1 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :
2000/11/19(日) 02:37 「心」理学のみなさんにケンカうるわけじゃないんです。 私も教養で心理学系の講義とってるくらいで興味津津です。 こころ=心臓のようなイメージ図ですが、心臓はこころでは ないですよね。こころって頭じゃないでしょうか? 頭=こころ=気持ち じゃないでしょうか? あえて「こころ」という概念を作り、心理学なんてできたのは どうしてでしょうか・・哲学と人間科学(あたま)と心理学って 同じじゃないでしょうか。 あえていうなら現在の心理学って社会学の一部というかんじですよね。 こころというものがあるならば頭の研究と社会学の研究と論理学を しなければ完璧ではないと思いませんか。 考えれば考えるほどわからなくなる・・いまの気分は哲学でしょうか。
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/19(日) 02:39
なぜこころは胸にあると決められたのか?
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/19(日) 03:01
>1 >こころ=心臓のようなイメージ図 >あえて「こころ」という概念を作り >現在の心理学って社会学の一部 あなたの知っている心理学は私たちの心理学とは大きくかけ離れたものです。 よって私たちは答えることが出来ません。
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/19(日) 03:52
>1 「どこにあるの?」という問い自体を考え直してみる必要がありそうだね。 そもそも心というものは,特定の場所を占める空間的存在なのだろうか? たしかに現代を生きる我々は,脳の働きを無視して心を語ることはできないだろう。 だが,心が脳の中の特定の場所にあるとか,心とは脳そのものであるという主張に 多くの心理学者は疑義を感じるだろう。 結局行き着く先は,「心」という言葉の使用法をめぐる「言語問題」なのかもしれないが。
>1 それにしても,もう少し文章を整理してくれよ。 私には君の云わんとすることがわからないでもないのだが, ほとんどの人にとっては意味不明だと思うぞ。
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/20(月) 23:39
ちょっとあげてみる。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/21(火) 01:58
心はねえ、Prefrontal Cortexにあるよ。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/21(火) 02:03
>7 脳が電車の中で化粧してるとか言ってる人?
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/21(火) 10:11
「心」と「精神」の違いはどうなってるんでしょうか? なぜ"心"理学であったり、"精神"医学であったりと、 使い分けられていて、なぜ、なんとなく使い分けている うちに、それっぽく感じられるようになるんでしょうか? はたまた「意識」や「魂」もそうです。なんだか漠然と していて、とても文学的というか、考えるほど、その言葉 がなにをどこまで指しているのか、分かっているようで 分かっていないというか、「心」という言葉があるから、 あるように考えてしまっているだけなのか、いったい こういうことは、心理学でどこまでハッキリいえるもの なんでしょうか? 人間はどうやって、「心」などの言葉を使い分けるよう になって、それがなんだか、けっこううまくいってたり、 納得したりできるのでしょうか? なんだか、わけのわからない疑問になってしまいました。
10 :
↑ :2000/11/21(火) 11:31
日心で「心理」物理学か「精神」物理学か、っていうセッションがあったと思うけど、誰か教えて。
心理学史の話だよ。どう訳すのが適切かだったと思う。 寝てしまったので、わからない。 シンポ名は「日本における西洋の心理学の受容」 きちんと聞いた人いる?
12 :
小講演だよ :2000/11/21(火) 16:11
Psychophysics,−精神と心理は同義か− 講演者 秋田 宗平(日本福祉大学 )
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/21(火) 23:52
>11 大山や西川のだね。 起きていた分だけでも、どうだったか聞きたい。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/22(水) 01:07
「心理学」という言葉を作った西周はpsychologyを「性理学」 (人のサガに関する学問)と訳したんだよ。心理学はmental philosophyの訳。 もともと「心」というニュアンスはsoulやmindの方が強いだろ。 性理学だったら「行動の学」という発展はもっと日本で受け入れられ やすかったろうね。 >9 心,精神,意識と言ったものには実体はない。すべては言葉。 これを「科学的」に研究しようと思ったら認知心理学のように 心という言葉自体を脳内過程と無理やり解釈しなおしてしまうか (神経心理学なども心の問題を神経過程の働きと「解釈」している ひとつの「学派」,笑), 社会構成主義の立場をとって「心」という言葉の実際の用法を 直接調べてしまうかのどちらかしかない。 性格とか欲求とかの心的概念の「実体」が質問紙で測れるみたいな レベルの話はもう馬鹿馬鹿しくて取り上げる必要もないだろう。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/22(水) 05:40
>1 それ哲学じゃないか? D・デネットの「心はどこにあるのか」とか読んでみたら。
16 :
14 :2000/11/22(水) 07:16
デネットは心理学者的な目からはつまらなかった。 哲学者でも認知心理学と同じ迷宮に落ち込んでいる人たちもいる, ということがわかるだけ。この問題について考えたかったら やっぱりライルやウィトゲンシュタインを読むべきだと思う。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/25(土) 05:41
デネット=ライルあげ
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/26(日) 00:55
デネットの話を西川経由で学部の間中聞かされ続けた。 鬱だ。
19 :
名無しさん@お腹いっぱい :2000/11/26(日) 05:57
age
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/26(日) 18:31
心の場所は、棒で頭を思いっきりたたけば、わかります。 ただし、自分の頭を叩くとわからなくなりますので注意してください。
21 :
今日は1限から講義 :2000/11/27(月) 06:20
確かに脳がないと心はないが, だからといって心が脳の中にあるとか, 心がすべて脳の働きとは言えない. パソコン(あるいはサーバ)がなければ2ちゃんの議論はできないが 2ちゃんの議論はパソコン(サーバ)がやっているのか?
22 :
続き :2000/11/27(月) 06:23
2ちゃんの心理を調べたい,といって 2ちゃんねらー達の使っているパソコンだけを 詳細に分析しているやつがいたらどう思う? 心理学や認知科学の中にはそれと同じことをやっていて, それでも心を研究していると言ってはばからない人が たくさんいるわけよ.
23 :
ほほぅ :2000/11/27(月) 07:43
>>21.22 凄い納得。 賢い人だなぁ・・・。
おいおい、本当に納得したんか?>23
全然比喩として不適切でしょ?
>>21 >>22 ワードの情報処理過程を調べたいからといって、
チップだけを調べるのが不適切ってゆー例えなら納得するけどね。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/27(月) 10:36
>ワードの情報処理過程を調べたいからといって、 >チップだけを調べるのが不適切ってゆー例えなら納得するけどね。 これ,21&22とどう違うの? たとえば増幅器における増幅系と駆動系というような意味なら 駆動系を脳内に仮定するか,脳外(あるいは体外)に仮定するか だけの違いで本質的な違いはないと見るが?
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/27(月) 10:40
24は「ワードの情報処理」っていうのがチップだけでなく 基盤上の他の素子やIOなども機能して生じてるみたいな イメージだけを論じているので,25式にいう「駆動系は 体外にある」可能性みたいな,21,22が論じている レベルの想像力は持っていないんだよ.認知屋だね.
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/27(月) 12:11
>21 22 おめーバカか?典型的な心・脳二元論者だね。 養老孟司氏や澤口俊之氏の著書を読め! 書くのめんどくさい。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/27(月) 12:31
↑ そういう本のレベルの議論してるんじゃないでしょう. よくいるよね,入門書読んだだけで専門家だと思ってる奴. まあ心の問題については「心脳二元論」のほうが現実的だし まともなんだけどね.それもわからんだろうなあ.
29 :
マルシンド :2000/11/27(月) 12:44
混乱してるぞ. われわれが素朴に「心」だと思っているもの=意識内容は脳によって 決定はされない.むしろ環境からどのような刺激が脳に入ってくるか という環境の構造に依存する.つまり「意識内容」を心だと考えるなら 心脳一元論は成立しない.また,27がまったく理解できず(区別できず) にいるような「他人の心の知覚(心の理論)」の問題でも心脳一元論なんか 成立のしようがない.これは臨床心理学や社会構成主義的な「心の研究」が 広く共有する立場. いっぽう認知科学や認知心理学は意識の内容ではなく意識を作り出す 過程(環境と意識内容を媒介するもの)を「心」と考える.そうであれば それは生理的,機械的な過程であるから心脳一元論も成立する. 問題は,どちらがより「心の本質」に迫っているのか,ということだ. 意識の内容,つまりわれわれの意識にはっきりと現れている「自分の心 そのもの」を直接分析することが心の科学であるなら,環境刺激や 環境の構造を無視して脳だけにこだわるのは,それこそ「2チャンネルの 心理を分析しようとしてコンピュータを調べる」ということに なるだろう. いっぽう「媒介過程」が心であるのなら,2チャンの心理を分析するために コンピュータを調べるのも一興,ということになるだろう. このレベルの話を前提にした上で議論しなければ厨房と専門家の 区別がつかない不毛な議論にしかならない,って前にも言ったか?
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/27(月) 12:50
>27 「書くのめんどくさい」んじゃなくて,自分の言葉では書けないんでしょう? そういうのはここでは軽蔑されるよ.
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/28(火) 10:19
27だよん 全ての外的知覚は「脳によってもたらされるもの」であり、 それに関する殆どの科学的実験が「それ」を証明している。 そして脳の活動なくして「心・意識」が発生しない事も判ってきている。 但し、たしかに発生・システムの事に関してしか述べていなく、 「こころとは何か?」の定義については答えにはなっていないわね。
32 :
マルシンド :2000/11/28(火) 13:35
>31 だから,脳がなければ心や意識が成立しないことと, 心や意識の「具体的な内容」が脳によって決定されるってことは 違うんだって. あなたが今この私のレスを読んでいること,その内容を理解して (あるいは誤解して)何かを感じていることは.あなたの体外 (脳内ではない)にあるコンピュータディスプレイに文字が写し 出されていることを抜きにしては生じないよね. そして,その「理解」が脳内過程において形成されるとしても, その「理解の内容」はディスプレイ上の文字の内容,および あなたがこれまで環境から与えられた刺激の内容(知識,と 呼んでもよいけど)に決定的に依存するよね. つまり,心や意識の「内的プロセス」はたしかに脳の問題だけど, 実際にある人の心がどのような内容を持つか,あるいはある人が どういう意識内容を持つかは,脳をいくら調べてもわからないし, その人をとり巻く環境や社会的関係の視点を向けなければ 理解できないわけよ.
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/28(火) 18:10
>32 あれあれ?? ある人がどういう意識内容を持つかは、脳を調べればわかるじゃん。 貴殿のよく言う環境的社会的文脈はある時点で脳に蓄積されているんだから。 ここで話題にされているのは「心」であって お得意の「性格」についてではないよ。
34 :
マルシンド :2000/11/28(火) 20:41
>ある人がどういう意識内容を持つかは、脳を調べればわかるじゃん。 ほんとかいな.そんなことができた例を示してよ. 「〜ができるんだから,意識も脳を調べればわかるはず」とか いう話じゃなく,意識報告や行動観察にに頼らずに脳だけを 調べて意識内容がわかった実際の例をね. >環境的社会的文脈はある時点で脳に蓄積されているんだから。 それは「記憶は脳の中に蓄積されている」とかいう考えと同じ メタファーだよ.たとえば記憶内容が想起される文脈とは 無関係に「そのまま」脳の中に貯蔵されているなんて 素朴に考えている人は,今どき認知屋にもいないよ. だいいち「文脈はある時点で脳に蓄積されている」ということが どうして(どういう指標で)わかるの? これは煽りじゃない,とても大切なことだから,きちんと 説明してみせてよ.
35 :
マルシンド :2000/11/28(火) 20:55
答えを待つ前に今日はもう帰りたいので, まあそういう「夢」を答えてくるだろうから先取りして, 脳のどこかに電極なんかつないで,その信号を増幅したり 変換したりして「意識内容」を画像と音声で表示できる 機械ができたとするわな(これは絶対できないんだけど, 百歩譲ってできたとして). それでもって,そこに写し出される「意識内容」は 何で決まる? 基本的には「その人を取りまいている 環境の認知内容」でしょう? (夢や幻想,夢想などの例外はあるにしても感覚知覚が 現に捉えている内容と意識内容が連動しない状況は あくまでも例外的なものと考えるべき) このとき,意識内容を知るために 1.その人を取りまいている環境要因を調べる 2.その人の脳を開いて電極を差し込んで「機械」につなぐ このどっちが可能,有効かつ「経済的」だろう? 俺を性格心理学者だと思うなよ. 性格の問題は「心理学の構造を考えるテーマ」として面白い からやってるだけ,あと就職や社会的評価に役立つので 利用してるだけなんだよ.
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/28(火) 21:07
みんなもっと真剣にギブソンを読むべきだな これらの謎をとく鍵はギブソンにあり
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/29(水) 02:59
いまんとこアイボがせいぜいでは?<ぎぶそん
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/11/30(木) 19:32
33のマルシンドへの反論期待あげ でもちょっと無理か?
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/01(金) 00:58
澤口さんや養老さんとマルシンド先生の論争を聞いてみたいage
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/01(金) 04:54
33の代わりに 誰か言ってやれ言ってやれ!
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/01(金) 07:49
大森荘蔵センセがご存命なら、澤口にビシッとひとこと言って下さるのにな。 「私と、私の脳は違います」
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/01(金) 07:54
>41 澤口脳には理解不可能かもしれんな。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/01(金) 11:08
>1.その人を取りまいている環境要因を調べる これで言えることは推論にすぎん。 しかも検証不可能。 同じ履歴で同じ環境要因の個体が複数いればチェックできるけどね。 > 2.その人の脳を開いて電極を差し込んで「機械」につなぐ これで言えることは検証可能な事実。 電気的に同じ状態作ってやればいい。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/01(金) 12:36
でも,環境要因あるいは言語報告を基準にしないと 「機械」自体の妥当性が検証不可能. また,「電気的に同じ状態を作る」ことによって 検証できるのも「機械」の信頼性だけで,意識状態の 指標としての妥当性は検証できない.
45 :
マルシンド :2000/12/01(金) 12:50
残念でした.「機械」があるんなら,またその妥当性が保証されているなら, 環境要因と意識内容との関係は43氏から見ても「検証可能」でしょう? かつ,非常に高い確率で検証される. それで関連性が検証されたら,その後は脳なんか開く必要は 少なくとも経済的には低くなるね. それより,34に答えてよ. 35は「できるはずのないことを前提にした議論」に 過ぎないんだからさ. それにしても,電気的とか,機械による測定とかを介すると, そこには「推論」の過程がなくなると考えるのはあまりに単純なんじゃないの? それから,環境要因と意識との関係が「検証不可能」という 考え方は,環境要因が操作可能である,と言うことを忘れているし, 知覚心理学などにおける現象学的手法という実験心理学の中でも もっとも伝統的で多くの成果を生んだ分野を否定することに なっちゃうけどそれでもいいの?
46 :
驚くべき仮説 :2000/12/02(土) 00:19
心(あるいは魂)は物理的に存在していません。 観測できる既知の自然界を「物理層」とすると、それとは 別の層に、あくまで情報としてあります。それを「情報層」と 呼ぶことにすると、心はそこにオブジェクトとして、ある一定の 情報量を占有しています。この情報のチャンクが「魂」です。 そして物理層と情報層の量子的インターフェースを担っているのが 「脳」という器官であり、「記憶」は脳において物理層と情報層の オーバーラップによって存在しています。 記憶は、情報層と神経網との「関連付け」によって成り立っており、 記憶情報の全体が、脳の特定部位に局在しているわけではありません。 短期記憶の一部は、脳内で「情報化」の編集過程を経て、睡眠時に、 おそらく松果体などを通して、段階的に情報層へと輸送され、徐々に 長期記憶として浸透・定着していきます。そして、約3年以上過去の 記憶情報は、ほとんど情報層に保存されていることになります。 おそらく、今、脳だけで説明できると予測している研究者の大半は、 それを突き詰めれば突き詰めるほど、晩年には、この驚くべき事実に 「気づく」ことになります。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/02(土) 02:28
>46 突き詰めれば突き詰めるほど、脳の行動「プロセス」無くして 体のすべての行動はないよ。もちろん意識もね。 すべては脳活動の後に起こっているんだってさ。
で、インターネットってどこにあるんだよ。
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/02(土) 04:07
>48 たぶんゲイツ君の家(嘘)。
50 :
マルシンド :2000/12/02(土) 07:20
>47 どうして議論がもとに戻っちゃうのかな。 意識の存在に脳は不可欠、脳がなければ意識も行動もないと いうことに意義を唱えるやつなんて誰もいないよ。 議論になっているのは 1。「心」とは意識のプロセスなのか、意識の内容なのか ということで、心が意識のプロセスなのだったら脳を調べる ことは有効だけど、心が意識の内容なのだったら、脳という プロセスが意識を作る「材料」になる外的な環境や文脈を 調べることが、脳を調べることと同等かそれ以上に重要 なんじゃないの、と俺が主張して、それを否定できるかな、 と問うていたわけでしょう? >46 人間は歴史的にその時代時代の最先端のテクノロジーの アナロジーで人間の心を説明しようとしてきた。 フロイトの理論が蒸気機関などの内燃機関のアナロジーである と言うことはよく指摘される。そして、現代では 心の説明はコンピュータのアナロジーで説明される。 このことには2つの問題がある。 1。「のようなものである」と「じっさいにそうである」ことの距離 2。特に現代のコンピュータアナロジーの場合、コンピュータによって 心の機能が再現されたとして、その動作原理が心と同じかどうかは 結局解らない。 それより俺が個人的に興味あるのは、コンピュータ時代が 終わった時に人の心が今度はどんなアナロジーで語られるかだ。
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/02(土) 16:57
例えばこんな実験をしたとして「心」は発生するのかしら? 生まれる直前の胎児を取り出して子宮内環境を完璧に再現した 保育器でまあ20年ほど“培養”してみる。 果たして彼は「意識」を持ちえるのか? 完全に満たされた環境内では「心」なんてモノは発生しない!? 結局「心」ってのは外部からの刺激に対する自己保全プログラム?
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/02(土) 18:21
ココロは電波だ!! 脳は単なるアンテナ!! 脳を調べてこころのありかを探ってる連中の行為は、 パラボラアンテナばらして、中に広末がいないか 探してるようなもの。 これ、テーセツ!!
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/02(土) 19:11
こんな掲示板に集まるような連中がどんなに考えたところで心が脳で発生する 仕組みがわかるわけがない。せいぜい「心の仕組みはわからないんだということ がわかる」のが関の山。だからこのスレッドの書き込みは全て無駄(断言)。
54 :
>53 :2000/12/02(土) 21:40
すげえ、君頭いいなあ。
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/03(日) 00:30
>53 ということが解るあなたは?パラドックス?? 無知の知ってヤツ?
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/03(日) 00:53
ではコンピュータをアナロジーに使った説明を試みたいと思います。 こころとはいわば、コンピュータのソフトウェアのようなものだ、と いうことにしましょう。 ソフトウェアはどこに存在しているのでしょうか。 ディスプレイのなか? ハードディスク上の磁気情報? CPUの電子流? それともオペレータ(つまり貴方です)の頭の中にあるのでしょうか。 これらはすべて正しく、すべて間違っています。 なぜならソフトウェアとは「機能」だからです。「機能」に実体はありません。 それはこころを成り立たせる各要素間の関係であり、働きであり、相互作用です。 こころ=ソフトウェアは、特定の「どこか」に「在る」ものではないのです。 脳を眺めているだけではこころはわかならいのです。 かといって、この世の外にこころの在処を求めるても、未決の仮定が 多すぎます。 余談ですが、「働き」のどこに注目するかによって、こころの「在る場所」は 変わってきます。現代、われわれは大脳を心の在処と見なしますが、西洋では 長い間、心臓がその場所と思われてました。 人体を「気」の流体路と考えた昔の中国人は、気の集まる丹田(へその下)を 精神の座と考えました。日本神道では魂の宿りを「ムネ」におくようです。 松果体にあると言った人もおり、眉間に置く文明もあります。
57 :
56の続き :2000/12/03(日) 01:02
こころの所在をどこにおくか、という問題はその時代や地域文化の 特色を色濃く表すものなのでしょう。 それらはそれらなりに、それぞれ独自のローカリティを有しています。 たとえば、こころ=脳とする現代のパラダイムは、時に還元主義・ アトミズムと批判されるものでもあります。 間違っているというのではありません。どちらにしろ限定的な正しさで ある、ということです。 さて、ではこころの在処を、その機能において説明する、わたしの ような言説はどのようなローカリティを有しているのでしょうか。 さあ、それはわたしにはわかりません。 わたしのこころは、そのような機能を持っていないようです。
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/03(日) 03:46
ナンセンスですみません。 今思いついたんですけど、環境が意識の内容=心を規定するのなら、 原始人と現代人の心は別物なのでしょうか? そうなると、外国人とも違うということになる??
59 :
マルシンド :2000/12/03(日) 07:44
>58 心が「意識の内容」であるとするなら 原始人と現代人の心が別物,というのは正しい. よく言われる例では,「メランコリー(憂鬱)」という 言葉ができる以前には西洋人の心にはそういう感情自体が なかった,という考え方.当然,別の言語コミュニティに 生きる外国人と日本人の心には大きな違いがあることになる. 心を「意識のプロセス」と考えるなら,そういった違いは 存在しないか,あるとしてもそれほど大きくないかも 知れない. >56 心を機能と考えればそれには実体がない,という 考えには私も同感.ただこれも,機能自体を心と考えるか, 機能を支える「機構」を心と考えるかで研究の アプローチは違ってくるだろう.
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/03(日) 17:06
56さんの説明はよくわかりました。 でマルシンドさんのいう 機能を支える「機構」って何?
61 :
58 :2000/12/03(日) 23:51
>>59 最近、「甘えの構造」がマスコミの話題にのぼるんですけど、
外国人(どこまでカバーするのか解らないけど。英米の意か?)
「甘え」に相当する言葉がないっていいますよね?
ないけれども、でもそうゆう性質は外国人にもあるらしいという。
概念と実在の問題なのではないですか?
意識の内容で規定するとしたら、同じ心は無二ということになって、
理解不能に・・・まぁ、所詮他人の心なんて(自分の心さえも)、
十全に理解できないものですが。
62 :
伍長 :2000/12/04(月) 02:56
横レス >でマルシンドさんのいう、機能を支える「機構」って何? たぶん、例えば、生物学的な身体構造、特に脳構造。その生理的・化学的・物理的な仕組み。ハードウェア。抽象的な情報処理機構も。 ついでに、もしかすると環境(の刺激群)の物理的特性・構造も。 マルシンドさんのあちこちの精力的な書き込みに関しては、私は概して賛成ですが、時々違和感を感じることがあります。例えば、 >心を機能と考えればそれには実体がない,という考えには私も同感. >ただこれも,機能自体を心と考えるか,機能を支える「機構」を心と考えるかで >研究のアプローチは違ってくるだろう. 「実体がない」という点は良いとしても、 しかし、 >機能自体を心と考えるか,機能を支える「機構」を心と考えるかで という設問をなぜするのだろう? 分かりそうでいてよく分からない。いや、分かってるつもりなんだけど・・・ 「機能」なのか「その機能を支える機構」なのかという問題は、 (1)「『心』という言葉が言語行動として自発されるという現象」を「機能」面で捉えるか、 (2)それを「機構」(「構造」でもよい)面で捉えるか、 という図式で解釈されるべきだと思います。(1)がスキナリアンの立場ですね。 だからといって、「心=機能」は言い過ぎじゃないかな。同様に「心=機構」でもない。もちろん非物理的実体でも物理的実体でもない。(続く)
63 :
伍長 :2000/12/04(月) 03:03
(続き) 「心とは何か」「心はどこにあるのか」という問いに対して、「心とは○○である」とか「心は□□にある」と答えても、所詮は不毛だと思う。 そもそも、この問いも回答も、どこか二元論的発想から抜け切れていないように思えることが多い。 むしろ、この問い自体が形而上学的「偽」問題、もしくはカテゴリー間違いだと考えたい。 ライルの「大学はどこにあるのか」問題※が、まさにコレの比喩でした。 (※「大学はどこ?」と訊く人が大学に案内されて色々な大学施設を見せられた後、「よくわかった。しかし、『大学』はどこ?」と言ったとすると、その人はカテゴリー間違いを冒している) 56さんは全く正しいんだけれど、57で、 >こころの在処を、その機能において説明する のように、「在処」という言い方をしてしまうと、その瞬間に偽問題になってしまうと思います。 偽問題となるのを避けるためには、 「なぜ人は,『心』のような心的用語を使えるようになるのか? 二元論に陥らずに答えよ。」と問うべき。 例えば、 「心的用語の意味は、それが言語行動として自発される際の行動随伴性を分析することによって、つまり、それが自発される際の条件を記述することによって、より適切に得られる」 というスキナーの(そしておそらく後期ウィトゲンシュタインの)発想から出発するべきでは? スキナリアンである筈のマルシンドさんは、このことをおっしゃりたいのだと思うけど、違いますか? そして、この問いに対する答え(スキナーは4通り、ウィトゲンは2通り?の可能性を指摘した)が正しいなら(他の可能性もあるかもしれないが)、「心とは何か」「心はどこにあるのか」という偽問題は解消される。 (なお、このことと、「心が痛む」「心が豊かになる」etc.といった人間的現象を否定するということとは、全然別であることは言うまでもない。こういう無茶な批判が昔から多いので、念のため)
64 :
マルシンド :2000/12/04(月) 06:40
俺としては「心はどこにある」「どれが心」という問題を, 「一般的に考えそうな」諸説のレベルで個別に考えていくと, 結果としてそう言った問題が疑似問題であることが徐々に わかってくるかなあ,と思ったのだけど,ちょっと遠回りすぎたか. 機能自体と機能の「機構」を分離する問題も,「心が脳にあるか否か」という 問いが問えるのなら,分離できるはずだし,結果として分離できないなら 「心が脳にある」ということはできない,という推論に結びついていくと 思うのだけど. まあ伍長さんによって結論は先取りされたわけだけど. それでもこのズレはこれからもしばらく続くでしょう.
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/04(月) 07:05
問題が間違ってるとしたら、以降は
>>63 の問題で進めるのでしょうか?
すみません、もう少しかみ砕いてくださると嬉しいです。
66 :
マルシンド :2000/12/04(月) 08:37
そんなに単純でもないかも. 伍長さんの挙げたライルのカテゴリー錯誤の例を用いると, 「大学はどれか」と聞かれて図書館や,事務棟を指すのは 確かに間違っている.しかし図書館や事務棟が「大学の機能」 を維持する「機構」のひとつであるのは確か. その点で「大学学」みたいな学問があるとして(ほんとにあるかも), その分野として「図書館研究」や「大学事務研究」みたいなものが あるのはおかしくない. 同じ意味で,「心の科学」が心の機能を生み出す機構のひとつである 脳をその対象にしてもおかしくはない.問題は心の科学が脳を研究 することと,「脳を調べればすべてわかる」と考えることとは違う, ということ.伍長さんは「そんなこと当たり前だ」というかもしれないが, 現にここでも「意識の内容は脳を調べればわかるだろう」みたいな 意見がおそらく大学院生かそれ以上の心理学者から出されてしまうことも やはり現実.
67 :
伍長 :2000/12/05(火) 04:07
>>65 >もう少しかみ砕いてくださると嬉しいです。
とりあえず、
>>64 、
>>66 のマルシンドさんと同意見ですが、
分析哲学・言語哲学・心の哲学などの名を冠した入門書の内容を、心理学(私の場合は学習理論)的に翻訳しながら読んでみることをお勧めします。私には7割方分からないから、苦労してますけど。
(3割方理解できるのは、スキナーの論文‘The operational analysis of psychological terms.’(1945)(“Cumulative Record”に収録)を読んだことが大きい)。
私の浅く偏った素人理解では、噛み砕くのはもちろん、短くまとめるのも難しいですが、とりあえずやってみます。
>>61 >概念と実在の問題なのではないですか?
結局はそういうことだと思います。
心が実体として実在するわけじゃない、というのが大前提ですが。
(1)「心」概念に何らかの形で関係する実体(指示対象とは限らない)や、実体間の関係性は実在する、という実在論の立場をとりましょう(とらなくても別にいいのかな?)。
(2)ただし、それらの実在と「心」概念との関係は一定ではない。つまり、概念(or言葉)と実在が、常に安定した静的関係にあるわけではない(状況次第でその関係は変わるし、般化もすれば、弁別もされる。しかも弁別は完全じゃない。etc.)、という自然主義?(と言うらしい。聞きかじりで自信なし)の立場をとりましょう。
例えば、「心」概念を「大学」概念にむりやり置き換えると、
(1')「『大学』概念に何らかの形で関係する実体(指示対象とは限らない)や実体間の関係性」としては、研究棟や図書館や事務棟、群小の設備、敷地・外構、教職員や学生、カリキュラム、研究内容、人事・経理他の事務業務、行事、校歌や明文化された理念、歴史、etc.があります。
(2')ただし、それらの実在と、「大学」概念との関係は一定ではない。
68 :
伍長 :2000/12/05(火) 04:12
「心は脳の中にある」という考え方は、「大学は事務棟の中にある」と考えるのと大差ない(比喩としてはちょっと違うだろとは思うけど、まあ、大差ないと見なしましょう)。 56さんの言うとおり、限定的な正しさでしかない。いや、「限定的に正しい」ではなく、「間違っている」と言った方が、たぶん罪が小さいと思うのです。 だから、心理学が脳科学に吸収されるだろうなんて、一部を除いて、あるはずがない。 マルシンドさん66が完全に正しく、また御指摘のとおり、私にはなぜこんな当たり前のことが分からない人が多いのか(それも立派な研究者の中にも)、不思議でなりません。 さて、 「心」概念の場合は、関係する実在は「公的なモノと私的なモノ」との混合物です。決して「私的なモノ」だけじゃない。 この「公的なモノと私的なモノ」との対比は、決して「物理的なモノと心的なモノ」の対比ではない。 「私的なモノ」は、決して「心的なモノ」ではなく、あくまで「物理的なモノ」です。 二元論的「心的なモノ」は虚構であって、そんなものは存在しない。存在すると主張するなら、それはトンデモorオカルト。 もちろん、我々にはこのオカルト的「心的なモノ」が確かに存在しているという気がしています。「他人の心」はともかく、「自分の心」が存在することは自明じゃないか、「俺には判る」というわけです。 なぜそう思えるのか? (疲れて脈絡がおかしいみたいなので続きはまた後日。ウザければやめる)
69 :
伍長ファンクラブ代表 :2000/12/05(火) 04:39
是非とも続けてください。 後日で結構ですから。
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/05(火) 16:00
しろうとですが勝手な解釈と持論で仮説を書かしてもらいます。 心というのは人間の意識ではないでしょうか? 意識は実態ではなく状態であり何かの組み合わせで生じるのだと思います。 例えば水を熱するとお湯になり蒸気が発生するというように現象の 組み合わせによって作り出される変化の連続が僕の言う状態だと とりあえず定義したいと思います。いい?だめ? で、心=意識がある状態、と言うのは感覚の集積によって作り出さ れる一つの状態ではないかと思うのです。なぜなら熱いとか冷たい とか快、不快とか見えるとか聞こえるとか我々は感じていて そしてさらに自分が熱いとか冷たいとか感じているな…ということ 我々は感じているからです。感じているという状態をまたの別の 知覚器官で感じていますそれが意識(心)ではないでしょうか? 僕の仮説で行くと様様なタイプの知覚器官の集積というのが心だと思 います。そのなかには僕らがまだ発見していないいタイプの知覚器官が あるのだと思います。つまり目が光を知覚しることは明らかですが、 脳の何処かには立体感や距離を知覚する場所がありまだ他にも何か別の ものを感じているのかもしれません。それを心ととりあえず呼んでいる のではないでしょうか?
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/05(火) 17:02
「国会はどこか?」と聞かれれば、みんなそれが建物に過ぎないことは知って いるが、国会議事堂を示すでしょ。そして、それは間違ってはいない。 これと同じで、心は脳でいいでしょ。 ところで、心と意識や実存は違った概念だから、これを混同するのは間違い。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/05(火) 17:35
国会=国会議事堂 ではないよ。中学生でもわかることだ。
73 :
マルシンド :2000/12/05(火) 17:36
>71 伍長氏があげている例はそれで言えば 「日本政府はどれか」といわれて国会を指すようなことを言っている。 全体の機能についている名前を,その機能を支えている個々の要素 と取り違えてしまうことをライルは「カテゴリー錯誤」とよんだ。 違いがわからないなら伍長氏のレスを読みなおすべし。 心も同様に(脳も含めた)人間の生体が環境と相互作用する中で 生み出される機能だと考えれば,心はどこにある,と聞かれて 脳を指すのはカテゴリー錯誤だ,という話。 それから「心と意識や実存は違った概念」というが, とくに「心と意識」はどう違った概念なんだろう? 明確な区別があるなら知りたいので教えて。 ウインドウズ機からなので句読点がいつもと違う(藁。
74 :
伍長 :2000/12/06(水) 00:57
>もちろん、我々にはこのオカルト的「心的なモノ」が確かに存在しているという気がしています。「他人の心」はともかく、「自分の心」が存在することは自明じゃないか、「俺には判る」というわけです。 >なぜそう思えるのか? 自明であると思えるのは、おそらく、 (A):「物理的-心的」という二元論的発想が強固である(私だって普段はそうだ)。 (B):私的な「直示的定義」(「私のこの感覚をEと名づけよう」)が可能だと思える(やや同上)。 (C):しかも(B)には、「語の意味とは、それが指し示す指示対象のことだ」という考え方が基本にある(同上という程でもない)。 だから、(B)の「直示」により、(C)の「指示対象」=(A)の「心的なモノ」の実在が特定されるような気がする。ゆえに「心的なモノ」は確かに存在するように思える。 現代哲学では、この3つの考え方は、(多分CからAの順により強く)否定されるのが通例らしく、私も否定する。 (ついでに、(D):(A)の「心的なモノ」が、行動の原因であるとされる。というのが一般の見方です。4重の過ちです) ならば、「なぜ我々には『心的なモノ』が確かに存在しているという気がしているのか」という問いには別の形で答えなければならない。 答えは、「『心的な用語』が存在するからだ」ということ(だけではないが。後述)であって、 そこから、「では、何故その『心的用語』が存在するに至ったのか?」という問いが発生する。 そして、「心的用語」は言語行動によって生み出されたものであるから、「何故その『心的用語』が存在するに至ったのか?」というこの問いは、 「『心的用語』を生み出す言語行動が可能なのは何故か?」 という問いへと最終的に変換される(なにも「心的用語」に限ったことではないが)。 ここが「心の問題」の本当の出発点(なにも「心の問題」に限ったことではないが)。 じゃあどう出発するか?
