なぜ心理学者は唯物論を信じているのか?

このエントリーをはてなブックマークに追加
1名無しさん@お腹いっぱい。
詳しいことは追って説明していきます。
まずはこの問いについて聞かせてください。
2名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 08:29
近代/現代科学はみな唯物論だよ.
ていうか,唯物論の立場に立っているものを
「科学」というのがふつうだよ.

それで,唯物論と対立する(あるいは唯物論に代わる)
立場は君から言うとなんなのよ?
32:2001/01/08(月) 08:31
そもそも,1はどういう考え方を「唯物論」だと考えるの?

唯物論とは「自分の認識の対象物が外的世界に(物質的,または
社会的に)実在する」と考える思考のことだよ.
そうでない科学って存在しうる?
41:2001/01/08(月) 08:34
物心二元論です。
5名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 08:36
おーい,200年前からタイムマシンで参加してる人がいるぞー
6名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 08:38
物心二元論も「物」の外的実在は信じてるわけだから
唯物論の側面を持つのでないの?
71:2001/01/08(月) 09:01
もちろんそうです。ただ唯物論の信念が強すぎると、
得てして、人間の可能性を制約し矮小化しすぎる、
そういう嫌いがあります。唯心論も逆の嫌いがある。
唯物論や唯心論はかなり極端な信念ではないかと
思います。実際の世界は、そういう風には成り立って
いないし、説明しきれないと考えます。
8名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 10:53
君が科学者でないのなら,別にそれでいいんでないの.
君が科学者なら,どんな教育受けてきたのか知りたい.
9名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 12:24
同感です。

1さんが、そう思うのならそれでいい。

でも、教えてあげよう、というのはおせっかいかも。
本当に物心二元論が正しかったら、いつか誰かがそれを証明してくれますよ。

「なんとなくこう思う」程度ならここでは多分けちょんけちょんにされるし、
「完全に証明できた」のならちゃんとしたところで発表した方がずっと得だと思います。
10朝日直樹:2001/01/08(月) 13:08
私が昭和5年に出した『唯物心理学』はワトソンの翻訳です。
11名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 14:32
>10
おお,文正書院のカタログに出てたのに買わないで後悔している!
12名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 14:41
>9
「証明」ということ自体が科学の論理である以上,
「物」との関連を否定された(二元化された)「心」の存在や
心身二元論が「証明」されることはないよ.

1はどうせ唯物論の「物」=「モノ」程度の浅薄な
理解しかしてないだろう.「物」とは客観的実在のことで,
そこには物理的実在だけでなく社会的実在も含まれる.

したがってたとえば心の社会構成論は唯物論だし,
科学であり,そこでは唯物論の枠内で「心」が
きちんと分析できることはいうまでもない.

心身二元論は「素朴哲学」であって,素人の「実感」には
合いやすいだろうが,少なくとも科学者が真剣に議論するような
ものではない.
13名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 22:01
>12

そういうデタラメな科学観やめてくれ
お前ホントに専門家なのか?

さらしage
149:2001/01/08(月) 22:05
12さんの考えに、なるほどと納得してしまいました(笑)。

13さんの考えを、お聞きしたいです。
151:2001/01/09(火) 01:15
現行の生理学や心理学の知識では、人間が自らの肉体を自在に操る仕組みが、
脳からの指令という観点で、完全に説明できることになっている。

確かに、脳障害の後遺症として、身体的障害や失語症が起こったり、
アルコールをはじめとする薬物によって認知的・行動的障害が発生するのを
見ると、そうした考え方が裏づけられるように感じられるかもしれない。

しかしながらそれは、脳といういわばコンピュータが一時的ないし永続的に
故障した結果、コンピュータによって操られていた周辺機器がそれまでの
ようには動かなくなったことを裏づける以上の証拠になるわけではない。
問題は、そのコンピュータを動かしている主体は何かという点にこそある。
161:2001/01/09(火) 01:15
ワイルダー・ペンフィールド、ジョン・エックルズ、ロジャー・スペリーなど、
一時代を画した脳研究者たちは、自らの実験的研究などを通じて、そのような
唯物論的見解を放棄するに至っている。
(ペンフィールド、1977年。エックルズ、1984年。Sperry@` 1988)

特にエックルズは、1976年に開催された超心理学協会年次総会の招待講演の中で、
要するに脳は心が念力で操っている(*1)のではないかとまで発言している。
(Eccles@` 1977、256ページ)
ペンフィールドとともに、心と脳は別の実在だとする二元論を唱えているのだ。

 *1 プリンストン精神物理学研究所のチャールズ・ホノートンは、
 乱数発生装置を用いて、エックルズの仮説の探索的実験を試み、
 ある程度の成功を収めている(Honorton@` 1979)。
171:2001/01/09(火) 01:15
しかしながら、このような着想に至ったのはエックルズが最初ではない。
次に引用するのは、エックルズ以前に提出された、イギリスの心理学者による
「シン仮説」(*2)と呼ばれる仮説にまつわる発言である。

 *2 シンとは、サイ(ψ)というギリシャ文字が超常的過程を現わす言葉
 として既に使われているため、“魂”という別次元の事象を表現する目的で
 タウレスらが用いたヘブライ文字である(Thouless & Wiesner@` 1948、199ページ)。

 (第二の仮説は)「私(人間)は、念力実験で好成績を挙げる被験者がサイコロ
 その他の物体を支配するのと同じ手段、すなわちサイ・カッパ(=念力)によって、
 自分の神経系の活動を支配している(また、自分の肉体や思路のようなものも
 間接的に支配している)」(というものである)。……生体を自在にコントロールし、
 知覚過程の中で生体から情報を受ける何らかの実在があると示唆しても、そこに
 目新しい点がないのは明らかである。魂や自己という考え方が生理学者や実験心理
 学者に放棄され、自由意志や認知を含むあらゆる心的過程が生体の物理的過程の
 単なる側面と見なされるようになる比較的最近まで、このような考え方は広く信奉
 されてきた。事実、19世紀半ばですら(スコットランドの医師ジェイムズ・)
 ブレイドは、「私は、脳を単なる心の器官と見な」し、「魂と身体の器官」の関係
 を音楽家と楽器の関係と同等なものと考えることができる、と発言することが可能
 だったのである(Thouless & Wiesner@` 1948、197、209-10ページ)。

心と体の関係を扱う、いわゆる心身問題については、古来、さまざまな科学者や
哲学者が好んで考察しているけれども、このように超常現象の実在を踏まえた
検討は、それほど行なわれているわけではない(*3)。

 *3 超常現象と唯物論的仮説の関係を考察しているさまざまな研究については、
 バス大学の社会学者H・M・コリンズらの著書(Collins & Pinch@` 1982)の
 第3章を参照。
181:2001/01/09(火) 01:16
これ以前にも、それほど明確な形ではないものの、
イギリスの物理学者ウィリアム・バレット(Barrett@` 1886)、
イギリスの古典学者F・W・H・マイヤーズ(Myers@` 1886-87)、
アメリカの超心理学者ジョゼフ・B・ライン(Rhine@` 1943、70ページ)
らが同様の着想を公にしているし、それ以降にも、
エジンバラ大学の心理学者ジョン・ベロフ(Beloff@` 1976@` 79@` 89)
らがその考察を行なっている。また、日本大学の物理学者・堀伸夫も、
自著の中でその着想を簡単に述べている。

 PK(念力)をあり得べからざることとして簡単に否定し去ろうという人は
 果して心と物との関係について深く考えた上でのことであろうか。肉体という
 物質には作用を及ぼし得るが肉体以外の物質には間接にしか作用を及ぼし得ない
 ということをうまく説明できる理論があるのだろうか。……これを要するに、
 一つの原因に対して無数にあり得る結果のうち確率の少い方向へ現象を導くとか、
 或は無数の可能な結果の中の特定の結果にだけ現象を導くとかいうようなことが
 精神力で可能ならば奇蹟は起り得るのである。……我々は今日まだ精神力の
 何たるかを知らない。それを知らない以上、たとえどのような「奇蹟」的事実が
 あろうと、事実は事実として謙虚に認めるほかない。……奇蹟は今日の物理学から
 見て絶対不可能事ではない……もし理論上絶対不可能という結論が出るならば、
 事実をではなく物理学の理論の方を変えなくてはならないだろう
 (堀、1986年、161@` 163ページ)。
191:2001/01/09(火) 01:16
そのような検討をしているひとりであるベロフは、最近、
弱い二元論(随伴現象仮説――心は脳の活動の随伴現象にすぎないとする仮説)、
強い二元論(相互作用仮説――心と脳が別の実在であるとする仮説)、
一元論的唯物論という、昔から取りあげられてきた三通りの仮説をあらためて掲げ、
最後の仮説を「はなはだしく直観に反している」として却下し、
前二者のみについて検討を加えている。

そして、(1)著しく直観に反し、(2)不合理な結論に帰着するのみならず、
(3)これまで知られている脳の特性を考えると説明できない特異的な心理現象
――超常現象――が存在する、という三通りの理由から、随伴現象仮説を
棄却しているのである(Beloff@` 1994)。
20>1:2001/01/09(火) 02:04
お疲れさま。
本心から申し上げますが、大変面白かったです。
ただ、残念ながらほぼ全面的に受け入れるわけにはいきません。
sageで書かれたのは極めて賢明でしたが、
オカルト板へ逝けば、もっと賢人になれると思います。
21名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 02:19
>1
興味深かったです。ここの人達は唯物論に固執してる
ようですが、私としてはどちらでもいいのです。
私は脳が心をつくり出すと思ってますが、これらが証明
されるのは、今世紀中には無理な話なので、議論しても
無駄だと思います。
ただ、心理学を専攻している人が、頑なに唯物二元論を
否定してるのには驚いた。私の大学とは違うみたいだ。
心理学部と生物学の人間が仲悪いの内だけ?
  
22伍長:2001/01/09(火) 02:42
>21
いや、心理学専攻の人でも素朴な二元論者はたくさんいますよ。
たまたま上に書き込んだ人たちがそうではなかっただけだと思います。
むしろ、素朴な二元論者が心理学に興味を持つ割合の方がずっと多いんじゃないかな。
多くはそのまま二元論を疑わずに過ごし、一部が懐疑派になり、一部が唯物論者に転向する。
始めから唯物論者の人もいると思うけど。
私は転向派。
23名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 02:51
>21
今世紀って21世紀のことですか?
あと,あなたの大学はどこにあるのでしょうか?
海外の大学ですか?
心理学部というのは日本では中京大学にしかないので。
どんな風に仲が悪いのか,もう少し詳しく知りたいものです。

2421:2001/01/09(火) 02:58
>22
レスありがとうございます。よくわかりました。
私はがちがちの唯物論者で、いまもそうなのですが
最近少し懐疑的になっています。
伍長さんとは逆のパターンですね。
2521:2001/01/09(火) 03:05
>23さん
申し訳ありません。学部ではなく学科です。
ちなみに私は心理学を専攻している人間ではありません。
大学は海外ではなく、日本の大学です。
海外に行きたくても英語がさっぱりなので…


269:2001/01/09(火) 06:46
物心二元論とはそういう意味だったんですか。
心を感情と同じ意味に捉えてたので、12さんの言うように認識できる物が存在して
はじめて存在できるものと思っていました。
でも、「モノ」以外の「なにか」が存在すると言う意味でしたら、同じような事を感じています。

専門書ではない一般向けの精神世界の本(まゆつばと言われても仕方がないけど)に、
「この世」の他に「あの世」というものが一対一に対応して存在しているという仮説が立てられてました。
テレビで言えば、電磁界とテレビの映像のようなものだそうです。
どっかに空間を占めた「あの世」があり、死んだら「あの世」に行くという事ではない、並存している、
死ぬという事はテレビのスイッチを切るようなものであり、映像が映らなくなったとしても
電磁界が無くなった訳ではないとありました。逆に言えば、テレビがあっても電磁界がなければ
なにも映りません。霊とか魂というものが「あの世」に存在してるからこそ、「この世」で生物として
体現できるという意味ではないかと思います。

(「あの世」があると仮定した場合、ユングの共時性も突拍子のない事ではないですよね。
「この世」の因果律ではなく、「あの世」の力が働いたとするだけですから。)
279:2001/01/09(火) 06:47
(続き)でも、証明できるものではないです。上がデビット・ボーム博士という物理学者の先生の要約ですが、
博士の言葉をそのまま書けば『「この世」というのは「あの世」にたたみ込まれている』とありました。
「この世」が「あの世」に包括されている、「この世」の全ての空間、時間、物体がたたみ込まれている。
だとすると、見る、知る、聞く、認識する、そういったものは「この世」の概念なので
「あの世」を捉える事(これも概念ですけど)はできないのではないのではないでしょうか。
「あの世」の証明が人間にはできないのはこの為だと考えます。
(よって、想像するのみ。なんらかの下地(宗教観とか、逆に霊魂=オカルトといったような観念etc)
によって「あの世」を素朴に信じたり、また否定したりする)

心理学とかけ離れたと思いますが、人間の本質とはなにか、という点についての
一つの仮説だと思いますので書いてみました。

間違って理解してる部分もあるかもしれないし、浅くしか理解できてないと自分で
感じていますので、ツッ込まれてもなんともできません。ごめんなさい。

289:2001/01/09(火) 06:49
段落補正失敗…
291:2001/01/09(火) 09:42
現行の科学知識では、心は脳の活動の副産物と位置づけられている。
脳が活動する結果として、あたかも心が独立して存在するように
みえるに過ぎないということだ。

そのような考え方の裏づけになりそうな現象が数多くみられること
については、あらためて言うまでもないが、にもかかわらず、
そうした考え方自体の妥当性は、科学的方法(観察および実験)
によって実証されているわけではない。

このあたりの事情を、アンリ・ベルクソンは次のように述べている。
「脳は、意識にあらわれるものの中から、その一部分を運動に転換
させるというだけのものなら、心が、死後も生き残るということは、
ありうることとなり、肯定する人ではなくて、今度は否定する人が
それを証明する義務を負うことになります。なぜなら、死後に意識が
消えてなくなると信じる唯一の根拠は、身体が分解するのを見る
ということですが、しかし、ほとんどすべての意識が身体から独立
しているということは確認された事実でありますから、
この根拠はもはやなんの価値もありません」

結局のところ、ベルクソンが的確に指摘しているように、人間が死ぬと
何もなくなるようにみえるためにそう主張されている以上のものでは
ない。したがって、この「唯物論」と呼ばれる考え方には、
数多くの欠陥がみられる。
301:2001/01/09(火) 09:43
ところが、逆に、人間の心が脳とは別個に存在すること
の裏づけになりそうな証拠は、さまざまな形で存在している。
いわゆる「超常現象」がその証拠の筆頭に位置づけられるが、
それを別にしても、昔からたくさんの現象が知られている。

医学や心理学の中で観察され続けてきたものとしては、

・催眠状態の中で起こる不思議な現象
・宗教的背景の中で発生する、ほとんどは出血を伴なう聖痕
・多重人格の患者の人格交代に従って起こる精神生理学的な変化
・昔の体験を想起すると、その時に受けた外傷や皮膚の変性などが
 即座に再現されるかに見える解除反応

などがあげられる。また、今世紀初頭まで欧米の医学の教科書や
専門誌にも取りあげられていたし、現在でも医学雑誌に稀に報告
される「妊婦刻印(maternal impressions)」という現象もある。
さらには、日常生活の中でも時おり気づかれるし、心理療法の中
ではごくふつうに観察される「反応」や「対比」という現象も、
おそらくその中に入る。

つまり、こうした現象が、心自体の持つ能力の現われの一端
なのではないかということだ。
311:2001/01/09(火) 09:43
では、これまで知られている現象を紹介していくことにする。

