal)に起こり、
人間の行動には何ら影響しない。
心理的にどう思った、楽しい、悲しい、も随伴的に起こり、
人間の行動には何ら影響しない。
それら全てを人間は「後付け」で思うだけなのだ、と。
でもこれで問題が解けたと思えないのだから問題はまだ問題のままなのだろう。

コリン・マッギンも
意識の問題は私らが認知できる外にあるということを言うのに
cognitive closureという言葉を使っていたりするが
(参照:最近出た本-邦題はダサいが原題は"mysterious flame"-)
なんか分かる気はする。
科学者はそれでもあきらめるべきではないが、
意識の問題を矮小化して解けたと称するわけにもいかない
(Denettのようにね)。