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/06(水) 01:38
心はモノじゃなくて現象です。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/06(水) 01:39
現象は、それに関わったモノによりだいたいの位置を 特定して言うことはできますが、関わったモノそれ自体が 心というわけではありません。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/06(水) 01:41
で、いいんですか。 だからインターネットってどこにあるんですかって聞いてんだろクラァ。
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/06(水) 02:14
何をこねくった議論をしてるんだ? 「心は脳の機能」だと何度言えばわかるんだ?ああん? 脳が活動して心が発生するんだ。それはほぼ間違いないことなんだ。 仕組みはまだわかってないがな。 ユングなんかを読んでる奴やオカルト好みの奴は霊魂みたいな物や 集団の意識みたいのを想定したくてしかたがないのかもしれんが そんなのは無いんだ。 以上だ。 ------------------------議論終了--------------------------
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/06(水) 02:42
>>78 マルシンド先生も伍長さんもそう言ってるじゃん。
マターリしようよ。
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/06(水) 02:47
>78、79 単に、脳至上主義の人がそう言っている、だけでしょ?
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/06(水) 02:56
78=80
82 :
80 :2000/12/06(水) 03:17
いいえ、78ではないです。
せっかく面白い議論が続いてるのに、スレ汚すんじゃないよ。
84 :
伍長 :2000/12/06(水) 03:26
>75,76,77 正しい。 でも、もう少しこねくった方がよい。そしてその果てに出てくるものを想像してさらに頑張りたい。 >78 >何をこねくった議論をしてるんだ? じっとしているよりも、こねくるのが好きなの。疲れるまでは。 ただし、誰かがこねくってくれれば、こっちはじっとしているのも悪くない。みんなもそうでしょ? >「心は脳の機能」だと何度言えばわかるんだ?ああん? >脳が活動して心が発生するんだ。それはほぼ間違いないことなんだ。 悪くはない。しかし、それだけではないという流れになっている。不充分だし、正しいとは言えない。 >ユングなんかを読んでる奴やオカルト好みの奴は霊魂みたいな物や >集団の意識みたいのを想定したくてしかたがないのかもしれんが >そんなのは無いんだ。 これは100%正しい。
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/06(水) 03:32
あれ伍長さんは唯物論者か。いやイチャモンつけるのではないが。
86 :
伍長 :2000/12/06(水) 03:51
(74への自己レス) >じゃあどう出発するか? まず、「『心』という言葉が言語行動として自発されるという現象」が実在します。 研究の方向は、マルシンドさん流に言えば、(1)この現象の「機能」を分析する方向と、(2)それを支える「機構」(構造)を分析する方向とに大ざっぱに分かれる。 (1)では、「その言語行動とそれが自発される際の諸条件との機能的関係を記述すること」が主な仕事となる。記述の精度が高まれば、その言語行動がより確実に自発するであろうと予測でき、制御も可能になる。 したがって、「『心的用語』を生み出す言語行動が可能なのは何故か」という問いに対しては、 「これこれの諸条件が存在するからだ」と答えればよい。 (2)では、「(1)の言語行動や諸条件を構成する諸事象の性質・仕組みを記述すること」が主な仕事となる。記述の精度が高まれば、(1)の記述をより精妙にする可能性が高くなる。 だから、「『心的用語』を生み出す言語行動が可能なのは何故か」という問いに対しては、 「諸条件がこれこれの性質・仕組みを持っているからだ」と答えることができる。 ただし、(2)は根本的回答にはならない。むしろ、(1)の回答を補強する性質のものである。 なぜなら、諸条件が真の諸条件であることが判明して初めて、(2)の意義が保証されるから。 例えば、「心の問題」と火星の地質とは多分無関係であって、いくら火星の地質の土壌分析をおこなっても、「心の科学」を実践したことにはならない。それは天文学や地質学や土木工学etc.の実践です。 さて、(1)(2)により、 「『心的用語』を生み出す言語行動が可能なのは何故か?」に対する回答が得られたとしても、 当初の、「なぜ我々には『心的なモノ』が確かに存在しているという気がしているのか?」 という問いに答えたことにはならないのではないか、という想いはやはり残ります。 (疲れたので、今日はこねくるのをやめる。まさかこんなに長くこねくることになるとは思わなかった)
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/06(水) 03:58
要するに 「心」という在りもしないものが「どこにあるか」なんて問うのが間違い。 「わびさび」はどこにあるかと言ってるようなものだよ。 「心」という言葉(名詞)が言葉として存在するからそれが実体としてあるよう な気がしてくるだけのこと。つまり実体としては「心」はないのです。 その所在をなんとか言葉で表現しようとすればマルシンド氏や伍長氏の表現 が限界じゃない? その意味でわかりやすく説明してくださったお二人に 感謝ですな。 「心」とは突き詰めれば「作用」なんだよ。わかるかな〜? この宇宙に「脳」だけが一個だけ物体として存在したとしても何の意味も機能も 持たないってことだよ。 脳の進化をかなりおおざっぱにさかのぼると 人間の脳→哺乳類の脳→原子動物の神経系→植物→単細胞生物ってなぐあいに 単純化されていくじゃない?(細かいツッコミはなしよ) でもっと単純化していくと物質と物質の「作用」なんだよね。 「作用」ってのは何か他の対象があって始めて働くのはわかるでしょ? つまりそういうことなんだよ。 反論求む。
88 :
伍長 :2000/12/06(水) 04:17
>85 もちろん唯物論者ですよ。そして徹底的行動主義者。 ついでに無神論者で、音楽と女性と車と自然を愛するヘボ釣り師でもある。 >87 >「心」という言葉(名詞)が言葉として存在するからそれが実体としてあるよう >な気がしてくるだけのこと。 英語の心的用語(名詞)は、もともと動詞であったものが名詞化したものが多いということを、スキナーがどこかで書いてました。 think(考える) → thought,thinking(思考、思想) のように。 つまり、モノではなくて元々は行動だった場合が多いというわけです。 こういうことも考えておいた方がいいしれないでしょうね。
89 :
伍長 :2000/12/06(水) 04:20
訂正:いい「かも」しれないでしょうね。 「かも」が抜けた。
こうなったら、「心」の問題は先送りして、 ロボットとか人工知能を研究したほうが利口だな。 それを道具にして、試してゆくなかで、数理的に 人間を理解していくしかない。認知はいいよね。
91 :
こころある名なしさん :2000/12/06(水) 08:08
高校生や脳至上主義の人のために老婆心ながら(ホントは爺だが)ひとこと言っておくと、 伍長さんやマルシンドさんの議論は、 「脳科学には意味がない」とか「脳と心は関係ない」とか言ってるわけじゃないからね。 脳の研究は心の理解にとって重要だし、心理学もいろいろな形でそれに貢献していくだろう。 (振り返ればヘッブやオールズといった心理学者が脳研究に突破口を開いたことも事実である) だが心(と呼ばれている現象)の全容を理解するにはそれだけでは十分ではないし、現実的でもないと言ってるわけだ。 そして脳研究を補完するというのではなく、脳研究とは違う次元の心の研究こそ心理学がやらねばならない仕事だと。 集合現象のような社会心理学の研究対象が脳内過程だけでは説明できないことはわかると思う。 個人の心理現象と考えられているものでも、 たとえば「妄想」を脳の過程だけ、あるいは個人内の過程だけで理解することができるだろうか。 考えてみてください。
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/06(水) 19:47
厨房に対抗あげ
93 :
伍長 :2000/12/07(木) 00:26
(86への自己レス) >「『心的用語』を生み出す言語行動が可能なのは何故か?」に対する回答が得られたとしても、 >当初の、「なぜ我々には『心的なモノ』が確かに存在しているという気がしているのか?」 >という問いに答えたことにはならないのではないか、という想いはやはり残ります。 「〜という気がしている」ことの理由はいくつか考えられます。以下は思いつきですが、、、、 まず、人間は、言語の獲得と言語共同体の成立・発展によって、皮膚の内側の「私的」(決して「心的」ではない)な事象に対して言語的に反応できるようになりました(なぜそうなったのかが根本問題だが)。 また、時間的に先行または並立する事象は、後続または並立事象の原因と見なされやすいという経験的事実もありますので、「私的」な事象の感覚が行動の原因と見なされるようになります(eg.恐いから逃げる)。 アニミズムが人間自身の身体にも導入され、皮膚の内側に「心的なモノ」が創り上げられます。 人間が二元論的動物となったのは、上記の理由と共に、二元論的言動が強化を得やすいからでもあるでしょう。 強化を得やすい理由としては、特に歴史の初期においては、おそらく(というのは私が不勉強で確証がないからですが)、アニミズム的言動が「手っ取り早く社会的強化を得られる」、つまり「面倒臭くない」ということも一部にあったのではないか、という気がしています。 このアニミズムが身体内部に向かうと「心-身」二元論的言動となり、心身二元論的であるがゆえに強化されやすくなる、すなわち「人間らしい」言動が推奨されるということになる。。。。 しかしながら、そんなことよりももっと重要なのは、「〜という気がしている」と言うのも言語行動である、ということです。 上記のような理由(最初の理由を除く)は、「気がしている」という言語行動が形成または自発されるための諸条件を「部分的に」記述しているに過ぎない。(続く)
94 :
伍長 :2000/12/07(木) 00:29
ですから、
「なぜ我々には『心的なモノ』が確かに存在しているという気がしているのか」
という問いは、ここでもまた、
「何故、『気がしている』という言語行動が形成または自発されるに至ったのか?」
という問いへ「最終的に」変換されるしかない。
そして、
>>86 の(1)(2)による回答が得られる(どこまで可能かはともかく)。すなわち、
(1)これこれの条件が存在するから。
(2)それらの条件はこれこれの性質・仕組みを持っているから。
(結論)私が「そういう気がする」のは、(1)(2)のためである。
おそらく、「心とは何か」「心はどこにあるのか」という「偽」問題から離れられない限り、なかなか納得しにくい結論だとは思います。私も、行動主義者になりかけのころには、目が点になるような不可解感・違和感がありました。が、やがてかなり素直に納得できるようになりました。
いや、行動主義者じゃなくても受け入れられるはずで、現に、似たような考えの哲学者も(行動主義に批判的であっても)、けっこういるはず。
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 00:34
96 :
伍長 :2000/12/07(木) 00:45
なお、(1)(2)どちらの方向においても、やっている人たちには以上のような自覚はないかも知れないが、
(1)の「その言語行動とそれが自発される際の諸条件との機能的関係を記述する」という方向は、言語哲学や語用論、etc. の他には、心理学ではスキナーの45年や57年他の理論的分析がド真ん中の直球(絶好球なのに見逃され続けて半世紀。チョムスキーのクレームを信じてこれを見逃し続けた人々や、クレームを上手く処理しきれなかった人々の罪は大きい)。
あとは(よく知らないけど)直球・変化球織り交ぜて、概念学習等の各派の基礎研究あたりがストライクゾーンか。アイちゃんも関わっているな。阿呆箪笥を始め知覚研究の中にも。社会心理や発達とかだって。
(2)の「(1)の言語行動や諸条件を構成する諸事象の性質・仕組みを記述する」という方向では、脳科学と認知科学を中心に、様々な分野、様々な立場の研究がある。
>65
>問題が間違ってるとしたら、以降は
>>63 の問題で進めるのでしょうか?
やたらと長くなりましたが、そういうわけですので、充分に進んでいけます。
「良き」心理学は、「主として」(1)の方向をとることによって、(2)の方向と連携しながら、やっていけるに決まってます。別に行動分析じゃなくたってOK(心理学は、脳科学に吸収されるどころか、むしろ脳科学に補強されながら哲学を吸収したり、論理学に経験的基盤を与えることだってできるかもしれない、と私は密かに思っているくらいです)。
大丈夫です(と、素人の私が熱くなって太鼓判を押したりしていいのか? >専門家の皆さん)。
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 02:20
age
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 03:40
心とは「自覚された身体活動とは別なる活動、若しくは活動主体」に対して付けられた呼称。 霊魂も精神も意識も概念としてはほぼ同義と看做していいと思う。 んで、心は脳を含めた体の諸々の活動の創発的集合。 そもそも帰納法的に把握しえないのが心ではないのかなぁ、と。そんな感じ。
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 04:09
いや〜 伍長さん おそるべし シロートが読んでも理解できる(逃げがない)記述力には脱帽です。 大変参考になっています。
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 04:26
でもさ 炭素や窒素、酸素の塊が泣いたり笑ったり悲しんだりって マジすごいな! たんぱく質 恐るべし だな。
>伍長殿 え〜っと、つまり「心は現象である」って言う理解でいいのかな? ちょっと新約聖書の「コリント人への第1の手紙」を思い出した…
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 06:20
人間の思考って電気信号じゃない?
>>102 確かに脳内で起こっていることは、電気信号のやり取り、といってもいいと思うけど、
(いや、実際には脳内物質のやり取りでもある)実際の人間の情動や思考は、
脳内に蓄積されたデータやニューロンのつながりだけでなく、人体の様々な部位から
発される種々のホルモンや、内臓信号なんかの他の臓器からの出力にも影響されると思う。
そう言うものの相互関係から、われわれが「心」と呼んでいるものが生じる、
そういう風に考えたほうが実態に近いんじゃない?
要は、のーみそが人体の頂点に立って支配してるんじゃなく、
のーみそも人体というシステムの一部だってことでしょ?
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 09:51
いずれにせよ、心理学者なんかには扱いかねる難しい内容だな
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 10:16
いずれにせよ、最終的な解明は、生物学者や 哲学者の手にゆだねられる、ということだな。 所詮、心理学では「広く浅く」というところか。
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 11:20
いずれにせよ,あきらかに心理学の問題を「心理学者なんかには 扱いかねる」とか「生物学者や哲学者の手にゆだねられる」なんて 言ってる人は心理学者じゃないし,心理学者にもなれないな. 「心理学の問題」に生物学者や哲学者が親切に答えを探してくれる と思う方が甘い.心理学の問題は心理学者が解くしかない.
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 11:47
>心も霊魂も精神も意識も概念としてはほぼ同義。 それは違う。例えば、 心の障害は臨床心理士、霊魂の障害は祈祷師、 精神や意識の障害は医師が担当でしょ。
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 13:22
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 14:07
祈祷師は笑った
110 :
うんぷり :2000/12/07(木) 14:29
>103 確かに相互作用として脳も身体に影響受けるが 交通事故で下半身を無くした人は心が減ってしまうのだろうか? 右半身麻痺の人は心も半分になってしまうのだろうか? 心が身体にあると言うのは 身体障害者には心が無いと言うことですか?
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 14:44
>106 そりゃまあ、心理学の問題なんてくだらんものを大まじめに扱うほど暇な奴といえば心理学者しかいないだろうな(爆
112 :
103 :2000/12/07(木) 15:24
>110 だからさ、相互作用として心があるって言ってるでしょ? 別に人体のパーツの総量として心があるなんていってないよ。 確かに、下半身麻痺なら下半身麻痺で、そうじゃない人とは心のあり方が変わるかもしれない。 たとえば、耳の聞こえる人間には耳の聞こえない人間と同じ様に世界を認識することはできないし、 その逆もある。そしてそれぞれが認識できる世界が違ってくれば、自ずとその心のありようも変わってくるだろう。 でも機能しない(or存在しない)部分以外での相互作用は確実に存在する。 だから、形が変わるだけでそれが心であることに変わりはないし、 それに対して優劣がつけられるとも思わないよ。 …あ〜、上手く説明できなくてごめん。
113 :
七 :2000/12/07(木) 18:20
意識=ニューロンでいいんじゃない。 音が空気の振動なのといっしょ。
114 :
七 :2000/12/07(木) 18:37
空気の振動を音と呼んでいるのと同じ理屈で、 ニューロンの発火を意識と呼んでいる訳です。
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 19:08
>102,105,113,114 駄目。レベルが低すぎる。話が元に戻ってるぞ。 そういうのは偽問題だということになっている。 上の方で伍長氏やマルシンド先生が書いていることをよく読んだのか? 読んだ上で、「そうではない」と反論するように。
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 21:09
新行動主義、若しくは論理実証主義の立場から言えば偽問題であると言うだけだと思いますが。 相容れない見解があるのは解りますが、それに対しレベルが低い、ってのはどうかと。 心の障害を祈祷師が見たらそれは霊魂の障碍になるでしょうね。 呼び名と、その呼び名に対応する人が違うだけで、外延としてはほぼ同じじゃない?
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 22:26
せっかく話が発展しているのに、それを全く無視して相変わらず「意識=ニューロン」などと言っている。 ゆえにレベルが低い。元のレベルに戻っているじゃないか。反論ならそれらしく反論すべき。 新行動主義(曖昧な言い方をしない方がいい)や論理実証主義とは関係ない。 そんな話をしているのではない。
118 :
七 :2000/12/07(木) 23:16
”音とは何か”と言う問題には、 ”空気の振動を感知する感覚があって、その感知された感覚が音である。” という答えになります。 同じように ”意識とは何か”という問には、 ”ニューロンを感知する感覚があって、その感知された感覚が意識である” と答えればいいんじゃないですか。 「『心的用語』を生み出す言語行動が可能なのは何故か」という問は ニューロンを感知する感覚の存在を仮定すれば説明できます。
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 23:25
物質決定論はぐるっと一周まわってくると、なぜかオカルト(霊魂説)と 似てくる。なんでなんだろうな。
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 23:28
しかし、哲学板のほうがずいぶん根本的で深い議論をしてるな。 心理学者では、哲学者に思考の技術でもかなわなければ、 科学者に実験の技術でもかなわなそうだ。いろんな主義が 互いに衝突するだけで、具体的には、なんの進展もない。 心理学者の方々には「根本的な問い」は荷が重過ぎたか。
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 23:29
>118 空気の振動を感知する感覚はニューロンの働きでしょ。 ニューロンを感知する感覚を担っているものもニューロン? この論法だと、ニューロンを感知するニューロンを感知するニューロン... てな具合で、無限に後退していくのでは?
122 :
七 :2000/12/07(木) 23:30
”音”という言葉を生み出す言語行動が可能なのは何故か という問と比較すればわかりやすいと思います。 聴覚が存在するからですよね。
123 :
哲学板の住人だが :2000/12/07(木) 23:39
>>120 煽るなよ。理系野郎の次は心理学屋の荒らしを呼び込むつもりか?
分派が多いのは哲学も同じだしな。
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/07(木) 23:44
なぜいまさらニューロンにまで限定するかね。 脳を中心とした活動の総体が心だって言ってんだろ。 ニューロン単体がどうとかじゃなくてニューロンが作り上げる ネットワーク全体の働き。 だからさっきからインターネットはどこにあるっていってんだろうが。 ネットワークが繋がって情報をやり取りしてこそのインターネットだろうが。 端末(≒ニューロン)だけじゃインターネットとはいえんぞ。
125 :
七 :2000/12/07(木) 23:50
>>121 すべてのニューロンを感知しているわけではありません。
よって無限後退しません。
126 :
七 :2000/12/07(木) 23:57
仮に脳の活動の相対がこころだとして、 なぜこころとは何かという問が発生したか説明できますか。 胃の活動の総体にはそのような疑問を持ちませんが 何が違うか説明できますか
127 :
酔客 :2000/12/08(金) 00:29
>>126 脳の機能とはそのような問いを発生させるものであり、
胃の機能は主として食物を消化させるものだから。
128 :
酔客 :2000/12/08(金) 00:38
ニューロンを感知するニューロンてな、魅力的だが無理がないかい。 神経生理学やってる最中だけど、そんなもん見たこと無いしな。 例えば脳は痛みを感じない。
129 :
伍長 :2000/12/08(金) 01:02
>>101 >え〜っと、つまり「心は現象である」って言う理解でいいのかな?
「心とは何か」という偽問題にあえて答えるなら、「心は脳の活動である」「心は機能である」「心は作用である」よりも、「心は現象である」が良いとは思います。私もよく「心という現象」などという言い方をします。
しかし、
日常用法では、明らかに、アニミズム的な「皮膚の内側の非物理的な実体」を指し示す言葉として「心」が使われる。「心が痛む」「心が豊かになる」「心を落ち着かせる」「心が躍る」「心ない人」etc.
しかも、「精神」、「魂」、「意識」、「感情」、「感覚」、「思考」、「知識」などの同意語として用いられたりする(つまり、多義語でもあるらしい。98vs107が不毛になるのはこのせい)。「以心伝心」の2つの「心」は違う意味だと思う。「以心」の「心」は何だろう? 「魂」が近いかな? 「伝心」の「心」は、「感情」であったり「思考」であったり「知識」であったりと、状況に応じて様々。
用例としては日常用法が正しい用法であって、「心は脳の活動である」も「心は現象である」も、一般人の感覚からは大きくズレている。
このズレを引きずってきてしまうから、議論が混乱するという面が大きい。「心」の問題を学問的に語る場合、「『心』という語」から離れて「『心』という現象」(やっぱ使ってしまった!)を議論した方がいい場合がある。
>「コリント人への第1の手紙」
???
旧約の方は昔読んだけど、新約はわからん。
バッハのマタイやヨハネの受難曲なら知ってるけど(人類の至宝)。
130 :
伍長 :2000/12/08(金) 01:10
>>120 >哲学板のほうがずいぶん根本的で深い議論をしてるな。
総体的かつ相対的には哲学板のレベルの方が高いことは認めます。
しかし、少なくとも例のスレッドとこのスレッドの比較となると、悪いけどそうは思わないな。決してレベルが低いとは思わないが、残念ながら、概して見当違いの議論をしているという感じがする。偽問題を解消しようともせずに、脳の話ばかりしている。微熱氏(私は氏のファンだ)がレスしたのを見て少し期待したんだけど、どうやら放棄した(らしい)。136氏のレスに対する脳論者側の反応がないまま中断してしまったのも変だ。
>>126 >脳の活動の相対(「総体」ね)がこころだとして
このスレッドの流れでは、この仮定は受け入れられませんが、
>なぜこころとは何かという問が発生したか説明できますか。
そうです! まさにこの問いが重要なのです。
そして、すでに長々とこねくり回して説明しました。よく読んで下さい。
「なぜ『心的用語』が発生したのか」を、「なぜ『心とは何かという問い』が発生したのか」に置き換えればよいのです。
例のスレッドの「気がする」問題も、同様に説明しました。
131 :
伍長 :2000/12/08(金) 01:28
ついでに、 >118 >「『心的用語』を生み出す言語行動が可能なのは何故か」という問は >ニューロンを感知する感覚の存在を仮定すれば説明できます。 ダメです。 そのような感覚が存在するとしても、それは86で挙げた(1)の諸条件の一つにすぎません。 全く不充分です。 全面的にダメだと言うのではありません。条件の一つになるのであれば、86の(2)の方向で研究されるべきものです。
132 :
102 :2000/12/08(金) 02:45
すいません。あのレスの真意は人間の思考が電気信号なら、 ロボットにも心、もしくはそれに準じるものがいつかできるんじゃないかなぁ という期待なのです。
133 :
101 :2000/12/08(金) 05:18
>伍長殿 コリント人への第一の手紙ってのは、その第12章12〜30節で協会のあり方について 人体を例にとって解説してるんです。そこでは体にはいろんな部分があるけれど それ全体で一つの体となるように、協会もまた、いろんな役割のもの(説教する人や一般信徒) が居て、初めて教会となりうる、って説明してるんです。 それが心の解説の完全なアナロジーになる、とは思わないけど、 全体で一つのものを形作るってとこが似てるかなー、と… 教育テレビの曽野綾子の話聞いてて、私もはじめて知ったんですけどね。
134 :
七 :2000/12/08(金) 20:19
>>131 だったら、心を音に、ニューロンを空気の振動に置き換えたらどうなるの?
”音という言葉が可能なのは空気の振動を感知しているからだ
じゃだめなの?だったら他になにが必要なの?
135 :
伍長 :2000/12/09(土) 00:29
本気で言ってるのかな?
「クルマが動くのはエンジンがあるからだ」と同レベルですよ。部分的には正しいが、むしろ間違っていると見なした方が「罪が少ない」と申し上げている。
>>118 >”音とは何か”と言う問題には、
>”空気の振動を感知する感覚があって、その感知された感覚が音である。”
>という答えになります。
>>134 >”音という言葉が可能なのは空気の振動を感知しているからだ
>じゃだめなの?だったら他になにが必要なの?
感覚が音ですか? そういう捉え方があってもいいが、物理学者の多くは反対するでしょう。
「音という言葉」が可能であるためには、言語共同体、言語共同体による強化活動、“音”という物理的な現象、発声器官、聴覚器官、その場その場の社会的・文脈的な諸条件、等々。必要なモノはいくらでもあるじゃないですか。
なぜこんな簡単なことがお解りにならないのか? その方が不思議ですぞ。
物理学者は主に「“音”という物理的な現象」の性質を研究するし、耳鼻咽喉科の医師は主に「聴覚器官」の研究をする。同様に、神経生理学者はニューロンの研究をする。これらは皆、“音”についての研究であると言ってよく、
>>86 の(2)の事例です。
良き心理学者は、これらの研究に補強されながら、主に
>>86 の(1)の方向で研究するのです。そして、「『音』という言葉が可能なのはなぜか」に対する答えは、(1)なくしてはあり得ない。
私の長い書き込みが分かりにくければ、マルシンド先生の
>>29 、
>>32 、
>>34 、
>>66 、
>>73 あたりをもう少し噛みしめて読むべき。特に
>>66 を。あるいは、
>>56 さん、
>>91 さん、
>>124 さんのコメントなど。
136 :
伍長 :2000/12/09(土) 01:53
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/09(土) 03:35
118は、音っていう概念が指し示す対象は、それを知覚する器官(ここでは人間の耳)に依存するってことなのではないですか? 詳しくわかりませんが、聞こえない音、例えば超音波みたいなもの?のことを多くの人が音と認識しているとはおもえません。音っ ていうのは人間の聴覚で認知(?)できる範囲の周波数(?)に限定されるものってことじゃないですかね? ただそれでもニューロン云々ということにはつながらないとはおもいますが。 言葉の厳密な使い方間違ってたら訂正お願いします。
138 :
神父様 :2000/12/09(土) 04:53
わが子よ。迷える子羊よ。 音という概念が指し示す対象は、決して耳や脳だけに依存しているわけではないのです。 音の弁別学習には環境要因も必要です。 「音という概念」を学習する必要もあるかもしれません。 それどころか、「コリント人への手紙」第12章(思わずリンク先を読んでしまったではないか!)によると、 16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。 23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、 24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。 25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。 26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。 27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。 わが子らに主の御恵みのあらんことを。アーメン。
139 :
七 :2000/12/09(土) 09:59
>>137 関係はあります。
ニューロンを感知する感覚があるとすれば、
音と空気の振動の関係と、心とニューロンの関係は同じになります
140 :
↑ :2000/12/09(土) 14:04
小人の中に小人がいるわけ?
141 :
137です :2000/12/09(土) 23:48
>音という概念が指し示す対象は、決して耳や脳だけに依存しているわけではないのです。 音の弁別学習には環境要因も必要です。 「音という概念」を学習する必要もあるかもしれません。 すいません勉強不足です。神父様詳しく教えていただけますか? 「音」が人間の器官に依存しないものならば、 >ニューロンを感知する感覚があるとすれば、 音と空気の振動の関係と、心とニューロンの関係は同じになります とも言えなくもないような気もするのですが・・・
142 :
OFW :2000/12/10(日) 00:31
(誘われてフラフラ、フラメンコ…) 心のありかとは何か。それは、心理学の本質にも関わる問いでしょう。 心の詳細なメカニズムはまだ解明されたとは言えないでしょう。 しかしながら、その概念について言えば、簡単な説明でもある程度は理解し 得る。そのことは、心の存在に関する概念上の無用な混乱を予め避けるため にも、有益でしょう。そこで、いくつかの点を指摘したいと思いますです。 第一に、心は実在しない。それは観念的な存在であり、それを感じる人にと ってのみ存在する。しかし、それは決して主観的なものとばかりは言えない。 たとえば、芸術作品が民族を超え、時代を超えて伝承されてきた場合、一つ の精神的な客観性を持つわけですから、芸術的精神は客観的と言える。 第二に、たとえば「私は悲しい」という表現が「私は悲しみを感じる」とい う表現になれば、そこに「心的なもの」を措定することになり、「私の心は ボロボロだ」という表現にまで発展する。しかし、「心が感じる」とは通常 言わず、「私は頭で考えずに、心で感じる」と言う。それは「心」を私の一 つの機能(働き)として考えているわけです。「悲しみ」という定有(質的 存在)が措定されたとしても、それはあくまで「私の内にある」わけで、 「ほら、そこに『悲しみ』が転がっている」などとは、詩的な比喩を除いて は、通常使わない。(詩的言語については省略)逆に、現実的な悲しみは その表情、しぐさ、行動、言葉によって十全的に表現され得る。 第三に、心はある非実在的な存在だとして、それは一つの欠如である。経験 的・実在的世界は有機体にとって十全的ではなく、主体はその有限性・不完 全性を否定して、心という一つの内的・可能的な全体を世界の内に(むしろ 外に)立てるのです。この「実在の否定」こそが心の働きである以上、経験 科学の実在論的説明では、決して心を「導出」できないという事になります。 つまり、心とは仮象の存在、「あたかもそれ自体で存在するかのような」 存在です。経験的にはその発生条件(必要条件であり、十分条件ではない) を明らかにする迄でしょう(心は自由を含むのです)。
143 :
OFW :2000/12/10(日) 00:33
(つづき) 第四に、したがって「心的本質」を経験的に云々できるのは、あくまでそれ が実在に関わる点、つまりその現実性(心が現象する事態)においてのみと いうことになります。心の現実性とは有機体の合目的的行動、そして人間の 行為でしょう。なかでも言語行為は、心を意識されたものにしますから、 言語において心は対象的な存在(精神)として存在することになります。 第五に、唯物論的な立場(科学者は誰でもその実践において唯物論者でしょ うが)からは、当然肉体を離れて心は存在しない。身体が心の物質的基盤で あることは当然であり、環境との間の物質代謝、相互作用(刺激−反応)が 心の定在です。しかし、それは対象的活動であり、有機体は常に欠乏状態に ある点を見逃してはならない。有機体をシステムとして見ることは妥当です が、それは状態としては不断の不均衡であり、その均衡化として無機的自然 に開かれた活動体(働くもの)です。ゾウリムシならば、暗闇に光を感じた 場合、そちらに走るのと同じことが、人間では「私は悲しい」という感情表 現になる。それは「この悲しみが消え、満たされるべき心」を仲間に向かっ て伝達しているのです。
↑??????? まさかとは思いますが、哲学板のご友人ですか?>伍長殿
145 :
伍長 :2000/12/10(日) 02:09
>144 OFW氏は哲学板の弁証法論者です。ヘーゲル用語の洪水になることが多いため、常人には理解不能となる書き込みが多く、私も当初はトンデモ視して読み飛ばしておりましたが、行動分析学に好意的な見解の持ち主であるという信じがたい事実が判明して以降、半信半疑で御意見を拝聴しているうちに、最近は氏の書き込みが多少は理解できるようになりました。 明らかにトンデモと非トンデモの境界線上を行ったり来たりしているという感じがするときもあります(失礼! でも論理学スレッドでは完全に分が悪いと思う)が、にもかかわらず、氏のおかげで、ヘーゲルもまんざらトンデモでもないようだと思い始めている昨今。 上の書き込みは、氏にしては平易(!)の部類に属し、ヘーゲル用語の洪水とは言えない(洪水になるときは凄いんだから、ホント)。 というわけで、ようこそOFWさん。そして、言いたい放題をお許しを(笑って許していただけると思う)。 でも、上の書き込みの6割弱はわかるが、4割強は分からない・・・・。(^^; 上の方の私の書き込みについてはどうでしょうか? 62番以降です。
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/10(日) 02:45
難解な表現を使えば、頭がいいと思っている人っているよね。 ホントは平易な表現の方がむずかしいんだ。
147 :
山師さん@株板からの流れ者 :2000/12/10(日) 03:04
行動心理学が好きのなので、こう考えます。 心は目に見えない。 その所在をあえて求めるなら、 行動にあり、びっくりしたときには心臓の鼓動の早まりにあり、 冷や汗にあり、叫び声にある。 特殊な環境においては、脳波に現れる。 表出されない心は意識の葛藤であって、心ではない。
148 :
OFWさんへ :2000/12/10(日) 03:10
>芸術作品が民族を超え、時代を超えて伝承されてきた場合、一つ の精神的な客観性を持つわけですから、芸術的精神は客観的と言える。 ということは芸術的精神=心ですか?民族、時代を超えて伝承されたも のは、客観性ではなく、普遍性を持ちうるのではないですか?
149 :
神父 :2000/12/10(日) 05:36
141よ、わが子よ、迷える子羊よ。 「弁別」というのは、「区別がつく」ということです。「ちがいがわかる」ということです。ネスカフェです。 主に愛されし音楽家は才能を与えられ、彼はその恩寵をもとに、 訓練によって微妙な音の違いを区別できるようになります。 わたくしたちには聞こえない主の御音を聴くことができるのです。 ですから、「音という概念」は、音楽家とわたくしたちとでは同じものにはならないでしょう。 また、「音という概念」を学ばなければ、わたくしたちは音について語ることはできません。 なお、「ニューロンを感知する感覚」を、主がわたくしたちにお与え下さったかどうかは、聖書に記載はありません。 すべては主の御意志のもとに。アーメン。
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/10(日) 07:16
>伍長
あんたよっぽど自分に自信がないのですな
あちこちで自作自演してるのがミエミエですわ
自分で自分のファンクラブを結成(
>>68 -69)には笑えた
>是非とも続けてください。
>後日で結構ですから。
「後日で結構ですから」と付け足すところは流石ベテランですな(笑)
ハァ?いきなり何言ってるの?
152 :
七 :2000/12/10(日) 14:56
>>149 そういう概念を学ばなくても音とは何かという疑問をもつのは
かのうだと思いますが、
学校へ行く前の子供でも、
”耳をふさぐとなくなるこの何かってなんだろう?”
という疑問をもつのは可能ですよ。
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/10(日) 15:30
心とは あなたの感じることの出来るすべての情報のことです。 あなたの脳全体やあなたの身体やあなたのともだちや 嫌いな人や目の前にあるパソコンや学校や会社や社会全体など すべてがあなたの心を形成しているのです。 心がどこにあるのかという質問は 民主主義の国家に対しその国の意思はどこにあるのかという 愚問と同じです。
154 :
山師さん@株板からの流れ者 :2000/12/10(日) 23:30
心理学の板をたいへん面白く読ませていただいています。 心自体、文学的な概念で必ずしも科学で定義されるべき必要のないものとも感じます。 つくづく感じるのは心の本分とはホメオスタシスなのでしょうか。 株の売買でも人は過ちをどうしても、認めたがらないもののように思うのです。
155 :
こころある名なしさん :2000/12/10(日) 23:41
>150 勝手な思い込みで伍長さんを誹謗するなよ。 69はこの俺だ。
156 :
こころある名なしさん :2000/12/11(月) 00:54
ついでに言うが、 150のような事実に反する思い込み、あるいは妄想を、 通常の信念と区別するための条件は何か? それは脳内の過程だけで説明できるか? 考えてみてね。
157 :
141です :2000/12/11(月) 01:35
>彼はその恩寵をもとに、 訓練によって微妙な音の違いを区別できるようになります。 わたくしたちには聞こえない主の御音を聴くことができるのです。 ですから、「音という概念」は、音楽家とわたくしたちとでは同じものにはならないでしょう。 これは一例にしか過ぎないと思いますが、細かい音を聞き分けられることによって 「音の概念」は変わるものでしょうか?だとすれば具体的にはどのようにですか?