18世紀半ばに、ウィーンの医師アントン・メスマーが「動物磁気」
を発見したことが、後の催眠研究の嚆矢となった事実は、一般にも
よく知られている。もちろん、その後、動物磁気なる流体は発見されず、
被験者というか患者は、施術者の「暗示」に反応しているという事実
が明らかになったわけだ。そして、その暗示によって、
実に不思議な現象の起こることが分かってきたのだ。
321:2001/01/09(火) 09:43
イギリスの心理学者アラン・ゴールドは、「催眠の歴史」の中で、
これまで報告された、催眠によって得られた器質性疾患の治癒について
まとめている(同著、pp.486-487)。それによると、癌、多発性硬化症、
脳卒中後の麻痺、皮質切除後の後遺症、癲癇などが、催眠を用いた治療に
成功しているという。その中で紹介されている実例を2、3あげると、

・H・シュタッデルマンが1896年に報告したところによれば、
 53歳になる乳癌の女性に催眠療法を行なったところ、
 腫瘍が著明に退縮を起こしたという。
 ところが、催眠療法を中止すると、2ヵ月後に再発し、
 望ましい条件で催眠療法が継続できる状況になかったため、
 この女性はまもなく死亡したという。
・また、J・フォンタンらによる1887年の報告によれば、
 多発性硬化症という確定診断が下された患者に催眠療法を
 行なったところ、症状が大幅に軽減されたという。
 その後、この患者は肺結核で死亡している(*1)。

 *1 癌を催眠によって退縮させようとする試みは、これまでのところでは
 それほど行なわれているわけではない。どのような研究があるか知りたい人は、
 ヘンドリカス・J・スタムの論文(Stam@` 1989)や、American Journal of Clinical
 Hypnosisの「催眠と癌」特集号(Vol. 25@` Nos. 2 & 3@` 1982/83)を参照。

また、催眠によるイボの治療については昔から広く知られており、
1993年にアメリカ心理学協会から出版された「臨床催眠学ハンドブック」
という教科書的な書物の中にも、「イボの心理的治療」という章が
設けられている。イボは、ウイルス性の皮膚疾患とされているにもかかわらず、
催眠を用いて行なわれた研究が数多く発表され、治癒率はかなり高いものが
多いけれども、イボの消失を的確に説明する仮説は、これまでのところでは
提出されていない。
331:2001/01/09(火) 09:44
ブライアン・イングリスは、催眠中に発生する変わった現象を、
超常的なものも含め、詳細に調べあげ、「トランス」(春秋社)という
自著の中でまとめている。こうした現象は、数多の著書や専門誌の中に
埋もれて見えにくくなっているが、この著書は、それらをまとめて整理
しているという点で、きわめて貴重なものと言える。

とはいえ、逆に見れば、これまでの研究者が、こうした重要な現象を
真正面から取りあげるのを避けてきたということなのだろう。
その中で扱われている現象としては、たいていの催眠関係の書籍などにも
紹介されている知覚麻痺および痛覚消失、知覚の捏造ないし幻覚の誘発、
感覚の鋭敏化、極度の集中力などの他に、正確な時間知覚、心身症的な
身体的変化、火傷をはじめとする皮膚の変性の発生および消失、潜在的能力
の発揮、電光石火の計算能力などがある。
341:2001/01/09(火) 09:44
次に、この著書から、代表的な実例を紹介する。

 ヒステリーの場合であれ、催眠の場合であれ、トランス状態では痛みに対して
 無感覚になることも、しばしば確認された。デルブーフは、痛みを超越する
 精神力に関する知識を一歩進め、後に言うところの“管理”実験を行なった。
 催眠をかけた女性被験者に、左腕だけが痛いという暗示を与えながら、真っ赤に
 焼けた鉄鏝を両腕に当てた。まさしく被験者は、左腕の痛みを訴えた。そこで
 デルブーフは、被験者の両腕に包帯を巻いた。翌日、包帯をはずしてみたところ、
 左腕に水泡ができていた。右腕には、鏝の輪郭は認められたものの、水泡は
 なかった。暗示は痛みを軽減させたのみならず、ふつうなら火傷に伴って発生
 したはずの症状の発現を抑制したのであった。

 さらに驚くべきことに、催眠状態の中で与える暗示によって、火傷その他の外傷を
 被験者に発生させることができるという事実が発見された。……ジャネは患者の
 ひとりに催眠をかけることによって、どう見ても本物の火傷としか思えないものを
 生じさせることができた。その火傷は水泡を伴い、最終的には痂皮まで形成された
 のである。そのような形で発生する斑点ないし変性は、患者の思い込みを反映して
 いることもあった。ある女性患者に、胃の上に芥子湿布を当てたという暗示をかけた
 ところ、丸みを帯びた長方形の赤みがそこに発生したのを見て、ジャネは驚いた。
 すると、患者は、その形も大きさも、自分がいつも使っている芥子湿布と同じだと
 言ったのである(イングリス、1994年、pp. 100-101)。
351:2001/01/09(火) 09:44
イリノイ大学心理学科のゴードン・L・ポールは、
このふたり(リエージュ大学の哲学者ジョゼフ・デルブーフと
フランスの精神科医ピエール・ジャネ)の研究までは包含していないけれども、
1886年から1957年までに報告された、
催眠暗示による「火傷」誘発実験を厳密に検討している(Paul@` 1963)。

それによると、大半の実験では、管理が不十分で実験計画に不備があり、
したがって他の解釈が入り込む余地があるなどの問題がみられたという。
たとえば、暗示をかけるとすぐに「火傷」が発生するわけではなく、
ある程度の時間がかかるため、その間に被験者を厳密な管理下に置いていない
研究では、「火傷」が別の要因によって発生した可能性が考えられるのだ。
しかしながら、暗示以外の要因がほぼ完全に棄却される実験も
3件あることが明らかになった。
361:2001/01/09(火) 09:44
さらに驚異的な現象がある。

ロンドンにあるクイーン・ビクトリア病院の麻酔医のアルバート・A・
メイソンは、イボ(疣贅)を催眠暗示によって除去する経験を積み自信を
深めていた1951年に、15歳の少年の麻酔を外科医から依頼された。

少年の両腕は、数千にも昇る黒く固いイボ状のもので覆われていた。
あらゆる治療が失敗に終わっていたため、その外科医は胸部の皮膚を
両腕に移植することを考えていたのだ。その皮膚病を重症のイボと
勘違いしたメイソンは、試しに催眠療法で治療させてほしいと申し出た。

「当時の私は、無知であったためと自らの技量を見せびらかしたいという願望が
あったため、尋常性疣贅(ウイルス性腫瘍)と、実際にはまったく別種の疾患
とを区別することができなかった」(Mason@` 1994@` p. 645)。

そして、皮膚移植を事実上断念した外科医から、自由に治療してよいという
許可を得たメイソンは、少年を催眠誘導し、「右腕のイボは小さくなって死に、
下からきれいな皮膚が出てきます」という暗示を与えた。すると1週間後には、
右腕が8割方きれいになっていたのだ。それを見たメイソンは、喜んだものの、
さほど驚きはしなかった。

ところが、それを見た外科医は仰天した。その皮膚病は、それまでいかなる
治療によっても好転した症例のない先天性の魚鱗癬様紅皮症だったからだ。
その後、6週間にわたり残りの部位の皮膚病を催眠療法で治療した結果、
7割方の症状が消えた(Mason@` 1952@` 53)。
371:2001/01/09(火) 09:44
3年後に追跡調査を行なったところ、7割ほどの好転が維持されていることが
わかった。メイソンは、症状をさらに改善させるべく、もう一度催眠療法を
施行しようと試みたが、患者自身の抵抗によりトランス状態に導入することは
できなかった(Mason@` 1955)。

また、その後も、同じ疾患を持つ別の患者を催眠療法によって治療しようと
したが、「治療不能」であることを既に知ってしまったためか、
治療には一件も成功しなかった(Mason@` 1994@` pp. 645-46)。

催眠状態の中では、このようにきわめて不思議な現象が発生する。また、
稀には、解除反応に伴って、いわゆる心身症的レベルを越えた身体的変化が
みられることもある。たとえば、ロンドンの医師ロバート・L・ムーディ
によれば、10年ほど前に起こった出来事を想起した時、ある患者の右前腕部に
ロープできつく縛られていたかのようにみえる痕が幾筋か出現したという
(Moody@` 1946@` p. 934)し、

別の患者が20年ほど前に起こった出来事を想起している最中に、その患者の
皮膚が腫れ上がって打撲傷のようなものが出現し、出血が見られるという変化が、
少なくとも30回は起こったという(Moody@` 1948@` p. 964)。

また、ヴァージニア大学精神科のイアン・スティーヴンソンによれば、前世で
コブラに噛まれて死亡したと主張するインド女性が、その前世を想起した時に、
実際にコブラに噛まれた時のように、その女性の舌と口内がどす黒く変色する
現象が何度か観察されたとする証言が得られているという
(スティーヴンソン、1995@` p. 162)。
381:2001/01/09(火) 09:45
このような、特に局所的に発生する現象については、
従来の立場ではどのように説明されているのだろうか。

アメリカの心理学者T・X・バーバーは、1955年から58年までの間に、深い
トランス状態にある30名の被験者に暗示をかけ、皮膚に水泡を生じさせる実験を
試みたが、わずかな皮膚科学的変化すら観察されなかった。
(バーバー、1975@` p. 121)

としながらも、これまでの報告から、「催眠誘導手続きとともに与えられる暗示も
そしてまた催眠誘導手続きなしに与えられる暗示も、皮膚描記群の被験者の一部に
発疹あるいは水泡様構造を引き起こすであろうこと」(同書、p. 123)を認めている。

しかしながら、そうした現象の起こる機序については、その体験を想起すると
局所的な発疹を発生させる者の中に、「適当な暗示が与えられるとき、
発疹あるいは水泡様効果をあらわす」者が存在する可能性を指摘したうえで、
「蕁麻疹の丸い発疹、皮膚描記の直線状の発疹、および火傷から生ずる水泡は、
ヒスタミン様物質の遊離、毛細管の局所的な拡張と増大する浸透性、ならびに
広範囲に亘る小動脈の拡張とからなる、傷害に対する皮膚の……反応の
バリエーションと見なすことができる」(同書、p. 122)と述べるに留まり、
それ以上のメカニズムには一切触れていない。この点については、催眠により
皮膚に炎症を起こす実験に成功した後に書かれた論文(Barber@` 1978)でも、
基本的な進展は見られない。

しかしながら、たとえばヒステリー性の麻痺などが、神経の分布によっては
説明できないことを認めるのなら、先述のように、昔の体験を想起する時に
生ずる皮膚の局所的変化や暗示による水泡の発生が、これまでの生理学的知識
では説明できないことも認めるべきではないだろうか。ところが、この点に
ついて率直に述べている研究者はほとんどいないようなのだ。
391:2001/01/09(火) 09:45
ハイデルベルク大学生理学研究所のH・シェファーは、
心身問題を研究する手段として心身症を検討する中で、
「広義の偽薬を用いた実験のうち、最も奇妙なのは、真っ赤に焼けた鉄鏝が
押し当てられたとか、水泡のできる湿布が貼付されたという暗示を与えた時に、
強い発赤や、場合によっては水泡を伴った火傷が発生するという現象だ」と述べ、
そうした現象を発生せしめる生理学的機序を明らかにする必要があるとしている
(Schaefer@` 1965@` pp. 530-33)が、

全身性に発生する心身症症状とは異なり、精神身体的なメカニズムで発生する
火傷や湿疹その他の局所的現象を説明することは、不可能ではないにしても
きわめて困難であり、これまでのところではその生理学的基盤は見つかって
いないことを認めている(ibid@` p. 533)。

また、ウォータールー大学心理学科のケネス・S・ボワーズも、この種の現象を
検討し、「こうした暗示は、それが及ぼす影響という点で、高度に選択的であり、
局所的であるため、自立神経系の覚醒による全身的変化に起因するとして説明
するのは難しい」と述べている。そして、魚鱗癬などの先天性皮膚疾患の催眠による
治療を検討する中で、多少なりとも予測通りに、こうした抗療性皮膚疾患が催眠に
よって段階的に好転するという事実があることから、「身体的ストレスが全般的に
減少した……として説明することはできない」(Bowers@` 1977@` pp. 228-29)
としているのだ。

このように、先天性魚鱗癬がストレスの減少はもとより、通常の「暗示」に
よっても治療できないことは、先に紹介したアルバート・A・メイソンの証言
からも明らかだろう。したがって、現段階では、心因性の局所的反応は、
これまでの生理学的知識では説明できないと考えてよいのではないだろうか。
401:2001/01/09(火) 09:45
さらに一歩進んで、オクスフォードの開業医C・A・S・ウィンクは、
やはり先天性の魚鱗癬様紅皮症を「催眠」により治療した2例を報告する中で、
「心理的作用が局所的組織の代謝に直接的に影響を及ぼした」可能性を
示唆している(Wink@` 1961@` p.742)。

そうすると、このようなものを念力による現象と区別することは困難になってくる。
念力との相違点は、「暗示」としてターゲットを指示したか否かという形式的な点
にしかないことになるからだ。

この種の現象自体は昔から知られてきたにもかかわらず、「それは暗示の結果に
すぎない」などとして説明されてきたけれども、以上の検討からもわかるように、
暗示の本質についてはまだ何もわかっていない。にもかかわらず、そこから先に
ついては、暗黙の了解のもとに、誰も踏み込まないようにしてきたのだ。

こうした現象を客観的に考えれば、人間は、自他の肉体をある程度にせよ自在に
操れることになるわけだが、誰もそのようには考えたがらない。これはいったい
なぜなのだろうか。ここには、人間の心の謎を解く重要な鍵が隠されているのでは
ないだろうか。このような現象を通じて、心身症のみならず、さまざまな疾患の
症状発現の原因を説明してくれる要因に迫ることができるかもしれない。
411:2001/01/09(火) 09:45
このように、厳密には両者を区別することができない場合があることからすると、
催眠状態の中で起こる少なくとも一部の現象は念力によるものだ、という仮説が
必然的に浮かび上がる。イギリスに心霊研究協会が創設された19世紀末頃には、
超常現象とともに催眠現象が研究対象に含まれていた。ところが、いつしか催眠は、
心霊研究や超心理学の研究対象から外され、医学や心理学の範疇に含まれるように
なった。そして、それ以降は、不思議なことに、そのような着想を明言する研究者が、
ごく一部の例外を除いてほとんど存在しなくなってしまったのだ。

そうした例外のひとりは、エジンバラ大学の心理学者ジョン・ベロフだろう。
1964年に出版された自著の中でベロフは、次のように述べているからだ。

 あえて私見を言えば、催眠は、単なる心理現象ではなく、ある種の超常的要素をも
 含んでいるのではなかろうか。このような発言をすれば、特に、悲惨であり
 いかがわしくもあった初期の催眠時代に照らして考えれば、多くの者から、話にも
 ならない時代への逆行と見なされることはまちがいないであろう。それでも私は、
 これにまつわる全ての事実群を、生理学用語や「被暗示性」ないしは「選択的注意」
 といった正統的な心理学的概念で完全に説明できる可能性を疑っている。……
 催眠は、実際に、われわれが自らの生体に超常的に影響を及ぼしている数少ない
 事象であることがわかるかもしれないのである(Beloff@` 1964@` p. 236)。
421:2001/01/09(火) 09:46
もうひとりの例外は、ピッツバーグ大学の生物学者ロバート・マコンネルだ。
マコンネルは、自著に「念力としての催眠」という章を設け、
その中で、レニングラード大学の生理学教授L・L・ワシリエフが
遠方の遮蔽室に置かれた被験者を超常的に眠らせようとした「遠隔暗示」実験
(Vasiliev@` 1963。ワシリエフ、1982年@` pp. 136-49)を検討し、
次のように述べている。

 ワシリエフの実験は、催眠という背景の中で行なわれ、実験者も被験者も、
 自分たちが催眠実験に従事しているものと考えていた。遠方から運動の暗示
 を与えるという実験について述べているワシリエフの著書の第4章では、
 被験者の行動が典型的に「催眠的」なものであることに疑いを挟むことは
 できない。「単なる暗示」に対する反応とは異質な、真の催眠を規定する
 要素は、施術者が念力を用いることではないかとする推論を否定してよい
 根拠は、私には見当たらない。……1960年頃から、催眠は、超能力を高める
 訓練のための手段および、ESPがより誘発されやすい解離状態という
 二通りの形で超心理学に戻ってきた。私の知る限り、催眠が念力による作用
 かもしれないという指摘は、信頼の置ける文献の中では一度も行なわれていない。
 大半の超心理学者はこの(念力はまずまちがいなく催眠の本質であるという)
 考え方を拒絶するのではないかと推測されるし――おそらくはそうすること
 であろう。(McConnell@` 1983@` pp. 161-63)

そしてマコンネルは、もしそれが事実なら、長年の間、念力は、催眠という名の
もとに心理学者によって真剣に研究されてきたことになると指摘しているのだ。
ただし、ここでひとつ訂正しておかなければならないことがある。同様の着想を
述べた研究者は、マコンネルの主張とは異なり、ひとりもいないわけではない。
先のベロフ以外に、イギリスの医師フレデリック・W・ノウルズが、やはり遠隔
催眠について触れる中で次のように述べているからだ。「私の仮説は、簡単に
言えば、医師の思念が超心理的過程によって患者に影響を与えるということである」
(Knowles@` 1956@` p. 116)
431:2001/01/09(火) 09:46
ところで、コロラド州デンヴァーの精神分析家ジュール・アイゼンバッドは、
催眠法の前身とも言うべき動物磁気学説の提唱者のメスマーからワシリエフに
至るまで、この「ほとんど無視されてきたとも言うべき」遠隔暗示現象を歴史的に
概観し、「遠隔暗示の持つ意味や重要性に対しては、私自身も奇妙な無関心を示して
いたという点で、他の人々と同罪であることを告白しておかなければならない」と
前置きしながら、自ら行なって成功したという予備的実験を紹介している。
(Eisenbud@` 1982@` p. 148)

フランスの代表的心理学者であったピエール・ジャネの詳細な観察報告を含め
(Janet@` 1968a@` b)、散発的にではあるが百年以上にもわたって続いてきた
このような報告を見る限り、ワシリエフの実験そのものについては、
簡単に否定してよいものではなさそうに思われる。
441:2001/01/09(火) 09:46
マコンネルは、先の論文の中で、催眠は脳に念力が作用した結果起こる現象だとする
仮説を唱えているわけだが、これまで、マコンネルの発言を真正面から取りあげて
いる研究者はほとんどいない。唯一の例外とも言える、ヴァージニア大学人格
研究室のエミリー・W・クックは、その論文の問題点を批判し、「残念ながら、
マコンネルの論文は、ひとつの見解を述べた以上のものではないし、ましてや何ら
理論的に重要なものでもないが、それは、そこで提出されている仮説が明白に
不当なものであるということではなく、わずかにせよそれを支持する証拠を提出して
その仮説を擁護することができていないからである。マコンネルは単に……奇妙な
推断にのみ基づいて、『念力が催眠の本質であることはほぼ確実である』と主張
している」にすぎないことを指摘している(Cook@` 1984@`p. 375)。

クックの批判は正しいのだろう。とはいえ、その中でも述べられているように、
催眠を全て念力による現象と考えてよい根拠がありさえすれば、催眠を念力によって
起こった現象と考えて差し支えないことは言うまでもない。しかしながら、催眠現象
自体が念力によって引き起こされた状態と考える必要があるようには、少なくとも
現段階では思われない。この考察を続けるうえでは、これまで「単なる催眠」や
「単なる暗示」として片づけられてきた中に、念力によって起こった現象が、
一部にせよ含まれているのではないかと考えさえすれば十分なのだ。そして、
その根拠としては、先述のように、火傷類似の変性が「暗示」によって発生する
という事実や、ウイルス性疾患であるはずの疣贅(成瀬、1960年、173ページ。
バーバー、1975年、118-20ページ。Dubreuil & Spanos@` 1993; Ullman et al@` 1960)
や先天性魚鱗癬(Kidd@` 1966; Mason@` 1952@`53; Wink@` 1961)が
「暗示」によって治療できるという事実がある(*2)。

 *2 イボは自然治癒率が高い(バーバー、1975年、119ページ)ため、
 催眠を用いずとも消失する可能性はあるが、
 被暗示性の高い被験者の治癒率が高い(Bowers & Kelly@` 1979@` p. 497)ことや、
 暗示をかけた部位から段階的に好転する(Holroyd@` p. 208)ことからすると、
 自然治癒とは別の機序によって消失していることがわかる。
451:2001/01/09(火) 09:46
これまでは、こうした症状が「暗示」によって発生ないし消失する事実があるとすれば、
それは、当然とは言わないまでも、現行の生理学的、心理学的知識の枠内およびその
延長線上で十分説明できると、暗黙のうちに考えられてきたように思われる。

しかし、先述のように、暗示とは何かという疑問に的確に答えることができない限り、
この考え方は憶説以上のものにはなりえない。逆に、催眠状態にない被験者に対して、
さらには動物に対して生体PKが働くという実験報告(たとえば、クリップナー他、
1986年、64-86ページ。Benor@` 1993a@` b@` 94; Dossey@` 1994; Solfvin@` 1984の総説参照)
が少なからず存在するという事実からすれば、念力によって生体が目標志向的に変化
したとする仮説の方が、「単なる暗示」によってそうした変化が起こったとする仮説
よりも優位な立場にあるのではないだろうか。

そのように考えると、念力という、心の力があからさまにわかるような名称の代わりに、
暗示や催眠という名称を使いさえすれば、それによって起こるとされる現象自体は、
抵抗なく受け入れられるし、実際にも受け入れられてきたことになる。しかし、それには
条件があって、暗示や催眠の本質にまで踏み込んではならないということなのだ。
そして、その本質に踏み込もうとすると、超常現象に対する抵抗が遅延して発生する
のではないだろうか。逆に言えば、そのためにこそ暗示や催眠が、その本質に
踏み込まれることのないまま研究され続けてきたということになるのかもしれない。
そう考えると、暗示や催眠は、超常現象というか、心の力に対する抵抗のひとつの
緩衝材になっていることになる。
461:2001/01/09(火) 09:46
超常現象の科学的研究は、1882年に、ロンドンでケンブリッジ大学の研究者が中心
となって心霊研究協会を創設したのが始まりとされている。したがって、超心理学の
歴史は、既に110年以上続いていることになる。当時は、世界的に著名な科学者や
研究者が参加してさまざまな研究活動が続けられたが、それなりの成果は得られた
ものの、他の分野の科学者の説得という点から見る限り、残念ながら、現在までに
大きな進展があったと言うことはできない。

超常現象という言葉は、通常の因果律を超えて起こる現象の総称であって、
よく誤解されるように、珍しい現象や怪奇な現象を指して用いられる、あるいは
そうした現象がそれに含まれるわけではない。現在、超心理学や心霊研究と
呼ばれる分野では、ESP(超感覚的知覚)、念力、死後生存(死後存続)という
3通りのカテゴリーに分けて研究が進められている。

超常現象の研究には、他の分野には見られない奇妙な特徴がいくつかある。
そのうちのひとつは、超常現象に対する人間の態度、つまり、熱狂的に信ずるか、
同じく熱狂的に否定するかのどちらかの態度を取る人たちが圧倒的に多いという
事実だ。逆に言えば、超常現象の実在を裏づけるとされる証拠を、冷静な態度で
厳密に検討しようとする人は、きわめて少ないのだ。このように、超常現象は、
人間の感情を大きく巻き込んでしまうという点で特異な位置を占める、
きわめて重要な現象だと言える。
471:2001/01/09(火) 09:47
超常現象の実在を熱狂的に信ずる人たちは、その証拠をほとんど検討することなく
現象を過大に評価する傾向が強いのに対して、熱狂的に否定しようとする人たちは、
これまた証拠をほとんど検討することなく、最初から全否定しようとする傾向を
きわめて強く持っている。後者は、ほとんどの場合、次のような、非常に興味深い
特徴を、判で押したように示す。

 ・超心理学の門外漢が、
 ・超常現象の研究そのものについてはほとんど知ろうとしないまま、
 ・研究者を専門家と認めることなく、
 ・「科学では説明できないからありえない」とか「それは手品にすぎない」
  などという没論理的論理を用いて、
 ・自分の方がよく知っているという態度で超常現象を全否定する。

これは、超常現象が実在するか否かを別にしても、論理学的にはもちろん、
心理学的に見ても、大変に興味深い態度と言わなければならない。たとえば、
現代物理学に対して、門外漢が、そのような研究についてほとんど知ろうと
しないまま、研究者を専門家として認めずに、没論理的論理を用いて、
その研究や研究領域を、表面的な態度はともかく、高飛車に否定したとすれば、
正気を疑われることだろう。ところが、超常現象の研究に対しては、このような
態度が、数のうえではむしろ普通なのだ。現行の科学知識という権威を後ろ楯
にして、超常現象などあるはずがないという態度を取っているわけだが、
このような態度を取ること自体が、既に過剰防衛になってしまっており、
そこに、鎧の亀裂がかいま見えるのだ。
481:2001/01/09(火) 09:47
確かに、超常現象が容易に再現できるとすれば、その実在を否定したくとも
できないだろう。たとえば、通常の物理的手段を用いずに、白昼に、屋外で、
しかも衆人環視の中で、大量の水を空中に浮かべるとか、一瞬のうちに気温を
10度変化させるとかができれば、何の問題もなく、超常現象の実在は認められる。
ところが、現実にはそのようなことは、絶対と言ってよいほど起こらない。
その最も大きな理由は、超常現象がとらえにくい性質を持っていることだ。
このとらえにくさは、量子力学で知られる不確定性関係のようなものとは
根本的に異なっている。不確定性関係の場合には、いわば不確定が確定されて
いるのに対して、超常現象の場合には、現象自体があたかも意志を持っている
かのように、捕捉しようとする網をすり抜けようとするのだ。

このような同義反復的な擬人的表現をすると、特に超常現象の実在を「信じて」
いない人たちは、猛烈に反発するか、「肯定論者の尻尾をつかまえた」として
勝ち鬨を挙げることだろう。確かに、超常現象は生物ではないので、それ自体に
意志があるはずはない。したがって、捕捉しようとしてもできないとすれば、
それは、超常現象が実在しない、何よりの証拠なのではないか。

ところが、そのように単純に片づけることはできない。実際に、超常現象を起こす
主体が人間にある限り、人間の側にそうした抵抗が働けば、現象そのものに、
そのような性質が観察されることは十分考えられる。さらには、肉眼で鮮明な
マクロPK現象が観察される場合が稀にあることに加えて、その証拠が、不十分
ながらビデオなどで録画されることも、きわめて稀にはあるのだ。ところが、
そうした証拠も、それを長い間追い求めていたはずの研究者側からもそれほど
重視されないまま忘れさられてしまうし、そうした証拠の提示を求めていたはず
の批判者側からは完全に無視されてしまう。
491:2001/01/09(火) 09:47
昔から超常現象は、説得力を欠いた形で起こりやすいことが、特に念力の場合には、
人の視線やカメラのレンズを避けるような形で起こることが、経験的に知られていた。
つまり、超常現象だと直接的に確認できるような状況では、そうした現象はきわめて
発生しにくいのだ。これは、超常現象が存在しないとすれば当然のことだけれども、
超常現象が実在するとすれば、きわめて奇妙な特徴と言わなければならない。

日本超心理学会の研究者によれば、ある超能力者を対象にした念力実験を数年に
わたって行なったところ、その中でも、やはり同じような所見が得られている。
つまり、非公式な実演では驚嘆すべき現象が観察されたとしても、正規の実験状況
の中では、特に、たとえばビデオカメラを用いてスプーンの変形する模様を録画
しようとすると、現象が全く起こらなくなったり、起こっても不明瞭であったり、
ピントがなぜか不鮮明になってしまったり、あるいは驚くべきことにビデオの
スイッチがひとりでに切れてしまったりして、結果的に、超常現象が発生した
明確な証拠がほとんど残らないのだ。

これは、超常現象に対して否定的見解を持っている者からすれば、先述のように、
超常現象のとらえにくさは、超常現象が実在しないために必然的に生ずる結果に
すぎないことになる。条件の緩い時にはインチキや錯覚などが入り込む余地が
あるので超常的な現象が発生したように見せかけることも可能だが、実験条件を
厳密にしてゆくとインチキが不可能になるので、何も起こらないのはむしろ当然
のことではないか。しかしながら、このような考え方は、ひとつの仮説としては
(検証は不可能に近いが、論理的には)確かに正しいけれども、それをもって
結論とすることは、科学的方法の守備範囲を越えた行為と言わざるをえない。
501:2001/01/09(火) 09:48
ここで、科学知識に対する挑戦という言葉の意味を明確にしておく。科学とは、
観察と実験という、一般に承認された科学的方法を用いて、科学知識を絶えず塗り
変えようとする探検的営みだ。逆に言えば、科学知識は、科学的探求によって
絶えず塗り変えられるべき運命にあり、それが時の科学知識に対する挑戦となる。
しかし、既成の科学知識によって、あるいは科学知識をもとにした演繹によって
結論を引き出すという方法は、哲学の方法ではあっても、科学の方法ではない。
いかなる形態の論証であっても、超常現象であれ何であれ、提出された観察所見を
論証によって否定することは、科学的方法として許されていない。「白いカラスを
見た」という証言を否定するのに、「カラスは黒いものだ」という常識や通常の
観察事実を用いることはできないし、仮に地球上に現在生息するカラスが全て
黒いことがわかったとしても、白いカラスが過去に生息していたかもしれないし、
見落としの可能性もあるので、「したがってカラスは全て黒い」と断言することは
できず、「したがって、その可能性はきわめて低い」以上のことは言えないのだ。
511:2001/01/09(火) 09:48
ある大学の物理学教授が、もし超常現象が実在したなら、自分は大学教授を辞任すると
宣言している。辞任せずにすむ自信があるためなのかどうかは知らないけれども、
超常現象が実在しないとする根拠をこの教授が、テレビに出演する「超能力者」の
欺瞞性に置いているのは、いったいなぜなのだろうか。同じ物理学者でも、たとえば
プリンストン大学のロバート・ジャン教授は、遠隔視(透視の一形態)や念力の実在を
肯定する実験結果を相当量発表しているし、例えば『IEEE会報』や『科学的探検雑誌』
などを通じて、わが国の科学者にもジャン教授の研究は少しは知られているはずだ。
科学者を自任するのであれば、そうした科学者の発表している結果を検討、追試した
うえで(もし否定できるものであれば)否定しなければならないのではないか。超常現象
を扱う科学者であれば、その義務を負うべきなのではないか。さもなければ、自らが
科学者であることを自ら否定し、ジェイムズ・ランディのような手品師と自らを同列視
していることになるのではないだろうか。論理的には、この教授は、『ブラックホール』
の著者として著名な、ロンドン大学の数学者ジョン・テイラーと同じ誤りを犯している
と言えるが、テイラーの方が、科学者が行なった超常現象の研究に曲がりなりにも
通じていただけ、まだましかもしれない。

加えて、テレビに出演した「超能力者」がたとえ(推定ではなく)明確な不正行為を
行なったのを確認したとしても、また、それと同じことが手品で再現できるからといって、
超常現象一般が存在しないとすることは、大変な論理の飛躍であり、厳密な論理の展開を
自ら誇るこの教授らしからぬ論証であるばかりか、小学生でもわかる、論理学以前の
初歩的な誤りだろう。超能力者らしき者の中には、昔から不正行為を行なう者が多いし、
真性の超能力者と思われる者の中にすら、隙を見ては時おり平然とインチキをする者も、
残念ながら決して少なくない。このことについては、超常現象の研究者も十二分に
承知している。
521:2001/01/09(火) 09:48
超常現象と思われるものの中には、不正行為や観察ミスや錯覚などの結果そのように
見えるものがきわめて多い、と主張することは、したがって完全に正当だが、全て
インチキだと断言することは完全に不当であり、先述のように、科学的にも論理的
にも、きわめて初歩的な誤りと言わなければならない。