158 :
神父 :2000/12/11(月) 05:36
152よ、わが子よ、迷える子羊よ。 「何」という概念を学ばなければ、 「○○とは何か」という疑問を持つことは不可能なのです。 157よ、わが子よ、迷える子羊よ。 主は、わたくしたちに身体と言葉をお与えになりました。 それは、主ご自身の御声をわたくしたちに聞かせるためなのです。 わたくしたちが身体と言葉をより上手に使えるように訓練すれば、 「音の概念」も「心の概念」も、より豊かで、より細密なものとなり、 主の御声を、より正しく、より美しく聞くことができるようになるのです。 預言者たちは、これを「概念の形成」という教義にまとめあげようとしています。 詳しいことはこの神父の手に余る(そろそろヤバくなってきた)ので、各教典を学ばれるか、 優れた預言者をめざして苦行中の別の神父たちに尋ねられるがよろしいでしょう。 (なお、引用するときは各行に引用マークをつけるように。) あなたたちに主の御恵みがあらんことを。アーメン。
159 :
マルシンド :2000/12/11(月) 05:39
英検3級、TOEIC470点のわたしがいうのもなんですが、 発音はアーメンではなくて、エイメーンですよ。 鬼畜米英では。
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/11(月) 11:30
日本ではアーメン。
161 :
西古良二 :2000/12/11(月) 12:02
語源であるヘブライ語や聖書のギリシャ語等ではアーメンで あるのでエーメンと言う発音は「英語訛り」である. 新マルシンド君が冗談で書くほど語学力をお持ちとは思えないので 少し知識を分け与えるまで.
162 :
七 :2000/12/13(水) 20:04
>>140 無限後退はしないでしょう。
すべてのニューロンを感知できるわけではありません。
ニューロンを感知するニューロン、
それを感知するニューロン、
さらにそれを感知するニューロン、
とやっているうちに感知しないニューロンにぶつかる訳です。
個人的な内観では、
ニューロンを感知するニューロンを感知するニューロンの段階で、
感知出来なくなっている気がします。
>>124 昔から哲学者などによって議論してきた
”意識とは何か”という問題が、
他の抽象概念に対する問題(大学とはなにか?)
と同質というのは、
受け入れがたいものがあります。
それよりも
”音とは何か”
という問題の方に近いというのが私の考えです。
163 :
神父 :2000/12/14(木) 02:43
162よ、わが子よ、迷える子羊よ。 もう一度みなさんのレスをお読みになることです。 やはりわたくしは、「心とは何か」という問いは、 「音とは何か」よりも「大学とは何か」という問いに近いと思います。 この「カテゴリーミステイク」については、 G.ライルの『心の概念』(みすず書房)という有名な教典の12ページ以降に記載があります。 立ち読みでよろしいでしょう。 あなたに主の御恵みがあらんことを。アーメン。
>ニューロンを感知するニューロン ってどういうことなんでしょう?
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/14(木) 03:35
>163 こらこら、神父さん。 教典の「内容」を伝えんでどないすんねん。 「それについては新約聖書4章3節をお読みください」とか言ったらだめでしょ? 神の言葉を誰にでも分かるように伝えるのが神父の役目なんだからさー。
そやな、こら神父失格やな。
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/14(木) 07:50
>>163 >「音とは何か」よりも「大学とは何か」という問いに近いと思います。
この「カテゴリーミステイク」については、G.ライルの『心の概念』(みすず書房)
という有名な教典の12ページ以降に記載があります。
伍長さん、お尻が見えてますぞ(笑)。
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/14(木) 08:20
>167 それは伍長さんのお尻じゃないと思いますよ。
169 :
七 :2000/12/14(木) 12:40
170 :
七 :2000/12/14(木) 12:42
ニューロンを感知するにゅーろんとは、 感知したニューロンを処理するニューロンです。 感知した電磁波を処理するニューロンとか、 空気の振動をしょりするニューロンなどと同じです。
171 :
伍長のお尻 :2000/12/16(土) 03:58
>169
それが何か? (つまり、こういう問いの立て方は七さんが何も語らない以上は無意味)
とりあえずリンク先を読んだ限りでは、
>第一次視覚野以外のルートを通って伝わる視覚情報に基づいて判断しているのではないか
と書いてある。どういうことなのかはよく知らないけど、とにかく何らかの情報に基づいて判断してるんだとして、その情報は外から入ってきたわけでしょ? 学習歴だって必要だし。
で、今回の議論において、それが何か?
(ライルは、「なかなか興味深いことですね」と、とりあえず平凡に言うと思う)
哲学者ライルの「立場」はよく分からんけど、「カテゴリー間違い」の話なら分かるでしょ?
「心とは何か」という問いが、「大学とは何か」よりも「音とは何か」という問いに近いとしても(そうは思わないけど)、私の
>>135 に対して考えてみて。
172 :
伍長のお尻 :2000/12/16(土) 04:02
>170 「感知したニューロンを処理するニューロン」があったとして、それらを含む人間の脳と同じ性能のコンピュータができたと仮定して、 「さあ、完成しました。心が発生しているはずです」ってわけにはいかないよね。 スイッチを入れるという“環境からの働きかけ”がまず第一に必要。(笑) それに、たっぷりと学習させないとね。言語の学習も含めて。 いや、膨大な学習の結果を初期値として与えることができたと仮定して、 「スイッチをONしたぞ。さあ、心が発生したぞ」ってことになるかな? やっぱ、スイッチON以外にも外からの何らかの入力が必要じゃないのかな。 で、「入力したぞ。今度こそ心が発生するはずだ」って言えるかな。 なんか怪しいんだよな。それらしい何らかの現象は起こるだろうけど。 それに、多分その場限りのものじゃないかな。 これじゃあ一方通行だからな。“環境への働きかけ”も欲しいんだよな。 これが「環境との不断の相互作用」ってやつだな。
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/16(土) 05:11
>172 そだね。もともと心理学で扱ってる「心」自体、環境からの入力に対する 反応として扱ってるわけだし。というか、環境からの影響がありえない「心」なんてあるのか?
174 :
七 :2000/12/16(土) 14:38
明らかに脳でなんらかの処理が行われているケースでも、 意識を感じないことがありますが、 これはライルの説では矛盾しないのですか? 目に何かが近づいてきたので反射的に瞼を閉じるときや、 梅干しを見てつばが出てくるときとかです。
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/16(土) 16:08
>174 ライルの説と矛盾するもしないもなく「無関係」だよ. まったくわかってないな. そういう事実の存在自体が「脳=こころ」ではないことの 有力な証拠なんだけどね.... それから梅干しを見てつばが出るのは古典的条件づけ.
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/16(土) 16:14
>それから梅干しを見てつばが出るのは古典的条件づけ いいや、日本人のDNAにはこの反射が植えつけられているに違いない(藁
177 :
七 :2000/12/17(日) 05:25
詳しくは
>>108 を見て欲しいのですが、
「なぜ我々には『心的なモノ』が確かに存在しているという気がしているのか」
という問題を解決できれば心脳問題は解決したことになるというのと、
ニューロンを感知する感覚の存在を認めれば、
この問題は解決出来るというのが私の立場です。
空気の振動を感知する感覚があるために、
「耳をふさぐと無くなる何かが存在するような気がする。」のと同様に、
ニューロンを感知する感覚があるために、
「 『心的なモノ』が確かに存在しているという気がしている。」
のではないでしょうか。
178 :
七 :2000/12/17(日) 05:29
>>175 ライルの立場にたって、
なぜ我々には『心的なモノ』が確かに存在しているという気がしているのか
という問題と、
なぜ同じ脳の活動でもその気がするケースとしないケースがあるのか
という問題の
両方を説明できますか。
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/17(日) 07:00
どうも議論にならんな。 真面目な人らしいのであえて言わせてもらうが、 議論相手の不備を指摘して自説を展開すべし。 同時に、相手の指摘に対して答える必要もある。 それに、ライルにこだわる必要はない。あれはカテゴリー錯誤の話でしょう。 これまでの議論に耳を傾けるべし。あなたは何も答えようとしていない。 何も答えずに同じ言葉を繰り返しているだけだ。考えようともしていないのではないかと思えてしまう。 神父様のお説教だって決してネタじゃないと思うよ。 脳が決定的に重要であるのと同様に、 言語も決定的に重要性なわけだ。そしてそれは社会的なものだ。 また「気がしている」などについても、 伍長さんがとっくに説明しているではないか。 解決は2つの方向からなされると。 あなたが考えているのは2つ目の方向だけなんだよ。 それは重要。しかしそれだけでは足りないということだ。 ついでだが、177の理屈で行くと、 「ニューロンを感知する感覚があるために、ニューロンが確かに存在しているという気がしている。」 ということになりそうだぞ。
180 :
七 :2000/12/17(日) 13:08
>>74 の
「なぜ我々には『心的なモノ』が確かに存在しているという気がしているのか」という問いには別の形で答えなければならない。
答えは、「『心的な用語』が存在するからだ」ということ(だけではないが。後述)であって、
を読む限り、ライルや
>>87 と同じ立場ですよね。
けどそれはおかしいとおもいます。
同じ脳の活動でも意識を感じるのと感じないのとがあります。
ですが、「心」という言葉(名詞)が言葉として存在するからそれが実体としてあるよう
な気がしてくるだけのこと。
というのが正しければ、
明らかに脳で何らかの処理がされている場合は、
すべて意識を感じなければいけないはずです。
これは矛盾ではないのですか?
>
「ニューロンを感知する感覚があるために、ニューロンが確かに存在しているという気がしている。」
179さんは空気の振動が存在する気もするんですか?
181 :
七 :2000/12/17(日) 13:15
>>135 っておかしくないですか?
ジャンルが違う場合同じ言葉でも違うことを意味することは
よくあります。
例えば、物理学の「エネルギー」と資源問題の「エネルギー」は意味が
違います。
それから、機能とか機構とかの意味がわからないので教えて下さい。
子孫を残すために交尾をするのが機能的説明で、
子宮などを解剖してしくみを研究するのが機構ということでいいのですか?
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/17(日) 14:38
だから自分が質問するだけじゃなく 提起された質問に答えろって >七 自分が理解できないことは間違ってると考えるだけじゃなく, 自分が間違っている,あるいは自分の思考力が足りない 可能性も考えろよ.
183 :
伍長 :2000/12/17(日) 19:55
>>177 >「なぜ我々には『心的なモノ』が確かに存在しているという気がしているのか」
>という問題を解決できれば心脳問題は解決したことになる
反二元論者で唯物論者である七さんのこの出発点は正しいと思いますよ。私も完全に同意します。
しかし、
>ニューロンを感知する感覚の存在を認めれば、この問題は解決出来る
短い一句の繰り返しでは説明不足で答えにならない。例えば哲学板でも訊かれていたけど、「感知」って何?
ミミズも自分のニューロンを「感知」するの?
だとしたら、ミミズも「そういう気」がしていることになりそうだけど、まさかね。
そうでないなら、ミミズと人間との違いは? 「ニューロンを感知する感覚」の有無?
言語の存在を完全に無視していいわけ?
とりあえず、
>>131 、
>>135 、
>>172 の私の指摘に対してもう一度考えて欲しい。その上で反論してみて。
>>180 「人はカテゴリー間違いを起こしやすい」ということだけ受け入れて、ライルのことは忘れなさい。
私の行動主義的立場はライル流の行動主義とは少し違うし、私やマルシンド先生の意見の大半は、行動主義とは無関係(でもないが)です。二人がたまたま行動主義者であっただけで、賛同してくれた人たちは必ずしもそうではないはず。
現時点より先の議論へ発展するならば、私やマルシンド先生の行動主義的主張が前面に出て、異論反論が出てくるでしょうが。
184 :
伍長 :2000/12/17(日) 19:57
>>180 >同じ脳の活動でも意識を感じるのと感じないのとがあります。
これはまあよいとして、
>ですが、「心」という言葉(名詞)が言葉として存在するからそれが実体としてあるよう
>な気がしてくるだけのこと。
>というのが正しければ、
>明らかに脳で何らかの処理がされている場合は、
>すべて意識を感じなければいけないはずです。
なぜそんな結論になるのかサッパリわからない。
>>181 前半は何が言いたいのかサッパリわからん。
>>135 の内容は全然おかしくないと思うし、エネルギーの話を持ち出して何が言いたいの?
後半は、まあ、それでもよいか。
185 :
ゆき :2000/12/17(日) 22:07
上の大学の話の例えからですが、単細胞の仕組みと多細胞の仕組みとか、初歩的な神経細胞だけで出来ている生物の行動と人間の頭脳を比べるのって、日本で大学というのがだいたい一つの学校の事だと見ていた人が、オックスフォードにいってOxford Universityってどこですかと聞いて、一番有名な大学をそうだと思うようなものですかね〜? ニューロンの話は、端から聞いていてさっぱりわかりません。まるで、結局のところニューロンはただの電線のようなもので、それを通して感覚器と繋がっているセンシティヴな存在があるというようにしか聞こえないのですが。これだとただの生物だなぁ。センシティヴを最終的に受け持つニューロンってかなり不思議なんですけど。 実際視覚とかでも最初網膜から送られた科学反応が視神経を通って脳に行き、意識がわかるように視覚として構成しますよね。(再構成ではないけれども) その時脳のあっちこっちに広がってゆく神経は、端からはバラバラになっているように見えますが、そこで意識に「視覚」がダイブしてますよね。 ここで、眼球からはシンプルな視神経として物質的にシンプルに構成されていたものが→意識にとってシンプルな形に変わっているのなら、それは解剖学的には追って行けない所だと思います。 では、7さんの言っているニューロンとは何ですか? ちなみに、私は芸術家ですが、空気が振動しているような気もしますよ。 普通ならただ受け取るために使っている感覚器からの経験を擬似的に遡って、「今自分が頭の中でもやもやと感じているものは視覚的には何を観たら感じるだろう?聴覚としては何を聞いたら出るだろう。総合的には何がこれをもたらすだろう?」と強引に自分の感性の仕組みをひっくり返して物を作ったりします。 前に神父さんが芸術は客観だといってましたが、私的には以上からかなり主観です。というか、主観的に自分の主観を客観視しているというかなりややこしい状況ですね。 おかげで文章がいつも混乱気味ですがご勘弁を。 上から一気に読んで書いているので、中途半端に覚えていて、馬鹿書いていると思いますが皆様ご勘弁を。
186 :
七 :2000/12/17(日) 22:07
ニューロンを感知するというのは、
電磁波や空気の振動にたいして用意されている思考や判断のプログラムが、
ニューロンに対しても用意されているという意味です。
自分の脳で今何が行われているのか把握できるのは、
このプログラムがあるからだと考えています。
ミミズがニューロンを感知しているのかはわかりませんが、
もし、感知しているならとしたらそういう気がしてもおかしくないです。
なにが矛盾でも生じますか?
それから、言語の存在はあまり関係ないでしょう。
なにか矛盾でも生じますか?
>>170 そりゃ、何らかの動きがニューロンになければ、
何かが存在する気はしないでしょうね。
完全に静かなときには、音と呼ばれる何かが存在する気がしないのと同じです。
187 :
七 :2000/12/17(日) 22:23
もし、「心」という言葉(名詞)が言葉として存在するからそれが実体としてあるよう な気がしてくる だけのこと。 というのが正しければ、 さっきの瞼のケースでも、それが脳の処理によっておこなわれたものである以上、 ”心によって瞼が閉じられた” という表現が可能です。 ということはこのケースでもなにかが存在する感じがしなければならないはずです。 これは明らかに矛盾です。 それから、 「その言語行動とそれが自発される際の諸条件との機能的関係」 というのがよくわからないので説明して下さい。
>七 結局、何が言いたいのかさっぱり分からない。
人に「説明して下さい」という前に自分が説明しろよ. 何書いてるのか全然わからないし,だいいち他の人の レス全然読めてないじゃん.
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/18(月) 07:43
>ニューロンを感知するというのは、 >電磁波や空気の振動にたいして用意されている思考や判断のプログラムが、 >ニューロンに対しても用意されているという意味です。 この文おかしいですよ。 これって、音を感知するための方法と同じようなものが、ニューロンの反応を感知する方法としてあるって書いているんですよね。 では、「なに」が感知しているんですか? 人が感知できるニューロンと出来ないニューロンがあると書いていますが、これって意識が幾らかのニューロンを感知しているという意味ですよね。 しかし7さんの話では、意識はニューロンの繋がりだけだという。結局全部ニューロンだけで話をしているのなら「思考や判断のプログラム」なんてものも無いはずですよ。 ただ単にニューロンの繋がりかたが「思考や判断のプログラム」の形にとして偶然収まっているというのなら話はわかりますが。(同意はしないけど。) 音の話はリピートしすぎてみんな飽きだしているので、他の例えも出してくださいよ。いろいろな例えが出ればその中の考えもくみ出せるかもしれないので。 今のままだと、ちっともわかりません。
191 :
ゆき>190 :2000/12/18(月) 09:08
しつれい上のはわたしです。名前が消えていた。
192 :
OFW :2000/12/18(月) 21:16
>>145 (伍長さん)
>上の方の私の書き込みについてはどうでしょうか?
>>93 >「私的」な事象の感覚が行動の原因と見なされるようになります
(eg.恐いから逃げる)。
確かに、逃げることで、他人から「恐がっている」と指摘される訳で、
随伴現象としての情動感覚を逆に原因にした、という解釈はあり得ます。
ただ、随伴ならぬ随意感覚(意志)が目的表象を介して行動をもたらす
こともまた事実ではないでしょうか。
因みに原因という概念は統計的(確率的)かつ相対的なものですから、
「とても勝てそうにない敵」が逃げる原因だという場合もあり得ます。
>アニミズムが人間自身の身体にも導入され、皮膚の内側に「心的なモノ」
>が創り上げられます。
アニミズムは生気論の原始的形態であり、「さっきまで動いていた身体」
と「死体」との区別(差)=身体から抜け出た心(「生きているが見え
ないモノ」)の意識が成立したのではないか?
>>146 >ホントは平易な表現の方がむずかしいんだ。
おっしゃる通りです。しかし平易な=理解し易い、ということでもないの
で、特に抽象的な事柄の説明には苦労する訳です。
>>148 >ということは芸術的精神=心ですか?民族、時代を超えて伝承されたも
>のは、客観性ではなく、普遍性を持ちうるのではないですか?
私は精神という概念を広く捉え、自然一般に対して、それを超えようとす
る「働き」一般と考えています。そして、直接的・受動的精神が心であり、
媒介的・共同的精神は、単に普遍的(主観的な共通性)なものにとどまら
ず、対象的な媒介物(文化、文明)を通して歴史的に生成する人類におけ
る客観的な「事柄」として考えます。そして何よりも、言語(ロゴス)は
理性(ロゴス)的精神の住処でしょう。
193 :
OFW :2000/12/18(月) 21:24
>>185 (ゆきさん)
(ちょっと横レス失礼)
>意識がわかるように視覚として構成しますよね。(再構成ではないけれど
>も)
形態は構成ですが、内容は再構成です。神経媒体を伝わって伝達された
外界の状況および記憶内容は言語的(聴覚的)表象および視覚的な表象
形態(イメージ)として再構成されるのです。その結果、たとえば、
「おや、そこにいるのは『ゆきさん』じゃないか」と意識化される。
>主観的に自分の主観を客観視しているというかなりややこしい状況ですね。
そうです。実在の自我と表象の自我に分裂(二重化)するのです。
この二重化が「私という現象」です。現象的な領域では、むしろ世界の方
が私の中にある。そのため、観念論者はよく「科学者はこの私を決して説
明できない」と言います。それに対して科学者は「私」なるものを決して
認めないから、科学的世界には本来の現象はない(居場所がない)ことに
なる。科学者にとっては「ニューロンが感知する」とは比喩以上の表現で
しょう。正確に言えば、「感知などない」と言うべきであり、世界は物理
的な必然性の世界、永遠の沈黙、氷結、あるいは無の世界でしょう。
194 :
ゆき :2000/12/19(火) 00:44
OFWさん説明感謝です。
構成と再構成の事は多分私の言葉がおかしいのでしょう。
実際は、構成=オリジナル 再構成=オリジナルを正確に復元したもの
と考えていたので、視覚で組み立てられたモノが物理世界のと別のものであるという意味で言ってました。
再構成という言葉は、オリジナルとは別に新たに構成されたもの(常にオリジナルと同じというわけではない)という意味でいいんですか?
言葉がはっきりと伝わる人がチェックしてくれると頼もしいなぁ。(いつも混乱気味なので)
>>193 >実在の自我と表象の自我に分裂(二重化)するのです。
>この二重化が「私という現象」です。現象的な領域では、むしろ世界の方
>が私の中にある。そのため、観念論者はよく「科学者はこの私を決して説
>明できない」と言います。それに対して科学者は「私」なるものを決して
>認めないから、科学的世界には本来の現象はない(居場所がない)ことに
>なる。
これって観念論者が理解する自我(実在の自我)と、科学者が理解する自我(表象の自我)に分かれるという事ですか?(実在と表象もどっちから見るかで変わっちゃうんでしょね。←これが世界の方が私の中にいるということですよね。)
太極拳とかだと自分と世界の境目が消える事があるそうですが、私も武術(柔術)やって宗教(キリスト教)もやって芸術家(アニメーション←ヨーロッパの創作の方のアニメーション)になったので、個人的にはなんとなくわかる世界です。
所で、このスレの本題の話ですが、
私は自分の心を広げています。そこにAさんという人が来ました。彼の心も外に開いているようです。精神的に距離があるときには考えなかった話ですが、話しているうちにこれは私の意見、これは彼の意見と所持者が決まってきました。それを更に細かく分けていくと、精神社会にも境界が出来て、ある事柄についてはお互いにどちらのモノか(出所か)を争う勢いです。
この時に出てきた、
私のモノ
Aさんのモノ
どちらのものかわからないモノ
って、なんでしょう?これって哲学の方で聞くネタでしょうか?私としては、私やAさんがどちらのものかわからないものに名前をつけたものが言葉であり、またお互いの心のモノも色々とシェアできる形にしたものもそうだと思っているのですが。
学が無いので正確な言葉をちっとも知りませんが、言葉で考えていないのでシチュエーションでの質問です。日本語や英語で無いだけで私にとって一番センシティヴな言語とは言えるかもしれないけれど…。
195 :
>七 :2000/12/19(火) 00:57
>179さんは空気の振動が存在する気もするんですか? おいおい、何の話をしてるんだ? まるでわからんぞ。 >自分の脳で今何が行われているのか把握できる そんなことができる人がいるならお目にかかりたい。 きっと別のことを言おうとしてるんだろうが、これに限らず吟味不足の表現と読解が目立つ。 >ミミズが・・・もし、感知しているならとしたらそういう気がしてもおかしくないです。 「なぜ我々ミミズには『心的なモノ』が確かに存在しているという気がしているのか」とミミズが問う、 ってことだぞ!? どう逆立ちしてもミミズには無理だろう、ミミズには。 誤解されないような書き方を工夫すべし。 >完全に静かなときには、音と呼ばれる何かが存在する気がしない 甘いな。そういう気がする人もいる。正常な人でもそういう気がするときがある。 >もし、「心」という言葉(名詞)が言葉として存在するからそれが実体としてあるような気がしてくる >だけのこと。 というのが正しければ、さっきの瞼のケースでも、それが脳の処理によって >おこなわれたものである以上、”心によって瞼が閉じられた”という表現が可能です。 >ということはこのケースでもなにかが存在する感じがしなければならないはずです。 >これは明らかに矛盾です。 これじゃ180と同じじゃ。「〜である以上」の部分がなぜ後続部分を修飾するのかわからん。 とにかく、ただの眼瞼反射を「心」という言葉と結びつけることを普通の人はしないだけの話だ。 >それから、言語の存在はあまり関係ないでしょう。 あなた自身が、例えば「”心によって瞼が閉じられた”という表現」と言っている。 ほら、言語の問題がすぐに絡んできただろう? 神父様が、「心」や「音」や「何」という概念を学習しなければ「心(音)とは何か?」と問う ことはできないというようなことを言ってたが、考えてみてくれ。 どうしても揚げ足取りになってしまうな。まあ、気にするな。
196 :
伍長 :2000/12/19(火) 01:29
>>192 (OFWさん)
>ただ、随伴ならぬ随意感覚(意志)が目的表象を介して行動をもたらすことも
>また事実ではないでしょうか。
さて、この辺りから徹底的行動主義がわかりにくくなり、叩かれることになるわけです。
通常は「認知」を持ち出して研究する。
行動分析家は「ルール」を持ち出すが、あまり進展がない。少数派ゆえだと思いたい。(悲)
>「とても勝てそうにない敵」が逃げる原因だという場合もあり得ます。
そのとおりですが、それは独立変数の一つであるということです。
学生時代、「因果関係が・・・」と口走ったら、「独立-従属関係と言え」と訂正されたことがある。
>アニミズム
同じ事だと思いますけど。
197 :
伍長 :2000/12/19(火) 01:34
>七さん
うーん、私も色々と指摘しようと思って下書きをしたんだけど、たしかに一言一句の揚げ足取りのようになってしまう。そろそろ私も限界です。
>>172 だけでもいいから読み直して頂戴。
七さんの出発点は正しいのに、結論が早すぎる。一言一句がつっこまれやすいということは錬成不足なので、言葉の選択や表現方法を含めて、もっと色々なことを考えてみて。
>「その言語行動とそれが自発される際の諸条件との機能的関係」
諸条件は
>>135 で例をあげました。「その諸条件次第では言語行動も変わる」というのが機能的関係です。
functionには「機能」の他に「関数」という意味がありますね。「機能的関係」とは、「独立-従属の関数関係」のことだと言ってもよいです。
>>86 でも触れています。
198 :
七 :2000/12/19(火) 10:30
ニューロンを感知をいうのは、
電磁波や空気の振動を感知する視覚や聴覚があるのと同列に、
ニューロンを感知する感覚があるという意味です。
>「ニューロンを感知する感覚があるために、ニューロンが確かに存在しているという気がしている。」
どういう風に解釈したらこのようになって、
それはどういう矛盾が起こるのか説明していただけますか?
これだけだと意図がつかめないので。
>自分の脳で今何が行われているのか把握できる
具体的な例はいくらでもあげられます。
”今私は瞼を動かそうとした。”、
”今私はりんごを見ている。”
”六行目からなぜ七行目のことが言えるのか理解出来ない。”
”7七角打を完全に見落としていた。”
とかですね。
>ミミズが・・・もし、感知しているならとしたらそういう気がしてもおかしくないです。
「なぜ我々ミミズには『心的なモノ』が確かに存在しているという気がしているのか」とミミズが問う、
ってことだぞ!?
どう逆立ちしてもミミズには無理だろう、ミミズには。 <
原理的には可能です。
ただ、ミミズ程度の知能では、そういう気がしても”なぜそういう気がするのか”
と言う疑問をもつまではいかないかもしれません。
>
>完全に静かなときには、音と呼ばれる何かが存在する気がしない <
甘いな。そういう気がする人もいる。
正常な人でもそういう気がするときがある。 <
生まれてからずっと完全に静かなへやで暮らしてきて、
音を一度のきいたことが無くてもそういう気がするんでしょうか?
>>172 はそういうケースの話ですよね。
199 :
七 :2000/12/19(火) 10:31
>
>完全に静かなときには、音と呼ばれる何かが存在する気がしない <
甘いな。そういう気がする人もいる。
正常な人でもそういう気がするときがある。 <
生まれてからずっと完全に静かなへやで暮らしてきて、
音を一度のきいたことが無くてもそういう気がするんでしょうか?
>>172 はそういうケースの話ですよね。
>「心」や「音」や「何」という概念を学習しなければ「心(音)とは何か?」と問う
ことはできない。
私はそうは思いません。
”耳をふさぐと無くなる何かが存在する”気がしたときに、
自分でそれに名前を付けて、
”テテとは何か?”という疑問を持つケースをどう説明しますか?
それが社会でなんと呼ばれているかというのは関係ないと思います。
それから言葉がなくても疑問は発生します。
動物が今まで見たことの無い物を見たとき、
”これは何だろう”という疑問も持ちますが、
もちろんそれを言葉で表現することはしません。
>>172 だけでもいいから読み直して頂戴。
”なぜ心とよばれる何かが存在する気がするのか?”
に“環境への働きかけ”が必要な理由がわかりません。
>そだね。もともと心理学で扱ってる「心」自体、環境からの入力に対する
反応として扱ってるわけだし。というか、環境からの影響がありえない「心」なんてあるのか?
これはおかしいです。心脳問題の”心”と心理学の”心”は、違うものです。
エネルギーの話と同じです。
200 :
ゆき :2000/12/19(火) 21:04
>>七さん 私も言葉は使いませんが、言葉を使うという事を知ってから後の話ですから、完全に言葉を知らない存在が例えとか意味とかを扱うとは思えません。 >>>ミミズが・・・もし、感知しているならとしたらそういう気がしてもおかしくないです。 >>「なぜ我々ミミズには『心的なモノ』が確かに存在しているという気がしているのか」 >>とミミズが問うってことだぞ!? >>どう逆立ちしてもミミズには無理だろう、ミミズには。 < >原理的には可能です。 どういう原理か言って貰わないとわかりません。(そこをみんな聞いているんですから。) 私には無理なことに聞こえますが。 というか、無理というかそんな複雑な湾曲した考え方しないでしょ。それこそ人間以外の生物が意思をもって自殺するのかと聞かれて「原理的には可能です」といっているのと同じですが、実際のはなしありますか?ノイローゼになって子供を食べてしまう親はいますが自殺は聞いた事無いですよ。 気がしないのではなく、「気」というもの自体が無いのだと思いますが。 私たちは自分の心の中の世界と物理的な世界を分けがちですが、ミミズが分けているとは思いませんよ。これこそ言葉(絵とか記号も含む)があって初めて分ける事の出来る物理的な世界と心から見た世界の境界だとおもいますが。 記号というものを知らなければ、感じるものにのみ行動を起こすと思いますが。 動物がモノに半分おびえながら迷って回りをグルグル歩いている事がありますが、これと人間がこれは罠だろうかと相手の心理を考えるのは根本的に違いますよね。こういった違いだと思うんですが。違うのかなぁ?
201 :
OFW :2000/12/19(火) 22:21
年末は、頭ががんがん、二日酔い。(川柳)
>七さん
>>114 >空気の振動を音と呼んでいるのと同じ理屈で、
正確には、「日常的な音という現象の物理学的な本質は空気の振動である」
と言うのが正しい表現です。通常は、空気の振動を「音」とは呼びません。
「呼ぶ」とは通常「命名する」「定義する」と同義ですから。
>ニューロンの発火を意識と呼んでいる訳です。
同上。もし「意識とはニューロンの発火である」と言うことがあなたの
「意識の定義」であるなら、始めから議論が成り立たないでしょう。
(余談:「論理記号⊃が『仮定する』を表すと仮定する」という形式主義
論理を真とする論者にも困ってしまいますが…)でも、
「意識現象の脳神経学的な本質はニューロンの発火である」と表現すれば、
それは妥当か?という議論に進める。「心はどこにあるのか」「心とは何か」
と問われた場合、それは論理学的、数学的、物理学的、生理学的、生物学
的、心理学的、社会学的、政治学的、経済学的、文学的、(哲学は除く)
等々のさまざまなレベルにおいて議論できるが、要は「心が『心ではない
もの』と区別され、まさに心が心と呼ばれ、それである所以のもの」の
ことを「心の本質」と呼ぶのです。ですから、「ニューロン発火」が心に
とって本質的な性質なのか、非−本質的な(単なる脳神経学的な基礎)
なのか、という点が、今問題になっているのです。
(また言ってしまおう、「正しい分別をしましょう」と。)
>>118 >”空気の振動を感知する感覚があって、その感知された感覚が音である。”
これも不正確な表現です。「感知を感知する」のではなく、
「音を感知する」という「事象」を「聴覚」と呼ぶのです。
202 :
OFW :2000/12/19(火) 22:22
>七さん(つづき) >”ニューロンを感知する感覚があって、その感知された感覚が意識で >ある”と答えればいいんじゃないですか。 先ほどの定義(あるいは主張)とずれていますね。 ニューロンの発火 自体が意識なのか、「発火の感知」が意識なのか、両者は全然違う内容 ですよね。 >「『心的用語』を生み出す言語行動が可能なのは何故か」という問は >ニューロンを感知する感覚の存在を仮定すれば説明できます。 これが主張ポイントでしょうが、何が問題なのか、と言えば、 「何故可能なのか」という根拠に対する問いは「脳神経学的には如何に して可能か」という機構に関する問いとは区別すべきだ、という事です。 「感覚=ニューロンの発火」とするのはあくまで、「脳神経学的な定義」 でしょう。しかし、感覚自体の根拠(存在理由)はその物質的なメカニズム に還元できない。「如何にして」は「何故に」とは違います。 「『何故』私がここにいるという気がするのか?」 「それはそのようなニューロンの発火があるから」では 「何故」に対する、たとえば、心理学的、数学的、社会学的な説明に なっていない、ということです。 >心脳問題の”心”と心理学の”心”は、違うものです。 でしょ?だから、まずそれ(定義の違い)を説明するように、と言って いるのです。
203 :
OFW :2000/12/19(火) 23:34
>>194 (ゆきさん)
>OFWさん説明感謝です。
イエ、どういたしまして。お安い(100円位)の「御用」「五葉」です。
>再構成という言葉は、オリジナルとは別に新たに構成されたもの
>(常にオリジナルと同じというわけではない)という意味でいいんですか?