また、超常現象の再現性の低さを問題にする批判者がきわめて多いが、そのような
批判者は、超常現象の実験における実際の再現性がどの程度あるかを、承知した
うえで発言しているのだろうか。超常現象の実験でも、再現性の高いものでは
70-80パーセントにものぼっているが、そのような事実を、はたして承知した
うえでのことなのだろうか。それに対して、先の教授自らが作製した火の玉発生
装置では、「火の玉」様の現象の再現性が(いつもではないのかもしれないが)
「(外国の研究者が)実験施設を訪れたとき、火の玉実験は失敗の連続だった」
と自ら述べているように、きわめて低い(あるいは、低かった?)ようだ。超常現象
の再現性の低さを問題にするのであれば、最低限、物理学実験における再現性の低さ
とどこがどう違うかくらいは、明確にすべきなのではないだろうか。

ここでこのような批判を行なったのは、この教授を非難するためではなく、この教授
には申し訳ないが、同様の没論理的論理を展開している、超常現象否定派の事実上
全員の代表として登場していただいたにすぎない。超常現象の否定者は、このように、
自らの専門分野では決して用いないはずの「論理帝国主義的没論理」を平然と用いる
ことができるが、それはなぜなのだろうか。
531:2001/01/09(火) 09:48
その理由はふたつ考えられる。ひとつは、所詮うさんくさい研究なのだから、通り
一遍の理屈で片付けておけばよいという、単なる偏見に基づいた通常の理由だ。
もちろんこの場合には、現行の科学的パラダイムが崩壊し、自らの立場が危うく
なることに対する恐れが、その裏に潜んでいることだろう。科学史を繙くまでも
なく、科学者は一般にきわめて保守的だからだ。しかし、これまで考察してきた
ところによれば、そうした理由のみでは、このような「現象」は十分説明できない
ように思う。この種の証拠を否定する科学者は、あまりに感情的になり、自らの
分野では決して用いないほどの没論理的論理を振りかざす場合が多いからだ。

もうひとつの理由は、超常現象のとらえにくさにも関係するものだ。アメリカの
ある心理学者によれば、人間には、心の働きを解明したいという欲求とともに、
神秘のままに留め置きたいとする強い意志が働いているのではないかという。
確かに人間は、心を直接扱うことをこれまで極力避けてきたように見える。
人間の心を扱っているはずの心理学ですら、間接的にしか扱おうとしていない
からだ。もちろん、心を的確かつ直接的に扱う方法がこれまでに知られている
わけではない。しかし、それは、人間が自らの心を直接扱うことを避けつづけて
きた結果なのではないだろうか。この考え方が正しければ、人間には、人間の心
の本質を直接見ないようにしようとする強い意志が働いていることになる。
さらには、当座は抵抗が強くとも、いかなる仮説や証拠であれ、それが正当で
あれば時間の経過とともに自然に受け入れられるはずだとする従来的、クーン的
「科学知識観」はこの場合当てはまらず、人間の側のそうした抵抗を減衰ないし
消滅させない限り、この種の仮説や証拠は受け入れられないことになる。

これは、奇妙な考え方に聞こえるかもしれないが、そう考えると逆に視界が急速に
開け、科学者の間で超常現象に対する抵抗がかくも強い理由が明確になるのみならず、
人間が自らの能力を過小に評価したがり、自らを精密機械のように考えたがる傾向
を固持している理由も、新たな観点から捉え直すことができる。心と肉体の関係は
もとより、このように重大な問題を考えるうえでも、人間の超常現象研究は重要な
出発点と言えるのではないだろうか。
541:2001/01/09(火) 09:48
これまでは、超常現象のとらえにくさの一形態のように思われる、超常現象の
実在の主張に対する没論理的批判について述べた。次に、超常現象のとらえにくさが
どのような形で見られるかについて述べることにする。とらえにくさの表現型に
は、没論理的、感情的批判の他にも、次に示すように、さまざまなものがある。

 ・サイ・ミッシング
 ・転置効果
 ・非再現性
 ・サイに対する恐怖
 ・目撃抑制
 ・保有抵抗

表面的に見る限り、こうした表現型はそれぞれかなり異なっているが、超常現象の
実在を裏づける証拠が得られないようにしているという点においては、みな同じ役割
を果たしている。しかしながら、批判者とは逆に、確かに超常現象はあるのだから、
その点についてそれ以上の証拠を求める必要などないではないか、と考える方も
いるかもしれない。そこで、超心理学=心霊研究が110年ほど前から蓄積してきた
証拠では、どこがどう不十分なのかを明らかにしたうえ、とらえにくさという、
超常現象最大の特徴を探る必要性があることについて次に述べることにする。
551:2001/01/09(火) 09:49
超常現象の研究は、大きく三つに分けることができる。
すなわち、(1)超感覚的知覚、(2)念力、(3)死後生存の研究だ。
そして、そのいずれについても、偶発例の研究と実験的研究とがある。
偶発例の研究にしても実験的研究にしても、いわゆる偏見のない者を
肯定させることのできるデータは昔からかなり得られているのだが、
その中には、筋金入りの懐疑論者も納得せざるをえなくなるほどのものはない。

超感覚的知覚の研究にしても、念力の研究にしても、死後生存の研究にしても、
少しくらいは完璧な事例や実験データがあってもよいのではないかと思うが、
それがないのだ。たとえば、昼間の屋外で、衆人環視の中、空中に浮かび上がる
などの明確な現象が起こせれば、いかに筋金入りの懐疑論者であっても納得せざる
をえないだろうが、そのような現象は、少なくとも昔の報告を除けば全く存在
しないのだ。空中浮揚のような目覚ましい現象ではなく、スプーン曲げのような
ものであってもよいが、誰であれ納得せざるをえないような状況では、そうした
現象は決して発生しない。つまり、何らかの意志により、超常現象は、決定的
証拠を残さないように決めているかに見えるのだ。

ところで、ほとんどの心霊研究者=超心理学者は、再現性を高めることに全精力を
傾注するか、さもなければ、現状のまま超常現象のいわば疫学的研究を行なっている。
確かに、そのような方法もあるのだろうが、それでは、これまで心霊研究=超心理学が
失敗してきた道の延長線上にある方法にすぎないように思われるし、何よりも、
とらえにくさという、超常現象最大の特徴を回避していることになる。したがって、
このような研究法は、超常現象の本質を明らかにするための本道でないように思われる。
561:2001/01/09(火) 09:49
超常現象の最大の特徴は、その目標指向性ととらえにくさだ。目標指向性とは、
机の上のペンを取ろうと思うだけで、いわばひとりでに手が動いてその通りの行動を
するのと同じように、目標となるイメージを描き、それを念ずるだけで、途中の経過
に関する知識がなくとも、ひとりでに結果が実現される性質のことだ。念写などの
場合には、物理的に考えれば、ポラロイド・カメラを使うにしても、装填されている
フィルムの感度を少なくとも知っている必要がありそうだが、実際の念写では、
そのような知識は必要ではない。 それはともかく、超常現象は、なぜとらえにくい
状態になっているのだろうか。とらえにくさは、偶然の産物でもなければ、錯覚でもなく、
何者かの意志による積極的過程と考えてよさそうだが、超常現象をとらえにくくして
いるのは、つまり、超常現象をかいま見せながら、それ以上の証拠を残さないように
しているのは、いったい誰なのだろうか。また、それは、何のためなのだろうか。

超常現象の本質が何であれ、その意志を持っている存在がその本質を知っているはずだ。
その推定が正しければ、とらえにくさに直接焦点を絞って研究を行なうことにより、
その本質に迫れるのではないだろうか。もちろん、簡単にゆくはずもないが、そのような
試みを行なうだけの価値は十二分にあるように思われる。 超常現象の本質を知っている
存在は、もしかすると、人間の本質、すなわち心の本質をも知っているのではないだろうか。
人間は、自らを精密機械のように考えたがり、心を、脳の活動の産物にすぎない、
などと軽視したがる傾向がきわめて強いが、超常現象のとらえにくさは、人間の
唯物論的思考傾向とも関係しているのではないだろうか。
571:2001/01/09(火) 09:49
とらえにくさが直接的に見て取れる現象として第一に挙げなければならないのは、
目撃抑制だ。目撃抑制とは、超常現象が人の視線やカメラのレンズを避けるように
見える傾向のことだ。超常現象の批判者からすれば、目撃抑制こそ、超常現象が
実在しない証拠だとして、攻撃しやすい対象となるだろう。たとえばスプーン
曲げ実験の中で、人の視線が逸れた瞬間に、しかもビデオ・カメラのレンズの視野外
でスプーンが曲がったのでは、「超能力者」が力を加えて曲げたか、あらかじめ曲げて
おいた同形のスプーンとすり替えた可能性が出てくるからだ。先に触れておいたように、
だからといって全て不正行為や錯覚によるものとすることは論理的にももちろん飛躍
だが、このような状況で起こった現象では超常現象の証拠にならないのも、
残念ながら事実だ。

目撃抑制とは、イギリスの臨床心理学者ケネス・バチェルダーの造語だが、同じ現象を
表す言葉は他にもいくつかある。代表的なものとしては、「カメラに対するはにかみ」
(ジョン・ランダル)や「恥ずかしがり効果」(ジョン・テイラー)が挙げられる。
それはともかくバチェルダーは、テーブルを囲んで自ら行なった、昔の交霊会形式の
念力実験を通じて、超常現象の持つ奇妙な傾向を次第に明らかにしていった。次に
紹介するのは、バチェルダーが行なった目撃抑制の観察の中で、最も典型的な現象だ。

 何らかのテストやコントロールを行なおうとすると、こうした現象はいつも減衰
 ないし消滅した。浮揚中の物体を撮影しようとするとカメラが「攻撃」され叩き
 落とされるか、奇妙な故障を起こすかした。PK(念力)は、「追いつめられる」と、
 記録装置を使いものにならなくしてその支配から逃れることを「決意」するように見える。

このような現象は、一般の科学者はもとより、超常現象の研究者であっても巨視的
念力現象の観察や実験の経験のない者には、信じがたい、あるいは承服しがたい
ものであろうが、巨視的な念力現象をとらえようとして苦労を重ねた経験のある
者からすれば、むしろなじみの深い現象といえる。しかし、この現象が観察通りの
ものだとすると、きわめて興味深い推測が成り立つ。超常現象は、つまりその裏に
潜む何らかの意志は、念力を用いてその証拠を不明瞭にしようとしていることに
なるからだ。これはどういうことなのであろうか。
581:2001/01/09(火) 09:49
目撃抑制という現象を文字通り解釈すると、超常現象の裏に潜む何らかの意志が、
超常現象の実在を裏づける明確な証拠を残さないよう絶えず(おそらくはESPをも
利用しつつ)監視しており、その証拠を不明瞭化するためには超常現象を用いることも
辞さない、ということになる。ここで、当然のことながら、大きな疑問がふたつ生ずる。
つまり、(イ)証拠を不明瞭化しようとする意志は、必然的に、地球的規模で共有
されており、いわゆる抜け駆けは稀にしかないことになるが、それは、誰の、あるいは
何者の意志なのか、また(ロ)なぜそのようなことをするのか、という疑問だ。

バチェルダーは、ポルターガイストを例に採り、別の論文の中で次のような発言を
している。

 ポルターガイストの中心人物が、明らかに学習することなく演ずる、驚嘆するほど
 統合されたマクロPKの離れ業を見ると、人間は、PKをどう使うかを学ぶ必要は
 ない(人間の心はあるレベルで、それを既に非常によく知っている)が、意図的に
 それを起こすためには、正しい心の状態にいかにして入るかを学習しなければなら
 ないように思われる。

そうした能力を持った者が超常現象を自在に操ることからすると、その裏に潜む意志が
超常現象の本質を多少なりとも承知していることはまちがいない。そしてその意志は、
バチェルダーの指摘を待つまでもなく、人間の心に内在していると考えるのが妥当だろう。
したがって先のふたつの疑問は、「人間は、なぜ超常現象の証拠を不明瞭化しようと
するのか」という疑問にまとめることができる。次にこの問題を考えてみる。
591:2001/01/09(火) 09:50
超常現象がとらえにくいのは、どうやら、人間自身が超常現象の証拠を不明瞭化
しようとしているためらしいことが分かったが、それはなぜなのだろうか。

知っているのに知らないことにする、しかもそうした強い意志が働くという現象は
他にも知られている。それは、心因性疾患の原因に関係するものだ。フロイトの
昔から、心因性疾患の原因は意識から隠されていることが知られていた。フロイトは
それを抑圧と呼び、意識に置いておくときわめて不快なため、その記憶を無意識に
追いやるのではないかと考えていた。さしあたりここでは、試みに、心理的原因を
意識化することに対する抵抗を、超常現象の本質を意識化することに対する抵抗と
比較しながら考察を進めてみる。

心因性疾患の原因は幸福感の否定であり、したがって、その意識化に対する抵抗も、
自身が幸福になることに対する抵抗に由来している。この抵抗はきわめて強力で、
自らが否定している幸福感を意識に引き出される恐れが生ずると、心身症をはじめ
とする症状を用いてまで、それに抵抗する。患者はまた、幸福につながる能力の発揮
をも回避する傾向を強く持っている。つまり、能力を発揮するよう迫られると、
やはり症状を用いてそれを回避するのだ。

超常現象は、その発現を迫られると、特にその実在を裏づける証拠が捕捉される恐れが
生ずると、それに対して強く、時に超常現象を用いてまで、その証拠を残すまいとして
強く抵抗する。そこで、誰もが超能力を持っていて、その本質を誰もが承知していると
仮定すると、超常現象の本質は、心因性疾患を持つ患者が心理的原因を隠蔽しようと
するのと同じメカニズムにより人間(自分)の意識から隠蔽される、とする仮説が
生まれる。この仮説の検証は今後の課題であり、ここでは、この仮説を仮に正しい
とした場合、人間の、特に現代の科学者の思考形態がどのように見えるかを考えてみる
ことにしよう。
601:2001/01/09(火) 09:50
人間は、特に現代の科学者は、人間の能力を矮小化しようとする傾向がきわめて強い
ように思われる。そのひとつの現われが、現代科学のパラダイムたる唯物論的世界観だ。
唯物論は、科学的方法によって実証されているわけではない単なる憶説にすぎないが、
なぜか現代では、唯物論は絶対的真理とされており、その事実性は疑われてすらいない。
それはともかく唯物論によれば、人間は精密機械のようなものであり、人間の心は脳の
副産物にすぎない。つまり、脳が死ねば、その活動によって存在しているかに見えた
心も、当然のことながら消滅するのだ。

ここで、超常現象をとらえにくくしている主体が人間の心だとする仮説から唯物論
を逆に眺めるとどうなるだろうか。人間は、自らの能力を自らの意識から隠蔽するため、
心を脳から独立していると考えるのを回避し、心が脳から独立して存在することを示唆
する証拠を(記憶の隠蔽や没論理的論理までをも総動員することにより)全て拒絶する。
その結果、唯物論という発想が生まれるのだ。人間が、特に現代の科学者が唯物論
という憶説を信奉する理由は、まさにここにあるのかもしれない。この仮説の検証も
今後に課せられた課題だ。

いずれにせよ、はっきり言えるのは、超常現象が存在しないとすれば、その証拠と
されてきたものは、すべてが錯覚や観察の誤りの結果か、実験者や被験者の不正行為の
結果か、これまで知られていなかった自然現象だということになる。逆に、実在すると
すれば、超常現象は、必然的にとらえにくい性質を持っていることになる。そして、
超常現象の実在を裏づける証拠は、これまで、かなり蓄積されているのだ。
61名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 10:38
一部の超能力者がインチキだからといって、超能力自体は否定できない。
一部の科学者がインチキだからといって、科学自体は否定できない。