まず、「構成」(Construction)とは元々建築用語から来ていますね。
(Compositionは「制作的」で、「家族的類似」語ですね。)
「形のないもの」から何らかの「形あるもの」を作り出す、という事です。
それは「創造的」という言葉とも近いですね。たとえば、
神父さまなら、「神はすべての造化の主であり、土くれからアダムを作り、
イブを作った」とおっしゃるでしょう。それはオリジナルです。しかし、
その前に、「土くれ」を前提にしていますね。「土くれの心」をアダムの体
において完成した姿で「再現」した、ということです。つまり、「再構成」
(Re-Construction)とは、一度作られていたものを壊して、
再度新しい形に作り「変える」ことですが、そこで、「何で壊す必要が
あるの?」と質問してみましょう。返答としては、
「形あるものはいつかは滅びる。その『内容』を維持し、保存するために
は、新しき形に変えなくてはならない」と言われるでしょう。そこで更に、
「内容って何なの?」と質問してみましょう。返答としては、
「時間を通して、歴史の変転にも拘らず、ある事柄として変わらなくある
もの」と言われるでしょう。それは(私は唯物論者ですが)福音の如く、
伝えられてきたものであり、進化の過程の中に「現れている」もの、です。
「何が現れているのか」、それを創造的に再現すること、これが表現です。
>(実在と表象もどっちから見るかで変わっちゃうんでしょね。←これが
>世界の方が私の中にいるということですよね。)
そうです。そこで問題なのは、表象に過ぎないものを実在だと言い張る
人が未だに絶えない、という事です。
そう言う点では、やはり詩人は偉い。世界があくまで「仮象」の(あ
たかもあるかのような)存在であることを誰よりも分かっているから。
204 :
OFW :2000/12/20(水) 00:03
>>194 (ゆきさん)(つづき)
>精神的に距離があるときには考えなかった話ですが、話しているうちに
>これは私の意見、これは彼の意見と所持者が決まってきました。
「『私』の意見」と言う表現は、「私」と「意見」が外的な関係にある事
ですね。逆に「生き生きとした会話」においては、『意見』の中に『私』
が存在しており、意見は私の「所有物」のようなモノではないでしょ?
>これって哲学の方で聞くネタでしょうか?
最近の哲学者の間では話題にもならないでしょう。そう言う事が真に分か
るのは、ヘーゲル&マルクスだけだと思っています。「商品とはモノか?」
>私としては、私やAさんがどちらのものかわからないものに名前をつけた
>ものが言葉であり、またお互いの心のモノも色々とシェアできる形にした
>ものもそうだと思っているのですが。
「命名」とは「神の業」であり、まさに、言葉とは奇跡的な事業です。
でも、「心のモノ」って、表現が違います。「心」とは「モノを言葉
(記号)として、それに託して、個体を超えて伝達される全的な内容」かな。
私がディスプレイに託して、「今頭が痛い」とカキコするからこそ、皆に
心が伝えられ、共感され得る。確かにそれによって、痛みを分かち合い、
モノとしての痛みは減り、実存的な苦しみが類的に昇華される。
(少し喋り過ぎた。「うざい」「逝ってよし!」と言われる前に、逝きます)
205 :
伍長 :2000/12/20(水) 02:15
「学習性無力感」?(苦笑)を感じざるを得ないこのスレッドを何とかしたい。(泣) >七さん >”耳をふさぐと無くなる何かが存在する”気がしたときに、自分でそれに名前を付けて、 >”テテとは何か?”という疑問を持つケースをどう説明しますか? これだけを単独に取り上げるならば、大変よい問題提起です。救いがあります。 この種の議論は盛んに行われてきました。 とりあえず、言語(eg.「自分でそれに名前を付ける」)の存在が前提となる問題だということは分かりますね? まずはウィトゲンシュタイン『哲学探究』の第243〜317節(貴方の例とほぼ同じ事例が257,258節で出てきます。非常に有名な「感覚日記」の事例です)と解説書を読んで、既存の議論の内容を知ることを強くお奨めします。 申し訳ないが、もはやこれ以上はレスする気になれません。ごめんなさい。
206 :
>七 :2000/12/20(水) 05:35
あなたの文脈で「自分の脳内で今行われていること」と言われれば、 誰もが電気的・化学的な反応を連想する。 そして、自分の脳内のそのような反応を把握できる人はいないということだ。 あなたの書き方(ミミズの例も同様)を「文字通りに」読めば、 こりゃ電波か?ってなことになるわな。 あなたにそのつもりはなくても他人はそう解釈する。 読解ができておらず、言葉の使用法も我流なので、理屈がおかしなものになっている。 ニューロンの話は、あなたの理屈だとそういう変な事になってしまうから、 あなたの理屈の方がおかしいだろって言ったつもり。 201と202が親切にいくつか指摘してくれたが、これまでの心理板の住人とはスタイルが違うな。 まあ、あれを読んで再度考えるきっかけになればよいが。 >音を一度のきいたことが無くてもそういう気がするんでしょうか? 多分しないだろうな。でもな、このレス返しには飛躍がある。毎度のことだが。 こちらとしてはただ単に、「幻聴」の事実を根拠に「甘いな」と言っただけなんだよ。 だから、「そうでした。それは迂闊でした。」と言ってほしかったんだけどな。 相手の立場に立って、「もしかしたらこういうことを言いたいのか」という可能性を建設的に探るとともに、 「上手く伝わらないのは表現が不適切だったせいかもしれない」と懐疑的になってみることだな。 別の議論へ進みましょうや。>ALL
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/20(水) 08:48
たとえばさ〜、 今ボクが通っている小学校でクラス会があったんだよ。 で、みんなで掃除当番を決めて、順番に受持ちをすることにしようとしたんだ。 うん、最初のうちはスムーズに話が進行していたんだよ。 でもね、突然一人が駄々をこね出して、話が全くまとまらなくなっちゃった。 最初のうちはみんなで熱心に説得していたんだけど、そいつが相手の話を聞くよりも 自分の主張を繰り返すことに熱心だから、ついにみんなキレて、 学級委員長とクラスの餓鬼大将、さらにはよそのクラスから餓鬼大将のともだちとか、 ボス敵クラスの人たちがあちこちから集まってきて、よってたかってボッコボコ。 でもみんな状況がわかっているから止めようとしないし、さらには「甘いな」とか 言葉を投げつけるスネオめいた子まで混じったりして、もう大混乱☆ …このスレがそう、まさにそんな感じ。
208 :
ゆき :2000/12/20(水) 23:33
>OFWさん (Re-Construction)の話で。 なーる。イギリスでクリスチャンしているのに日本語の教会に行っているので、気づきませんでした。今度英語版の旧約を読んでみる事にします。 >「形あるものはいつかは滅びる。その『内容』を維持し、保存するために >は、新しき形に変えなくてはならない」と言われるでしょう。 なんかヒンズー教みたいですね。 ブラフマー←創造 ヴィシュヌ←調和(維持) シヴァ←破壊 で完成されている世界。これらが戦っているというよりもこの中で常にあるものが下で書いてある「内容」なんですね。フムフム。 >>これは私の意見、これは彼の意見と所持者が決まってきました。 >「『私』の意見」と言う表現は、「私」と「意見」が外的な関係にある事 >ですね。逆に「生き生きとした会話」においては、『意見』の中に『私』 >が存在しており、意見は私の「所有物」のようなモノではないでしょ? すみません。外的な関係って何ですか? そうですね。生き生きとした会話だと、もっと面白い事が出てきますから、こういった無粋な考えは無いと思います。 えーっと、「我」ってやつかな?コミュニケーションの時に相手に自分を認識して欲しくて出しますよね。 「僕が考えたんだよ!」「誰も聞いてねーよ。」 みたいな意見です。これってただの自意識過剰? >「命名」とは「神の業」であり、まさに、言葉とは奇跡的な事業です。 クリスチャンが唯物論者にそれを言われたら立つ瀬が無いですね。 >でも、「心のモノ」って、表現が違います。「心」とは「モノを言葉 >(記号)として、それに託して、個体を超えて伝達される全的な内容」かな。 心の中のもやもやの積もりだったんですが。私が何か勘違いしているのかな? もし、もやもや(=モノ)が、記号になっているのなら、思春期の女の子が初恋でもじもじしているのが、なんとなく相手に伝わるのは何故でしょう?(わかんないやつが多いとも思うけど。) 所謂、以心伝心の話です。
209 :
ゆき :2000/12/20(水) 23:40
ところで、ちょっとだけ他のネタ。
私は、人は一人称がベースの人と二人称がベースの人がいると思っています。
一人称の人は、基本的に単体なので、例えば作品を作っても製作者の残り香のような部分が芸になります。例えるなら山のように動かないのが力です。大体動くのは苦手な人が多いようです。
二人称の人は、自分から何かを引き出すよりもコラボレーションをして相手の良い部分をディレクターとして引き出すのが得意です。人間関係でも、補佐系の人間です。コミュニケーションの上に何かを作り上げる人間です。作品が一人歩きしてしまいます。例えるなら川のように常に流れているのが力です。形無く流れているので、絶対なモノを作るのが苦手です。
よく人間の人格を一まとめにして考えているのを見ますが(系統立てているから、それで分かれているのだろうけど)、私的にはこういう分け方ってありなんですけど、どうでしょ?
もちろんすべての人間はコミュニケーションの中にいますが、その上で自分をコミュニケーションの中心(一人称)に意識するか、コミュニケーションの端(二人称)に意識するかって、かなり違うと思うんですよね。
どう思います?
>>207 大笑い。さしずめ私は落書きばかりしているお花畑か?
210 :
すずらん :2000/12/23(土) 01:34
久しぶりに覗いたら熱い議論なので参加。
>伍長さん、OFWさん(マルシンドさんもかな…)
>>86 で伍長さんが述べられてる二つの研究方法には大賛成ですが、
そのどちらも今の認知科学(ex,知覚心理実験、ニューラルネットワークによるモデリング(理論))
の枠組みに入ってますよ。実際実験行うときは何らかの刺激(外の環境)を提示して、
それに対する被験者の主観的認知(言葉で表現)、脳内の状態(f-MRI、光計測法)
を見るわけですよ。つまり、今の認知科学はすでに行動分析学の方法論を含んで
それ以上の実験方法(MRIの事)を確立していると思うのですが・・・。
おそらく大部分の認知科学の方は
「心(知覚、感情、思考、(行動))とは脳と外の環境の相互作用により起こっている」
と主張すると思います。
しかし、当然まだ不十分で問題はたくさん在るわけですよ。代表的なのは…
1、『外の環境の位置づけ』
2、『脳内の情報処理過程』
3、『感覚の問題』
1は伍長さんは脳とは関係なく位置づけられると考えておられるようですが、
私の立場はまったく逆です。『外の環境』は『脳を含む身体の構造』との関係で
初めて位置づけられるものと考えるのが妥当だと思います(測れるので)。
2は今必死に生理学者や分子生物学者や神経科学者が研究しています。
ものすごい進展速度ですが、詳細が分かれば分かるほど全体が見えなくなっている。
ここで、脳をシステムとして考える理論家の入る余地がある(ex,人工ニューラルネットワーク)。
3は現在皆目見当がつかない問題(クオリアの問題という人もいる)。
神経回路がある状態になった時、どうして主観的な表象が現れるのか?という問題です。
ここでは1が中心だと思いますが外の環境が『行動』によってのみ測れるとは限らないと思います。
より妥当なのが、身体によって測ることだと思います。
ex,視覚刺激であれば被験者からの位置と光の波長で測る。
聴覚刺激であれば被験者のからの位置と音の波長で測る。
そしてその刺激は被験者の脳とその刺激との相互作用によって
初めて意味がある物になる訳です。つまり、その刺激が脳の状態をどのように
変えるかという事が重要な訳です。伍長さんらが言うように諸条件と行動との
機能的関係を記述するだけでは全く不十分であると思います。
211 :
OFW :2000/12/23(土) 04:06
(二日酔い、反省するのも、二日だけ。)
>>208 (ゆきさん)
>外的な関係って何ですか?
私の能力、性格、思考が私の外に存在して、「私」がそれらの属性を
「持っている」という関係を言います。たとえば「私の中にある何
らかの思い」は私の所有物のように自由に処分できないが、言葉に
して表現する(外化させる)と、他者のものにもなる。
>「僕が考えたんだよ!」「誰も聞いてねーよ。」
>これってただの自意識過剰?
そうですね。誰も、完全にオリジナルな考えなど作り得ない。
精々、社会や文化の中で学習した内容を素材として新しく組み替えるの
ことができるだけ。思考の私有財産制は、著作権と同様に、不可能です。
インターネットは人類共有の叡智をリアルタイムで創造する、何ちゃって。
>思春期の女の子が初恋でもじもじしているのが、なんとなく相手に伝わる
>のは何故でしょう?所謂、以心伝心の話です。
イギリスの生物学者達、ダーウィン、ローレンツ、R.ドーキンス、
アッテンボロー等の話を読んだり聞いたりすると、「恋の駆け引き」につ
いては、ヒトも鳥類以上ではないことが良く分かる。何日か前のNHK
番組(BBCの再放送)の中でも、女房の浮気隠しの振舞いを(人間
そっくりの)疑いの目つきで弁別して、不逞なオスの精液を全部排出させ
てから交尾に及んだオス鳥(種名を忘れた!)が紹介されていました。
もちろんこれは非言語的なコミュニケーション行動です。振舞い、しぐさ、
声音等は言葉以上の情報量を持っている、共感的コミュニケーション媒体
でしょう。そこからベイトソンの言う「ダブルバインド」なども生じる。
心とは精妙なるコミュニケーションの中にある、かな?
212 :
ゆき :2000/12/23(土) 13:08
(バスに乗り 後ろの人が 酒で吐き ←ワシ、大パニック。)
>>211 OFWさん
>精々、社会や文化の中で学習した内容を素材として新しく組み替える
>ことができるだけ。
学習しているのは外的なモノなんですよね。
じゃあそれが自分の「モノ」にならないのは当然ですが、そこで出来る組換えこそが新しい考え方なんじゃないですか?これって連想の事でしょ。
もちろん、同系統というのはあるだろうけど、それでも厳密にはオリジナルだと思うんですけど。
例えば私が赤い帽子とってと他の人に頼んだけど、かなりイメージと違った赤色の帽子がかえってきたりするような、「私にとっての赤色」ってのはオリジナルですよね。ちがう?
>イギリスの生物学者達、ダーウィン、ローレンツ、R.ドーキンス、
>アッテンボロー等の話を読んだり聞いたりすると、「恋の駆け引き」につ
>いては、ヒトも鳥類以上ではないことが良く分かる。
ああ、ローレンツのソロモンの指輪でしたっけ。人に求愛するカラス(だっけ?)。懐かしい!しかし、鳥も浮気するのかー。しらなんだ…。
>振舞い、しぐさ、声音等は言葉以上の情報量を持っている
本当に。私はアニメーションを作っているのでそこら辺痛いほどわかります。
213 :
伍長 :2000/12/23(土) 19:53
(レスする気になれないと言っておきながら、気になっている点があるので・・・)
>>188 (七さん)
>それから、言語の存在はあまり関係ないでしょう。
我々が「心」の問題を話題にできるのは、「心」についての概念を持っているからですよね。
ではなぜそのような概念を我々は持つに至ったのか。
主として、言語を学ぶ過程でそのような概念を持つようになったのです。
個人だけでなく、共同体の成員同士が同じような概念を持つに至った。
だから、個人が言語を学ぶ過程はもちろん、共同体がある概念を共有するようになる社会的過程をも知っておく必要がある。
ニューロンの発火だけで済む問題ではない。
原始人でも、目に見える外界の物理現象(eg.木、山、土、水、嵐、星、色、鳥、獣、人間、etc.)は、比較的容易に概念化(もしくはカテゴリー化)できたでしょう。
そうでないもの、例えば、音、風、etc. は? それほど難しくなさそうですね。
では、空気は? ちょっと難しそうですね。
熱、匂い、味、空腹、渇き、痛み、怒り、喜び、etc. の感覚の概念化はどうでしょう? 簡単そう?
神、悪魔、霊魂、呪い、愛、平和、幸福、自由、心、理性、教養、文化、etc. などの概念は?
ついでに、抽象、分析、論理、etc. などは? 「抽象」って語は何故生まれた?
名詞以外の、動詞や形容詞や副詞や接続詞は? 例えば、「しかし」という語の概念は?
何が言いたいのかというと、「心」概念を含む我々の概念の体系、あるいは世界観は、言語の進化と共にあるということです。つまり、概して社会的なものだということ。
さらに、繰り返しますが、「心とは何か」という問いは、言語の進化の過程で生まれた偽問題であって、これは、「『心』という語が言語行動として自発されるのは何故か」という問いに変換されるべき(表現は違うが、分析哲学者たちは概してこの立場の筈)。
そして、この問いへの回答は、
>>86 の(1)と(2)の2つの方向からなされるだろう。
(続く)
214 :
伍長 :2000/12/23(土) 19:56
と、いうわけですので、
>>210 すずらんさんの主張は大筋で理解できますが(細部では異論もあるが)、
「『心』という語が言語行動として自発される」という現象の「機能」と、「その機能を支える機構」の違い、ということをまだまだ理解しそこなっているように思える。
つまり、
>>86 の(1)(2)2つの方向からの答えは、次元が違う答えなのだということ。
これを認めてもらえないと、議論が先に進みません(先に進みましょうよ)。
分かりやすく言えば、「車とは何か」に対して、どういう答え方をするかということです。
車の社会的役割や、ドライビングの楽しさなどで説明しようとするのが(1)です。
例えば、「これこれの社会的役割をもったものを車と呼ぶ」
一方、車自体のメカニズムで説明しようとすのが(2)です。
例えば、「これこれのメカニズムを持ったものを車と呼ぶ」
(2)の説明の際に、(1)の「車の社会的役割」などを考慮に入れるのは、それが前提なのだから当たり前です。その前提がなければ車は誕生しなかった。
つまり、(2)の方向の「意義」は、(1)次第なのです(これも認めてもらわなければ困る)。
要するに、「心」の研究をするうえで、火星の地質を研究することは無意味だが、脳の研究をすることは意味がある。
>>86 参照。
しかし、(2)の「方向そのもの」は、(1)と無関係に見えても可能。つまり、「心」の問題を離れても可能。
要するに、脳の研究は、「心」の問題から離れて、呼吸・循環・消化器官との関係を研究できる。
(なお、認知科学という曖昧な領域の中ですずらんさんが例にあげた知覚心理学などは、むしろ昔から(1)の方向の研究をしていますよ)。
逆に、(1)の「方向そのもの」は(2)に決定的に依存しています。車やエンジンが存在しなければ、「車の社会的役割」の研究はあり得ないという意味で。
しかし、(1)の方向の「意義」は、必ずしも(2)に依るものではない。
つまり、(1)の説明の際には、例えばエンジンの細かいメカニズムなどは、(普通は)関係なしに語れます。少なくとも、関係無しに語れるレベルが存在するのです。
215 :
伍長 :2000/12/23(土) 19:57
(長くて恐縮だけど、これが最後ね)
心身二元論を拒否した上で、「『心』という語が、言語“行動”として自発されるのは何故か」という問いが出発点だということを認めるなら、
「相互作用」というのは、あくまで「(脳を含めた身体の)行動と環境との相互作用」のことであって、
脳の研究は、主に、「(相互作用の)機能を支える機構」の研究です。主に
>>86 の(2)です。
細かい点は、上の方でマルシンド先生(Come back!)が書いておられた筈。
そして、上の問いに対して(1)(2)両方の答え方が必要だというのなら、(1)の方向だけでは不充分だというのは当たり前です。しかし、くどいようですが、(1)なくして(2)による回答はあり得ないのです。
(なお、
>>210 で、「測れるので」と、“いとも簡単に”言うのは勇み足です)。
行動分析家に限らず、多くの心理学者(認知心理学者の一部はわからないが)や言語哲学者や社会学者は、そして素人の私は、主に、例えば>>のような事柄の「機能」面に興味があるのです。つまり、主に
>>86 の(1)です。
なお、「主に」と書いたのは、興味の比重や重要視の程度が違うという意味です。
七氏のように「片方だけでよい」という人は少ないでしょう。少なくとも(1)の立場の人の中にはいませんよ(断言)。
要は、主に(1)の方向の答えを知りたいのか、(2)の方向の答えを知りたいのか、ということです。
これは、片方だけで事足りるということとは全然違いますね。
ただ、「片方だけで『心とは何か』がわかるんだ」式の論調は、(2)の立場の人(なぜか大抵は脳論者や電脳屋)ばかりであって、彼ら(の一部と思いたい)以外にそのような論調で語る人はいないといってよい。
これは結局、多かれ少なかれ心脳同一説的な発想があるからだと思われます。それは「心」概念の二元論的な日常的用法とは乖離している。乖離した定義なのだから、七氏の言うように、心理学と脳科学とでは「心」の意味は違うんだということになる。それでは議論にならない。
日常用法(これが正しい用法。しかし偽用法)がなぜ生まれたのかが大事なのです。あくまでもそこが出発点。このスレッドにおいても、そろそろそこから出発しませんか?
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/23(土) 22:44
ここは簡単な事を難しく考えて自分の頭を混乱させるのが趣味の人ばかりみたいだねぇ。
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/23(土) 23:45
世の中には、難しいことを単純に考えてわかった気になってる人 も多いけどねぇ。
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/24(日) 00:12
>ここは簡単な事を難しく考えて自分の頭を混乱させるのが趣味の人ばかりみたいだねぇ。 いやなら学問板に来るな。
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/24(日) 08:09
>218 同感.伍長氏の説明はこの問題についてはまず得られる範囲で 最高の分かりやすさを持っている(時が多い). これを読んでわからない人は,こうした問題を(すくなくとも 学問的には)考えること自体をあきらめるべし.
220 :
↑ :2000/12/25(月) 07:53
また自演癖がぶりかえしたか(W
221 :
219 :2000/12/25(月) 07:57
おれ219だけど,伍長氏じゃないよ. レスの時間帯が伍長氏と全然違うだろう? 自分の劣等感を他人に投影するな,カッコワルイ>220
222 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/25(月) 11:52
こころはみんなのこころの中にあります。
223 :
すずらん :2000/12/25(月) 17:55
伍長さん、レスありがとうございます♪あのぉ…より基本的なことを伺うのでスレから脱線するかもしれませんが、ご了承下さい。また今から話すことは、基本的には立場表明(研究方向表明)以外の何物でもないと言う事に注意して下さると幸いです。『真実か否か』を論じてるのではありません。私は、現象についての記述としては大雑把に言うと『物理学レベル』(実証可能)の数理言語(数学)による説明を求めています。 例えるならば、学校へ行けない状態の人が医者に行った時、医者はこう言う訳です。 「あなたの脳は検査の結果このような方程式に従うニューラルネットワークになってます」 (といって方程式を患者に見せる) 「なるほど…それでどうすればいいのでしょうか?」 (患者訳の分からん方程式を目の前に不安がって医者に尋ねる) 「ご安心下さい。この手の方程式は解析がかなり進んでおり、どのような入力をすれば今の状態から脱せられるかハッキリと解ってます。これをご覧下さい」 (医者はある数値の羅列を見せる。患者さっぱり解らない) 「あのぉ…いったいこれは何なのですか?」 「これはあなたが今の状態から脱せられる、マジックナンバーだと思ってください。このナンバーのあなた(の脳)にとっての意味は『朝起きて窓を開ける』と言うことです。」 「ホントですか??」 「間違いありません」 (医者自信を持った笑みで答える) 次の日患者は朝起きて窓を開けるだけで学校へ行けるようになる。 もちろん、1つの物語に過ぎませんがこのようなお話をナンセンスだと思ってないのが私の立場です。(つづく)
224 :
すずらん :2000/12/25(月) 18:24
従って、伍長さんの言われる
>>86 の(1)の記述も『物理学レベル』(実証可能)の数学による説明が可能(もしくはその努力をしている)ならばそれは素晴らしいと思いますし、是非自分も手を出してみたいです。おそらく現象を説明するために、必要ならば日常的言語である「心、言語」といった物を『上手に』数学的に再定義する必要がある(ex,『熱』は日常的に使っているが、『熱力学』の枠組みにより初めて定量的に扱えるようになった(当然日常的な『熱』と定義づけられた『熱』は違う(当たり前)。ただし日常的な意味を含む形で『上手に』定義づけられている(重要))。私の、このような考え方はおそらく堅苦しい物かも知れなし、ほとんど不可能と思える事かもしれませんが今そんな事を言っても仕方がない。やってみなきゃ(1000年位…いや、もっとか) 解らないのでは??という立場です。私の知識の範囲では「行動分析や社会心理や言語学」が実証的に、かつ数学を使って厳密に研究しようとしているようには見えません。したがって、
>>210 で述べたように(1)のレベルの研究は必要な事はわかっております(ただし、それが(2)よりも根本かどうかには異論がありますが)が、今のやり方(自然言語による説明)ではダメ(科学になり得ない)だろうと思っています。しかし、『物語』として何らかの示唆を与えてくれる事は十分に考えられるし、厳密にやる前の段階としてはやむをえない面もあるので全てを否定しません。ただし、目標が遠いからと言って『ハッキリと定義付けられてない言語で現象を説明』するような生ぬるい方法は好みではありません。私がさほど厳密でない今の『認知科学』がまだましだと思うのは、実証可能かつ数学による説明をやろうとしているように見えるからです。
先ほども言ったように、コミュニケーションや行動、社会心理についての面白い知見があるならば是非聞きたいです。
最後に、伍長さんは、現象の説明の際にどのような言語による記述を求められるのでしょうか(気になります)?
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/25(月) 20:56
>223,224 横レス。 「こころ」という概念についての人々のコミュニケーション, こころという概念が生成され,使用されている状態について 「物理学レベル」の説明は可能だろう。 また,「こころ」という概念を使用している人の脳, あるいはこころという概念で抽象されるような 行動をしている人の脳を,物理学レベルで分析することも (原因論的説明以外は)可能だろう。 また,そうした行動そのものや,それに影響を与える 環境要因,あるいは行動と環境の相互作用を物理学レベルで 捉えることも可能だろう(現にスキナーはそれを提案した)。 しかし,「こころ」そのものを物理学的に捉えることはできない。 それは「実体」ではなく「概念」だから。 ウイトゲンシュタイン的にいう「概念の意味はその用法である」 ということは,概念の本質とは物理学レベルで説明(正確には「物理学言語 に翻訳」だけどね)されるようなものではなく,日常言語の中でそれが どう用いられているのか,からしか解明できない,ということ。 日常言語から分析することを拒否するなら,「こころ」のような 日常概念に興味を持つこと自体が矛盾。 それを伍長氏はずっと説明してきたのに,全然わかってもらえて ないわけね。同情します。
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/26(火) 00:04
横レス その2 「こころ」の定義が違うんだろうなぁ、というのが読んだ感想。 認知情報処理なら物理的現象として解明できるだろうし、いずれ数式化も できるだろう。というか、そう思って研究してるわけだ。 脳活動に基盤のある情動もなんとかなるだろう。 しかし、 他の人との場当たり的なやりとりそのものを(その瞬間の脳活動ではなく) 理解したり、他人から受けた言葉の返事を予測するのは、物理現象としては 難しかろ。あるいは「心ない人」とか「心温まる話」なんかの言葉で使われてる 「心」てのは、実体がないから物理的現象としては説明できないだろうなぁ。 わかりにくいか、、 他者から受けた行為に対して、その人を「心ない人」と判断するときの 脳の活動ってのは実体があるんだが、「心ない人」に使われてる「心」 って単語の意味は、実体がない。ということだと思う。 ただ、概念としての「こころ」の研究は、目的がわからない。 文脈によって使われ方が違うものを、しかもその前提を受け入れて研究 しても、「文脈や社会によって違います」という自明のことしかわから ないのでないのか?
227 :
226 :2000/12/26(火) 00:06
読めばわかると思うが、225とは別の人だよ。
228 :
伍長 :2000/12/26(火) 03:11
>すずらんさん
「自然言語による説明」と、「自然言語を説明すること」とは違います。心理学(特に実験心理学)が「自然言語による説明」をしていると、本気で思っておられる?
また、「ハッキリと定義付けられてない言語で現象を説明」する領域もありますが、そうでない領域もあるのです。参考までに↓
http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psycho&key=968940023 ↑ここで怒っているのは行動分析派だけではないはず。書き込みで何となく分かります。
また、説明に数学を使うかどうかが重要なのではなく、方法論が厳密かどうかが重要。そのために数学や論理学が援用されるということ(少なくとも統計学は必須だし、数理心理学という貴方が好みそうな分野もあります)。
で、科学的な説明の水準に達するために、科学の訓練や約束事、つまり科学のdisciplineを学ぶわけだけど、心理学は幅が広いので、かなり厳密なものから屁みたいなものまで様々で、そのdisciplineは必ずしも物理学のように上手く機能してはいない。
が、ブント以来それなりにdisciplineを洗練させてきた100年の歴史(味噌も糞も含めて)があるのです。貴方はそれ(貴方にとっての味噌の部分)を知らずに論じているようです。ぜひ苦労して頂戴。面白い「味噌」がきっと見つかると思う。
229 :
伍長 :2000/12/26(火) 03:14
それから、
>>225 氏(マル氏? or哲学板の住人?)の簡単明瞭な説明(私の長い駄文はくたびれ損か!)のとおりなので繰り返しませんが、「再定義」「翻訳」について少々。
「再定義」は“単なる練習”であって、重要ではないということはスキナーが言っており、私も同感(実は、これまで長々と述べた内容にはコレも含まれているので考えてみて)。
「翻訳の不可能性」についてはクワイン(現代の分析哲学者。まだ生きてるのかな。今世紀ではハイデッカーやウィトゲン級の超大物らしい)の説が有名で、私には難解すぎてようわからんけど、クワインとスキナーは近い立場の筈なので、スキナーの考えが論理的に支持されたんだろうと手前勝手に思うことにしてます。(^^;
>現象の説明の際にどのような言語による記述を求められるのでしょうか?
もちろん、より厳密に定義された用語群からなる科学の言語を求めます。
ただし、分析哲学者たちの説明も非常に参考になる。
>>226 真ん中あたりの「物理現象」ですが、私はそういうのも物理現象だと思いますよ。ただし、脳レベルではなく行動レベルの物理現象。
それと、最後のパラグラフですが、そんなことはないです。現に色々なことが分かってきたし、今も皆さんは色々な事を探究しておられるんでしょう? 応援してます。
230 :
radio free :2000/12/27(水) 01:29
アナログ・レコードの溝をいくら一生懸命眺めても、 そこに刻まれた音楽の良し悪し(質)はわからない。 それは実際に聞いてみないとわからない。
231 :
すずらん :2000/12/27(水) 19:43
レス感謝です♪早速…。
>>225 >しかし,「こころ」そのものを物理学的に捉えることはできない。それは「実体」ではなく「概念」だから。
私が扱う「こころ」とは今のところ『知覚(五感)』『思考』『感情』『記憶・学習』『行動(言語やコミュニケーションも含む)』これらの過程(当然身体内の)の事です。蛇足ですが、現象があってそれを記述するのですから、初めに完璧に定義を決めて、そこから演繹的に現象を記述する方程式がでる訳はありません。現象を記述しながら足りない部分はそれを補うように新たな仮説を提示しそれが現象をより『上手に』記述するのであれば、その仮説を新たな定義として導入しよりマシなモデルが出来る。そのように研究は進む物だと認識してます。ところで、皆さんがおっしゃられる「こころについての概念の本質」が具体的にどのような物なのか全くイメージ出来ません。一体、「こころ」について上で述べた事以上の何を求めようとしているのかが見えてきません。
>>226 >他の人との場当たり的なやりとりそのものを(その瞬間の脳活動ではなく)理解したり、他人から受けた
言葉の返事を予測するのは、物理現象としては難しかろ。
難しいかもしれませんが出来るかも知れない。と言うのが自分の立場です。
232 :
すずらん :2000/12/27(水) 19:45
伍長さんどうもです♪前々からご推察の通り、私は『哲学』『心理学』の教養には全く欠けています(まともに読んだ本デカルトの『方法序説』だけ。この本は良いと思うのだけど(薄いし))。でも、疑問はあるので発言しても良いですよね??以前伍長さんに紹介された本もうちの大学になかった(泣)ので結局読んでない…。んで、『オペラント心理学入門』(サイエンス社)を読んで見たのですが、やっぱり疑問は残ったままです。と言うわけでその疑問。 1、刺激の計り方。 2、データが出た後、何故そのようなデータになったかについて解釈の恣意性もしくは解釈をしない怠慢。 1は、もう何度も言ってきましたが、『社会心理学』とかでも使われているアンケート調査に基づいて分析する奴とかの事も含みます。あれやりつづけてもとても普遍的な法則が見つかるとは思えない(少なくとも私には)。まあ、普遍的な法則を探るのではないのかも知れませんが、それにしても統一した枠組みを作ろうとしてるならば、もう少し測るものをきちんと定義できる物にした方が良い(何を測ってるのか解らなくなる)。自分は、人間には『身体』と言う時間的空間的に束縛された条件があるのだからその条件のもとで測りやすい刺激で測るべきだと思ってます。 2は1のデータを認めたとしても、それについての解釈について『言葉が多すぎる』(というか言葉でしか言ってないんですが)。もしくは、データを出しただけで、そのデータが出る『メカニズム』について何も言ってない(ex,オペラント条件付けがどのような仕組みで起こるのかということ)。基本的に1がしっかりしてないと、2がメチャメチャになるので1は大変重要だと感じてます。物理ではニュートンの法則という物があって、例えば「ただの自由落下運動」、「抵抗のある自由落下運動」とか全てこの枠組みで説明できます。同様な物を『人のココロ』を扱う際にも見出したいと私は勝手に思っているのですが、『行動分析学』の方法論では無理だと感じてしまう。そもそも、『心理学』はそのような普遍的法則を見出す事を目的とはしてないのでしょうか?
233 :
すずらん :2000/12/27(水) 19:48
長くてスイマセン…。 きっと、私は伍長さんのおっしゃられている事を誤解しているのだろうと思いたいのですが、一体どうして行動分析学の方法で「行動とそのための条件」の相関を記述できる。と言われるのかどうしても理解できない。というより、普遍的な法則を見つけられない今の現状では行動分析学の方法では無限に条件を変えてデータを取り続けると言う事しか出来ないのでは??例えば、物理学においてももし未だにニュートンの法則を認めなかったら、運動に関しては個々にデータを取って変数間の相関を見ることしか出来ない訳ですよ(当たり前だが)。しかし、実際はそれらを統一的に描写できるニュートンの法則を発見した事で、個々のデータを取りつづける必要は無い。今では位置と初速と力さえ分かれば後はニュートンの法則に乗せれば良いだけ(もちろん近似しなけりゃならない場合などはあるが…)。「行動とそのための条件」の相関を記述する際にも、行動分析学の方法では『ブラックボックス』に『人(脳・身体)』『時間』『空間』『刺激』など『行動』が発生する際の原因となると考えられる全てを変数として入れて統一的に記述するような姿勢が必要になるわけですが(普遍的な法則を見つけたければだけど)、そのような姿勢が「行動分析学」には全く感じられません。ちなみに、「脳」に立脚すればそれらの変数の自由度(数)も減らせる可能性は高いし、なにより入力刺激を各感覚を司る感覚受容器(五感全てにある)からのパルス列としてハッキリ定義づけられる。あとはニューラルネットワークの繋がり方と現在の状態(初期値)がわかればOK。まあ、こんなあっさり言ってはいけないのでしょうけど(笑)、スタンスは間違ってないと思ってるのですが…。 このコチコチの頭を癒してくれる、あんまり時間がかからない本ってありませんか?まだ、M2なもんで修論が…能力低いので、この合間にあんまり厚い本はとても読めない。定番本(厚くても結構)一冊と読みやすい奴一冊程度紹介して下さるとありがたいです。
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/28(木) 12:31
>230 甘い! 昔のマニアは溝を読んで「メリハリの効いた良い演奏だ」とか 「サラッと流した演奏だ」とか予測したものだ。
CDの輝度・スペクトルを分析することで、なかのエロゲーが抜けるか 抜けないか判断するようなもの。
236 :
伍長 :2000/12/29(金) 02:14
>すずらんさん
私のこれまでの書き込みでは、“行動分析学とは無関係に語ってきた”ということが分かりませんか?