科学がアテにならないという事実は、
データの蓄積によって科学的に証明されている。

相手を攻撃するときに使った理屈が、諸刃の剣であることに気づけ。
都合のいいことに対して、都合のいいときだけ当てはめようとするな。
相手を一刀両断したつもりだろうが、お前の頭もパックリ割れてるよ。

科学とか論理っつーのは、お前が考えてるほど生やさしいものじゃないんだ。
62名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 13:13
こんなの誰が読むかってーの.
もちろん俺も読んでないよ.
63名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 00:09
>>29-60=1
どこからのコピペ?
64名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 14:48
結構面白かった。よーやくしてみよう。

1) 超能力をちゃんと学問的に研究している学者はいるのに
超能力否定論者はなぜをまともな学者相手に論争しないのか

2) 超能力を信じてちゃんと研究している人は、カメラを向けると
超能力ができなくなる超能力者がすごく多いと言う

3) 1)2)を説明するために「人間の深層心理に超能力の存在を抑圧
する傾向がある」という仮説を考えてみる

4) 否定論者は理性でなく3)の欲求に本能的につき動かされて否定して
いるのだから、ヒステリック、盲目になる

5) 超能力者は3)を満たすために、無意識に証拠が残る場面での
能力の発動を抑制してしまう

否定論者と超能力者という対極的な立場にある人たちの謎の行動を
ひとつの仮説で説明できるんだから、これは心理学的に論じる価値
のある面白い仮説じゃないかな。
65>1:2001/01/11(木) 01:37
非常に興味を持ちました。
リファレンスを詳しく書いて欲しいです。
661:2001/01/12(金) 09:19
>65
>非常に興味を持ちました。
>リファレンスを詳しく書いて欲しいです。

http://www.ask.ne.jp/~kasahara/ (臨床心理学)
勝手ながらこのサイトからまとめさせてもらいました。
ここに膨大な参考文献が載っています。

http://homepage1.nifty.com/paratorapa/ (社会心理学)
この方も超心理学についてマトモに研究しています。

また、生物学者ルパート・シェルドレイクも、1994年に
刊行された「世界を変える七つの実験」で、超心理学を含めた
研究・実験を紹介し、やはり似た世界観を示唆しています。

そこで、心(あるいは念力、魂)について興味深く思った内容を
以上などから、まとめておきたいと思います。とても長くなって
しまったので、下げて投稿します。

興味をもった人だけ読んでみてください。やはり参考文献など
詳しいことは、以上のサイトや本を参照してください。
671:2001/01/12(金) 09:19
福来友吉は東京帝国大学哲学科を卒業後、同大学院で変態心理学(催眠心理学)
を研究していた。福来は催眠術に注目し、多重人格のような現象にも興味を
もっていた。催眠術から催眠療法が芽生え、それが心理療法の基礎の一端を
つくったのが、世界における心理学の流れだったが、福来は、"能力者"に
会ったことから、透視の研究に進むことになる。

透視の研究中、福来は、名刺の文字や毛筆の文字はよく透視できるが、未現像
の写真原板の文字は透視できるかと考え、実験を試みた。福来は白紙に書かれた
「哉天兆」の三文字を、全く同一条件で二枚写真撮影し、別々に厳重に封印し、
封印を捺し、一箇は能力者の長尾夫人に送り、一箇は比較用として自宅に保存
した。その「哉天兆」の透視は的中した。そして二枚の写真乾板を同時に同一液
で現像したところ、透視した原板には薄い光が感光していた。福来は、透視の
際に、精神力が感光したのでないかと考えた。福来は「心」という文字を紙に
書き、それを写真乾板に写す心算で念じて下さいと頼んだ。長尾夫人はその文字
を凝視してから瞑目して一心に念ずると、心という文字になりかけて流れたよう
なものが現われた。これが世界最初の念写といわれる。
681:2001/01/12(金) 09:20
その後、多くの新聞で報道され周知のものとなり、透視や念写は学者等の立ち会い
の下で公開実験が行われた。しかし、当時の物理学者は、透視や念写を研究せずに
葬ろうとした。透視能力者・御船千鶴子は、実験上の些細なミスで揚げ足を取られ、
物理学者により新聞・雑誌・後援会で手品・詐欺と宣伝され、憤慨して服毒自殺、
また、念写能力者・長尾郁子は、実験を失敗させようとした物理学者達の小細工を
見破ったものの、ラジウムでインチキをしたと新聞で宣伝され、憤怒して高熱を
出し病死した。

その後、福来は念写能力者・高橋貞子と研究を進め、「透視と念写」を出版。透視
も念写も事実であると主張した。だが、福来の主張は、当時の研究者の同意を得ら
れず、さらには大学助教授の休職へと追い込まれた。

福来友吉は、あの時代に生きていながら、生涯出会った能力者は8人足らずであると
報告し、心霊現象は極めて希に起こる現象であると警告を発している。そして、
超常現象のほとんどはヒトの潜在観念によって惹起される現象であると主張している。
691:2001/01/12(金) 09:22
私(http://homepage1.nifty.com/paratorapa/)がまだ名古屋大学の大学院生だった
1985年10月25日、超心理学のテーマで修士論文をまとめようとしていた
後輩が、東京から清田益章氏という「超能力者」を呼んできて、スプーン変形と
念写の「公開実演会」を実施した。実演会には名古屋大学の教官、大学院生、
学部生が50人近くも集まった。

清田氏はわれわれが用意したスプーンを何本か選んで、その「切断」と「螺旋状
変形」を試みた。私はその一部始終を彼の隣の至近距離から観察した。スプーンの
切断といっても、手に持っている所からポキッと折れたのではない。手が触れて
いないスプーンの柄の部分に細かいひび割れが何本も入り始め、そのひび割れが
次第に大きく深くなって、グラグラし始め、やがて頭の部分から「とれて落ちた」
のである。その切断面をみると、スプーンの柄の部分の両側からくさび形に
「何らかの力」が入ったようで、Xの形にくびれているのがわかった。また、
螺旋状変形のときにはテーブルの上に置かれたスプーンが手を触れていない状態で、
ゆっくりと首の所からねじれていく様子が観察できた。私はその最中も彼の挙動に
不審な点はないか、目を皿のようにして見ていたのである。
701:2001/01/12(金) 09:22
彼の「実演」は成功だった。しかし、その実演を見た人々からはさまざまな
反応が生じた。実験心理系の人々は、観察事実を否認する傾向が強かった。

 「おそらく、彼の手に何らかの薬品が塗られていたのだろう。」
  (それなら強い酸であるはずだ。手が腐るくらいの。)
 「しきりに彼は手をシャツにあてて拭いていた、怪しい。」
  (手の汗をふき取るクセである。薬品を塗っていたならその行為によって
  薬品がシャツについたり、手の薬品が少なくなって切断できなくなる。
  では、螺旋状に回転させたのはなぜだ?手も触れていないのに?)、
 「実演中の彼の態度が悪い!性格も気にくわないぞ。」
  (態度や性格は実演の結果と無関係ではないか?)、
 「こんなのマジックでもできる!」
  (マジックで同じ状態を再現できたとしても、観察された事象が
  100%トリックだという根拠にはならない。すくなくとも、
  いくつかの可能性があることがわかったにすぎない。それでも、
  納得できなければ、逐一マジックの小道具の発見をして、ことごと
  くそれがトリックだったことを証明する必要がある)

などなど。一方、臨床心理系の人には見たことをありにままにとらえて
判断は保留しようという「良識派」が目立った。このように、同じ事象を
観察してもこれほどまでに観察者の認知は異なっていたのである。
711:2001/01/12(金) 09:22
わが国では超常現象に関する本格的な論争が起こる土壌がまだ十分に形成されて
いないという状況がある。というのも、超常現象を否定する人たちの主張の多くは
合理的な根拠に基づく批判というよりも、こうした現象を研究の対象にしている
超心理学という学問に対する認識不足と偏見に基づく単なる感情的反発の域を
脱していないためである。彼らの中には、先験的に超常現象の存在を認めないと
いう態度を表明する人もいる。しかし、こういう人に限って超常現象に関する研究
(超心理学)について何らの知識も研究経験も持ち合わせていないのである。
ついでに言わせてもらえば、「科学朝日」の記事を否定の根拠に用いたがるのも、
このような人々に共通する特徴である。何も知らないのに どうして「反論」が
できるのであろうか?限られた情報源(しかも偏った編集方針に基づく)だけで、
それが「科学」の名の下に権威づけられた雑誌というだけで、どうして断定的な
結論が出せるのであろうか。これぞ、まさしく「偏見」のなせる技なのである。
このような社会的風土のもとでは、たとえ異常な現象を体験(観察)したとしても、
体験者(研究者)がこれを「幻覚」、「偶然の一致」、「トリック」として軽視
したり、無視するような行動が生じやすくなるのである。果たしてこれが科学者の
とるべき行動といえるだろうか?
721:2001/01/12(金) 09:23
少なくとも、研究者たちが超常現象の問題に対して真摯な姿勢で臨み@`地道に研究
データを蓄積していけるような環境ができてこないと、「社会的需要」の原動力たる
多くの人々を納得させることは難しいのではないか。 一方的な否定的主張、硬直
した懐疑論的主張を科学者たちが繰り返してみても、知的不毛は一向に解消されな
い。直接経験に根ざしていない主張は説得力をもたないためである。研究者が
フィールドに入り込み、自らの身体を張って駆け巡り、その中で真偽の程を多様な
価値基準で推し量っていく。このとき、科学はその手続きとしては優れたもので
あるが、絶対的な基準とは言えない。物質的次元、客体的に観察可能なモノに
限っていえば優れているのである。そのことをわきまえた上で、主体的に現象に
関与していくというアプローチも採用していく。こうした努力を通じて獲得された
知識は活きたものとなるだろう。これが超常現象を相手に研究する人の責任だと
私は思うのである。
731:2001/01/12(金) 09:23
他方で、超心理学は不思議なものが好きな人々や オカルト団体には概して歓迎される
という性質をもっている。しかし、そのことが超心理学の発展にとって必ずしも
好ましい状況をもたらしているとはいえない。超常現象の研究が発展していく上の
脅威の一つにオカルトを無批判に信じている人々をあげることができる。オカルト
信仰者の場合、その信念の根拠となる事実関係よりも、むしろ現象の神秘性や
「見えない力」の存在を体感することに関心がある。このため、彼らの主張の中
には通常の解釈によって説明可能な現象でさえも、いたずらに神秘化してとらえ
ようとする傾向が出てくる。要するに、彼らはこの世の中には科学では決して説明で
きない不思議な現象がたくさんあると思えるだけで十分満足しているわけである。

私のもとにも、このようなオカルト・オタクとでも呼べるような人々から手紙やら
電話やらがくる。中にはカルトの宣伝をする人もいる。しかし、この場を借りて
あえて言わせてもらうが、私は先験的にオカルトを信仰したがる人々に汲みする
ものではない。鼻からそのような人々は相手にはしていないのである。このように、
超常現象に対する社会の反応は、俗信に結びついた極端な迎合を示す人々と、
アレルギー症状にも似た極端な否定的態度を示す人々とに大きく分かれてしまう、
というのが実状である。いずれの立場をとる人の場合も、こう した現象を扱う
学問がどのようなデータを蓄積しているのか、ということや超心理学という学問
そのものの正当性を十分に認識しているとはいえず、おのおのが独断と偏見に
基づいた解釈をしてしまっているわけである。
741:2001/01/12(金) 09:24
(以下、ルパート・シェルドレイク)
■ 超常現象を研究することに対するタブー

タブーとは、トンガ語が英語化したことばで、「あまりに神聖すぎるか、
あまりに邪悪すぎるので、触れたり、名をつけたり、使ったりしてはならない
もの」、手短に言えば、「禁断とされていること」という意味である。

「心霊」現象や「超常」現象を真面目にとりあげることに対するタブーがある。
そういうことがもし本当に起こっているとすれば、文化としての科学の通説と
なっている機械論的な世界観が危うくなってしまうからだ。心霊現象や超常
現象が少なくとも公の場で無視されたり、否定されたりしているのはこのため
である。

このタブーを積極的に支持しているのは、懐疑主義的な人たちである。ここで
述べているのは、常識の一要素をなす正常かつ健全な懐疑主義のことではなく、
いわゆる自称懐疑派(scepticsではなく、Skepticsの類)のことである。彼らは、
組織をつくって、知性の自衛隊員と称し、超常的な出来事とみれば待ってました
とばかりに調査に挑むのだ(アメリカのCSICOPが有名)。懐疑主義に染まった人
たちは、機械論的な世界観を理性そのものと同一視しがちであり、それを懸命に
守ろうとする。彼らこそ、科学の原理主義者なのであり、超常現象に足場を
築かれてしまうと科学文明が迷信と宗教の奔流に呑み込まれはしないかと、
心から危惧しているのである。「超常」現象をナンセンスなものとして片づけ、
それを信じることは無知や願望から生まれた迷妄であるとみなすのが彼らの
常套手段なのだ。
751:2001/01/12(金) 09:24
社会的に尊敬されている、教育のある人たちの間では、「超常」的なことは、
知的ポルノとみなされている。それは、こっそりとした日陰のメディアでは
盛んだが、教育システム、科学ないし医学研究所そして一般講習の舞台からは
多かれ少なかれ排斥されているものだ。

懐疑主義一点張りの人たちの多くがある特殊な世界観を護ることを科学を
護ることと混同しているのは残念なことである。私が提案しているような
研究は機械論のパラダイムを越えるものであるかもしれないが、科学である
ことに変わりはない。違うとすれば、より広く、より包括的な科学的世界観が
導かれるかもしれないという点である。また、一見超常的にみえる現象が
正規の科学用語で説明できるとなれば、懐疑派の人たちは自らの信念の裏づけ
となる証拠をもつことになる。それも結構なことではないか。

だから懐疑派の人たちに気遣うことは何もないのだ。彼らが教条主義的な
先入観によって実験研究に反対すれば、科学上の真実について云々する資格を
失うことになるだろう。実験研究をするときには偏見をもたないことが大切
であると彼らが本気で信じているのなら、彼らは援助者にこそなれ妨害者
にはならないはずである。
761:2001/01/12(金) 09:24
自然科学の歴史では通説が覆され、パラダイム転換が生じることがあるが、
科学の根底にいつもあるのは、実験という方法である。

実験という方法に取り立てて不思議なことは何もない。あらゆる人間社会に
見られる基本的なプロセスの特殊化された形式なのであり、動物界にもゆき
わたっているものなのだ。つまり、「体験による学習」ということである。
英語の「体験(experience)」とか「実験(experiment)」(また、「専門家
(expert)」とか「専門知識(expertise)」も入る)という言葉の語源は
ラテン語の experire (試してみる)である。フランス語の experience には、
実験と体験の両義がある。「経験(実験)上の(empirical)」という英語の
語源となったギリシャ語の emperios もそうである。

科学仮説は実験や観察を通して検証され、その結果に最もよく適合するのが
最良の仮説となる。自然についての知見を先へ進ませるのは、実験を通して
でしかない。新しい科学のパラダイムを構築し、科学を進歩させるのは、実験
証拠や実験による検証しかないのである。この実験という方法を信じること
こそ科学研究の基礎なのであり、私を含めほとんどすべての科学者が共有
しているものなのだ。
771:2001/01/12(金) 09:25
■ 動物の謎めいた能力が無視されてきた理由

生物機械説は多くの点で実用的だった。家畜農場、アグリビジネス、遺伝子
工学、バイオテクノロジー、近代医学――こういったものすべてが、その
実用的価値の証である。そして、生物体の分子的基礎、遺伝物質である
DNAの本質、神経系の化学/電気的性質、ホルモンの生理学的な役割、
といった生命の基本的な事柄について、実に多くのことを明らかにしてきた。

学問としての生物学も、17世紀以来、複雑なシステムはより単純かつ微小
な部分をもとに説明すべきだとする還元主義の立場を貫いてきた。あらゆる
生命現象を説明するときの基礎となるのは原子であると、はじめから信じ
られてきたのである。ところが、原子が場の内部で独自に振動するより
小さい粒子から構成される、複雑な活動体であることが了解されてからは、
一見確からしくみえた唯物科学の基礎はもろくも崩れてしまった。
科学哲学者、カール・ホッパーによれば、
「現代物理学によって唯物論はそれ自身の限界を越えてしまった」のである。

それでも、学問としての生物学には還元論者の精神が根強く残っていて、
生命現象を分子レベルへ還元しようとする試みは今でももてはやされている。
還元主義のたすきは物理学者や化学者から生物学者へ渡されたのだ。生命科学
のなかで分子生物学こそが最も格調が高く、最も厚く資金提供すべきものと
されてきた。
これに対し、動物の振る舞いを研究する動物行動学や生物体の形状を研究する
形態学のような、本来ホリスティックなアプローチしかありえない学問分野は
科学ヒエラルキーの底辺に置かれてしまった。
781:2001/01/12(金) 09:25
しかし、そもそもデカルトがはじめて提唱したときから、生命機械説はずっと
議論の的とされ、1920年代まで、生気論という対立仮説によって反駁され
てきたのである。生物体を文字どおり生命や魂のないものとみる機械論に対し、
生気論とは、生物体は真に生きているのだ、とする考え方である。生物体は
無生物しか研究していない物理学者や化学者の知らない生命の原理によって
命を吹き込まれているのだ、と生気論者たちは2世紀以上にわたって主張して
きた。それに対し、機械論者たちは生命因子や活力のようなものは存在しない
と応酬してきた。生命体が今は物理学や化学の言葉で説明しつくせないとしても、
近い将来にはすべて説明できるようになる、というのが彼らの信念なのであった。

未知の生命原理が存在していることを認めようとする生気論者が、機械論の言葉
では説明できない現象――人間の心霊現象や動物の超自然的な能力――がある
ことの可能性を否定しなかったのに対し、機械論者たちは、当時の物理学や化学
で説明できない現象は原則としてありえない、とする立場をとってきた。
791:2001/01/12(金) 09:25
彼らはよく「オッカムの剃刀」(節減の原理)という論拠をもち出す。この
「剃刀」という言葉を一番最初に用いたのは、中世オックスフォード大学の
哲学者、ウィリアム・オッカムであり、理論の構築にあたっては、人間の知性
の及ばないものを排すべし、としたのである。要するに「本質をみだりに増やす
べからず」という原則に基づき、最も簡潔な仮説がよいというのだ。しかし、
機械論者たちがオッカムの剃刀を振るうときは、決して厳格に哲学的な意味で
使っているのではない。むしろ単に現代科学の通説を正当化するためなのである。

彼らは、「機械論に立った解釈が最も簡潔である」ことを当然視している。
アリの行動をDNA構造から予測するには、手に負えない複雑な計算をしなければ
ならないというのに。物理学者が受け入れていない以上、場、力、その原理に
関する非物質的な仮説はすべからく却下すべきであると彼らは考える。生物界に
「神秘的な」あるいは「神秘主義的な」ものがあることを認めるのは科学的確実性
という鎧を捨て去るに等しいのではないかと恐れているのである。

こういった事柄が一緒くたになって防衛的な姿勢、つまり、旧来の生理学を
超えて生命の不可思議さなど探求したくないという姿勢が生物学者たちの中に
生まれてきたのは確かである。これからとりあげる謎めいた現象に対しプロの
研究者がほとんど関心を示さない理由は、これである程度説明がつく。
801:2001/01/12(金) 09:25
■ 心は脳の外へ拡がるか?

心の本質について、私たちはほとんど何も知らない。心は、すべての経験、
精神生活、そして社会生活の基礎だが、それが何なのかも、その拡がり具合も
わかっていない。世界中に見出される伝統的な見解によれば、人間の意識
生活は、ずっと拡がっている生命をもった実在の一部にすぎないという。
魂は頭の内部に閉じ込められているのではなく、身体の全域に拡がっている。

対照的に、この300年以上にわたって西欧で支配的だったのは、心は頭の
内部に存在しているという考え方である。最初にそれを提起した17世紀人の
デカルトは、理知的な心(知性)を身体全体に生命を吹き込んでいる魂の一部
とみる、古代からの信念を否定した。それどころか、身体を生命のない機械と
みなしたのである。動物や植物も機械なのだから、宇宙全体が機械だという
ことになる。彼の説では、人間だけに賜われた魂の領域は脳の小さな領域――
デカルトによれば、松果体――へさらに圧縮された。そして、現代の通説も、
魂の存在しているらしい領域が数センチほど大脳皮質の内側へ動いた点を
除けばデカルトの説と大差ないのである。

魂を脳に閉じ込める、この縮まる心のモデルは、二元論者と唯物論者との間に
長く続いた、おなじみの論争において、両者が共有したものである。二元論
の創始者であるデカルトによれば、心と脳は本質的に別のものであり、頭の
内部にあって未知のやり方で相互作用するものなのであった。

対照的に、唯物論者たちは、「機械のなかの幽霊」というこの二元論的な概念
を却下し、心とは脳の機能的な機能の一面にすぎないか、さもなければ脳の
生理的な活動から生まれる、陰のような説明不能の「随伴現象」であると
信じている。こういった唯物論者の怜悧な見解を支持する哲学者や観念論者
もいるが、私たちの文化に浸透し、ひとつの常識としてみなされているのは、
むしろ二元論のほうなのだ。
811:2001/01/12(金) 09:26
いったい、自分が機械だと本気で思っている人はどのくらいいるのだろうか。
堅物の唯物哲学者や汎機械論の科学者でさえ、少なくとも自分自身やその
愛する人たちに対しては、この信念をさして真面目に適用していないのでは
ないか。公式の場ではいざしらず、個人的な感情としては、ほとんどの人が
程度の差こそあれ、先祖の人たちのもっていた、昔からある漠とした物の見方
を依然として失っていない。それは、魂は脳よりも身体のほうに拡がるとか、
魂は肉体を越えて、心霊や精霊が宿るより広大な領域へ入ってゆくといった
物の見方である。

ヒンドゥー教、仏教といった東洋的な宗教体系では、チャクラという活力の
中心がいくつか身体のなかにあって、チャクラのそれぞれに独自の性質が
宿っているとされている。西欧でも霊魂は頭だけなく身体のさまざまな部分に
宿ると認知されてきた。例えば、「腹に収める」という言い方がある。
機械論的な視点からすれば心臓はポンプにすぎないが、「心(臓)の底からの
感謝」とか「心(臓)ない仕打ち」、「暖かな心(臓)」といった表現が血液
ポンプの機能以上のことを語っているのは明らかである。心臓はまた愛の
シンボルでもある。実際、先祖の人たちは、精神(こころ)は脳ではなく
心臓に宿ると信じていた。つまり、心臓は愛や憐れみの感情が宿るだけでは
なく、思考や想像力の中心でもあると信じられてきたのだが、それはチベット
人を含め、今も伝統を重んじている多くの人々にとって、依然として真理
なのである。例えばキリスト教の聖餐式で今日も用いられているマリア讃歌
に「神は人々の心(臓)に宿る驕った想像力を消散せり」とあり、また、英国
国教の祈祷書にある「純潔の祈り」には、「全能なる神よ、汝の御前にては
すべての心(臓)開かれ、わが欲望露わなり。汝に隠し事なければ、聖霊の
息吹によりてわが心(臓)の思いを浄め給え」とあるように。

 関連スレッド:「心ってどこにあるの?」スレッド
 http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psycho&key=974569037
821:2001/01/12(金) 09:26
霊魂は肉体を"越えて"拡がってゆくという古代人の感覚は私たちの文化にも
浸透している。このことは、「くしゃみしたでしょ、昨日。君の噂をしてた
んだ」というようなありふれた言い廻しのなかに、また、テレパシーなどの
心霊現象のなかにも暗示されている。イギリス、アメリカといった西欧諸国
で実施されるアンケート調査によると、大部分の人たちが「テレパシーや
心霊現象の存在を信じている」し、50パーセントを越える人たちがその
「個人的な体験がある」と答えるのである。

そのような体験や信念は、もし心が脳のなかに閉じ込められているとすれば、
また、人間同士のコミュニケーションが既知の物理法則によってすべて支配
されているとすれば、矛盾をきたしてしまう。機械論の正統性を護るひとたち
が「超常」現象は科学的に説明できない以上、存在しえない、とよく主張
するのはその矛盾を避けたいがためである。そういったことを信じるのは迷信
であり、迷信は科学教育を通して一掃されるべきだ、と彼らは言うのである。
831:2001/01/12(金) 09:26
ある極端な哲学として出発したものが、今や私たちの文化の正統的な考え方
になってしまった。それは子供のときに植えつけられ、年長じて当然視され
るようになる。ヨーロッパにおける子供たちの精神発達プロセスをテーマと
したジャン・ピアジェの古典的な研究によると、子供は10歳から11歳の
ころには「正しい」物の見方、即ち、思考は脳の内側にあるという見方を
体得するらしい。

それとは対照的に、より幼い子供たちはこんなふうに考えるものだ。夢の世界
では身体の外を旅している、自分はまわりの生き生きとした世界から離れる
ことなく、それと一体化している、口のなかや吐く息、そして空気のなかには
さまざまな思いが満ちている、言葉や考えには離れたところでも作用する魔法
の力がある、というように。端的に言えば、ヨーロッパの幼い子供たちには、
世界の伝統文化や機械文明以前のヨーロッパ文化と同様にアニミズムの傾向が
あるわけだ。

しかしながら、機械のような脳の内部に非物質的な心が宿るとするデカルト説
はそもそものはじまりから致命的な問題に突き当たった。魂を理性と同一視
することで、デカルトはそれまで当然とされていた魂の身体性や無意識な面を
否定してしまった。無意識の魂はデカルト以前にむしかえされざるをえな
かったのである。
841:2001/01/12(金) 09:26
ジークムント・フロイトの研究によって、無意識は心理療法士の広く認知する
ところとなり、集合無意識に関するカール・ユングの考えでは、魂はもはや
個人のこころに閉じ込められたものではなく、万人に共有されたものになった。
個人個人が意識せずに参画している集合記憶のようなものもそこに含まれる。

西洋社会では、機械論よりも心と身体の関係についての英知に富む仏教や中国
・インドの伝統がますます認知されるようになった。そして、幻覚剤の効果、
シャーマンの幻視、東洋の瞑想法といったことが探求されるにつれて、西洋人
の多くは意識のなかに別の次元が存在することを個人的な体験として理解する
ようになってきたのである。

今なお機械論的な科学や医学の正統的な考え方では、機械のような身体についた
頭のなかに心を閉じ込めているが、魂に関する昔からの漠とした考え方の残影
は依然共存している。それはまた、ユング心理学やトランスパーソナル心理学、
心霊研究や超心理学、神秘的な伝統や幻想体験、ホリスティックな医術や癒し
といった、明解で洗練された理論や実践から今日ゆさぶりをかけられている
のである。

次に提案する実験は、昔から人々が信じてきたように、心が本当に脳の外へ
拡がるかどうか、その可能性を探るものである。機械論的なパラダイムの骨子
となる「縮まる心」の考え方は、科学によって保証された、議論の余地なき
ドグマでは決してないのである。それは、科学的に検証されるべき、
反駁可能な仮説にすぎない。以下の実験でそれを検証してみよう。
851:2001/01/12(金) 09:27
■ 心は脳から外にでるか?

私たちが物を見ているとき、それはどこにあるのだろう?その映像が脳の内側
にあるということなのか、それとも、物は私たちの外側にあると思われるところ
にまさしく存在しているのだろうか。映像は脳の内側にあるというのがこれまで
の学説である。しかし、それは根本的な誤謬なのかもしれない。映像は実は脳の
外側にあるのかもしれない。つまり、見ているということは、光が脳の内側に
入るプロセスと、心の映像が脳の外側に投影されるプロセスとの双方向プロセス
なのかもしれないのだ。

読者がこのページを読んでいるときのことを考えてみよう。光線は本のページ
から読者の眼のなかへ入ってゆき、網膜の上にその反転した映像が形づくられる。
これが光感受性の細胞によって感知され、そこで発生した神経インパルスが
視神経を介して脳へ伝わり、複雑な電気化学的活動を引き起こす。こういった
ことは神経生理学上の技術によって詳しく研究されてきた。しかし、謎めいて
くるのはここからだ。読者はこのページをともかくイメージできる、すると
その映像は諸君の外側、顔の前で体験されるはずだ。従来の科学的な見方では
この体験は錯覚であり、この映像もまた他の精神活動と同じように、読者の脳の
内側にあると考えられているのである。
861:2001/01/12(金) 09:27
世界各地の伝統民族は違った見方をする。自らの経験を信用し、視覚は身体の
外に出る――光が瞳の中へ射し込むのと同様に、見る力は瞳を介して外へ出る
――と考えられているのだ。ヨーロッパ文化圏でも幼い子供たちはそう考えて
いる。しかし、11歳くらいになると、思考も知覚も外へ出たりせず、頭のなか
におさまっていると学ぶのだ。こうして理論が経験に勝利し、形而上学的な教理
が客観的事実として受け入れられてゆく。「教育を受けた」物の見方では、
幼い子供たちは未開民族や無学な人たちと同じように物の道理がわかっていない、
だから内側と外側、主体と客体という明確な区別ができないのだ、とされるの
である。

しかし、幼い子供たちや伝統民族は私たちが普段考えているほど混乱していない
のではなかろうか。その可能性についてしばらく熟慮していただきたい。簡単
な思考実験をやってほしいのだ。読者自身の直接経験を疑わず、信じてみたら
どうだろう。読者のまわりにみえているすべての知覚が、実は読者の"まわり"
に存在していると考えてみてほしい。例えば、このページの映像は、あると
思われるところ、つまり、読者の目の前に、実在しているのではなかろうか、と。

この着想はあまりに単純なのでかえって理解し難いだろうか。直接体験と完全に
一致してはいるが、心の本質、主観体験の内因性、主体と客体の分離といった
ことについて信じるように教え込まれてきたことすべてを根底から覆すからだ。
視覚が一方向プロセスであるという今日の仮説を否定して、それは二方向プロ
セスである、つまり、光が瞳の中へ入ってくるだけでなく、映像や知覚は瞳を
介して外界へ投影されるとほのめかしているからだ。
871:2001/01/12(金) 09:27
私たちの知覚は解釈的な活動を介して心がこしらえたものである。しかし、
それは心のなかの映像であると同時に身体の外でも存在しうるのだ。もし知覚が
心の内部にも身体の外側にも存在するのなら、心もまた身体の外へ拡がってゆく
のではないか。私たちの心は外にでて見えるものすべてに触れることができる。
遠くの星を見れば心は天文学的な距離を越えて拡がり、その天体に触れる。主体
と客体はまったく見分けがつかなくなる。私たちは知覚を通して外界を内部に
とりこむのだが、私たちもまた外界へ拡がってゆくのである。

通常の知覚では、私たちが知覚するもの(例えばこの印刷されたページ)とその
知覚イメージとは完全に一致する。同じところにあるわけだ。しかし、幻覚や
幻想の世界では、映像は必ずしも外界にあるものと一致しないが、映像を外へ
投影するプロセスはそこにも働いているのかもしれない。