>>233 の批判は、「ビッグバン理論で宇宙の始まりが説明できるなんて私にはまるで理解できない」と、私が自分の無知を棚に上げ、しかも文脈を無視して言いがかりをつけるようなものです(それよりも、「相関」という言葉の使い方が変なので教育的指導)。
私(だけじゃないですよ)がしているのは、「心」という語にまつわる諸々の現象を研究するうえで、次元の異なる2つの方向があるだろうという極めて穏健な立場での話です(過激?になるのは先の話)。
貴方は2つ目の方向の答えに関心があるのです。だから、1つ目の方向の答えでは答えにならないと感じるのは当然かもしれない。でも、それは間違っている。関心の方向や次元が異なるのです。
オペラント条件づけや古典的条件づけの(脳の)メカニズムだって研究されている。それは2つ目の方向。つまり貴方の仕事。
>>214 のクルマの比喩が分からないならお手上げです。こんな当たり前のことは行動分析家じゃなくたって同意しますよ。
順を追って読解した上で問題点があるなら指摘して欲しい。七氏ほどではないにせよ、議論の前提(偽問題、反二元論、日常言語の重要性等。特に、機能とそれを支える機構との違い)を無視されては、同じ事を繰り返すしかなく、徒労感ばかり感じてしまう(しまいにゃ私も暴れるよ)。
237 :
伍長 :2000/12/29(金) 02:17
それから、「定義」「法則性」etc.についてですが、これは研究目的に応じて厳密さのレベルが異なるのは当然。 物理学でも同様。何でも素粒子レベルで研究するわけじゃない筈。あるいは、旅人算ならガリレイ変換のレベルでよい。ロレンツ変換は不要。 心理学では、この柔軟さの幅は遙かに広くなる。例えば、視覚の閾値を調べたいとき(知覚)と、教室での問題行動をどうにかしたい時(臨床)とでは、対象となる行動や独立変数の定義の厳密さのレベルは異なってよいのです。 まあ、あまり幅広すぎても問題だが、まともな心理学者は、何とかしてより厳密なレベルにしようと苦労してきた。 例えば、質問紙法にしても、サーストンやらガットマンやらの尺度構成法やら何やらのテスト理論やら統計学やら何やらをたーくさん学ぶと、素人が作ったアンケートよりはマシなものになる。それを「所詮は・・・」などと考えてはいけない(そう言いたくなる誘惑は私にもあるが)。 安易な質問紙法利用のカスのような研究もあるが、その一方で、目的やサンプルや方法やデータ処理次第では、あら不思議、“それなりの”興味深い成果が出たりするのだから。 確かに歯痒いが、でも仕方がない。(勉強してた頃はスゴク面白かったけど、当然のことながら今の私はあまり好きじゃない。でもそれなりに面白い)。 企業は、顧客のニーズを調べるためにアンケートをとったり、売場での客の行動を観察したりする。 実演販売員は、客の脳を調べて商品を売るワケじゃない。行動のエンジニアリングをしている。 こういうのも「心」の研究の一端ではあるということを理解すること。
238 :
伍長 :2000/12/29(金) 02:26
>このコチコチの頭を癒してくれる、あんまり時間がかからない本ってありませんか? 貴方の場合は重症だし(失礼)、人によっても違うだろうから、そんなのわからないよ。(苦笑) 貴方自身が勉強して視野を広げるしかない。 ただ、発想を変えて、実験装置や実験方法の話(裏話を含めて)なんかも面白いですよ。どんな関心事から(あるいは厳密さを求めて)こんな装置や方法(尺度構成法も含めて)が生まれたのか考えてみるのもいいかも知れない。 例えば、スキナーの論文に、“A Case History in Scientific Method.”American Psychologist.1956. というのがあります。実験(ネズミの走路実験)をしていくうちに、次から次へと興味深い新しい問題が発生し、最初の興味とは別の法則性が垣間見えるようになり、それらを探究するために何度か方向転換しつつ、次々と実験装置や実験方法やデータの取り方を変えていく。例えば(うろ覚えですが)、 装置:走路が何度か改良され、最終的には放棄。 方法:断続試行から連続試行へ、そして自由オペラント場面へ変化。 データ:反応潜時その他から、反応率へと移行。 そうやっていくうちに、やがてスキナー箱が発明され、オペラントの概念が作り出され、オペラントの反応率に法則性が見出されたことにより、強化スケジュールや刺激性制御の詳細が分かってきた。 私はこれを読んで、「なるほど、独創的な科学者というのはこうやって自分が求めるものを見つけていくのか」とエラく感動したものです(NHKの『電子立国日本の自叙伝』で紹介された日本の科学者たちの悪戦苦闘ぶりを見たときも、私はスキナーのこの論文を思い出しました)。 スキナーが脳内現象に主な興味があったら、スキナー箱も、オペラントを行動の単位にするという発想も、おそらく生まれなかったでしょう。そして、彼の言語行動論も生まれなかったに違いないから、彼流に「心」の問題を語ることも出来なかったでしょう。
239 :
伍長 :2000/12/29(金) 02:30
あるいは、行動分析学とは無関係の話なら、例えば「奥行き知覚」の実験装置の話などはいかが? 他のスレでも少し話題になった「ビジュアルクリフ」(視覚的断崖)の実験があります。ギブソン夫人(阿呆箪笥の人の奥さん)は、奥行き知覚の成立を調べるために、床半面がガラス張りの台(残りの床半面に模様付きシートが敷いてある)に乳児や動物を乗せ、台の下にも敷かれたシート模様とのズレによって「断崖」を経験させた。 私の学生時代に先生(授業で)や先輩たち(主に飲み屋で)から聞いた話の内容は面白く、装置のアイデアが秀逸(単純だから尚更)だったんだなあと、やはりけっこう感動したものです。 人と動物との違い(動物は生後すぐなのに人間は生後数ヶ月)が何故生じるのか。詳しいことは知覚屋さんや発達屋さんにお願いしたいけど、研究者たちは、奥行き知覚が生得的なものなのか、環境要因がどれくらい絡んでいるのか、成熟で説明がつくのかなどを、実験を工夫(主に環境条件を操作)しながら研究している(らしい)。 こんな例はいくらでもあるでしょう。 もちろん、奥行き知覚の脳内現象については貴方の仕事。 それに、2つの方向がダブった方向で、心理学者(or脳科学者)が研究しても別に構わないでしょう? ふー。
240 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/29(金) 17:19
この人はけっこうまともだと思うけどどうかな.
http://www.moriyama.com/netscience/Matsumoto_Kenji/index.html ○では質問を変えます。言語が重要な役割を果たしているんじゃないかというその感覚は、どこから来ているんですか? 主観的な思いですか?
■主観的です。だから根拠はないんですけどね。まあ、ある種のシミュレーションなんだろうという気はしているんですけど、言語というのは。
基本的に、脳の中でやっていることは「連合」だと私は思っているんです。たとえば目の動きとか舌の動きとか、もちろんそれによって発声された音声の聴覚からのフィードバック。それらが一つのループを作って、これに別の事象というのを連合してやると。こんな感じのことが言語で行われているのではないかと私は思っていて、そういうシミュレーション機構ができあがることによって、いろんな言語以外の脳の働きっていうのを言語によって、言語と関連した器官の動きと連合してやって、そこでシミュレートしていくと。それによって言語に基づいた、世界というとちょっと言い過ぎだと思いますが、そんなものが作られているんだろうという気はしているんですけどね。
・・・
■刺激と反応と強化子。それらは私の実験だとそれぞれ、視覚刺激と運動反応と報酬としての水というふうになっているわけです。これらが前頭前野全体で、どういうふうにインタラクトしているのかということを調べてみたい。
これらの相互作用の中からある種のコンテキストというのが生まれるだろうと考えているんです。それで私がやった実験というのは、視覚刺激に連合されている報酬が表現されていると。
■視覚刺激に対する前頭眼窩皮質の神経細胞の応答には、その視覚刺激に連合されている報酬が表現されていると。順序として、視覚刺激を出して、運動を起こして、報酬を得る、こう思って下さい。最初に視覚刺激を出したタイミング、このときに、視覚刺激と報酬との連合が成立していると、あとでもらえる報酬の情報が送られて、それが表現されているんだと。私はここを調べたと思っているんです。
・・・
○以前、どなただったか忘れましたが、脳の研究を指して、こんなことを言ってました。いまの脳研究は、ディスプレイもキーボードもないコンピュータの中で、いったい何のソフトが走っているのか見極めようとして、基盤を見ているのに似ている、と。
■ああ。そうなんでしょうね(笑)。あんまり、それに対抗するかたちではっきりとは反論できませんが、幸いにしてディスプレイもキーボードもあるわけです。それを手がかりにしてやっていくしかないんじゃないでしょうかね。脳だけを取り出してきて、ということだと、そもそも何のデータも取れないでしょうし、進んでいかないでしょうけどもね。
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/29(金) 18:58
なぜそんなに言語にこだわるのか。 その説明から始めないとだめだろ。
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/29(金) 19:00
↑ この人が言ってるディスプレイとキーボードってのは 観察可能な行動と,操作可能な環境刺激のことだよね. スキナーの本に出てくる脳科学のイメージってまさに こんなだったような....デジャヴだ.
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/29(金) 19:05
>241 240はリンク先のコピペでしょ. ちゃんと読んでからレスしようよ. それはそうと,人間や心について考えるのに 言語にこだわるのは,あまりにも当たり前じゃない? むしろ言語にこだわらないとしたら,こだわらない ことの方に説明が必要なくらいだと思うけどいかが?
244 :
radio free :2000/12/29(金) 23:10
具体的な入出力に注目しているという点で、 キーボードとディスプレイの比喩は心理学にこそ相応しい。 (言っておくが心理学の徒じゃないよ。わたしは)
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/29(金) 23:46
心がどこにあるのか?っていうテーマなら 「生存する脳」という本が面白かったよ。 昔から、体から脳を取り出して酸素や栄養分を供給できる装置に保存して 生きた状態を維持できるなら、 脳は心を持ち続けることが出来るか? っていう思考実験があるよね? この本の著者の立場ではそれは無理、ってことになる。 詳しいことは本を読んでもらえば分かるけど、 心=脳という単純なもので無いことだけは確か。 ま、当然といえば当然だけど…。
246 :
伍長 :2000/12/30(土) 02:11
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/30(土) 02:14
>243,244,245 そのとおり. >240の松元氏という人は,変わった経歴の人だね. 氏の今の関心は,ごくごく単純な特定のオペラント条件づけを支える 脳の働きにあるということか. 作業記憶についても柔軟に考えているようだ. 学習理論や認知理論が明らかにしている諸事実の脳レベルでの説明としては, 出発点から走り出したばかりといったところだろう. 大風呂敷を拡げがちな脳至上論者の発言がいかに馬鹿げているかということだな. 遠い道のりになりそうだが,がんばってくれ.>すずらん (皮肉じゃないよ)
248 :
沙雪 :2000/12/30(土) 03:15
はじめまして 突然ですが、脳は頭の中だけでなく 最近の研究では、心臓にも小さな脳らしきものが、発見されたそうです。 第2の脳と、呼ぶべきか、、 ではでは。 心は何かと言われてもねぇ、、 心は美しいものですよ はい。(何だよ)
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/30(土) 03:22
ソーラー・プレクサスとか自律神経幹とか。 昔からいろいろ言われてるよね、「副脳」みたいなのが あるって。
250 :
沙雪 :2000/12/30(土) 03:23
>249さん それです^−^
251 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/30(土) 06:09
NO
252 :
ゆきオヤジ :2000/12/30(土) 09:36
>>248 ・249・250
>ソーラー・プレクサスとか自律神経幹とか。
>昔からいろいろ言われてるよね、「副脳」みたいなのがあるって。
知りませーん。どういうことか教えてください。
私の頭の中では、25年ぐらい前に読んだ恐竜の本にあったような首長竜の脊椎にある第二脳のイメージなのですが…。
絶対違うんだろうなぁ。
253 :
沙雪 :2000/12/30(土) 19:48
>252 頭の脳を、神経の塊に例えるなら 脳と似たような塊が 心臓でも 発見されたそうです おそらく 記憶を蓄えてるとか なんとか、、
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/30(土) 23:46
>>伍長さん どうしてそんなに言語にこだわるのですか。
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/12/31(日) 00:43
坊やだからさ
256 :
245 :2000/12/31(日) 01:22
みんな「言語」というものがどういうものか分かってないね。 「言語」は人間が作ったもの、と普通はみんな思っているからね。 つまり「言語」を道具かなにかみたいに感じていて、 自分はそれを使う部外者っていう感じがある。 でもそれが違うんだよ。 人間が言葉をしゃべるのは、小鳥がさえずるのと同じくらい本能的な行動だし…。 伍長さんの過去レス、ちょっと読んでみたけど、 なかなかいい線いってるんじゃない? なんかものすごーくまどろっこしい言いかたしてるけど(笑)。 でも大事なところがまだ見えていないな。
257 :
ゆきオヤジ :2000/12/31(日) 07:08
>>253 >頭の脳を、神経の塊に例えるなら
>脳と似たような塊が 心臓でも 発見されたそうです
なんと。そうですか。
外付けハードディスクみたいですね。
だったらデータのバックアップの保存に使えるんですが、そうはいかないでしょうね。
でも、神経の塊があるんだったら、心がそこも使っていると考える以前に、そこで何も起きていないほうが不自然ですよね。
何か、その後発表されたモノとか無いのかなぁ?
258 :
OFW :2000/12/31(日) 15:16
>>245 >脳は心を持ち続けることが出来るか? っていう思考実験があるよね?
「脳は心を持つ」とは不正確な表現です。心はモノではない。
「脳が生きている、と言えるか?」ならまだしも…。
>>247 >240の松元氏という人は,変わった経歴の人だね.
そうですね。三浦つとむ氏の『弁証法をいかに学ぶべきか』等を読まれて
いたとは、なかなか面白い。(ただし、あの本はひどい代物ですが)
>学習理論や認知理論が明らかにしている諸事実の脳レベルでの説明として
>は,出発点から走り出したばかりといったところだろう.
同感です。
>>256 (245)
>人間が言葉をしゃべるのは、小鳥がさえずるのと同じくらい本能的な行動
>だし…。
ちょっと違う、と言うより、「本能」の定義は何でしょう?と聞きたいな。
人間が言葉をしゃべるのは、社会的な必然(必要)から来たのではないの
かな?
(確かに、アダムスミスの言う「社交本能」や、哲学板で議論された「何故
人を殺してはいけないの」の答えとして「それは『社会的な本能』だから」
といったものまでを持ち出せば、本能でしょうが。)
259 :
256 :2001/01/01(月) 00:43
>258 「脳は心を持つ」とは不正確な表現です。心はモノではない。 >「脳が生きている、と言えるか?」ならまだしも…。 不正確なのは知ってる(苦笑)。 論文書くんじゃないんだから…。 >ちょっと違う、と言うより、「本能」の定義は何でしょう?と聞きたいな。 >人間が言葉をしゃべるのは、社会的な必然(必要)から来たのではないの >かな? こんなところでアダムスミスなんか出てくるようじゃ、 あなたはものすごく距離のある勘違いをしているみたいなので多くは書かない。 とりあえず基礎知識として 「言語を生み出す本能」Sピンカー あたりでも読んでくれ。 説明しなきゃならんことが多すぎて議論にならんと思うんでな。
260 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/01(月) 11:14
言葉が本能なのはわかったけど、 それと心脳問題はどういう関係があるんだ。
261 :
>246 :2001/01/01(月) 12:40
>『心的な用語』が存在するから
>我々には『心的なモノ』が確かに存在しているという気がしている
なぜこうなるのかわからない。
>>93 読んだけど、アニミズムと意識の実在感は関係ないはず。
自分にアニミズムを導入すると自分の意識を感じるというのはおかしい。
だったら石にアニミズムを導入すると石の意識を感じるの?
他人にアニミズムを導入すると他人の意識を感じるの?
「恐いから逃げる」という表現から意識の実在感を説明するのは強引すぎます。
そもそも「なぜ私的な事象に言語的に反応できるのか」を説明してない。
>「〜という気がしている」と言うのも言語行動である。
発生した意識の実在感を『心的なモノが確かに存在しているという気がしている』と表現するのは、
確かに言語行動でしょうよ。
だけど、意識の実在感が発生するのは言語行動だとは限らない。
「私は今うれしい。」と言うのは言語行動だけど、感情は言語行動ではないですよ。
>>213 心脳問題は、
『なぜ心的なモノが確かに存在しているという気がしているのか』であって、
「なぜ我々が「心」の問題を話題にできるのか」ではない。
『心的なモノが確かに存在しているという気がしているのは、
「心」についての概念を持っているからですよね。』
じゃ、おかしい。
262 :
OFW :2001/01/02(火) 15:04
>>259 (256)
>こんなところでアダムスミスなんか出てくるようじゃ
「本能」という言葉が如何に曖昧、多義的に使われているかの極端な例と
して、挙げただけのことです。
>「言語を生み出す本能」Sピンカーあたりでも読んでくれ。
「言語本能説」ですか。要するに「言語は生得的なものか、社会的・文化
的な形成物か」という議論でしょうが、このスレのテーマにも関係する範
囲で言えば、鳥やイルカが「種社会的」コミュニケーション手段として音
声を使用することは、無論原初的言語と呼べるが、それはあくまで人間の
象徴言語とはレベルが異なるのではないでしょうか?
私は言語の用法として、I.A.リチャーズに従って、指示の象徴機能と
喚起(喚情)機能を区別しますが、後者は人間以外でもあり得ます。
また、子供が文法を知らなくても言葉が操れるのは、大脳にしかるべき
物質的基礎を持つからなのは当然でしょうが、それは言語の存在理由とし
ての機能を言うものではないでしょう。あくまで社会的なコミュニケーシ
ョンが言語の存在理由であり、それが如何なるメカニズムで達成されてい
るかとは別の問題です。如何でしょうか?
結局、ダーウィンの「適応」概念も含めて、自然、社会、文化、本能等
の概念が不明確なための混乱ではないのかな。
余談ですが、日本語は論理的ではない、という議論について言えば、前レ
スでも言及した三浦つとむ氏の『日本語はどういう言語か』はとても優れ
た(啓蒙書の形をとった)研究書だと思います。
263 :
>伍長 :2001/01/02(火) 21:54
それから、「ニュアンス」の存在についてどのように説明するのか? 例えば、「恐いから逃げる」の「恐い」にしても、 「とても恐い」から「ちょっと恐い」までいろいろなレベルがある。 その微妙な違いを言葉で厳密に表現するのは非常に困難である。 しかし、われわれはその微妙な違いを意識として感じることが可能だ。 これは伍長さんの言語説の矛盾にはならないの?
264 :
伍長 :2001/01/03(水) 00:31
明けましておめでとうございます。
>>261 (=七氏だとしたら、哲学的懐疑へと進み始めたようで、歓迎すべきことです)
誰もが感じる(感じなければならない)良い疑問だと思うので、細かくレスします。
まず、
>アニミズムと意識の実在感は関係ないはず。
>「恐いから逃げる」という表現から意識の実在感を説明するのは強引すぎます。
少し捉え違いをされているし、これらの話題は(今は)重要ではありません。
「強引」な説明などもしていませんよ。もっと重要な説明を補強する(かもしれない)「一例」としてあげたまで(しかも「思いつき」レベルです)。
例えば、
>>192 (OFW氏)の、
>確かに、逃げることで、他人から「恐がっている」と指摘される訳で、
>随伴現象としての情動感覚を逆に原因にした、という解釈はあり得ます。
といった程度の意味ですので、こだわる必要は(今は)ありません。
さて、本題です。
>そもそも「なぜ私的な事象に言語的に反応できるのか」を説明してない。
はい。この指摘は非常に鋭い。今までに突っ込んでくる人がいなかったことが不思議でした。
この問いが最重要問題だと思います。
確かにこのスレではまだ説明していませんが、哲学板では説明したことがあります(過去ログが消えていてリンクを貼れない)。これを論じると長〜く難解になるので、避けている。
ちなみに、後期ウィトゲンシュタインは2通り(多分)の可能性を(いささか解りにくいやり方で)指摘し、スキナーは4通りの可能性を(明確に)指摘しました。
>>256 (245氏)の、
>でも大事なところがまだ見えていないな。
というのはこのことかもしれない(違うかもしれないが)。
(続く)
265 :
伍長 :2001/01/03(水) 00:32
(続き) >発生した意識の実在感を『心的なモノが確かに存在しているという気がしている』と >表現するのは、確かに言語行動でしょうよ。 >だけど、意識の実在感が発生するのは言語行動だとは限らない。 良い問題設定ですが、他に何があると思いますか? (ちなみに、ミミズには無理。断言。) つまり、 >「私は今うれしい。」と言うのは言語行動だけど、感情は言語行動ではないですよ。 もちろんその通りです。 まず、言語行動以外の公的情動反応は実在します。 私的なモノでも、独特の身体内状態(脳内状態を含めて)は実在します。 しかし、それらの何れか(またはすべて。あるいはそれ以外のモノ)が感情なのだと言うなら、それは間違い。 (1)日常用語「感情」は(特にその起源において)、私的な「物理的」事象と論理的かつ厳格に対応しているわけではない(後述の[B]に関係)。 (2)公的反応なら、他人の感情を指摘する際の目安になるが、公的反応=感情でもない。 (3)さらに、感情という「心的」事象が実在するわけでもない(実在するような「気がしている」のはこの「心的」事象)。 (続く)
266 :
伍長 :2001/01/03(水) 00:41
(続き)
そこで、
[A]:「心的」事象が実在しないのに、なぜ「心的」な言葉が生まれたのか?
つまり、「なぜ私的な(しかし「物理的」な)事象に言語的に反応できるのか」(≒「なぜ我々は「心」の問題を話題にできるのか」)という問いが重要なわけ。
一方、
[B]:「心的」事象は実在しないのに、なぜ「実在するような気がしている」のか?
その実在感が生まれるのは、“私的な「物理的」事象に対する弁別-分化反応は学習される”ということを大前提とした、いわば後付けの論理だから。
そして、“その大前提は、言語共同体による訓練なしにはあり得ない”というのが、後期ウィトゲンシュタインが論じた「私的言語の不可能性」を巡る有名な哲学問題です。ぜひ勉強してみて下さい。>ALL
261さんは、これを否定しなければならないのです。哲学者の中には実際に否定(部分的に)する人もいるようですが、私には否定できない。
[B]が[A]へと変換されるというのはそういうわけです。
なお、「私的言語の不可能性」を想定しなくても同じ変換が必要だという「穏健な」立場もあり得るが、そうなると261さんは2通りの場合に対応しなければならず、より大変なことになる。(
>>213 はあえてその立場から言及したので誤解なきように)
ちなみに、スキナーは、後期ウィトゲンの「私的言語の不可能性」論と酷似した「急進的な」立場です。
また、スキナーとは無関係の社会心理学等における自己知覚理論や態度変容理論なども、結局は同様の立場(穏健であれ急進的であれ)を暗黙の内に認めていることになると思います(ですよね? >専門家)。
>>263 単に般化と弁別の問題でしょう。ただし、
>微妙な違いを意識として感じることが可能
残念でした。これだけではYesともNoとも言いかねる。
逆に、喜びと怒りという全く異なるはずの感情を自己弁別するために外部の情報(他人の行動)を必要としたという有名な実験がありましたよね。シャクターだったかな(フェスティンガーだっけ?)。
あれをどう説明します?
267 :
259 :2001/01/03(水) 04:41
>260 言葉が本能なのはわかったけど、 >それと心脳問題はどういう関係があるんだ。 いや、この話しが心脳問題に到達するのはもう少し時間がかかります。 >262 このスレのテーマにも関係する範 > 囲で言えば、鳥やイルカが「種社会的」コミュニケーション手段として音 > 声を使用することは、無論原初的言語と呼べるが、それはあくまで人間の > 象徴言語とはレベルが異なるのではないでしょうか? いや、異ならない。 異ならない、と言っても、両者とも「本能」である、という意味においてであって、 もちろんその使われるレベルが違うのは当然ですが。 言葉の定義が曖昧だ、というならその通りだが、 「今のところ」私はそれほど特殊な用法で使っていない。 むしろあなたの発言を読んでいると、定義の問題というより読解力の問題のような気がします。 私がSピンカーの名前を出した時点で、どういう意味か分かってもらえると思ったんですが。 ついでに言うと私の立場は唯物論とか一元論ではなく(ここが伍長さんとかとは決定的に違う)、 かと言っていわゆるオカルト的二元論でもありません(当然ですが)。 あえて言うなら不二元論かな?
268 :
すずらん :2001/01/03(水) 05:52
明けましておめでとうございます♪
>>伍長さん
いろいろ相手してもらっているのに、遅くなって申し訳ありません。
確かに伍長さんのおっしゃるように私は基本的には
>>86 の(1)の研究よりも(2)の研究に興味を持ってます。個人的には、ちっとも疑問は解決されてないのですが、せっかく(1)の議論が続いているので(私が入ると話の腰を折りそうなので)それを聞いています。
269 :
>伍長 :2001/01/03(水) 20:24
>そもそも「なぜ私的な事象に言語的に反応できるのか」を説明してない。
とりあえずもう一度その説明をしていただけますか。
そうしないと全く話にならない。
>発生した意識の実在感を『心的なモノが確かに存在しているという気がしている』と
>表現するのは、確かに言語行動でしょうよ。
>だけど、意識の実在感が発生するのは言語行動だとは限らない。
> 良い問題設定ですが、他に何があると思いますか? (ちなみに、ミミズには無理。断言。)
赤ん坊や犬にも実在感はないの?
仮に無いといえてもその差異が言語能力の有無によるものだと断定する根拠は何?
その他の理由(知能レベルの違い等)である可能性は?
後づけの論理だとどうして実在感が発生するの?
つながりがよくわからない。
>“私的な「物理的」事象に対する弁別-分化反応は学習される”
うーむ、意味がつかめまない。
出来れば具体的な例を交えて説明して頂けますか?
>>263 例がまずかったみたい。
けど、言語と心的事象が一対一対応ではないのは理解できるはず。
異なる心的事象が同じ言葉で表現される。
言語が定まっても心的事象が一意的には定まらない。
始めに言語があってそれにより心的事象(の実在感)が発生するという
伍長さんの説はおかしいはず。
270 :
>伍長 :2001/01/03(水) 20:28
追加 音の実在感はウィトゲンシュタインはどう説明したのですか? 意識の実在感と無関係とは思えないので興味があります。
271 :
先任上級曹長 :2001/01/03(水) 23:41
266>そして、“その大前提は、言語共同体による訓練なしにはあり得ない”というのが、後期ウィトゲンシュタインが論じ 266>た「私的言語の不可能性」を巡る有名な哲学問題です。ぜひ勉強してみて下さい。>ALL ウィトゲンシュタインの議論では普通の意味での共同体は不要です。 (他の成員が全然いなくても成り立ちます。) そろそろウィトゲンシュタインの書いた通りに(自己流でなく)読んでみてください。>伍長殿 新世紀あけましておめでとうございます。
272 :
伍長 :2001/01/04(木) 01:07
>271(専任上級曹長殿) >ウィトゲンシュタインの議論では普通の意味での共同体は不要です。 >(他の成員が全然いなくても成り立ちます。) げっ! そうなんですか!? 寡聞にして初耳(だと思う)です。 だとしたら、どういうことなんでしょう? よろしく御教示を。 例えば、『探究』のどこに書いてありますか? 節番号を教えて下さい。 >そろそろウィトゲンシュタインの書いた通りに(自己流でなく)読んでみてください。 それは極めて困難です。(笑) あんな書き方(『探究』の)をされては、クリプキンシュタインに限らず、誰だってそうではないかと・・・
273 :
伍長 :2001/01/04(木) 01:19
>>269 どうやら、「実在感」という言葉が問題ですね。
>言語と心的事象が一対一対応ではないのは理解できるはず。
>異なる心的事象が同じ言葉で表現される。
>言語が定まっても心的事象が一意的には定まらない。
「心的事象」ではなく、「私的な物理的事象」に言い換えれば、そのとおりです。
「実在感」=「気がしている」というのは、自分の私的な反応(たぶん感覚刺激となる)に対してさらに弁別反応をするということ(だけではなかろうが)と考えることにします(大いに異論アリでしょうが、脳の問題はまだ先でよい。267氏に同意)。
そして、その弁別反応は、言語共同体による分化強化なしには不可能であり、定義上(これも異論アリでしょうが)、言語行動的な性質を持つ。
しかも、言語共同体による分化強化は、私的事象に随伴するわけではなく(そんなことは無理)、あくまでも公的事象(公的な行動や環境事象)に随伴するしかない。
その意味で、「人は自分自身の(and他者の)私的状態を正確に知ることは出来ない」。これが上の引用部分の意味です。
>とりあえずもう一度その説明をしていただけますか。
>そうしないと全く話にならない。
そうでもないとは思ってたんだけど、マズイみたいですね。(続く)
274 :
伍長 :2001/01/04(木) 03:39
>>269 では、例を交えて説明します(あくまで
>>86 の(1)の方向での一例です)。
スキナーの説明(主に1945年の)に従い、4通りの可能性についてまとめます。
(1)私的事象(eg.痛み)と公的事象(eg.ケガ)とが併存する場合。
[強化]:私的事象に対応した公的事象が存在する場合、言語共同体は、このような「公的相伴物」のもとで話し手が自発する言語反応を強化できる。
[例]:ケガをしている(公的事象)ときに、「痛い」という言語反応が自発されれば、言語共同体はそれを強化できるので、やがて話し手は、痛み(私的事象)があるときに「痛い」と言えるようになる。
スキナーは、盲人が教師から物の名を教わる際の「触覚刺激」と、教師にとっての「視覚刺激」との結びつきを、比喩として用いている。
盲人と教師は、異なった刺激に対して同じ反応(物の名を言う)を要請される。触覚刺激が「痛み」、視覚刺激が「ケガ」の比喩でしょう。
この比喩は、ウィトゲンの「色眼鏡」の事例(『個人的経験および感覚与件について』)と酷似しているらしい(私は読んでいないので知らない)。
(2)私的事象(eg.歯痛)と公的事象(公的付随反応)(eg.頬を押さえる)とが併存する場合。
[強化]:私的事象に対する公的な付随反応が生じる場合、言語共同体は、そのような公的付随反応が生じるときに自発される言語反応を強化できる。
[例]:歯が痛いときに、頬を押さえたり呻いたりする(公的な付随反応)ときに、「歯が痛い」という言語反応が自発されれば、言語共同体はそれを強化できるので、話し手は、歯痛(私的事象)があるときに「歯が痛い」と言えるようになる。
これは、『探究』におけるウィトゲン自身の回りくどい「歯痛」論議(244節他多数)とほぼ同様だと思う。
>>271 曹長殿
275 :
伍長 :2001/01/04(木) 03:44
ウィトゲンが気が付かなかった(と思われる)他の2つの可能性がまだ残っている。
(3)ある事象の公的部分(eg.赤面)が消失して(他者には見えなくなって)私的部分だけになる場合。
(注:45年の論文では、このタイプにはあと二つの場合があるとしているが、ここではカット)
[強化]:私的事象の強度が高まって公的反応(赤面)が生じる場合、言語共同体は、そのような公的反応が生じたときに自発される言語反応(「恥ずかしい」)を強化できる。
[例]:話し手の赤面時に、「恥ずかしい」という言語反応が自発されれば、言語共同体はそれを強化できるので、赤面が生じない程度の状態(私的事象)のときでも、刺激般化により、話し手は「恥ずかしい」と言えるようになる。(これを「総称的拡張タクト」と言う)。
(4)公的相伴物ではない公的事象が、私的事象と機能的に等価である場合。
[強化]:公的事象に対する言語反応(「(物が)弾む」)なら、言語共同体は強化できる。
[例]:ある公的事象(ボールが弾む)に対する「弾む」という言語反応が、言語共同体によって強化されていれば、機能的に等価であるような何らかの私的事象(心が弾む)に対しても、話し手は、刺激般化により、「心が弾む」と言えるようになる。(これを「隠喩的拡張タクト」と言う)。
以上(1)〜(4)のように、心的用語の起源、すなわち、話し手が心的用語を用いる際に従う随伴性は、言語共同体が何らかの公的事象を介して行う強化活動(「分化強化」という細かい手続きが必要)の中で形成されるだろう(そういうわけで、
>>273 に続く)。
なお、別にスキナリアンじゃなくても(例えば、説明の枠組みが違う認知屋さんでも)、この4つの可能性(他にもあるかもしれないが)はアリだと思えるのではないか(認知構造を云々するのは、この先の話でよいのだから)。
276 :
伍長 :2001/01/04(木) 03:49
>>270 音(公的事象)と意識現象(私的事象)とでは、共同体が接近できるかどうかの違いが大きい。
また、「音に対して反応すること」と、「音に対する自分の反応に反応すること」とは違います。
そこで、
>>273 式に(実はあまり自信はないが)、
「音の実在感」=「音に対する自分の反応に対して弁別的に反応すること」
「意識の実在感」=「私的な物理的事象に対する自分の反応に対して弁別的に反応すること」
と考えてはどうでしょうか?
なお、ウィトゲンシュタインがどう考えたかは記憶にありません。
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/04(木) 13:03
私的事象の意味がわからない。 正確に言うと、心的事象と私的事象の違いがわからない。 ”恥ずかしい”から”赤面”を除くと心的事象しか残らない気がする。 説明お願いできますか? >自分の私的な反応(たぶん感覚刺激となる)に対してさらに弁別反応をするということ これも”自分の私的な反応”の意味がわからない。 (ニューロンの発火とは違うんだよね。) >その弁別反応は、言語共同体による分化強化なしには不可能であり、 根拠は? 意識(心的事象)の機能はどう考えるか 音には判断のための情報を与える機能がある。 「このピアニストは上手だ。」 「救急車が近づいてきた。」 そういう判断が出来るのは音があるからだ。 意識にも脳で何が起きているかを判断出来るようにさせる同様の機能があるような気がする。 これは伍長さんの理論ではどう説明します? 同じ脳の活動でも、意識の実在感を感じるのと感じないのとがある。 この差異は何によるのか説明できます?