この拡がる心という着想は、言葉の遊びか単なる知的な気晴らしのように思わ
れるかもしれない。あるはまた、物質の領域と現象学的ないし主観的領域という
本来は分けて考えるべき哲学上のカテゴリーに関する誤謬のように聞こえる
だろうか。しかし、これは単に言葉や哲学の問題ではないのだ。広がる心には
測定可能な効果があるのかもしれない。もし心が外に出て、私たちが見つめて
いるものに「触れる」ことができるとすれば、私たちは単に見つめるだけで
その対象に何らかの影響を及ぼすことができるのかもしれない。相手を見つめる
ことでその人に何らかの反応を引き起こしうるかもしれないのだ。
881:2001/01/12(金) 09:28
■ 見つめられている感覚

自分が後ろから見つめらたかどうかを言い当てることは可能だろうか。この
問いについてはイエスと思わせる逸話風の証拠が実にたくさんある。見られて
いるような感じがして後ろを振り向くと、確かに人が自分を見ていたという
ことは多くの人が経験している。逆に、講演会場などで前に座った人の背中
を見つめていたら、その人が落ち着かなくなって振り返った、ということも
稀ではない。

 関連スレッド:「視線」
 http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psycho&key=967007236
891:2001/01/12(金) 09:28
見つめられている感覚は非常によく知られている。ヨーロッパとアメリカで
やった個人的な調査では、尋ねた人のうち8割がその感覚を体験したことが
あると答えている。小説の世界では日常茶飯事だ。「彼女は彼の瞳が自分の
うなじを穴のあくほど見つめているのを感じていた」という文章のように。

それは、トルストイ、ドストエフスキー、アナトール・フランス、ヴィク
トール・ユーゴー、オルダス・ハクスレー、D・H・ロレンス、J・クーパー
・ポウイス、トーマス・マン、J・B・プリーストリーといった錚々たる
作家たちの描く文章世界のなかではっきりと表現されてきた。以下に掲げる
のはシャーロック・ホームズの生みの親、アーサー・コナン・ドイルの短編
からの一節である。

 その男には心理学の研究対象として惹かれるものがある。今朝、食事を
 とっているとき、私はじっと見つめられたときに伝わってくるあの漠と
 した不安感に突然襲われた。それで、すぐに顔を上げると、そこには
 残忍なほどに激しく私を見つめている彼の眼差しがあったのだ。しかし、
 天気のことで当たり障りのない感想を述べた彼の表情はすぐになごんで
 いた。実に奇妙なことだが、友人のハートンも、昨日甲板でまったく
 同じような体験をしたらしい。
901:2001/01/12(金) 09:28
英国の心霊研究家として名高いレネ・ヘインズはこの主題に関する彼女の
個人的な観察事実をいくつか残している。

 振り向かせる力は万人に等しく作用するわけではない。例えば給仕が相手
 だと、弱められるか、無視されるか、あからさまに拒絶されるだろう。
 しかし、退屈な講義の最中とか混雑した大食堂でちょっと試してみれば
 わかるが、誰かの後頭部をじっと見つめると、見つめられたほうは、多くの
 場合そわそわしだして不安そうに振り向くものだ。これは、眠っている犬や
 猫、庭にいる鳥にも有効で、慈愛にみちた子供たちの起し方にもなる。
911:2001/01/12(金) 09:28
1980年代、この現象のもつ理論上の意義深さを悟った私は、これに関連
してどんな実験研究がなされてきたかを調べてみた。するとどうだろう、
ほとんど皆無だったのである。

私はロンドンの英国心霊研究協会でこのテーマについて講演した――凝視の効果
に関する実験研究のことを詳しく知っている会員がいないものか確かめたかった
からだ。しかし、またしても空振りに終わったが、博覧強記のレネ・ヘインズは
やはりこのテーマに関する逸話の豊富なストックをもっていた。私はまた、
アメリカのさまざまな超心理学者たちともこの件について議論を交わした。
そして、わかったことは、この主題について研究した人は一人もなく、関心を
払っている研究者もいない、ということだった。昔の学術文献を渉猟しても、
この100年間で6報しかなかった(そのうち2報は未発表)。

正統派の心理学者たちがこの現象を無視してきたのは、その「超常」性に照らせば
さして驚くべきことではない。もっと驚かされるのは超心理学者までもがこれを
無視してきたことである。超心理学に関する書物のほとんどがそれについて一言も
触れていないのだ。超心理学者でさえこの現象を見過ごしてきたという事実はそれ
自体興味深いものだが、そこには、無意識下のタブーとも呼ぶべき、きわめて異常な
「盲点」があったのではなかろうか。なぜタブー視されるべきなのか?これは恐らく、
見つめられている感覚なるものが、現代の人々が葬り去っておきたい俗信、
特に「邪視」ときわめて密接に関連しているからだろう。
921:2001/01/12(金) 09:29
以上述べてきたように、何かしら力をもったものが眼から出る、という考えは
きわめて普遍的なのである。心が拡がり、見ているものに対し何らかの影響を
及ぼしうるということは暗黙知として信じられているわけだ。これまでの科学
がこの可能性を無視ないし否定してきたのは、実験証拠をよく検討したうえの
ことではない。なぜなら、この研究主題は議論の俎上にも載ってこなかった
からだ。むしろ、心は脳の内側にあるというおきまりの仮説に立脚している
だけなのである。見つめる力にはひょっとして何か神秘的な効果があるのかも
しれない、という可能性はいわば大義名分で黙殺されてきたのにすぎない。

明らかなのは、これまでの科学の偏見によっても、俗信を論拠としても、
逸話風の証拠をいくら並べ立てても、心の本質について理論的に反駁しても、
この疑問に決着がつかないということである。
前へ進めるには実験をしてみるしかないのだ。
931:2001/01/12(金) 09:29
「見つめられている感覚」が科学文献ではじめて論じられたのは、1898年
の「サイエンス」に載った、E・B・ティチェナーの論文である。彼は、
ニューヨーク州、コーネル大学で心理科学の草分け的存在であった。

 毎年調べてみると、自分が後ろから見つめれていることを「感じる」ことが
 できると得心している学生は、低学年クラスのなかに結構いるものだ。
 そのなかには自分の前に座っている人のうなじのあたりをじっと見続ける
 ことによってその人を振り向かせ自分を見つめさせる能力をもっていると
 信じて疑わないものもいる。

このことについては神秘的な力を引き合いにださなくても合理的な解釈が可能
であるとティチェナーは断言している。彼の説明にはじっくり耳を傾けるだけの
価値がある。なぜなら、今日の懐疑主義者たちも同じような解釈を繰り返して
いるからだ。
941:2001/01/12(金) 09:29
この問題は心理学的にこう解釈される。

1――われわれは皆多かれ少なかれ自分の背後に敏感である。音楽会や講演会が
   始まる前に、そこに集まってすわっている聴衆を観察して見給え。実に
   多くの女たちがせわしなく手を後ろにやって髪をなでつけているのが
   わかるだろう。時折、肩をながめたり、肩越しに背中を見たりしている。
   男たちはどうかというと、やはり肩や背中を見ているし、手で折り襟や
   上着のカラーをなでたり、ブラシをかける真似をしたりしている。……

2――このような動きを誘発しているのは聴衆、つまり自分の後ろにいる人の
   存在なのだから、これがさらに後ろを向いたり、部屋や講堂の後ろを
   見わたす動きにつながるのはごく自然なことである……しかし、肝要
   なのは、こういったことはすべて後ろからじっと見つめられることとは
   まったく関係がない、ということだ。

3――さて、視覚、聴覚、触覚、その他の感覚が何も刺激されない環境に置かれた
   場合、動くということこそ、この受動的な関心しかない環境に対する、
   最も強い刺激反応となる……私、Aが部屋の後ろに座っていて、私の注視
   している範囲でBが頭や手を動かしたとしよう。私の視線は否応なくBへ
   注がれてしまう。Bがまわりを見る動きを続ければ、Aが彼を凝視して
   しまうのは必定である。十中八九同じ理由とやり方でBを見つめている人は
   他にも何人か部屋のあちこちにいるはずだから、Bは私か別の人の眼を
   偶然とらえるだろう。誰かと眼がかち合うのは必定なのだ。個人の吸引力
   とかテレパシー能力といった学説が巧みに利用しているのは、明らかに、
   こういった偶然なのだ。
951:2001/01/12(金) 09:29
4――これで片がついたと思われるが、解決されていないのはBがうなじの
   あたりにうける感覚のことである。この感覚は単に緊張感や圧迫感から
   生まれる、幾分生理的なものであり、その部位(皮膚、筋肉、腱、関節)
   に存在していておかしくないものなのだが、そのあたりに関心を寄せる
   ことで特に強まったり、そのものへ直接関心をもつことで喚起されたり
   するものだ……。この"衝動感覚"がそれほど神秘的でないのは、腰に
   加わる圧力の分布が不快に感じられたときに、椅子に座り直すように
   仕向けたり、ある音を一所懸命聴こうとして耳を近づけたりさせるとき
   の"衝動感覚"がさして神秘的でないのと同じなのだ。

5――結論として、私はこれまでにさまざまな機会を利用して、見つめられて
   いることに特に敏感だという人たちや「人を振り向かせる」能力があると
   豪語する人たちをつかった数多くの実験で「見つめられている感覚」と
   やらを試してきたが、そのような能力や感受性に関しては、否定的な結果
   しか得られなかったと言ってよい。つまり、これまでの解釈が確認された
   わけだ。当初からそういった結果を得るつもりだったのだから、この実験
   は時間の浪費だったなどと、うがったものの見方をする方々に対しては、
   それは大衆の意識に深く浸透している迷信を打破する点で、正当化される
   実験だったとしか答えようがない。科学的な精神をもった心理学者のなか
   でテレパシーの存在を信じているものは一人もいない。だが、いかなる
   場合でもそれを反証してはじめて学生は科学の王道に立つことができる
   のだ。そのことに費やした時間はやがて百倍になって科学の発展へ貢献
   することだろう。
961:2001/01/12(金) 09:30
この文章に「なるほど」と肯く「科学の王道に立った」人もいれば、
ティチェナーは証明しようとしていることを当然真実であると思い込んで
いることに気づかれる人もいるだろう。彼は見つめることに起因する謎めいた
影響力について触れてもよかったはずだし、また、この現象についての実験的
反証――その方法については詳しく述べられていないが――には他の解釈も
ありうるからだ。例えば、彼のつかった被験者たちは、彼の懐疑的な態度に
嫌気がさしたのかもしれないし、実験室という人工的な条件下で彼に試された
とき、人目が気になってその能力が十分発揮されなかったのかもしれない。

この現象を実験的に研究することの最大の問題はここにある。「見つめられて
いる感覚」は、非人工的な条件下で無意識のうちに発揮されるのかもしれない
からだ。実験という人工的な条件下で見つめられているかどうかを意識的に
決定しようとするのは、十分訓練を積まないと難しいのかもしれない。また、
実生活では、怒り、嫉妬、秋波など、見つめる行為につながるさまざまな感情が
交錯しているが、実験では科学的好奇心を除くとすべての動機づけが失われて
しまう。このような場合には、見つめる力の効果はずっと弱くなってしまう
のかもしれない。
971:2001/01/12(金) 09:30
この現象を研究した二番手はJ・E・クーバーという人物で、1913年の
ことだ。ティチェナーの研究を追試した彼は、スタンフォード大学の低学年
クラス生のうち75パーセントが見つめられている感覚の実在を信じている
ことを知る。そこで、被験者10名をつかって実験をしてみた。

被験者一人あたり100回の試行をする。実験者(クーパーか助手)は足音で
試行開始を示したあと、無作為順に被験者のほうを見たり、見なかったりする。
被験者には自分が見られたか見られなかったとか、そしてその推断にどの
くらい自信があるかを言ってもらう。全体の結果でみると、被験者の的中率
は50.2パーセントで、偶然当たる確率の50パーセントと統計的な有意差
はなかった。それでも、被験者が「自信あり」と答えた試行だけをとれば、
その的中率は67パーセントだったのだ。「自信なし」の場合の的中率は
偶然の確率よりやや低目となっている。

クーパーは彼自身の発見のこの部分を大して気に留めなかった。それで、
「見つめられている感覚は広く信じられているが、実験の示すところによれば
根も葉もないものである」と結論を下してしまった。
981:2001/01/12(金) 09:30
それから半世紀もの間、この問題はほとんど終わったも同然になっていた。
再びとりあげたのは1959年、J・J・ポーツマンなる人物が「心霊研究
協会誌」に載せた論文である。このオランダで行われた実験では彼の女友達
――ハーグの市会議員で、「人のたくさんいるところでお気に入りをみつけ
たら、じっと見つめることにしているの」と彼に宣った――が被験者となった。

彼はクーバーの方法を踏襲し、何日かに分けて89回の試行をした。女市会議員
は無作為順に彼を見つめたり見なかったりし、クーバーのイエス/ノーを記録
してゆく。彼の的中率は59.6パーセントであり、偶然の的中率である50
パーセントと比較して統計的に有意な結果を得た。

さらに約20年が経過した1978年、エジンバラ大学の学部学生、ドナルド
・ピーターソンが同じような研究をしている。さまざまな被験者18名を
つかった一連の実験でわかったことは、彼らが偶然よりは有意に高い確率で
見つめられたかどうかを判別しうる、ということであった。
991:2001/01/12(金) 09:30
1983年、オーストラリア・アデレード大学の学部学生、リンダ・ウィリ
アムスは見つめる人と見つめられる人(被験者)とを約2メートル離れた
別の部屋へ入れて実験をした。

被験者は有線テレビを介して見つめられるようにする。1回12秒の試行に
おいて、見つめる側はTVスクリーンに映った被験者か、白くなったスクリーン
のどちらかを見る(ビデオカメラはずっと作動しているが、TVスクリーンは
無作為順に点いたり消えたりするようにプログラムされている。被験者には
ピッという電子信号音によって試行の開始を知らせる)。

28名の被験者から得られた結果は、わずかとはいえ統計的に有意な効果を
示していた。自分がTV画面で見つめられたかどうかを偶然以上の確率で
当てたわけである。
1001:2001/01/12(金) 09:30
技能的に最も巧みなやり方でこの能力を検証したのはテキサス州、サン・
アントニオ市の認知科学財団に所属するウィリアム・フロイトとスペリー・
アンドリュースらが1980年代後期に行った実験である。

ここでも有線テレビが使われた。被験者にはビデオカメラが終始作動している
20分間、好きなことを考えながら部屋のなかでじっと座っていてもらう。
見つめる側は、実験施設の別棟にある視聴覚室のTV画面に映った被験者を
見る。それまでの実験と対照的なのは、自分がいつ見つめられたかどうか
被験者は推量しなくてよいということである。その代わり、左手に電極を
もたせ、皮膚の電気抵抗を測定することで、その自発的な身体反応を監視
したのだ。この抵抗が変化すれば、嘘発見器のように、交感神経系が自発的
に活動しているということになる。休憩時間をはさんだ、各30秒間の試行
のなかで、被験者は無作為順に見つめられたり、見つめられなかったりする。

実験結果は、被験者が見つめられていたときの皮膚電気抵抗には、彼らが
そのことを意識していなかったにもかかわらず、著しい変化が認められる
ことを示していた。

まとめて言うと、この主題については驚くほど研究がなされてこなかったが、
これまでの実験証拠は、人工的な条件下ではさして鮮やかに現れないものの、
見つめられている感覚が実在していることを示唆しているのである。
1011:2001/01/12(金) 09:31
(「幻肢」の実験については省略)
以上述べてきた実験の根底にあるのは、「心と身体はどう関係しているのか」
という問いかけである。私たちの心は身体から外へ拡がっているのか、
それとも、脳の中に閉じこめられているのか。明らかに、それは身体全体に
拡がっている"ようだ"。脚の親指に痛みを感じるのなら、その痛みは脳では
なく親指が体験している、という訳だ。同様に、身体全体の感じは、まさに
身体が全体で体験しているのであって、単に脳の内側で感じているのでは
ないのだ。それでも、これまでの伝統的な見方によれば、このような主観的な
感覚は脳の内部で生じる、脳プロセスの一面ないし随伴現象とみなされる
のである。