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/04(木) 13:36
271はおそらくウイトゲンの解説書しか読んでいない. だから「自己流でない」解釈ができるわけだ.それ以前に 彼はそもそもこれまでの伍長氏の議論を読んでいない. 伍長氏は気にする必要なし. 言語の成立に共同体が不要なら私的言語が成立してしまう ことになるけど,ほんとにそれどこに書いてありますか? >271
279 :
278 :2001/01/04(木) 13:38
それより,こういう「わかる人とわからない人」が 絶望的に分かれてしまうような問題を2ちゃんねるで 相手に理解させようというのはあまりに無謀ではないかな. >伍長氏
280 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/04(木) 17:13
追加 弁別反応の強化の”強化”ってどっちなの? 小さいものを大きくするのか、 ゼロから作り出すのか。 それから、 (ニューロンの発火とは違うんだよね。) というのは、 この前、”ニューロンを感知する感覚がある。”っていったら 否定されたからです。
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/04(木) 17:52
↑ もしかして,オペラント条件づけの「強化」を 知らないで伍長氏と議論していたのか? すっげー! ちなみに,オペラント条件づけでは オペラント反応があって初めて強化が可能だから 「小さいものを大きくする」が正解かね?
282 :
伍長 :2001/01/04(木) 19:33
>>279 私にとって最も関心のある話題なので、もう少し頑張りたい。(笑)
乗ってくる人がいる限り、レスしながら自分の考えを少しずつ整理できるし。
>>281 いやいや、ゼロから作り出すことも可能ですぞ。
>>280 「強化」は術語です。行動分析の用法では、「先行反応の自発頻度を高める後続手続き」のことで、行動分析派以外にも概して採用されている。
微弱な反応を強くする(つまり反応型(トポグラフィと言います)をより明確なものにする)ときにも、ゼロから新しい反応を作り出すときにも、共に強化の手続きは有効です(この場合はどちらも分化強化です)。
例えば、反応の自発頻度ゼロでも、「漸次接近法」という手法により、求める反応とは別の反応を分化強化していくことによって、求める反応に次第に近づけていくわけ。つまり、「結果的に」ゼロから新たに形成することが可能です(これを「シェイピング」(反応形成)と言います)。
しかし、自発頻度ゼロの反応「のみ」からその反応を形成することは、281氏の言う理由により無理。
283 :
281 :2001/01/04(木) 19:53
>伍長氏 なるほど,確かにシェーピングは 標的行動はゼロから作られるわけだもんね. 勉強になりました.
284 :
伍長 :2001/01/04(木) 20:11
>>269 >赤ん坊や犬にも実在感はないの?
言語共同体が未発達で、「自分自身の私的な反応に対する弁別反応」が原初的で未分化な状態なら、定義により、原初的で未分化な「実在感」と呼べるような状態はあるかもしれない、ということになるのかなあ。
とにかく弁別学習というのは、「0か1か」のように、「弁別」と「非弁別」の境界線がはっきりしたものではないではないので、「実在感」アリと無しとの間にも明確な境界線は引けないと思う。
したがって、この問い方では偽問題になりかねない。言語の成立と言語共同体の成立はどっちが先かという話にもなる。そもそも何をもって「成立」と見なすか、とかね。
卵-ニワトリ論争みたいになってしまう。
>>277 >正確に言うと、心的事象と私的事象の違いがわからない。
「心的事象と物理的事象」の区別は二元論です。貴方は唯物論者の筈なのに、二元論の呪縛から逃れきっていない。
物理的事象の中に、「私的事象と公的事象」の区別があるのです。心的事象は虚構であって、実在しない。
(「いや、定義次第では心的事象は実在する」と言われると困ります)。
日常世界において、自分自身しか接近できないのが私的事象で、他者も接近可能なのが公的事象。
歯痛は私的事象だが、あくまでも物理的(身体的)事象。歯痛の要素としてはニューロン発火も含まれるでしょう。
>>その弁別反応は、言語共同体による分化強化なしには不可能
>根拠は?
(1)可能であるとする根拠を想像できない(消極的根拠)。
(2)徹底的行動主義に基づく論理的根拠(積極的根拠。ただし少々乱暴な根拠)
285 :
伍長 :2001/01/04(木) 20:18
>そういう判断が出来るのは音があるからだ。
前にも言いましたが、音は条件の一つですよ(また元に戻ってしまった・・・)
>意識にも脳で何が起きているかを判断出来るようにさせる同様の機能があるような気がする。
貴方自身がまるで整理できていない命題ですから、繰り返されても困ります。
(1)素直に読めば、「そんなことあり得ない」。
(2)「ニューロン発火を感知するニューロン」のことを言っているなら、「わかりません」としか言えない。「感知」の意味も不明。
(3)「ニューロン発火を弁別する反応(ニューロン発火とは別の)」のことを言いたいなら、それも「わかりません」だな。表現を錬成した方がいいか。
(3)ただ、「ニューロン発火自体」が何かの弁別反応である場合は、「ひょっとしたらあるかもしれない」(ニューロン発火にオペラント条件づけが可能だったという実験結果があるそうなので)。
まあ、この話題は他の人々も辟易しているのだから、やめた方が無難。まずは自身でもっと整理すること。
それに、脳の話はまだ先でよいのです。
>同じ脳の活動でも、意識の実在感を感じるのと感じないのとがある。
>この差異は何によるのか説明できます?
これは
>>273 と
>>276 による「実在感」の定義により、「自分自身の私的な反応に対する弁別反応」が形成されるかどうかの違いで、とりあえず簡単に説明できる。ただし、ここでも境界線の問題は生じる。
286 :
267 :2001/01/05(金) 01:15
>言語の成立に共同体が不要なら私的言語が成立してしまう
>ことになるけど,ほんとにそれどこに書いてありますか?
>>271 271さんじゃないが、271さんは
>ウィトゲンシュタインの議論では普通の意味での共同体は不要です。
>(他の成員が全然いなくても成り立ちます。)
と書いたんだろう?
全然間違っていないと思うが。
ウィトゲンシュタインが言いたかったことは、
言語とは本質的に二元的なものだ。
っていうことだよ。
二元的というのは、
「彼−我」の、
つまり「主体−客体」の二元対立の上にしか成立しない、
というような意味での二元性のことね。
だから271さんお指摘は、むしろ鋭いところをついているんだが。
287 :
>271,286 :2001/01/05(金) 04:35
謹賀新年。 七氏は少しまともになって復帰したみたいだし、 議論も進んでいるようで良かった。 このスレは面白いよ。 ただ、哲学屋?の参加で(大歓迎するが)何か変な話になってるな。 >271さんじゃないが、271さんは >>ウィトゲンシュタインの議論では普通の意味での共同体は不要です。 >>(他の成員が全然いなくても成り立ちます。) >と書いたんだろう? >全然間違っていないと思うが。 おいおい、そりゃ普通の解釈じゃないと思うぞ。 「われわれの言語は、われわれが言語共同体の成員として獲得した一つの一致の結果なのである」ヴフタール&ヒュブナー『ウィトゲンシュタイン入門』大修館(p.145) 「言語使用は規則に従った行為であり、その規則は言語共同体内での一致によって成り立っている」グレーリング『ウィトゲンシュタイン』講談社選書メチエ(p.204) こういうのが普通の解釈じゃなかったのか? 素人にもわかるように説明してくれ。御両人。 俺も、どこに書いてあるか知りたい(『探究』しか持ってないから、そこんとこヨロシク)。
288 :
278 :2001/01/05(金) 10:13
>286 ほんと、どこに書いてあるか教えてくれよ。 おれはウイトゲンシュタイン全集も、たいていの解説書も 持ってるからどこでも探せるからさ。
289 :
少年J :2001/01/05(金) 18:01
みなさん、はじめまして♪
ここを読んで、心について考えてみました。
(外部の刺激) =各からだの感覚器官を通して=> 脳((感覚)(知識)(意識(心(精神(感情(思考))))))
となっていて、脳以下、全ての項目が相互に影響を与え合っているのだと思いました。
また、”(意識(心(精神(感情(思考)))))”の部分がいわゆる”魂”と呼ばれる概念だと思います。
個人的には
>>70 さんの言っていることが一般的に理解しやすく、的を得た表現ではないかなぁと思いました。
(遅レスになってしまいましたが。)
290 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/05(金) 20:52
↑ こうこられたらさすがに降参でしょ(笑) >伍長氏
291 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/05(金) 22:00
>自分自身しか接近できないのが私的事象で、他者も接近可能なのが公的事象。 ”接近”ってどういう意味? それから、”私的な反応”とは何? >>その弁別反応は、言語共同体による分化強化なしには不可能 >根拠は? (2)徹底的行動主義に基づく論理的根拠(積極的根拠。ただし少々乱暴な根拠) これでは答えになってません。 >音は条件の一つですよ 。 それはわかっています。音が無ければ不可能と言う意味です。 ちなみに他の条件って何? この話するのは初めてだとおもいますが。 >ニューロンを感知する。 ”超音波は人間には感知できない。”とか言いません?その意味です。 要するにに、空気の振動や電磁波を使って状況の把握や判断をしていうのと同様に、 ニューロンを使ってそれをやっていると言うのが私の説です。 伍長さんの説で、 一 ”私にはこの絵は老婆の絵にみえる。” 二 ”あとちょっとで思い出すはずなのに出てこない。” 三 ”7七角はよんでなかった。” これらの弁別はどうして起こるのか説明できますか? これらはどういう反応が強化されたのですか?
292 :
追加 :2001/01/05(金) 23:23
”こういう行動したらうれしいだろうな”とか、 ”こういう行動したら恥ずかしいだろうな”とかは、 言語をしらない動物でも経験から学ぶと思いますがどうでしょうか。
293 :
伍長 :2001/01/06(土) 03:09
>>291 ,292
元に戻ってしまったか。
悪くない質問も2,3あるので長文レスを書いていたが、阿呆らしくなってやめた(なぜ阿呆らしくなったかをよく考えよ)。
次から次へと無闇に思いつきの質問ばかりして相手に徒労感を抱かせる前に、読解に力を注ぎ、自分でも勉強し、よく考えてから、少数の吟味した質問を(というよりも議論を)してくれ。
なお、音の話は
>>135 で既出だよ。
また、「ニューロン発火を感知するニューロン」という数行で終わる御説を、せめて原稿用紙10枚(20枚ならなお良い)にまとめてごらん。引用文献の勉強も必要になり、少しは考えも錬成されるから。
私のレスはこれにて再び打ち止め。279氏の言うとおりだ。残念です。(泣)
294 :
伍長 :2001/01/06(土) 03:15
>>286 よくわかりません。
287氏の御指摘のとおり、大抵の解説書にも、共同体による訓練活動の必要性が説かれています。
(私個人は、「規則」という語のウィトゲン式用法には大いに異論があるし、「一致」についても少々異論はあるが)。
ウィトゲン自身が至るところで述べていることを、もしも私が誤読しているならば、「言語共同体による訓練なしにはあり得ない」という私のウィトゲン解釈が、“ごく普通の解説書のごく普通のウィトゲン解釈”と同じなのは何故? 彼らも誤読?
もしも、「中には『共同体は不要』と解釈する人もいる」ということであれば(そう言えばどこかで聞いたことがあるような気もしてきたが)、271氏の断言は一般化のしすぎで言い過ぎ。
もう一度伺いますが、『探究』のどこを参照すればいいでしょうか? 答える義務があるかと。>271,286
295 :
ゆきオヤジ :2001/01/06(土) 05:50
少し読んでいないうちに大分話が進んでいますが、伍長さんがリングワードに凹んでいる(笑) がんばってください。しっかり読んでいるものもいるので。 かなり飛躍しているかもしれませんが、自分なりに消化してみたのであってるかおしえてください。 実在感ってのは客観的に見ているのですよね。 では例えの話ですが、言語を臓器、私的事象を自分の体とした時、胸がどきどきしているのは心臓の鼓動だと納得するようなものですか? 内臓というものの存在を考えていないと、体は体、肉屋で売っているレバーと一緒にするな!となりますよね。 私の表現は「わからん」とよく言われるので、「何言ってるの?」って言われるような気がして気弱に聞いてみます。
296 :
>291,292 :2001/01/06(土) 06:09
珍しく伍長氏がキレたようなので、代わりにレスしてあげよう。 >接近、私的な反応 あなたはそのつもりではなかったろうが、実は良い質問だと思う。 こういう用語・考えには問題があるので、ツッコミ方はあるのだ。 だが、あなたの場合はそれ以前の問題。 >ニューロン 伍長氏の言うとおり。 2,3行の主張だけを繰り返す現状では、誰に対しても説得力は一切ない。 >これでは答えになってません。 そうでもないだろう。でも言えてるかもな。(笑) 仕方によって良い質問になり、議論も進むだろう。 >これらの弁別はどうして起こるのか説明できますか? 伍長説に限らず、大ざっぱでいい加減な説明だけでいいなら、 いとも簡単(というのは半分以上嘘だが)だろう。 詳細な説明を求めるなら、新スレを立てろ。 2chでは通常は困難だが、たまに議論が進むスレもできる。 >言語をしらない動物でも経験から学ぶ 相変わらず単純素朴な擬人化だ。 何? レスになってないだと? うむ、そうかもな・・・ それより、共同体の答えが気になるんだが。
297 :
ミック :2001/01/06(土) 14:58
298 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/06(土) 16:29
↑ なんだ,結局みんな解説書しか挙げてないではないか. 原典のどこがそう読めるか教えて欲しいなあ.
299 :
298 :2001/01/06(土) 16:34
ごめんごめん,書いてあったね. いずれにしても,共同体不用説というのも 共同体なしに言語ゲームが成立することも「ありうる」という 主張で,現在われわれが営んでいる言語ゲームが共同体を 基盤にしていることを積極的に否定するわけではないようだ. そりゃああまりにも当たり前だよね.でも当たり前のことを なぜ当たり前かと問うのが学問だからな.
300 :
伍長 :2001/01/06(土) 20:26
なんだ、やっぱりそういうことだったのね(ミックさん、Thanks.)。 解釈の相違ってだけの話じゃないか。 しかも、299氏が言うように、共同体を積極的に否定する解釈じゃないみたいだ。 あの書き込みは少々罪深かったんじゃない? >271,286 >295 すみません。おっしゃっていることがよく分かりません。
301 :
286 :2001/01/07(日) 01:44
なんかあさっての方向に誤解されているようなのでちょっとマジレスしてみる。 まず根本的に、 私的言語があり得ない、 という点においては私はこれを支持している、というのは分かっている? たぶん271さんもそうだと思うんだが問題はその「理由」の部分。 287さんがわざわざ引用してくれたようなことはもちろん分かっているんだが 共同体によって言語が獲得されるから、 だから、私的言語があり得ない、というのではおかしい、と指摘したまで。 というのも、もともとウィトゲンシュタインの言ってることを順を追っていけば分かることだと思うんだが、 まず彼は最初に、これまで「言語」というものがその裏に「意味」を別に持っている、 つまり、ある「言葉」がその裏にそれに対応する「意味」を「別に」持っている、 と解釈する哲学のあり方そのものに疑問を呈した。 で、そのように「言葉」とは別に独立した「意味」というものを認めると、 私的言語が可能になってしまう、いや、そうじゃないっ、てことで 共同体の中で獲得された規則に基づく言葉の関係性で意味が決まる、 ということを言い出したんだよ。 と書いても分かりづらいかもしれないから、 たとえば無人島で一人で育った少年が、独自に言語を獲得した、と考えてみる。 もちろん実際にはそんなことはあり得ないが、もし仮にそんなことがあったとしたら、 その少年の獲得した言語は私的言語と言えるのか? よく考えてもらいたいのだが、彼の言語が何らかの形で我々の言葉に通訳できるものなら 当然、それは単に暗合化された言語というだけでちっとも私的言語ではないし、 翻訳出来ないならそもそも言語とは言えない。 だからね、 ポイントは共同体が言語の「使用」に不可欠だから、 だから私的言語が不可能、っていうことではないってこと。 #あんまり彼の著作のどこにそういう言葉があるのか、と聞かないように(笑)。
302 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/07(日) 03:01
>>301 (286)
>で、そのように「言葉」とは別に独立した「意味」というものを認めると、
>私的言語が可能になってしまう、いや、そうじゃないっ、てことで
>共同体の中で獲得された規則に基づく言葉の関係性で意味が決まる、
>ということを言い出したんだよ。
>よく考えてもらいたいのだが、彼の言語が何らかの形で我々の言葉に通訳できるものなら
>当然、それは単に暗合化された言語というだけでちっとも私的言語ではないし、
>翻訳出来ないならそもそも言語とは言えない。
上の二つのあなたの文章から導くに、つまり、「共同体の中で獲得された規則」が言葉の意味の基礎になるんだろう?
それならやはり、共同体がなければ、言語も存在できない→私的言語も存在できない、ということにならないかい。
もう一つ疑問というか質問。
>私的言語があり得ない、
>という点においては私はこれを支持している、というのは分かっている?
>たぶん271さんもそうだと思うんだが問題はその「理由」の部分。
>ポイントは共同体が言語の「使用」に不可欠だから、
>だから私的言語が不可能、っていうことではないってこと。
では、私的言語が不可能な理由は、本当は何?
303 :
伍長 :2001/01/07(日) 03:16
>>302 いきなり301を読んだときは、貴方と「全く」同じ事を考えました。(笑)
何回か読み直したら、分かってきましたよ。私の誤読でなければ、おそらく以下の如くかと・・・
>>301 感謝です。なるほど、わかってきました。たしかに私が都合良く読んでいた面もあるな。
無人島の例ですが、
無人島(共同体なし)
↓
無人島の少年が独自に言語を獲得(と仮定)
↓
それはやはり私的言語ではない
↓
ゆえに、共同体を仮定しなくても私的言語は不可能。
という論理は確かに成立するみたいだ。
ウィトゲンがこう考えた可能性はあると私も思う(実際にどこかで読んだ記憶もある)。
しかーし、「実際問題としては」、この論理はまるで重要じゃない。
やはり「無人島で一人で育った少年が独自に獲得した言語」の例えは成立し得ないので、
これを仮定すること自体がやはり実際問題上は無意味。
てなことを言っている人(ウィトゲン自身を含めて)も当然いるんじゃないのかな?
とにかく、「論理」としてあり得ても、「実際問題」としてはあり得ない。
哲学屋さんは両方考えるワケね。私は「実際問題」の方しか興味がなかった。
だから、
>>266 の、
>“その大前提は、言語共同体による訓練なしにはあり得ない”というのが、
>後期ウィトゲンシュタインが論じた「私的言語の不可能性」を巡る有名な哲学問題です。
というのは、「実際問題として」という留保付きがあればよろしいですね?
>>271 ,
>>301 両氏
304 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/07(日) 10:32
>伍長氏 なぜ、徹底的行動主義だけでなく ウィトゲンシュタインまで持ち出す必要があるの?
305 :
OFW :2001/01/07(日) 11:39
>>295 (ゆきオヤジさん)(横レスながら)
>実在感ってのは客観的に見ているのですよね。
「実在とは客観的に捉えることができる存在のことか?」と言う質問なら、
「そうです」と言えます。より正確には、「実在とは現実世界の中に位置
付けられる存在」でしょう。また、「実在感(質感)とは客観的に示せる
ものか?」と言う質問なら、「いいえ」と言えます。「感じ」とは主観的
な存在であり、実在しません。
「実在感」とは「実在の感じ」であり、「感じ」自体は主観的です。
例えば「おお、寒っ!」という表現は、表現者の主観的な感じを指して
いますが、その原因としての「部屋の冷気」は実在するものです。感じ
を客観的に指示しようとして「この感じが分からないのか」と言っても、
「これ」に他人は接近できない。しかし、「寒い!」という言葉の喚起的
用法によって、他人の心に類比的な記憶が喚起されれば、共感は可能でし
ょう。
>では例えの話ですが、言語を臓器、私的事象を自分の体とした時、胸がど
>きどきしているのは心臓の鼓動だと納得するようなものですか?
「胸がどきどきしている」とは既に比喩的表現であり、(例ではなく)喩
えが悪いでしょう。分析すれば、
「何か変だ」(漠然とした情動感の表現→内語化される?)
「この感じは『どきどき』と言うのが相応しい」(擬音的な形態化)
「この感じは体のこの辺りからくるようだ」(原因の遡及的措定)
「これは私の胸だ」(身体部位の特定。「私の身体」という二元論的・
所有主体−客体関係の慣用的な表現)
と言うことで、既に十分に「公的な」用語・思想を使っています。
「この私」という指示的・回帰的代名詞で、私の体を指差すことしかでき
ない事を考えれば、私的事象と公的事象との区別とは、事象の原因を「私
の身体」内に措定するか、外界に措定するかだ、という伍長氏の言い分は
妥当でしょう。
306 :
OFW :2001/01/07(日) 11:43
>>295 (ゆきオヤジさん)(横レスながら)(つづき)
>内臓というものの存在を考えていないと、体は体、肉屋で売っているレバ
>ーと一緒にするな!となりますよね。
確かに「自分の心臓」を直接見たことのある人は殆どいないでしょうし、
心臓なるものが自分の体の中にも実在するとは、客観的な知識です。
しかし、「私の体」という表現についても、二元論的な言語慣習に従って
いるだけであり、私(私の心)が私の体の「外」にあるか「内」(脳内?)
にあるかなどとは、本来意味のない議論です。「私」「心」「思考」などの
観念的存在は、心臓などの実在とは違って、主体的な活動(活きて働くも
の)ですから、活動の中にしか現実存在はない。観念的存在は何らかの記
号(代わりとしての実在物)によって示すしかない訳です。
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/07(日) 13:22
心とは脳の機能である。脳は構造で心は機能である。心は機能である。神経細胞である。シナプスである。
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/07(日) 13:32
>304 徹底的行動主義は心理学理論であると同時に認識論なのだよ. そしてそれは現代哲学の認識論ともつながっている. でも徹底的行動主義がまだ理解できない人にウイトゲンの 話してもなあ,と言う面はあるな. >307 またこういうやつが出てきた.前を読めって.
309 :
伍長 :2001/01/07(日) 19:51
>>304 このスレでは、徹底的行動主義はまだあまり持ち出していませんよ。
あえて意図的に持ち出さなかったということもありますが、持ち出す必要もなかった。
持ち出さずに済んだということが、この議論の方向性には一般性があるということを物語っていると思う。
>>96 までの議論にも違和感を強く覚える人はいるかもしれないが、失礼ながら、その人の「心」概念は素朴すぎる(二元論者であれ脳論者であれ)。
また、その議論に徹底的行動主義の色を強く感じる心理学徒がいるなら、その人はまるでわかってない。
それ以後は、主に七氏やすずらん氏に答えるという形で、脳至上論の不備を穏健な立場から指摘しました。
私以外にもそういう人は複数いたし、それが皆スキナリアンだとはとても思えない(認知系?や臨床系と思える人もいたし、OFW氏などは弁証法屋さんで、ゆき氏は芸術家だ)。
そして、話題は「言語」の問題へと移っていった。
明らかにスキナリアンではない
>>256 =301氏(哲学屋さんでしょう)が評価してくれたのも、この方向性が一般的で正しいものである証拠だと考えたい。
ようやく
>>265 あたりから徹底的行動主義の色がかなり出始めますが、それでもまだ一色というわけではない。
現代哲学の主要問題が前面に出てきただけです。
この主要問題(哲学史上の「言語論的転回」の問題と言っても良いのかな?)の大きな引き金の一つとなったのがウィトゲンシュタインの思想(前期も後期も)でしょう。
>なぜ、徹底的行動主義だけでなくウィトゲンシュタインまで持ち出す必要があるの?
上記の通りなので、つまり必然。
>>308 氏が正しい。
または、308氏とは逆に、これから述べるかもしれない徹底的行動主義を理解してもらう上で便利だから持ち出したということもある。
(総論においては少々違う気もするが、各論においては明らかに「スキナー≒後期ウィトゲン」。類似性はライル以上)。
哲学屋さんにも議論に参加してもらいたいし。
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/07(日) 22:59
>>307 んなことはみんなわかっている。
それなのになぜ意識が実在するような感じがするのか
それが心脳問題だよ。
>伍長
思い付きでは質問してませんよ。
私なりに重要なところを突いているつもりです。
それから、気を悪くさせたことには謝りますが、(すみません)
質問というのはやって損はないんですよ。
本質をついた質問なら問題はないですし、
とんちんかんな質問になっても
私が相手の意見をどのように勘違いして解釈しているのか
相手に教えることになります。
それから、例の話ですが、こういう説明を考えました。
脳には思考や判断のためのプログラムがある。
例えば、”救急車が近づいてくる”という判断が出来るのは、
空気の振動が(なんらかの信号に変換されて)そのプログラムに入力された(つまり聴覚)から。
入力になるものとして、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚が知られているけど、
それだけでは説明できない判断を脳はやっている。
例 ”わたしにはこの絵が老婆の絵に見えている。”(”この絵は老婆の絵だ”とはちがうことに注意)
だから、ニューロンの発火自体も入力されることが出来るはずというのが私の考え。
つまり、五感以外にも感覚は存在するということ。
311 :
伍長 :2001/01/08(月) 00:58
>>310 >それだけでは説明できない判断を脳はやっている。
それを「認知」と言うのです。行動主義者の私が言うのも変かもしれないが。(笑)
>だから、ニューロンの発火自体も入力されることが出来るはずというのが私の考え。
>つまり、五感以外にも感覚は存在するということ。
原稿用紙10枚にはなっていませんぞ。だいいち、それはとうに存じ上げていますよ。(苦笑)
「オッカムの剃刀」のことも考えた方がいいかもしれない。
>なぜ意識が実在するような感じがするのか
私がつい貴方の相手をしてしまうのは、貴方のこの問題設定に私も完全に同意するからです。ときおり良い質問が来るのも、その正しい問題設定のためでしょう。
しかし・・・
まあ、「ニューロン発火に対して弁別的に発火反応するニューロン」ということであれば、ありそうな気はする。
ただ、当面は「それが何?」と私には思える。
いきなり「心脳」問題へ走る前に、もっと外に目を向けよ。考えなきゃならんことがたくさんあるんだから。
>>86 の(1)を優先しないことには、(2)の意義(貴方の説を含めて)は確定できないのです。
そして貴方の説は、もっと細かく分離して考えないと何とも言えないということが、これまでの(1)の方向からの議論によって、実はすでに判明しているのよ(だから原稿用紙10枚以上にまとめてみよと提案している。皮肉じゃないですよ)。よく読み直し、よーく考えて分離し、それらを列挙してみてごらん。
たとえ有名な専門家であっても、言語の問題を一切抜きにした「心」論議をしていたら、それが一見複雑・難解に(orもっともらしく)見えても、実はかなり単純素朴な論議だと見てよいと思う。しかも、かなり当てにならない論議である可能性が高い。
よく分かっている脳論者というのは、
>>86 の(1)の方向の優先性を認めつつ(特に言語の社会的性質の重要性を忘れずに)、脳について語ることができる人のことだと思う(
>>240 のリンク先の脳科学者はそんなタイプの人のようにも見受けられる)。
もちろん、あまりよく分かっていない脳論者でも、良い脳研究はできるでしょう。しかし、真に「心の問題」を科学or哲学するには視野が狭すぎると思いませんか?
312 :
伍長 :2001/01/08(月) 01:20
# ところで、新スレに移行しなくても大丈夫かな? 哲学板の論理学スレが、1000レスのはるか以前に、 サイズオーバーだとかで、パンクしてアクセス不能になったことがあるんだけど・・・。
313 :
304 :2001/01/08(月) 02:21
つまり、 「悲しい」という言葉がある感覚を指示すると考える。 しかし、感覚は他人と比較することは不可能であるから、利用することができない。 よって、「悲しい」という言葉をある感覚を結びつけようとするのではなく、 「悲しい」という言語行動が発せられた状況、つまりその時の行動、周囲の反応等の集合として捉えるべきだ。 ところが、脳至上主義の考えだと、ある感覚は何らかの手法を用いて定義することが出来得る ということでしょうか?
314 :
OFW :2001/01/08(月) 11:20
>>312 (伍長さん)
># ところで、新スレに移行しなくても大丈夫かな?
>哲学板の論理学スレが、1000レスのはるか以前に、
>サイズオーバーだとかで、パンクしてアクセス不能になったことが
>あるんだけど・・・。
このスレの容量は現在、234KB(HTMLベース)ですね。
論理学スレでは皆が長文レスだったので、レス番号377でパンクした。
(レス番号369でのバックアップ時点での容量は、404KB(HTML
ベース))
ここはまだ大丈夫だと思うけれど、レスが400を超えたら、移行した
方が良いかも。
こまめにバックアップを取りましょう>>ALL
心理学板でバックアップなんかとってる奴いないよ
316 :
OFW :2001/01/08(月) 17:48
>>310 >それなのになぜ意識が実在するような感じがするのか
>それが心脳問題だよ。
少なくとも私は意識が実在するような感じはしないので、心脳問題に悩む
ことがない、と言えます。
私は「今目の前にはPC画面が実在すること」を意識しているが、別に
「『今目の前にはPC画面が実在すること』の意識が実在していること」
を意識していないし、そう思い込んでも(表象しても)いない。
「『今目の前にはPC画面が実在すること』の意識」とは実在ではなく、
対象的な認知(知覚)作用(働き)自体であり、それを意識することは
自己意識(現実的に活動している自己の意識)への高まりでしょう。
そして、その高まりのためには他者認知が必要だということでしょう。
また、意識された対象を対象自体と区別して表象と呼び、それは実在的
対象自体を超えたそのイメージです。それは(記憶を含む)様々なイメ
ージと連携して、概念化作用(その対象を事柄と言います)に高まるでし
ょう。
質感(実在感)あるいは表象自体を実在していると思い込むから、心脳問
題に悩むのでしょうか?(幽霊話に似た面があるから。)
(確かに脳は悩みと似ている。月偏は体、立心偏は心、なんちゃって。)
>315 俺は伍長さんが書き込んでるスレは大抵バックアップ取ってるよ。 悪いか。
318 :
伍長 :2001/01/09(火) 02:11
>>313 渋い質問ですが、ただちょっと論理がまだ曖昧に思える。
>つまり、「悲しい」という言葉がある感覚を指示すると考える。
ウィトゲン的には、「悲しい」という語の使用を学ぶには、外部の公的な基準が必要でした。しかも「悲しい」という語の意味は、その感覚のこと(指示対象)ではない。
行動分析的には、「指示」という言葉はあまり使いたくない。
つまり、
>>274 ,
>>275 のようなプロセスで成立した日常用語「悲しい」は、「“ある感覚”を指示するのだ」と、(通常は)見なされるようになる、と解釈するにとどめたい。
>しかし、感覚は他人と比較することは不可能であるから、利用することができない。
ウィトゲン的には、「感覚それ自体は言語ゲームから抜け落ちている」という意味では利用できない。
たしかに、日常生活の中で、または言語哲学的思索をする分には利用できませんが、科学する分には利用できるんじゃないかな。
>よって、「悲しい」という言葉をある感覚を結びつけようとするのではなく、
ウィトゲン的には、上記の通り、「日常用語『悲しい』の使用は公的基準のもとで学ばれる」という意味で、「悲しい」という語が感覚と結びついているわけではない(感覚は言語ゲームからは抜け落ちている)、ということだったと思う。「結びついている」という言葉の用法が難しいね。
行動分析的には、我々の日常用語「悲しい」が、ある感覚と何らかの関係を持っているのは、(少なくともその起源においては)間違いないだろうが、
>>86 の(1)の方向では、
>>274 ,
>>275 の如く、感覚それ自体は、予想される条件の一つとして指摘されるにとどまる、ということだと思う。
(続く)
319 :
伍長 :2001/01/09(火) 02:16
(続き)
そのような意味で、
>「悲しい」という言語行動が発せられた状況、つまりその時の行動、周囲の反応等の
>集合として捉えるべきだ。
ということになると思います。だから、313さんの考えとは少し違うかもしれない。
なお、脳内反応のような私的な反応も含まれることになるので、ウィトゲン(多分完全に
>>86 の(1)の立場)は、「賛成しかねる」or「脳には興味がない」と言うかもしれないが(よくわからん)。
>ところが、脳至上主義の考えだと、ある感覚は何らかの手法を用いて定義することが
>出来得る、ということでしょうか?
脳科学的な定義のためには、
>>86 の(1)の方向での研究が前提となる。さもなければ、何を定義しようとしているのか分からなくなってしまう。
(1)の研究が進めば、ある特有の脳内反応(他の身体内反応を含む)が、日常用語「悲しい」の使用条件の一つとして特定される可能性が高くなるから、これの特定と詳細な分析が脳科学者(生理学者)の仕事になる。
ただ、その脳内反応が、日常用語「悲しい」の意味ではない。脳研究だけでは(経験的にも論理的にも)定義できない。
七氏やすずらん氏には、この辺のことが分かりにくいらしい。
>>316 (OFWさん)
なるほど、言われてみれば、私もそのような「実在感」はいつの間にか持たなくなった、のかな?
よくわからない。
320 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/10(水) 00:36
弁別ってなんですか、弁別=感知と考えていいですか? >「実在感」=「気がしている」というのは、自分の私的な反応(たぶん感覚刺激となる)に対してさらに弁別反応をするということ(だけで はなかろうが)と考えることにします (たぶん感覚刺激となる)というのは、プログラムに入力されると言う意味ですよね。 ということは私的な反応は五感で感知するものということになります。(ニューロン感知を認めない限り) 例えば、ある音をきいてびっくりして声を上げたとか、 音のした方に顔を向けたとか、そういう物を指すんですか? ”声とか顔の動きを感知すると意識の実在を感じる。”となりますがこれでいいですか。 >日常世界において、自分自身しか接近できないのが私的事象で、他者も接近可能なのが公的事象。 歯痛は私的事象だが、あくまでも物理的(身体的)事象。歯痛の要素としてはニューロン発火も含まれるでしょう。 接近って何ですか?接近=感知=プログラムに入力と考えていいですか? 歯痛とは触覚のことですか?恥ずかしいというのは、顔が熱くなったり赤くなったりする(これなら感知可能)ことを指すんですか。 ”ニューロン発火も含まれるでしょう。 ”というのはニューロン感知を認めるということですか?
321 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/10(水) 00:57
>ただ、当面は「それが何?」と私には思える。 実在感を”○○を感知していることを感知する。”と定義します。 (伍長さんのと似てるかも?) >「オッカムの剃刀」のことも考えた方がいいかもしれない。 ですから、ニューロンの感知を認めないと説明できない判断をやっているんです。 反論するなら、ニューロンの感知を使わずに、 ”私にはこの絵が老婆の絵に見えている”という判断を説明して下さい。 言語が関係するんですか? ”見えている”という言葉があるから? だったら、反射的に目をつぶることに何か呼び名をつけたら、 それは意識にのぼるの? なんか変じゃない? >言語の問題を一切抜きにした「心」論議をしていたら、 当てにならない論議である可能性が高い。 ですから、その根拠を聞いているんです。 徹底的行動主義に基づく論理的根拠って何ですか?
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/10(水) 01:01
補足 聴覚と音の関係、嗅覚とにおいの関係や、味覚と味の関係と、 ニューロン感知と意識(心的事象)の関係は同じになる訳です。
323 :
勉強嫌い :2001/01/10(水) 05:31
324 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/10(水) 10:39
>323 あなたのたてたスレをみてもらえばわかるが、 あなたが勉強嫌いなのはあなたの「主体」のせいではなくて、 「強化随伴性」というあなたを取り巻く環境の構造の 力なのよ。だから「勉強嫌いの主体」は脳の働きではない。
325 :
伍長 :2001/01/11(木) 00:51
>>320 〜322(それにしても、よほど「感知」っていう言葉が好きなんだね)
>弁別ってなんですか、弁別=感知と考えていいですか?
「弁別」は操作的に定義された基本的術語。学習や知覚の基礎を勉強するように。
>例えば、ある音をきいてびっくりして声を上げたとか、・・・
それは公的事象に対する反応。なお、びっくりすることと声を上げることは別の反応。
>接近って何ですか?
日常生活における反応可能性とでも考えればよい。貴方は火星の土に触ることはできない。
>歯痛とは触覚のことですか?
痛覚ってのは触覚の一種? よく知らない。定義次第なんじゃない?
>恥ずかしいというのは、顔が熱くなったり赤くなったりすることを指すんですか。
違う。こういう考え方をしてはいけないということは既に述べた。
>”ニューロン発火も含まれるでしょう。 ”というのはニューロン感知を認めるということですか?
>実在感を”○○を感知していることを感知する。”と定義します。
その前に、「感知」を操作的に定義せよ。できなければ、なるべく使わないように努力してみよ。
>”私にはこの絵が老婆の絵に見えている”という判断を説明して下さい。
「私」「絵」「老婆」「見えている」etc.の概念形成がある程度成立しているから判断できる。
>言語が関係するんですか?
穏健な立場では「概して」する。急進的な立場では「必ず」する。(と思う)。
> ”見えている”という言葉があるから?
必ずしもそうではない。
>だったら、反射的に目をつぶることに何か呼び名をつけたら、・・・
「呼び名をつける、つけない」に関わらず、別に変ではない。
>ですから、その根拠を聞いているんです。
とっくに説明した。しまいにゃ泣くぞ。
>徹底的行動主義に基づく論理的根拠って何ですか?
徐々に説明は開始されている。
>ニューロン感知と意識(心的事象)の関係は同じになる訳です。
だーかーらー、原稿用紙10枚以上にまとめてみよって言ってるの。「感知」の操作的定義も含めて。
(ちなみに、心的事象は実在しない。いつから二元論者になったの?)
1行レスだけでもこの分量になる(泣)。質問の羅列はもうやめてね。
貴方は、学習・知覚・発達・社会心理学など(哲学も含めて)を、どれでもいいからもう少し勉強すべき。
326 :
物理学的還元論者 :2001/01/11(木) 01:24
脳は存在しない。在るのは素粒子の運動だけである。
327 :
OFW :2001/01/11(木) 02:27
伍長氏が苦労しているようなので、少し補足的な横やりを。
問題は心理学というより、論理的な概念上の混乱のようですから。
>>321 (旧七さん?)
>実在感を”○○を感知していることを感知する。”と定義します。
伍長氏も言っているように、「感知」という専門用語には定義が必要です。
あなたは、「感知とはニューロンの発火です」(言明1)と言うでしょう
が、それはニューロンなど知らない素人には、話の始めには通じない。
むしろ、日常的に「感知とは○○に気づくこと」(言明2)という定義で
話を始めることで良いでしょうか?そして、あなたは言明2で表現された
事象を、言明1で表現された事象によって、つまり神経生理学的な用語で
科学的に説明したい、ということですよね?
同様に、あなたの主テーマである「実在感とはニューロン発火を入力とし
て作動する他のニューロンの発火である」という点についても、まず「実
在感」とは如何なる感じのことかを定義しないと、素人にはその科学的説
明で言われている対象自体が何なのかすら理解できない、と言える。
何故といって、前レスで、「私は実在感が実在する気などしない」と言い
ましたから、多分あなたが使う「実在感」という言葉で指しているものと
は違ったものを考えているのでしょうから。
>”私にはこの絵が老婆の絵に見えている”という判断を説明して下さい。
「見えている」という言葉は哲学でもいつも問題を引き起こすのです。
「私に見えているこの世界は、実在かニューロンの作る幻想か」とかね。
たとえば、有名な哲学者である広松渉氏は、まさに老婆の絵の例を引いて
「それは存在ではなく、意味成態である」という難解な観念論を主張した。
>反射的に目をつぶることに何か呼び名をつけたら、それは意識にのぼるの?
>なんか変じゃない?
でも既に「反射的に目をつぶること」という呼び名を付けているでしょう?
目とは何?つぶるとは何?反射的とは何?その言葉を知らない幼児は眩し
い光は意識しても、目をつぶることは意識できないでしょう。眩しい光に
対して、多分「あぅあぅ」と言葉にならない声を出すか、泣くだけでは?
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/11(木) 16:29
甲という感覚刺激と乙という感覚刺激と同時に受けた後、
甲を受けると乙を連想する。
反応可能性(接近)とは、こういう性質を持つ感覚刺激になれること(そういうしくみがあること)と解釈していいですか?
もしそうなら、ニューロンの発火に”接近”することは可能ですか?
”救急車が近づいてきている”という判断の根拠は、
空気の振動(聴覚)です。
いいかえると聴覚が思考や判断のプログラムに入力されたことにより、
そういう判断が出来たということです。
ボールを見ているときに、
”ボールが止っているか動いているか正しく判断することが出来るはずだ”
と言う判断をすることが可能です。
逆に、目をつぶっているときには、
”そういう判断は出来ないはずだ。できたとしても気のせいであてにならない。”
という判断をします。
私はこういう判断は、ニューロンの発火自体が根拠になっていると考えています。
つまり、ニューロンの発火自体をプログラムに入力させるしくみがあるということです。
それが何らかの理由で出来なくなったというのが私のブラインドサイトの実験の解釈です。
伍長さんはこの実験をどのように解釈しますか?
”見えている”という概念があるのに”見えている”という判断が出来ないのですが、
これはどう説明しますか?
脳には無意識の活動があります。
たとえば、目にものが入りそうになったら反射的に目をつぶりますし、
RDS(ランダムドットステレオグラム)から立体像を作るには莫大な量の処理が行われているはずですが、
これらは意識に上ることはありません。
こういう活動に対する言葉上の概念があればこれらも意識に上ることが出来ると考えているのですか?
もし、違うならその意識と無意識の違いはどこから来るのか説明できますか?
>とっくに説明した。しまいにゃ泣くぞ。
もちろんレスは読んでますよ。だけど、
>>273 の”その弁別反応は、言語共同体による分化強化なしには不可能であり、”
これの根拠がどこにも無かったはずです。
”こういう行動したらうれしいだろうな”とか、
”こういう行動したら恥ずかしいだろうな”とかは、
言語をしらない動物でも経験から学ぶと思いますがどうでしょうか。
>(ちなみに、心的事象は実在しない。いつから二元論者になったの?)
(もちろん実在の定義によりますが)
音やにおいが実在するとは書いてないはずです。
ですから、
聴覚と音の関係、嗅覚とにおいの関係や、味覚と味の関係と、
ニューロン感知と意識(心的事象)の関係は同じになる訳です。
としても二元論にはなりません。
329 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/11(木) 16:31
>とっくに説明した。しまいにゃ泣くぞ。
もちろんレスは読んでますよ。だけど、
>>273 の”その弁別反応は、言語共同体による分化強化なしには不可能であり、”
これの根拠がどこにも無かったはずです。
”こういう行動したらうれしいだろうな”とか、
”こういう行動したら恥ずかしいだろうな”とかは、
言語をしらない動物でも経験から学ぶと思いますがどうでしょうか。
>(ちなみに、心的事象は実在しない。いつから二元論者になったの?)
(もちろん実在の定義によりますが)
音やにおいが実在するとは書いてないはずです。
ですから、
聴覚と音の関係、嗅覚とにおいの関係や、味覚と味の関係と、
ニューロン感知と意識(心的事象)の関係は同じになる訳です。
としても二元論にはなりません。
330 :
>329 :2001/01/11(木) 21:01
横レス >”こういう行動したらうれしいだろうな”とか、 >”こういう行動したら恥ずかしいだろうな”とかは、 >言語をしらない動物でも経験から学ぶと思いますがどうでしょうか。 言語を知らない動物が「うれしい」とか「恥ずかしい」という 感情を持つことはない。そんな簡単なこともわからないのに 伍長氏と議論なんかするなよ。伍長氏がかわいそうだろう。 たとえばあなたは「It`s cold!」という感情を持ちますか? 「寒い」という感情は持ってるんだから同じだろう、 と答えるなら、逝ってよし。
331 :
ゆきオヤジ :2001/01/11(木) 22:23
>>7さん まずは、ニューロンの発火の説明をしてからして質問を続けるのが礼儀だと思うが…。 「見ている」とか、「聞いている」とかは言葉がないと初めから存在しないものだと思うよ。 だから、ある意味伍長さんと対極にいる芸術家(実在感をあらわすのが全て)の私は、 「見ている」・「聞いている」事は題材にしても、見えている・聞こえているという表現を題材にする事は無い。 これは感覚器から得られる感覚じゃないからね。 「…ている」から作ると、第三者的な説明が多くなって、下手な評論文みたいになる。 >>”こういう行動したらうれしいだろうな”とか、 >>”こういう行動したら恥ずかしいだろうな”とかは、 >>言語をしらない動物でも経験から学ぶと思いますがどうでしょうか。 >言語を知らない動物が「うれしい」とか「恥ずかしい」という >感情を持つことはない。 私も思わないと思うよ。これは予想をしているという事だけど、 動物が未来や過去を思うのであれば、 こうしたらよかったとかの後悔の念も動物が持つことになる。 それは無いでしょう。 そんな目の前の事以外を思い悩むなんて、人間ぐらいでしょ。 どないでしょう?>>OFWさん
332 :
動物屋 :2001/01/11(木) 23:10
>言語を知らない動物が「うれしい」とか「恥ずかしい」という >感情を持つことはない。 うーん、、、悩ましい。 恐怖なんかの情動反応は、行動としては検出できるが、、。 チンプ見てると喜怒哀楽「持ってそうに見える」し。 >私も思わないと思うよ。これは予想をしているという事だけど、 >動物が未来や過去を思うのであれば、 これも、悩ましい。洞察的問題解決とか、記憶とかはあるしなぁ。 ラットが後悔するとも思えないが、APEになると、、。 ま、独り言。忘れてくれい。 ただ、言語がないと「心」がないとは思わない。 もちろん「心」の定義次第なんだけどね。内的な言語反応を「心」としたら 言語がなければありえないんだけど、情動やいわゆる本能、認知なんぞは たいがいの動物にある。このスレの「心」はそういうレベルのものでは ないみたいなので、別にいいけどさ。
333 :
伍長 :2001/01/12(金) 01:30
>七氏。「接近」は見当違い。「説明できるか」に対しては「簡単に説明できる」。OFW氏にも答えてない。
粗雑な論理の繰り返しでは進展が望めないので細かいレスはしません。
それよりも(ミック氏があげていた「他者」スレより、252〜261の抜粋)、
●私が「感覚」することが可能なのはそもそもある言語ゲームに参入してはじめて可能ですよね。
その言語においては「私」にしろ「感覚」にしろ発話状況によって相互に相手と立場を交換可能なものです。
その相互変換が不可能ならいくら「私にはしかじかの独特の感覚がある」といってもそれを確かめたりする独立の基準が無いので、結局無意味な主張になります。
●私的言語は、他人に正当化というか、それと認知されなければ詩的言語たりえないだって???
だけど、それじゃあ、他人に正当化されてしまえば、そのとたん私的でなくなるぞ??
たんなる一般言語の特殊例になるぞ??
とはいえ、私的言語はただ個人的に、内的に存在するとはいいにくい、、、そうであることの確証の手立てがみつからないというべきか。。。
●まさにその通り。だから私的言語はない。正当化という言葉は不適切。ゲームが成立するという点が重要。
↑哲学屋さんの思考方法は分かりにくいけど、まあ、こういうのが一般的な解釈だと思いますよ。
つまり「私的言語」は存在せず、現実問題としては、
>「われわれの言語は、われわれが言語共同体の成員として獲得した一つの一致の結果なのである」ヴフタール&ヒュブナー
ということになるわけですね(これなら良いかな?
>>271 ,
>>301 両氏)。
で、これを(心理学的or行動分析学的に)もう少し明晰に、且つ積極的に言い換えると、
[A]:「自分の私的事象を弁別する反応は、言語共同体による分化強化なしには不可能であり、定義上、言語行動的な性質を持つ」(
>>273 より)。
ということになると思う。
簡単に言えば、「心の実在感を持つためには、言語共同体による訓練が必要だ」ということです。
334 :
伍長 :2001/01/12(金) 01:46
[B]:「(私的事象に対する)弁別反応は言語共同体による分化強化がなくても可能」であることを示すことが必要で、そのためには、 (1)「『言語共同体による分化強化』以外の何らかの分化強化が私的事象に随伴する可能性」を示すことがまず第一に必要であり、さらにまた、 (2)「分化強化を必要とせずに、1回の偶然的な強化によっても弁別反応が形成される可能性(般化によるものを除く)」を示す事も必要かもしれない。 そんな可能性はあるわけがない。と私は思う。 (1')生得的な要素の強いものならあり得るが、それだけではダメ。一言で片づけられるような単純な話ではないと思う。 (2')の可能性なら、部分的になら実験で検証できる。検証できた例(1試行で弁別学習が成立する例)はあるのかな? ただし、検証できても、それだけではダメ。単に「偶発的私的言語」の可能性を部分的に指摘(証明ではなく)できるだけ。 なお、(1')(2')「だけ」なら、「言語(正確には、言語共同体による分化強化)は『概して』必要だ」という穏健な立場に繋がるかもしれない。 七氏は、このことを何としてでも理解しなければならないし、理解した上で、これら以外の可能性をも積極的に示さねばならない(私は別に、貴方の粗雑なニューロン感知説を否定しているわけじゃないんだから。単に分からないだけ。他の人たちも同様)。 申し訳ないが、これにて貴方へのレスは再び打ち止め(例の宿題について考えてみてね)。
335 :
伍長 :2001/01/12(金) 01:55
訂正。>334の冒頭部分には以下の文が入ります。
自分の私的反応を私的に弁別する可能性(≒「私的言語」の可能性)というものがあるならば、
「心」の問題を「一般言語」とは無関係に語ることができるかもしれない、ということにもなる。
しかし、そのためには(ココが大事ですよ)、
[B]:「(私的事象に対する)弁別反応は言語共同体による分化強化がなくても可能」であることを示すことが必要で、そのためには、
と続く。大事なところをコピペし忘れた。
>>332 せっかく動物屋さんが来てくれたので、ちょっと質問。
ミミズやラットはともかく、野生のapeレベルで、個々のapeの私的事象に対する弁別反応が、群れ(共同体?)の他の成員からの分化強化によって成立する可能性はあると思いますか? 私はあるんじゃないかと思うんだけど。
で、アイやカンジにはますますあり得ると思うんだけど、彼らに心的な概念を教えようとした試みってあるのかな?
336 :
動物屋 :2001/01/12(金) 14:19
>伍長殿 私的事象ってのは、客観的事態に対応する主観的感覚ってことでいいのかな? 以下、こう考えて私の意見書きます。 ヒヒで、こういうエピソードがあります。 ある優位なメスを母に持つ子ヒヒが、他の大人ヒヒが餌を食べている横に 行って、周囲に何もないのに、悲鳴を上げた。母親がやってきて、何もし ていない大人ヒヒ(劣位)を追っ払った。その後、子ヒヒはゆっくりと餌 を食った。 子ヒヒの悲鳴を、「危険に対する恐怖という私的事象に対する弁別反応」 と考えると、「助けが来る」という他の成員からの分化強化によって、 般化したと言えそうですね。 また、自分の動作に関するレキシグラムを仕込まれた個体は、 「私」+「室外運動場」+「行く」 のような反応をしますから、「室外運動場に行きたい」という欲求(私的事象?) を、分化強化で訓練された行動で表現すると考えられます。 野生チンプでも、威嚇ディスプレイで、灯油缶を使うことを発明したオス がいたんですが、これなんか、他者が威嚇されるから行動が成立してますね。 ただ、どの例においても、「私的事象」をどう捉えるかが難しい。 >心的な概念 とも関係するんですが、他者の私的事象について、外部から確認することは 不可能ではないかと思うんですが?例えば「恥ずかしい」という私的事象ですと、 外部からは、「恥ずかしいときの行動」でしか判断できません。このときに、 他者が本当に「恥ずかしい」と感じていたかどうかは、永久にわかりません。 だから演劇なんてものが成り立つと思うんですけどね。 で、「心ってどこにあるの?」の私なりの答えは、「見る人の主観」って ことになります。対象に心が有るように見えたら、その人にとっては、 その対象には心がある。自分のことは、自分の主観で見てるので、 自分にも心がある。 この辺は、以前AIBOの話で書いたのでご勘弁。
337 :
動物屋 :2001/01/12(金) 14:21
失礼、切れました。最終段落だけ再録。 で、「心ってどこにあるの?」の私なりの答えは、「見る人の主観」って ことになります。対象に心が有るように見えたら、その人にとっては、 その対象には心がある。自分のことは、自分の主観で見てるので、 自分にも心がある。 この辺は、以前AIBOの話で書いたのでご勘弁。
338 :
ゆきオヤジ :2001/01/12(金) 22:05
>> 動物屋さん ところで、動物って絵を描きます? 立体的なものを平面であらわすのは象形文字の出だしと一緒で言葉だと思っているのですが。
339 :
伍長 :2001/01/13(土) 01:06
>七氏、すずらん氏
動物屋さん
>>336 の、
>他者の私的事象について、外部から確認することは
>不可能ではないかと思うんですが?例えば「恥ずかしい」という私的事象ですと、
>外部からは、「恥ずかしいときの行動」でしか判断できません。
そのとおりであって、つまり、私的事象に伴う公的「行動」を分化強化するしかなく、結果的に、その公的行動が、心的事象に対する弁別反応になる(
>>274 ,
>>275 参照)。
七氏やすずらん氏は、この現象での脳の働きを考えるべき。私も興味はある。
哲学板でこの問題と直接関係のあるゼミ?が始まったから、せめてROMだけでもしてみてはいかがでしょうか。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=philo&key=979291385 >動物屋氏
ヒヒの例などが言語共同体の境界線上なのかなあ。
他の個体にも当てはまらないと、やっぱり境界線の外ってことかな・・・
アイちゃんたちにも心的概念の言語訓練をしてみたらどうかと思ったんだけど、誰もやってないのかな?
運動場へ行く例だと、その場合の「行く」はマンドですよね?
この「行く」の反応型を分化して、タクト「行く」+マンド「欲する」に分離するってことは出来ないのかな?
そこから、「食べる」+「欲する」などへの般化訓練なんて簡単に出来そうな気がするんだけど、甘い?
>ゆきオヤジ氏
アイちゃんの描いた絵?なら、松沢先生の本に載っていた記憶があります(書名は忘れた)。
340 :
動物屋 :2001/01/13(土) 01:19
絵、ですか? サーカスの象なんかには、筆を持たせりゃ書きなぐる奴もいますが、 あれが絵とは思えないですね。霊長研のアキラもやったかな? 立体造形ですと、感動的に美しい巣を作って、色つきの石や糸で 飾り付けするトリもいますが、遺伝的行動でしょうね。 とりあえず、立体を平面で表すような、何かを抽象したモノを自発的に 書くということは知りません。逆に、二次元の写真を三次元の物体の 表象として認知(理解)するってことは、ハトなんかではします。 表現する能力が無いんですかね。 すんません、、、変なとこで割り込んだせいで、話がぶっとんでしまい ましたね。申し訳ない。
341 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/13(土) 04:23
脳だとか生物だとか星だとか宇宙だとか思われている物はいっさい存在しない。それらすべては素粒子の運動であるにすぎない。
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/13(土) 12:40
「動物屋」じゃないが。類人猿が絵を書くかについては デズモンド・モリス『美術の生物学』法政大学出版局 というのがあるよね。 霊長類研究所ではIver Iversenが松沢さんのところでやってたね。
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/13(土) 19:38
臨床屋なので、読みかじった話です。 類人猿の「他者の心を読む能力」つまり「公的事象から他者の私的事象を推測し、反応する(って、ことでいいのでしょうか?)」という点については、欺き行動の研究をよく見かけます。例えば、チンパンジーが餌場で餌を食べているところに、他のチンパンジーがやってきた時に、食べ物を見せないようにしてそこにはないようなフリをする。後から来たチンパンジーその場を立ち去ると、最初のチンパンジーは餌を食べ始める。しかし、実は後から来たチンパンジーは立ち去るフリをしただけで、物陰に隠れていて餌が見えると奪いにやってくる、ということが報告されています。これは「見た/見てない」という公的事象から「知っている/知らない」という私的事象を弁別できてはじめて出現するといわれています。このような欺き行動は、社会競争を生き抜くために必要不可欠なものとして発展してきたという進化論的な背景があるらしい。チンパンジーで「他者のみせかけの意図/真の意図」、「他者の欲求」の弁別が可能であることは報告されているようですが、「楽しい」「悲しい」というような情緒状態を公的事象から弁別し反応するということは報告されていないようです。 ただ、以前「霊長研のスタッフが二日酔いで気持ち悪くて吐いてしまったら、チンパンジーがそっと背中をさすってくれた」と、いうウソかホントかわからない話を聞いたことがあります。
344 :
↑ :2001/01/13(土) 20:12
最初の例は、過去に弁別学習が行われていた可能性がある。 2番目の例は、前傾姿勢をとっている人に触れる場合、最も触れやすいのが 背中だというに過ぎないかもしれない。
345 :
↑ :2001/01/13(土) 20:54
も一つつけ加えると、実験室では、類人猿が他者の意図を読み取ることができ るという証拠は得られていない。ポビネリが一生懸命やってるが、最近は彼も 否定論者だ。ちゃんとして証拠が得られればいいと私も思うが、(残念ながら) いまのところそうじゃない。ここで「無いことが証明されてないからある」と 言ってしまったら素人、むしろ「あることが証明されていないからない」という 立場を公には示すのが科学者。刑事事件の裁判官が、こいつは限りなく黒に近い と思っていても、灰色である以上、黒じゃなく白と判決しなければならないのと 同じ。 スレの流れから外れてスマン。
346 :
343 :2001/01/13(土) 21:08
チンパンジーのとった行動を「知っている/知らない」というような私的事象を用いて解釈しようとしても、チンパンジーがことばをもたない以上、「私的事象などとは関係ない弁別学習かもしれない」という指摘に反論するのは難しいです。まあ、ポビネリが否定論者になってしまっては、私がこれ以上言うことはありません。
347 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/14(日) 06:27
なんだ、やはり皆さんちゃんと読んでしっかり理解していたわけか。 てっきりみんな敬遠していたのかと思ったよ。 動物屋さん登場以来、話が広がって面白くなったじゃないか。 決してスレの流れから外れてなどおらんよ。>345 「これ以上言うことはない」なんて言わずにもっと語っておくれ。>346 伍長さんが言うような実験計画を誰か思いつかんのか? もっとも、思いついたらこんな所には書かないだろうし、 ポビネリさんとやらも、いろいろやってきて結局は駄目だったワケか。 どんな実験をしたのかのう。 この爺に教えてくれんかのう。 あるいは発達心理あたりで何か面白いネタはないのかのう?
348 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/14(日) 13:12
>「『言語共同体による分化強化』以外の何らかの分化強化が私的事象に随伴する可能性」 いくらでもあるんじゃないですか。 ”ケガ”と”痛み”とか、”悲しみ”と”涙が出る(出そう)”とか。 動物の例は、知能の差も考慮する必要があるのでふさわしくなかったですね。 なんらかの理由(つんぼ等)で言語共同体による強化を受けなかった人間を考えるべきでしょう。 そういう人間が心の理論をもつことが出来るか、 これを問題にするべきです。 ニューロン感知を ”図説現代心理学入門 金城辰夫 培風館 初版”の四章に載っていた用語で説明すると、 様相 心的事象 適刺激 ニューロンの発火 となります。 ちなみに、聴覚の場合は、 様相 音 適刺激 音振動 となります。 当たり前のことじゃないかと思うかもしれませんが実はそうではないのです。 実際、無意識の部分は認知することが出来ません。
349 :
辞書を引いてみた。 :2001/01/14(日) 17:32
こころ 【心】 人間の体の中にあって、広く精神活動をつかさどるもとになると考えられるもの。 (1)人間の精神活動を知・情・意に分けた時、知を除いた情・意をつかさどる能力。喜怒哀楽・快不快・美醜・善悪などを判断し、その人の人格を決定すると考えられるもの。「―の広い人」「―の支えとなる人」「豊かな―」「―なき木石」 (2)気持ち。また、その状態。感情。「重い―」「―が通じる」 (3)思慮分別。判断力。「―ある人」 (4)相手を思いやる気持ち。また、誠意。「母の―のこもった弁当」「規則一点張りで―が感じられない」 (5)本当の気持ち。表面には出さない思い。本心。「―からありがたいと思った」「笑っていても―では泣いていた」 (6)芸術的な興趣を解する感性。「絵―」 (7)人に背こうとする気持ち。二心。「人言(ひとごと)を繁みこちたみ逢はざりき―あるごとな思ひ我が背子/万葉 538」 物事の奥底にある事柄。 (1)深く考え、味わって初めて分かる、物の本質。神髄。「茶の―」 (2)事の事情。内情。わけ。「目見合はせ、笑ひなどして―知らぬ人に心得ず思はする事/徒然 78」 (3)言葉・歌・文などの意味・内容。「文字二つ落ちてあやふし、ことの―たがひてもあるかなと見えしは/紫式部日記」 (4)事柄の訳・根拠などの説明。また謎(なぞ)で、答えの説明。「九月の草花とかけて、隣の踊りととく、―は、菊(聞く)ばかりだ」
350 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/14(日) 17:54
↑この馬鹿をどうしましょうか? 「分化」「強化」の意味が全然わかってないんですけど。 ヘレンケラーも知らないらしいし。 ニューロン感知も単語を並べて説明できた気になってる。 「教えて下さい」厨房君より始末が悪いと思うのは俺だけ?
351 :
350 :2001/01/14(日) 17:56
あ、ごめん。 349じゃなくて348のことね。
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/14(日) 19:53
他の皆さんは充分にわかってらっしゃるというのに、 そんな中で七君(348)だけが悲惨な状況に至っておるのう。 しかし七君以外にも「わからない」という素人さんがいると思うので、 今は一般人のこの爺が頑張って説明してみようかのう。 まず、「ケガ」は公的事象。「痛み」(の感覚)は私的事象。 「悲しい」(という感覚)は私的事象。「涙」は公的事象。 七君が書いた順番はまずかったのう。 「痛みとケガ」、「悲しいと涙」という順番で書くべきだった。 次に、痛みに対する「ケガ」も悲しいに対する「涙」も公的事象なので、 伍長氏の言葉を借りれば、どちらも共同体は接近可能じゃ。 しかし、「痛み」と「悲しい」の方は私的事象なので、接近不可能。 そこで共同体は、接近可能な「ケガ」「涙」に対して反応することによって、 あくまでも「間接的に」、七君の「痛み」「悲しみ」に対して反応していることになるな。 さてそこでじゃ、共同体は七君の「ケガ」「涙」という公的事象を基準として、 「痛い?」とか「悲しいの?」と言えるわけじゃが、 それに対して七君は、「イタイ」「カナシイ」と反応し、 共同体は「そうか、よしよし」とそれを強化する。 伍長さんの274、275の説明だと、 今回の「痛い」は(1)で、「悲しい」は(3)かな。 いや、これだけでは「分化強化」にはならんのう。 幼児時代の七君は、「イータ」「タイタイ」とか「カーナ」「カナイイ」などと可愛く言う。 共同体は、「イタイ」「カナシイ」と七君が言えるまで、七君の反応を修正してくれる。 これが「分化強化」で、七君の反応は少しずつ「分化」し、 正しい反応が形成(シェイピング)されるわけだな。
353 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/14(日) 19:58
ところが、悲しいときだけでなく痛いときにも「涙」は出るから、 七君は間違えて「痛い」ときにも「カナシイ」と言うかもしれん。 「般化」のしすぎじゃな。 七君は、痛みと悲しみがはっきりと「弁別」できてないわけだ。 そうすると共同体は、七君の「涙」以外のさまざまな公的事象を基準にして、 七君が自分の2つの私的事象を「弁別」できるようにいろいろと手を尽くしてくれる。 いや、別に手を尽くしてくれなくても、七君が共同体の中で普通に暮らしていれば、 自然とできるようになる。 そうやって七君は、痛みと悲しみが別の感覚であることを学ぶことになる。 >「自分の私的事象を弁別する反応は、言語共同体による分化強化なしには不可能であり、 >定義上、言語行動的な性質を持つ」 というのはこういう事じゃな。 だから、 >「『言語共同体による分化強化』以外の何らかの分化強化が私的事象に随伴する可能性」 というのは、「間接的に随伴する可能性」ということ。 分化強化が直接随伴するのはあくまで公的事象に対してじゃ。 上の説明では、音声言語行動という公的事象に対して随伴するが、 別に音声言語行動じゃなくてもいい。 例えば涙を流す行動が分化強化されて、「自由自在に」涙を流せるようになれば、 それは定義上言語行動だな。まあ、自然にそうなる可能性は低いが。 言語共同体がこのような分化強化を首尾一貫して行えるのは、 皆さんがお好きのウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、 共同体のメンバーが「生活様式」を共有しているからじゃな。 だから三重苦のヘレン・ケラーも何とか「心の理論」を持てるようになったわけじゃ。 (ところで七君は「心の理論」が臨床の専門用語だということを知っていて使ったのかのう?) こんな説明で良いかのう?>伍長氏、動物屋氏、343氏、344氏、その他の方々。
354 :
1 :2001/01/14(日) 21:05
久しぶりに来たらこんなに盛り上がっていて感動です。 レス読むの途中で疲れてしまいました。「なるほど」と 思う一方常に覆す疑問が湧くのです。 ひとつわかったことはこのような議論に嵌ると自殺してしまう ってことです。感じることのすべてを言葉にすることの難しさ ・・これからも議論楽しみにしてます
355 :
動物屋 :2001/01/15(月) 00:18
>352−353 行動分析的説明としては、そうなるんでしょうね。 議論をまぜっかえしつつ疑問点を述べます >ところが、悲しいときだけでなく痛いときにも「涙」は出るから、 >七君は間違えて「痛い」ときにも「カナシイ」と言うかもしれん。 >「般化」のしすぎじゃな。 これは言語(単語?)学習の説明ではないでしょうか。私的事象を説明するた めに、ある単語を使う適切な文脈や、その単語(なり記号)の意味は、確かに これによって学習できます。 が、 >七君は、痛みと悲しみがはっきりと「弁別」できてないわけだ。 これの意味がわからないor納得できない。これは、私的事象そのものを弁別で きないということでしょうか?それとも、違うものと知覚してるけど、違うも のとして表現できないということでしょうか? つまり、言語共同体から私的 事象Aと私的事象Bの違いを分化強化されなくては、個体はAとBの弁別ができな いのでしょうか? >そうやって七君は、痛みと悲しみが別の感覚であることを学ぶことになる。 を読むと、後者の意味で書いておられる気もしますが、これは疑問。 痛みと悲しみには、涙という個体外部から見える公的事象以外にも、感覚器官 で知覚される内容に相当違いがありますよね(痛覚の入力とか、私的事象の細 かな内容の違い)。個体が、これら公的事象以外の入力を全て無視するとは到 底思えません。私的事象に応じた適切な反応を外部環境に出力できないことと、 個体自身が私的事象を区別できないことは、全く異なると考えます。
356 :
動物屋 :2001/01/15(月) 00:19
>344 >実験室では、類人猿が他者の意図を読み取ることができ >るという証拠は得られていない。 オランウータンで、実験者が意図的にエサを落としたときと、事故でエサを 落としたときの区別ができた、ってペーパーありませんでしたっけ? Povinelliはしっかりフォローしてないので、最近の彼の考えは把握しており ませんが。
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/15(月) 06:33
>動物屋氏 この爺は行動分析が専門だったわけじゃないよ。 昔の学習理論を学部の授業で学び、あとは個人的に興味を持っていたにすぎん。 学習理論担当の先生は新ハル派系で、ワシはようついていけんかった。 どちらかというとスキナーは笑いの対象だったな。 もっともワシも当時はよく分からずに一緒になって笑っておったが。 ところで質問に対する答えだが、この例なら一応は後者だろうな。 でも、感覚によっては前者の場合(弁別閾外とか)もあるだろうし、 はっきりと区別がつかない場合だってあると思うぞ。 >個体が、これら公的事象以外の入力を全て無視するとは到底思えません。 もちろんそうだろうが、だからと言って、 学習経験なしに始めから私的事象の「全て」を「細かく」弁別できるわけでもなかろう。 だからこそ共同体からの分化強化が必要だとワシャ思うんだが、どうかのう?