見つめられている感覚が実在していること、そして、幻肢に検知しうる作用
があること、この二つのことが証明されれば、「縮まる心」のパラダイムは
放棄されねばならないだろう。心は身体全体に浸みわたり、それに生気を
与え、さらに五感を通り抜け身体の表面から外へ投影される。脳の内側に
閉じ込められていた心は、その狭い収容所から解放されるのだ。それは
デカルトの呪縛からの解放でもある。

そうなれば心、身体、環境の関係が新たな視点で見られるようになるだろう。
医学、心理学、哲学の分野でまったく新しい研究領域が開かれる。超心理学
もこれまでと違って科学界で白眼視されなくなる。多くのフォークロアが
再評価される。霊魂に対する新しい理解がはじまる。そして、精神と物質、
あるいは主体と客体とを隔てていた垣根がとり壊されてゆくことだろう。
1021:2001/01/12(金) 09:31
■ 期待感は動物にも影響する

動物に対する実験者の期待効果を調べた古典的な実験は、1960年代に
ロバート・ローゼンタールらが実施したものである。この研究では学生が
実験者に、ラットが被験動物になった。標準系統種のラットを無作為に
二つの群に分け、一方を「賢いグループ」、他方を「鈍いグループ」と
ラベルした。この動物は、標準迷路法で優秀な成績をとったものと不良な
成績をとったものそれぞれをバークレー大学で継代飼育したものだ、と
実験者である学生に偽っておく。「賢い」ラットのほうが「鈍い」ラット
よりも学習するスピードが速い、と彼らが期待したのも当然である。
それこそ彼らが見つけたいことだったのだ。そして、総合成績をみると、
「賢い」ラットは「鈍い」ラットよりも、反応の正確さで51パーセント、
学習の速さで29パーセント優っていたのである。

別の研究所で別の学習系を使った実験でもこのような知見が確かめられて
いる。池底の泥のような水中環境に棲息する下等生物である扁形動物でも
似たような実験者効果が観察された。ある研究室では、質的に違いのない
プラナリア数匹を二群に分け、頭部の反転回数や身体の収縮回数が少ない
系統(低反応群)とそれが多い系統(高反応群)と勝手にラベルした。
実験者が観察すると、このような期待感をもたされた高反応群は反応回数
が5倍、収縮回数が20倍、低反応群よりも多かったのである。

 関連スレッド:「星先生@放送大学 ほんとですか〜(プラナリア」
 http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psycho&key=977557771
1031:2001/01/12(金) 09:31
体系だった科学の対象から超心理学を締め出してきたこれまでのタブーには
それなりの理由がある。もし心霊現象が存在しているとすると、客観性という
錯覚がその拠って立つ基盤を失ってしまうかもしれない。つまり、多くの
科学分野で得られた実験結果には、意識されない霊妙な影響力によって
実験者の期待感が反映されている可能性を否定しえなくなるからだ。しかも、
皮肉なことに、冷静沈着な、受け身の観察という正統科学の理想こそが
超常的な効果をもたらす格好の状況を生んでいるかもしれないのである。

この可能性については、「超常現象に立ち向かう科学者たち」という論文で
「ネイチャー」に実際採り上げられたことがある。著者である物理学者の
デビッド・ブームらによると、念力現象の発現に必要とされる、「リラックス
した状態」は科学研究全般に有益であるという。逆に、緊張感、恐怖心、
敵対心といった感情は、PSI効果を阻害するばかりか、いわゆるハード・
サイエンス(物理学・化学・生物学などの自然科学)分野の実験にも悪影響
を及ぼすらしい。「自然科学の実験に参加している人のなかに、緊張したり、
敵意を抱いている人がいて、必ずしも実験がうまくいくことを望んでいない
とすれば、実験が成功する確率は著しく減少するものだ」。
1041:2001/01/12(金) 09:32
正統科学を擁護する立場の人は、超常的な影響力が介入する可能性をどんな
状況下でも却下ないし無視するものだ。科学をPSI効果から守る責務を
担っているのは、組織化された懐疑派グループである。この科学の自警団は、
PSI効果を裏づける証拠に対してたえず異議を唱え、以下の理由のもとに
一刀両断するのだ。

 ・実験系が不完全であること
 ・データの観察、記録、報告が恣意的であること
 ・無意識的ないし意図的にデータを捏造していること
 ・かすかなヒントが介在した実験者効果によるもの

懐疑派はこのような超心理学研究における誤謬の発生源を正確に突いている。
しかし、それと同じことは、正統科学の研究にもあてはまるのだ。実は、
超心理学研究が厳しく審査されるので、この分野の研究者は期待効果について
異常ともみえるくらい懸念しているものなのだ。だから、皮肉なことに、
実験者の期待効果が大手を振ってまかり通っているのは、議論の対象に
なっていない、これまでの科学分野のほうなのである。
1051:2001/01/12(金) 09:32
実験者効果の証拠は医学や行動科学の分野では否定しえない。「かすかな
ヒント」が解釈上きわめて重要とされるのはこのためである。実験者の身振り、
目の動き、身体の姿勢、臭いといったような、かすかなヒントによって、
被験者や動物が影響を受けることはほとんどの人に認められている。懐疑派
はそのようなヒントの重要性をことさら強調してやまないが、それはもっとも
なことであるのだ。かすかなコミュニケーションがいかに重要かを示す好個の
例は、今世紀初頭のベルリンにいた名馬、賢いハンスの物語である。この馬は
主人の前で算術ができたらしい――ひずめで地面を叩き、答えを出したのである。
いんちきではなさそうだった。客人が(無料で)動物へ直接質問して構わな
かったからだ。この現象は、1904年に心理学者のオスカー・プフングスト
によって科学的に研究された。彼の結論によると、この馬は、所有者や質問者
が恐らくは無意識的にやってしまう身振りや手振りからヒントを得ているの
だった。答えの数字を教えるような動作をせずとも、人がその数字に神経を
集中させることだけでハンスに正解を伝えられることがわかったのである。

正常な感覚チャネルを介した実験者からのかすかなヒントによって、被験者
や実験動物が影響を受けることは否定しえない。一見テレパシーのように
見えるコミュニケーションの多くはそのような影響で説明がつく、と懐疑派
は主張している。しかし、このことを認めたとしても、かすかな感覚上の
ヒントだけでなく、「超常的な」影響力"もまた"何らかの役割を果たしている
という可能性は依然として消えないのだ。
1061:2001/01/12(金) 09:32
賢いハンスに関するプフングストの本が1911年に出版された後で、同じ
ような算術能力をもった馬を使った研究がさらになされ、かすかな感覚上の
ヒントでは説明のつかない例が認められてきたことは、今日あまり知られて
いない。

例えば、語り草となったエルバーフェルドの「計算する馬」を研究した
モーリス・メーテルリンクによると、この動物たちはかすかな感覚上の
ヒントに反応しているのではなく、どういう訳か、彼の心を読み取っている
のだ、と結論を下している。試験をどんどん厳格にしていった末に、彼が
考えついたのは、「単純明解で、いかなる疑念も入る余地がない」試験で
ある。

数字の書かれたカードを3枚とり、それを見ないでシャッフルし、裏向きに
置く。馬にはカードの白い裏面しかみえない。「つまり、この瞬間は、正解を
知る人はひとりもいなかったわけだ」しかし、馬はまごつきもせず3つの
数字の和をひずめで叩いたのである。この実験は、他の計算する馬でも
「何回やっても」成功した。この結果はテレパシーを持ち込んでも説明が
つかない。なぜなら、メーテルリンク本人も、馬がタッピングしている
ときには正解を知らなかったからだ。考えられる可能性は、馬に透視能力が
あって、カードの数字を直接知ったか、カードを後でひっくり返したときに
メーテルリンクの心に浮かんでくる数字を予知能力によって前もって知った
のか、のいずれかであろう。
1071:2001/01/12(金) 09:32
賢いハンスとプフングストの物語は、80年以上ものあいだ懐疑主義の勝利を
表すものとして伝えられてきた。一見超常的な効果もかすかなヒントによって
説明されるということを諭すための作り話の様相さえ呈してきた。しかし、
そのかすかなヒントのなかに超常的なものがあるとしたらどうだろうか。
そういう可能性について論じることは相変わらずタブーがあるし、ましてや
研究することなどもっての他である。

実験者効果は、医学や行動科学の分野では「かすかなヒント」という言葉で
解釈(あるいは釈明)されている。だからこそ、生化学のような、他の自然
科学分野では真面目にとりあげられていないのだ。なるほど、人間やラット
は科学者の期待感をくみとり、それに応じて反応するかもしれない。しかし、
実験者のかすかな身体言語や何気ない顔の表情などに対して、試験管の酵素
が反応するものか、というのだ。無論、観測結果に偏りが生じる可能性は認知
されているが、それが実験系そのものに対する何らかの影響によるものとは
考えられないのである。自分の期待感に矛盾しない差異を「見る」ことが
あっても、それは観測者の問題であって、実験材料のせいではない、
とされるのだ。

実験者効果が現在考えられている以上に広く蔓延していると判明したところで、
ほとんどの科学者は現実的に対処するだろう。科学のさまざまな分野へ二重
盲検法が拡がってゆく。以上の例は、ほとんどの科学分野で、実験研究が
現実に可能であることを示している。しかし、主体と客体、実験者と実験系
は完全に分離しているという今日の仮定は潔く放棄しなければならないだろう。
1081:2001/01/12(金) 09:33
ここで問われているのは典型的な「科学の」信仰だが、これまで当然視され、
問われることがほとんどなく、仮説どころか科学上の常識にさえ見られてきた
ものである。従って、以下のような命題を否定するのは「非科学的」と一蹴
されるものだ。

 ・ペット動物に不思議な能力は何もない。
 ・帰巣と渡りは既知の感覚や物理的な力によって説明できる。
 ・昆虫のコロニーは超個体ではなく、そこには神秘的な精神や場の
  ようなものは存在しない。
 ・自分が後ろから見つめられていることを人間はかすかな感覚上の
  ヒントを介さずには感知することができない。
 ・幻肢はあると思われる「外部に」存在しているのではなく、
  脳のなかの知覚にすぎない。
 ・自然の基礎定数は一定不変である
 ・プロの科学者たるものが自らの信念によって
  その実験データに影響を与えるはずがない

これまでの科学的な進歩観によれば、以上の仮説が誤謬であることの可能性
を検証するのに貴重な研究資源を消費するのは無意味とされる。科学上の
難問という名に値する真の問題が山積みになっているときにそんなことに
頓着するのは時間の浪費というものだ、上記の科学教義は反駁可能な仮説
なのではなく、既成の科学を構成している部分なのだから、それに代わる
仮説は非科学的である、よって、それを真面目に考察するとしたら、月が
生チーズからできていると考えてもおかしくない。これが一般的な態度である。
1091:2001/01/12(金) 09:33
もし私が賭博師ならば、この七つの実験という賭けの胴元になってみよう。
多分、既成の科学的世界観を支持する人は、既成の科学では説明されてない
因果関係などこの実験では明らかにできないというほうに賭け金を張るに
違いない。しかし、なかには反対のほうに賭ける人もいるだろう。本書で
提案した実験の成行きを私は予見できないが、少なくともいくつかからは
とびきり面白い結果が得られる可能性が十分にあると思っている。そう
思っていなければ本書を執筆しなかっただろう。

このような研究が見過ごされてきたのは、体系だった科学のなかでそれが
タブー視されてきたからだ。だからこそ、発見のチャンスは驚くほど
たくさん眠っているのである。

このような実験によって私たちの世界観はどう変わるだろうか。理論と
実践の双方で科学の門戸が開放されること。その変化が科学界にもたらす
影響は測りしれない。動物の神秘的な能力や見つめられている感覚が
あるとする民間伝承や言い伝えが新しい視点で評価される。周囲の人々や
自然界との結びつきや親近感のことがもっと理解されてくる。私たちには
自然を征服し自分たちの都合にあわせて搾取する権利があるとして、
人間の利益以外のことに関心をもたず、残りの自然を生命のない機械の
ように扱う考え方に反対する運動が起こってくる。教育も大きく変貌する。
科学に対する人々の関心もずっと深くなることだろう。このような実験から、
私たち自身の身体や外界に対する新しい理解が生まれること。心と身体、
主体と客体とを分けてきた、これまでの考え方が瓦壊する。この変化が
心理学、医学、哲学、そして文化全体にもたらす意義は測りしれない。
110名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 13:06
さらしあげ
111名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 15:03
1はどこからのコピペだ。まぁ、見当はつくがいちいち調べるのも面倒だね(藁
心理学者は実証的データを信じているんだよ。1のように、トンデモ本ではなくてね。
112名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/12(金) 15:08
実験者効果があるからといって、すべてが否定できるわけではない。
実験者効果を最小限にするのが実験屋。測定を機会化・自動化するとか、
群間実験でなく被験者(体)内計画にするとか。
それから、1は実際に実験したことがないのだろうね。実験をやったことがあれば、
新しい実験では、実験者の期待通りの結果が出ることは少ないことがわかるよ。
みんな実験結果に裏切られて、「しかし正しいのは結果であって、オレの仮説では
ない」と思って、考え直し、また実験をする。この繰り返し。これが科学。
113まったくの素人:2001/01/12(金) 19:53
>112
それは違う。科学の認識がまったく見当違いだ。
1141:2001/01/13(土) 08:53
別に科学を否定しようとしているわけではないんだよ。
なにしろ私も心理学をやっているんだから。
偏見なしに読めば、そんなことは書かれていないと分かる。
きちんと目も通さずに、的の外れたレスをしないように。
まあ、興味がある人は読むと思うし、参考にしてください。
115名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/13(土) 15:14
あのさあ,ずっと前にも書いたんだけど,
科学というのは唯物論を基礎にできているんだよ.
偏見とかなんとかいう問題ではないよ.

君があげるような「事実」が「科学的に証明」されるというのは,
それが外的世界における実在と結び付けられることで,
そのこと自体が唯物論の枠組みの中でしか不可能なんだよ.
116名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/19(金) 02:22
唯物論が間違ってるなら心は脳細胞同士の電気パルスネットワーク以外の何なんだ?
でも唯物論が間違ってたとしたら永遠にそれを科学的に証明は出来ないのかな
117伍長:2001/01/19(金) 03:39
>116
違うって。
「心はどこにあるの?」スレッドの前半だけでいいから読んでよ。
1181:2001/01/19(金) 22:43
脳がコンピュータや複雑なセンサーのように捉えられる器官
であるということ、その機能も心であることは誰も疑いません。
ただ、心やリアリティというものをもっと広くみつめたうえで、
私が疑っているのは、常識的に「心の大部分」が脳や通常の
情報伝達のみに制約されているかのようにみえるからといって、
脳が心すべてのジェネレータそのものに他ならないと見切って
しまうことです。一方で、哲学者ブロードのいうように、脳の
機能は生存に有益な情報だけを認識するよう制限することに
ある、という説もあります。つまり、脳は心という別の実在を
フィルタするインタフェースのようなものかもしれない。
いずれにしても、脳による制約がかかるのは確かで、心の領域
を際限なく広げることのないような慎重さは必要です。

このようなハードプロブレムを、間接的にでも検証するには、
唯物論の枠組みから、超心理学のような超常現象の実験的研究を
慎重かつ真摯に積み重ね、あくまで包括的に広げていくことが、
ひとつのアプローチとして、重要ではないかと思います。

別に、脳の機能を否定するとか、今までの知見がすべて間違って
いたとか、言いたいわけではありません。そういうことは載せて
いないつもりですが、いま考えてみると、スレッドタイトルが
いささか扇情的すぎたかもしれません。
119名無しさん@お腹いっぱい。
>118
だれもそんなこと言ってないだろう.
心=脳の機能だっていうのだけが唯物論じゃないって
書いてるじゃない.
つまり人のレスは読まずにコピペしているだけなんだなあ...