358 :
ゆきオヤジ :2001/01/15(月) 11:00
>>354 >ひとつわかったことはこのような議論に嵌ると自殺してしまう
>ってことです。感じることのすべてを言葉にすることの難しさ
大丈夫だと思いますよ。
幾らロジカルに説得して納得させても、感情的に不倫をしてしまう女の人がいるように、
幾ら分析しても「意」が主観である以上、これらの議論から直接自殺に走る事は無いでしょう。
自殺は死ぬ方向へ意思を持って行動しないと出来ませんから。(たとえ投身自殺でも)
>>357 私も同意見ですね。
「痛い」のも「悲しい」のもその刺激が辛かったら、その感情を自分に与えるようなものを嫌ったりはするだろうけど、それとそれぞれを分別しているのは違いますよね。
例えば、強い目くらましを受けた時に「まぶしい」と「痛い」があると思うんですが、私的には一つの刺激ですよね。
五感にしても、私的事象だけだと何と何を同じモノor別物と思うかは、共同体といる場合といない場合でかなり違うと思いますが。
359 :
344 :2001/01/15(月) 11:43
>>356 (動物屋氏)
その実験で落すのは餌じゃなくジュースね。チンパンジーがジュースを要求したときに
実験者Aはジュースをコップに注いで持っていくが、チンプの前でこれ見よがしにコップ
のジュースを下に流し捨てる。
実験者Bはジュースをコップに注いで持っていき、チンプの前に来たときに躓いてコップ
のジュースを全てこぼしてしまう。
以上の経験をチンプにさせた後(実験者AとBの順序はチンプにより異なる)、チンプに
実験者Aと実験者Bのどちらからジュースをもらうか選ばせる。チンプが実験者Aの「悪意」
を読みとることができるなら、実験者Bを選択するはず。
ポビネリの初期の実験ではそういう結果が出たが、その後の彼の実験ではこれは偶然であ
ったことが判明しており、少なくとも「意図読み」レベルの心の理論がチンプにあるという
決定的証拠はないと結論されている。
Povinelli et al.(1998).Young and juvenile chimpanzee's (Pan troglodytes)
reactions to intentional versus accidental and inadvent actions.
Behavioural Processes,42,205-218.
なお、最近彼は心の理論より直感物理学に関心が移ったのか、次のような本を出版した。
(私も手元に持っているがまだ読んでいない)。
Povinelli,D.J.(2000).Fork physics for apes:The chimpanzee's theory of how
the world works.Oxford Univ.Press.
360 :
344 :2001/01/15(月) 11:46
ごめん、ForkじゃなくFolkね。昼飯時が近いのでついつい間違えた。
361 :
343 :2001/01/15(月) 20:18
言語獲得初期の子どもは、例えば、イヌ以外の動物も「ワンワン」と呼び、次第にイヌは「イヌ」、ネコは「ネコ」と呼ぶようになります。ことばの獲得の順序性や概念形成に関する認知的なプロセスについての議論はさておき、共同体からの分化強化によって特定の刺激のクラス(集合)は特定のことばと結びついていきます。イヌやネコの形態を正しく知覚できていたとしても、ことばの数が少ないために概念の線引きが大ざっぱな子ども世界ではイヌとネコは区別されていない。これは、私的事象には言えないのでしょうか?感覚器官から入力された刺激の知覚に違いがあるとしても(知覚自体が未分化なら話は別ですが)、子どもにとっては「言葉で線引きした世界のようには区別されていない」のではないでしょうか。動物屋氏とは「区別」のレベルが違うのかもしれません。
362 :
動物屋 :2001/01/16(火) 00:23
>357 失礼しました。 旧マルシンドさんかと思ったもので。よくみると、.と,じゃなかった。 >359 ありがとうございます。 >361(=343)と357 もちろん、全てが細かく区別できるとは思いません。言語ラベルや外界からの 分化強化によって、弁別が学習される場合も、弁別が正確になる場合もあるで しょう(悲しいと悔しいとか、そうかもしれません。)。 しかし、言葉で区別できないから弁別できない、とも思いません。361のイヌ とネコの例だと、確かに子供は大人と同じように「イヌ」、「ネコ」という単 語は使えないでしょう。概念の線引きが大ざっぱです。では、子供にイヌAと イヌBなり、イヌAとネコCなりを見せて、「これは同じですか?」と質問する と、子供は「同じだ」と言うでしょうか。言語を用いた外界からの分化強化が 弁別に不可欠だとすると、馴化ー脱馴化法や選好注視法で、言語獲得前の乳児 が示す弁別は何なのでしょう?また、言語を持たない動物が示すカテゴリーや 弁別能力は、何によって形成・維持されているのでしょう? 結局、 >学習経験なしに始めから私的事象の「全て」を「細かく」弁別できるわけで >もなかろう。 と、言うことだと思います。「弁別に言語が重要」というのは判るんですが、 「言語が必要」になると、動物と乳児の研究に縁がある人としては、 「おいおい」って感じです。 言語を使った分化強化がないと弁別が形成できないものって、相当に抽象的な ものだと思います。パッと思いつくのは、基数。
363 :
伍長 :2001/01/16(火) 00:25
面白くなってきましたね。
でも、七氏やすずらん氏は面白いと思ってくれるかな? ちょっと心配。
>>361 (343氏)
イヌ・ネコそのものは公的事象ですが、私的事象と同じように、その弁別のためには外からの分化強化が必要だということでしょう。
一方、イヌorネコを知覚したときに生じる身体内反応(中心は脳内反応でしょうが)は私的事象だが、それをも弁別しているのだと言ってしまうと、
うーん・・・・・・・
と、しばし想像し、「内観」してみた。(笑)
そのような私的事象を弁別しているわけではないように思える・・・・
(しかし、今の私のアタマに浮かんでいるイヌ・ネコの表象は私的事象で、それは弁別できているな)。
364 :
動物屋 :2001/01/16(火) 00:33
追加・ >学習経験なしに始めから私的事象の「全て」を「細かく」弁別できるわけで >もなかろう。 私なら、この学習には、個体単独の学習も含めます。試行錯誤学習で 弁別できるようになることもあるでしょう。 弁別に言語共同体が不可欠な事象と、言語共同体によって弁別が促進される 事象を区別する必要があると思います。
365 :
動物屋 :2001/01/16(火) 01:19
多書きコすまぬ。先の私の説明は、公的事象の弁別ですね。失礼。 主観を客観的に弁別するには、主観を他者によって客観化してもらって、 それを言語によって伝達される必要がありますね。 単純にするために、 入力→処理→出力 という、極単純な情報処理系統でモデル化します。外界に見える公的事象は、 感覚器による入力情報で、私的事象は処理後の出力情報ですね。で、私的事象 を弁別(情報処理)するには、出力したモノを再度入力する必要がある。 こんときに、複数の処理系統があって、情報をやり取り出来ると、 A:xを入力→処理→fA(x)を出力 B:fA(x)を入力→処理→fB(fA(x))出力 ↓ A’:fB(fA(x))入力→処理 となって、私的事象fA(x)の弁別が学習できますね。 結局、 公的事象は単独処理系統で弁別できるが、私的事象となった公的事象(処理さ れた公的事象)は弁別できない。公的事象の弁別には言語共同体はいらないが、私的事象の弁別は言語共同体が必要。 ってことですかね。 うーん、、、。 1) 個体内で、2つの処理系統を持てないのか。 2) fA(x)とfB(fA(x))のズレは問題にならないのか。 という疑問が残る。
366 :
伍長 :2001/01/16(火) 02:06
>動物屋氏
>言語共同体から私的事象Aと私的事象Bの違いを分化強化されなくては、
>個体はAとBの弁別ができないのでしょうか?
絶対にできないとも思えないんですけど、しかし・・・
シャクター(でしたよね?)の実験(
>>266 )では、何かの薬品を投与された結果生じた感覚に対して、被験者たちは、他のサクラの様子から、A群では自分の感覚を「喜び」と判断し、B群では「怒り」と判断した(昔のノートがなく確認できないので、記憶違いがあったら訂正して)。
また、同じ痛みでも、私自身、持病の結石(たしか他にも同病者がいましたね)の痛みなのか、ただの腹痛なのか判らないときがある(痛みの種類も部位も共に特定できない)。痛みが特に弱いときなどは、おそらく結石の感覚だろうと判っても、「でもオレ、本当に痛いのかな?」という変テコな感覚(よくよく考えてみると「痛い」とは言えない)の時があります。
もともと「大ざっぱに」痛みを弁別して反応するような生得的な仕組みはあるでしょう(そういう種が系統発生的に淘汰された)。だからこそ外部に出力できる。
こうして顕現した公的反応が人間社会で分化強化されると、公的事象に対しても私的事象に対しても、細かい弁別が可能になる(本人が思っているほど細かくはなかったりするが)。
同時に、自己の公的事象と他者の公的事象との類似性(eg.ケガ)により、他者の公的事象に対しても同様に反応できる(他者の私的事象に対しても「間接的に」反応していることになる)。
つまり、自己の私的事象に対する反応が般化して、他者の私的事象への(「間接的」)反応となる。“痛そうだな”と、「心」が通じる。
だから(とはとても言えないかもしれないが)、
>私的事象に応じた適切な反応を外部環境に出力できないことと、
>個体自身が私的事象を区別できないことは、全く異なると考えます。
確かにそう思いそうなんだけど、結果的に異ならない(orあまり差はない)ということになってしまうのではないかと。
(続く)
367 :
伍長 :2001/01/16(火) 02:08
>先の私の説明は、公的事象の弁別ですね。失礼。 ぎゃっ。 反論しようと思って、もっと長いレスを苦労して書いてたのに・・・
368 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/16(火) 06:37
問題の所在がわかっている人たちと難問題を巡って議論するのは楽しいんじゃが、 んーと、動物屋さんの365はようわからへんぞなもし。 そのモデルから、どないして >公的事象の弁別には言語共同体はいらないが、 >私的事象の弁別は言語共同体が必要。 ということになるのかいな? 伍長さんの366の後半は結局、 強化してやることのできる(「心」が通じる)ワシらがいてはじめて、 他者は自分の私的事象の弁別反応を形成すると。 そりゃわかるんじゃが、つーことは、 言語(言語行動的な「私的事象の弁別反応」でもいいが)と共同体(ワシら)と、 どっちが先やねん? 誰かわかるか?
369 :
ゆきオヤジ :2001/01/16(火) 06:53
>>365 (動物屋さん)
> 2) fA(x)とfB(fA(x))のズレは問題にならないのか。
> という疑問が残る。
結局弁別自体が、共同体内でしか重要視されないものなんでしょうかね?
公的事象からの弁別だと、たとえば名前がある場合名前AとBの間では平等な二つのものとして弁別されますよね。でも、私的事象からの区別とか差別って、一番刺激が強いものとか、要求を簡潔に満たすものとかで、それぞれを弁別しているのとはなんとなく違うような気がするのですが…。
だから、私は人に説明する為の事柄と、自分の感性に任せた伝言ゲームのような思考は使い分けていますが。
(A 人に説明する時)一回事の出力を公的事象にしながらの入出力の繰り返し。(ノートに一つ一つフローチャートみたいにメモを取りながらの思考)
(B 感性に任せている時)出力を私的事象のままで再入力。(グルグルと頭の中で考えている。)
この二つの方法がありますよね。
(A)はコミュニケーションの一つだと思っています。たとえ一人で行っていても一度言葉にする場合は。
コミュニケーションって、入出力のズレがあるから続くんですよね?
あれ、わし違う話をしているような気がする。
>私的事象の弁別は言語共同体が必要。
これって、結局、「共同体の中にいる私」の私的事象を、(共同体に参加したい為に)共同体の公的事象に似せようとしているって事なんですかねー。
なんとなく、渋谷のコギャルが渋谷系でいるためにガン黒になっているのに似ている。
ファッションを街にあわせる程に、流行アイテム・言語体系などの公的事象が頭の中でシェアを増やしてゆき、その為に個人(私的事象)の存在が薄れてゆく。(かなり大雑把な比喩だけど。)
ちなみに私はその共同体に属していないし、歩み寄る気も無いので結果として彼らを違う個体として弁別できていません。
370 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/18(木) 11:13
>もともと「大ざっぱに」痛みを弁別して反応するような生得的な仕組みはあるでしょう 非言語的に弁別が強化されることはありえないのですか? 例えば、外国人の顔は皆同じにみえますが、 その国に住んでいるうちに区別できるようになりますが、 これは言語活動とは違います。 こういう強化が私的事象にも起こるのではないですか?
371 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/18(木) 18:29
やはり脳科学を無視して心がどこにあるかは語れまい 今の心理学って根拠がどこにあるのかすら分からない・・実際そう言う反応が出たって事だけでしょ? いずれ脳科学と融合する事でしょう。それなら科学的根拠も出来る 心理学者がニュースとかでああすれば良いこうすれば良いとか言ってるのが良く分からん 要するにそう言う反応が出ましたって言う学問だろう?事実の羅列にはなっても善悪なんて判断できるか? 特に根拠も無いのに「病理」って決定してるところが謎なんですけど。
372 :
↑ :2001/01/18(木) 18:35
だからそのTVに出てるのは「心理学者」じゃないっての。
373 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/18(木) 18:45
じゃあ何もんだよ・・
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/18(木) 19:01
>372 でもそういうのがTVに垂れ流されている事自体 心理学に科学的根拠が何も無いからだろ? 芸術と同じで解釈はどう言う風にも取れる しかし精神医学の方が酷いな。実際学者が出てるじゃん たしかに病理ってのは無茶苦茶だ。芸術の域を出てない
375 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/18(木) 19:13
>371 まったく話の展開がまるでわかってない馬鹿だな。 過去ログ読んでないし、読んでも理解できんだろうが。 >370 もちろん弁別反応だって非言語的に強化されるよ。 通常の動物実験では非言語的に強化してるしね。 問題なのは、私的事象に対する弁別反応なんだよ。 私的事象の弁別を「首尾一貫して」行えるようになるには、 外部の公的な基準が必要だということだったよな。 基準が「公的」だというのは、「誰にとっても」ということ。 その基準は、生活様式を共有する言語共同体の基準。 さもないと、「何を」「正しく」弁別しているのかわからないことになってしまう。 いや、それでは弁別反応とは言えないと言った方がいいか。 「何のために」私的事象の弁別反応が必要なのかを考えてみるといいかも。 私的事象の弁別反応ができると「どんな得があるのか」を考えてみよう。
↑ この人は絵とか音楽とか,そういうものを 楽しむみたいな心は持ってないんだろうなあ..... 哀れ.
377 :
376 :2001/01/18(木) 19:15
ごめんごめん,376は >374 です.
378 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/18(木) 19:18
自分の研究が「芸術の域だ」と言われたら、 俺ならおおいに喜ぶね。
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/18(木) 19:28
>375 お前が一番分かってない様だな
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/18(木) 19:30
俺なら悲しむね
381 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/18(木) 19:52
>379 もうバカをさらすのやめろよ. 375が「一番分かってない」なんて, 「私バカでなんにもわかりません」と書いているようなものだ. まあ実際きみには弁別反応のことなど理解できるはずもないが. >380 この人は研究なんかやったことないんだろうな. はい,さようなら.
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/18(木) 20:54
↑何か必至で可哀想だね はい,さようなら
よくある厨房の去り方だな。 まあ消えてくれてありがたい。
意識とは,ニューロンの群れが作り出す微弱な電気ネットワーク以外の何者でもない あなたたちなんて,ただのニューロンの群れじゃないの 驚くべき仮説(著;クリック)より
385 :
伍長 :2001/01/19(金) 02:31
>>368 >言語(言語行動的な「私的事象の弁別反応」でもいいが)と共同体(ワシら)と、
>どっちが先やねん?
それを本当に明らかにする人が出たら、ノーベル賞を差し上げたい、と個人的には思う。
>>375 完全に正しい。
そして、
>「何のために」私的事象の弁別反応が必要なのかを考えてみるといいかも。
>私的事象の弁別反応ができると「どんな得があるのか」を考えてみよう。
そうでした。これを説明するのを忘れていた。370氏の質問の答えにもなりますね。
上手く説明する自信はあまりないけど、ちょっとやってみる。
386 :
伍長 :2001/01/19(金) 02:36
>>370 >こういう強化が私的事象にも起こるのではないですか?
起こり得るとは思います。
しかし、少々混乱があるようなので注意して下さい。
まず、強化された弁別反応が、将来に渡っても維持されるかどうかが重要です(維持される理由を考えよ)。
次に、強化が言語的かどうかが重要なのではなく(非言語的強化でもよい)、強化された弁別反応(私的事象に対する)が言語的なものだということが重要です。
3つのレベルで、順に例を考えてみましょう。
【A】:「渇き」という私的事象Pに対して、「水場へ向かう」という行動B1があります。
この行動B1は、最終的に、「水を飲む」という行動RBへリンクし、そのRBはRB自体がもたらす「水」Rによって強化されるから、行動連鎖の原理によってB1は実際に維持されますね。
このとき、「渇き」Pに対して「水場へ向かう」行動B1が生じるから、この行動B1は「渇き」Pに対する弁別反応と呼んでいいかもしれない。
(行動分析学的には、「渇き」は確立操作なので、この場合は弁別刺激にはならないと思いますが、定義次第ということでとりあえず・・・)。
多分、生得的にプログラムされた随伴性(「渇き」P→「水を飲む」RB→「水」R)を可能にするために、「水場へ向かう」という新たな行動B1が学習されたわけで、そのためには、「渇き」以外にもさまざまな弁別が必要です(場所の弁別とか)。そして非言語的強化でも、それらの弁別を含めた学習は成立可能です。また、その行動は非言語的です(共同体は必要ない)。
(1)だから、「渇き」P→「水場へ向かう」B1という非言語的な弁別反応が成立した?
(2)しかし、「渇き」P→「水を飲む」RBは、弁別反応と言えるのかな?
これも定義次第でしょうが、以前書いたように、「生得的な大ざっぱなものを別にすれば」ということで済ませてよいと思う。ここで問題になっているような弁別反応を支える機構の一つと見なしましょう。
(1)は(2)次第なのだから、やはりここは行動分析学の定義に従い、「渇き」Pは確立操作でよいと思う。
(続く)
387 :
伍長 :2001/01/19(金) 02:44
【B】:「渇き」P→「喉が渇いたぞ」B2はどうか? これが強化されるのはなぜか? どんな得があるのか? 生得的な要素の強い【A】のB1ならば共同体は不要だが、【B】のB2は共同体が前提となる。 B1と異なり、B2は、動物の生存上は必ずしも必要ではない。 しかし、人間が社会の中で生きていく上では必要な(と言うよりも「効果的な」)行動です。つまり、他者との関わりの中で生きていくには、自分の私的状態を弁別して外部に出力することが「効果的に」なった。それによって、自分で「水場へ向かう」行動B1を行わなくても、「他者を介して」、「水」Rを得ることができるから。しかも、「水」は必ずしも強化Rを直接もたらすとは限らない。つまり、強化子は「水」でなくてもよい場合がある。【A】の(2)次第であるとは言えなくなる。 このB2が成立・維持されるためには、他者が接近可能な「基準」が必要で、しかもそれは「公的」なものでなければならない。 自分の私的事象を弁別するための基準と、他者が私的事象を弁別するための基準とが類似していて、しかもお互いにとって接近可能な「公的」なものであれば、他者が「渇き」Pの状態の時に、その公的「基準」を基にして、他者に水を与えること等ができ、他者の弁別反応B2を強化できる。 だから、「喉が渇いたな」という弁別反応B2は、他者にとっても同様に学習可能であって、同様の強化をもたらすものとなる。 つまり、「喉が渇いたぞ」というB2は、自分の私的事象の弁別反応であると同時に、他者による自分の私的事象の間接的な弁別反応「喉が渇いているみたいだね」B2'にもなる。「心」が通じる。 同様の場面で相互に強化し合うことができる(言語的にも非言語的にも)ということが必要であり、強化される弁別反応が言語行動的性質を持つというのは、こういうこと。 「喉が渇いたぞ」反応を共同体の他の成員が強化しなければ、それは定義上言語行動ではない。この非言語的な発声行動が自発されたとしても、何らかの強化がなければすぐに消去する。そして、強化される理由は無いので、そもそもそのような反応が成立・維持されることは、通常の場合、あり得ない。 (さらに続く)
388 :
伍長 :2001/01/19(金) 03:09
【C】:「渇き」P→「喉が渇いたという自己意識(「渇き」の実在感)を持つこと」B3はどうか?(このスレでは本来これが問題だった) この「自己意識」B3を持つことによってどんな得があるのか。それに対してどのような強化がもたらされるのか? 「自己意識」B3を持たなくても「水場へ行く」行動B1は形成可能なので、本来は「自己意識」B3を持つ必要はない。 それなのに「自己意識」B3が形成・維持されているのは、結局、【B】の場合と同様に、「自己意識」B3という「私的事象に対する私的な弁別反応」B3を相互に強化し合うことが、種の存続にとって効果的であったからだ、と考える。 ★ところが、「自己意識」B3という弁別反応それ自体も私的事象なので、外部から「直接的に」強化することは出来ない。だから、本来ならこのような「自己意識」B3は成立し得ないはず。 百歩譲って、「自己意識」B3が「自然発生的に」生じたとしても、維持は不可能(【B】の最終パラグラフと同様)。 成立・維持のためにはどうしても「公的な」何かを介在させる必要がある。それがウィトゲンの言う「公的基準」であって、それに基づいて、私的事象に対するこれまた「公的な」弁別反応B4を、成員同士で強化し合うことができる。この時の弁別反応B4は定義上言語行動的なものになる。 ★この言語行動的&顕現的な弁別反応B4が分化強化され、非顕現的レベルにまで分化したものが、「自己意識」B3だと考えたい(そうでなければ、一体どうやって成立する?)。だから、言語共同体なしには「自己意識」は成立せず、この「自己意識」B3自体も、定義上言語行動の一種。 以上、ただでさえ解りにくいのに、行動分析的な説明なので取っつきにくいだろうが、認知屋さんや哲学屋さんなら異なるスタイルで似た説明をしてくれると思う。 あえて素朴な言い方で大ざっぱにまとめると、 「自己意識を持つということは、同時に、他者の意識内容を推測することができるということ」 「自己の意識内容を自己と他者が共に理解可能になるということが、意識が成立するということ」 「自己意識を持つことが社会生活上で有利になるから、自己意識を持てるようになる」 ただし、他者の(&自己の)意識内容を「本当に」知ることができるのか?に対しては、「否」と答えることになる。
389 :
>伍長氏 :2001/01/19(金) 06:48
いよいよ徹底的行動主義が本格的に正体を現したな。(笑) 【A】の説明が弱いような気もするが、まあよかろう。 【B】もいいだろう。 問題は【C】か。 スキナリアンの、「意識は行動である」とか「意識は内語化した言語行動である」 みたいな考え方がこの爺には実は何となくしっくりこなかったんじゃが、 >★この言語行動的&顕現的な弁別反応B4が分化強化され、 >非顕現的レベルにまで分化したものが、「自己意識」B3だと >考えたい(そうでなければ、一体どうやって成立する?)。 を読んでわかってきたよ。 顕現反応の分化で説明するのか。なるほどのう。 言われてみればそれで簡単に説明できそうじゃが、うーむ・・・・・・ マルシンド先生は同意するじゃろうが、非スキナリアンの動物屋さんや他の人はどう思う?
390 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/19(金) 09:48
いろいろ考えてみたがやはりちょっと変じゃな。 >非顕現的レベルにまで分化したものが は、 →非顕現的レベルにまで「般化」したものが の間違えじゃろう。 反応分化と反応般化とでは大違いじゃ。
平日だというのに、よくもまあタラタラと長文を書く暇があるなあ。 うらやましいかぎりだよ(笑)
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/19(金) 12:55
↑ よく見ろ! 伍長氏の書き込みのタイムスタンプはすべて「午前」だよ。 平日の昼間に書き込んでるのはお前だろ、って今日は国立大学は センター試験の準備で休みなんだよね。
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/19(金) 13:29
↑ こころここにあらず。
394 :
厨房 :2001/01/19(金) 22:29
共同体が先か、言語が先か? という問いにもかかわることですが、人間ははじめから 大人ではなく、母親から赤ちゃんとして生まれ、育てられる という事実を抜きにしてこのまま話を進めていいんですかね? 自己意識や心の成り立ちについて論じるなら、この、 「母親ー赤ちゃん」という場面にも注目して考察を進めるべき だと思うのですがどうでしょうか?
395 :
伍長 :2001/01/20(土) 00:57
ありゃりゃ。 御指摘どおりに388を訂正。(^^; >非顕現的レベルにまで分化したものが、「自己意識」B3だと・・・ ↓ 「分化」→「般化」(反応般化) 学習理論の基本中の基本用語ですが、簡単に整理すると、 刺激弁別:異なる刺激に対して異なる反応をすること。または、特定の刺激に反応し、他の刺激に反応しないこと。 刺激般化:異なる刺激に対しても同じ反応をすること。 反応分化:ある刺激に対する反応型(トポグラフィ)が特化されること。 反応般化:ある刺激に対する反応型が多様化すること(スキナーの用語では「誘導」だっけ?)。 反応(反応クラス):レスポンデント(反射的反応)、オペラント(自発的反応)。 刺激(刺激クラス):レスポンデントの無条件刺激と条件刺激、オペラントの弁別刺激(と強化子)。 反応型:特定の反応クラス内の各反応の物理的特性。 分化強化:特定の反応型を持つ反応クラスだけを強化して、反応分化を促進すること。 一般向けには、とりあえずこんな感じでいいかな? なお、今問題になっているのは、主にオペラントと弁別刺激です。 >394 ネタをふって下さると嬉しい。
396 :
臨床屋 :2001/01/20(土) 01:31
説明ありがとうございました。どうもよくわからなかった「自己意識」と今の話の流れの関係が、わかったような気がします。>伍長さん 説明にそって考えると 夏の暑い日+外から部屋に来て汗だくの友人+「あー、喉が渇いた(B2)」 冬の寒い日+外から部屋に来てぶるっと震えている友人+「あー、喉が渇いた(B2)」 さて、あなたはよく冷えたお茶と熱いお茶のどちらを友人に出すでしょうか? 聞き手のあなたが知ることができるのは公的事象でしかない、しかし「熱い(冷たい)お茶が飲みたいんだな(B3)」という意識が生じる(この場合はB3が生じることなく、自動的にお茶を出すというのは考えずらいですが、他の例ならあるのかも?)。友人が欲していた方のお茶をだせたら、友人は「ありがとう」と言って、あなたの「お茶を出した」という行為とB3を強化してくれる。 こうして、私的事象に対する反応(私的事象→冷たいお茶を飲む)と同じように、公的事象から反応できる(夏の暑い日+汗だくの友人+「喉が渇いた」→冷たいお茶を出す)者同士だからこそ、円滑なコミュニケーションが取れるのではないでしょうか。 >349 乳児と母親の間では、乳児の生得的な強化(生理的な要求を満たす)に基づいたやりとりが多いですが、乳児がことばをもつ前からもっと社会的なやりとりは始まっています。 ことばを発しない乳児と母親との間で「心が通じる」というのは、どうやって始まるのか?と、いうことには私も興味があります。視線ですかね?>発達屋さんが詳しいのかな。
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/20(土) 12:20
経験による学習というのは、弁別反応以外にもあるはずです。 ”あそこのかどを曲がるとポストがある” などの学習は言語を共有する他者の協力はありませんが、 普段そこの道を使用している限り以後も維持されます。 私的事象に関してもこのような学習が可能でしょう。 他者の協力のない学習は維持出来ないのいうのはおかしいです。 >「自己意識」B3という「私的事象に対する私的な弁別反応」 これの意味がわからないので説明していただけますか。
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/20(土) 17:43
>経験による学習というのは、弁別反応以外にもあるはずです。 当たり前。 >”あそこのかどを曲がるとポストがある” >などの学習は言語を共有する他者の協力はありませんが、 >普段そこの道を使用している限り以後も維持されます。 そのとおり。 >私的事象に関してもこのような学習が可能でしょう。 概して無理。 可能だという事例を示してごらん。 >他者の協力のない学習は維持出来ないのいうのはおかしいです。 このスレのテーマに関する限りでは、おかしくない。 >>「自己意識」B3という「私的事象に対する私的な弁別反応」 >これの意味がわからないので説明していただけますか。 「痛み」というのは私的事象だよね。 その「痛み」に対して、 顔をしかめたり、泣いたりするのは公的事象だけど、 自分が「(痛いと)思うこと」(自己意識)は、私的事象(私的な弁別反応)だろ? 読者の最低限の知的レベルが試されるスレだな。
399 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/20(土) 19:33
>可能だという事例を示してごらん。 ケガをすると痛い。 酒を飲むと思考力が落ちる。 思い通りにならないとイライラする。 目をつぶると視覚的判断ができない。
400 :
>七 :2001/01/20(土) 20:41
やれやれじゃな、皆の衆。 それらは全部いままでの議論で説明されたことじゃよ。>399 「痛い」とか「イライラする」という意識をどうやって身につけるかという話だったよな。 共同体なしでそれが可能なら、そういう事例をあげてみろと388さんは言ったわけじゃな。 だから、例えば「ケガをすると痛い」という自己意識が共同体なしに生まれる可能性があるなら、 そういう事例を想像して示してみせよということじゃ。 よいかな、七君。(笑) 待てよ、もしかして痛みという現象と「痛い」という意識との区別がついていないんじゃないのか?
401 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/21(日) 01:18
>>397 みんなが言っているのは,
「
>>399 であげられているような(自己意識の)事例は,
かくかくしかじかのプロセスで共同体が介入すれば成立可能.
しかし,もしも共同体の介入なしに成立する可能性があると言うなら,
可能となるそのプロセスをかくかくしかじかと指摘せよ」
ということなんだから,399で事例をあげたつもりなら,それは見当違い.
もしも400氏の疑念どおり,「現象」と「それに対する自己意識」との
区別がつかないのなら,逝ってよし.
402 :
厨房 :2001/01/21(日) 02:09
どうすれば「痛み」という現象がおきるかを学習 すること(A)は、私的事象としての学習(B) ではあるけれど、 「自己意識(私的事象に対する私的弁別)」につ いての学習(C)ではない。つまりAはCではない。 AとCはBに含まれる。これでいいですか?
403 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/21(日) 02:57
↑意味不明。
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/21(日) 06:05
無理して「学習」などと専門用語を使わん方がいいぞ。(笑) たしかに意味不明で、ワシにもよくわからんが、 (A)「痛み」という生理的現象そのものの発生 は、 (B)私的事象の発生 だが、 (C)「痛みについての自己意識(私的事象に対する私的弁別)」の成立 ではない。 ということであるならば、 >AはCではない。 >AとCはBに含まれる。 ということになるのう。 今日はこれから雪かきか。 朝飯はおいしくいただけそうじゃが、腰が心配じゃわい。やれやれ。
405 :
厨房 :2001/01/21(日) 08:47
>>404 フォローありがとうございます。
そういうことです。
学習は関係ないんです。
406 :
厨房 :2001/01/21(日) 10:45
痛い経験を一人でいくら繰り返しても、「痛い」と言うよう にはならないし、痛いという自己意識をもつようにもならない。 言語化したり自己意識を持つようになるには他の要因が必要なん であって、その要因とは言語共同体(による分化強化)だ、と ここでちゃんとまとめておきます。 で、共同体の介入なしに自己意識がうまれた事例ですが、これを 七氏にかわって私がひとつだけ挙げますと、それはお釈迦様です。 お釈迦様はうまれるなり上方と下方とを指して「天上天下唯我独尊」 とおっしゃったということです。
407 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/21(日) 13:00
言語による概念の記号化が思考を効率化したことは分かります。
それにより人間の思考が他の動物のそれと比べてはるかに高度になったのでしょうし、
また、そのような高度な思考は言語共同体の協力無しには不可能でしょう。
ですから、言語共同体の協力の有無によって、見える世界は全然違うでしょう。それは分かります。
しかし、それは私的事象の学習能力とは関係ないと思います。
確かに痛みを”痛み”と認識するのは言語共同体が必要ですが、
それを言ったら、ポストを”ポスト”と認識するにも言語共同体は必要です。
だからといって、視覚から経験学習するには言語共同体が必要だとはいいません。(
>>398 )
>もしかして痛みという現象と「痛い」という意識との区別がついていないんじゃないのか?
いくらなんでもそれぐらいは分かります。(笑)
痛みの例は説明したとのことですので別の例を挙げます。
”意図的に腕を動かすことができる。”
”意図的に腹を鳴らすことは出来ない”
”意図しなくても瞬きや呼吸は行われている”
これらの知識は経験によって学んだのだと思います。
それとも先天的にもっていたのでしょうか?
あなたは今目と口を閉じているとします。
そのとき、何かの物音がしました。あなたはそれが何か知りたいと思いました。
このとき、目と口のどちらを開けるかといえば、当然目でしょう。
”目を開けると視覚的判断ができるようになる”
これは経験によって学んだんだと思います。
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/21(日) 16:34
>しかし、それは私的事象の学習能力とは関係ないと思います。 「私的事象の学習能力」というのは変な表現だな。 「私的事象を認識すること」なら関係ある。「認識」の定義にもよるが。 >確かに痛みを”痛み”と認識するのは言語共同体が必要ですが、 >それを言ったら、ポストを”ポスト”と認識するにも言語共同体は必要です。 そのとおり。わかってきたじゃないか。 >だからといって、視覚から経験学習するには言語共同体が必要だとはいいません。 何を学習するかによるね。 目的地のポストを「ポスト」と認識するには共同体が必要だが、 ポストという物体と他の物体との弁別だけなら共同体は不要。動物にもできる。 >”意図的に腕を動かすことができる。” >”意図的に腹を鳴らすことは出来ない” >”意図しなくても瞬きや呼吸は行われている” >これらの知識は経験によって学んだのだと思います。 うん、そのように認識できるのは学習の結果で、しかも共同体が必要。 >あなたは今目と口を閉じているとします。 >そのとき、何かの物音がしました。あなたはそれが何か知りたいと思いました。 >このとき、目と口のどちらを開けるかといえば、当然目でしょう。 知りたいと思っても思わなくても、目は開くよ。 ただし、「知りたい」と「思う」ためには共同体が必要。 >”目を開けると視覚的判断ができるようになる” >これは経験によって学んだんだと思います。 上と同じで、共同体の中でそのように自己認識することを学習した。 しかし、「そのようなときに目を開けること」自体は生得的な反射かもしれないし、 学習の結果だとしても、共同体は不要。
409 :
伍長 :2001/01/22(月) 02:05
>>406 (厨房氏)のまとめが正しく、
したがって、お釈迦様のエピソードを反証事例として挙げられたのも適切だと思います。
あまりにも明快で極端すぎる事例ですが・・・(笑)
日常的によくある現象を事例として、
>>401 氏の言う方向で反証できる方はいらっしゃいませんか?
それから、動物屋氏は「共同体必要説」を最終的に肯定されたのでしょうか?
ちょっと気になるもので・・・
410 :
>伍長 :2001/01/22(月) 20:13
心の理論を形成するのに言語行動が不可欠どいうなら、
つんぼ(ヘレンケラーなど)の場合はどうなるのですか。
>>353 は、
>共同体のメンバーが「生活様式」を共有しているからじゃな。
だから三重苦のヘレン・ケラーも何とか「心の理論」を持てるようになったわけじゃ。 <
と書いてあるだけですので説明不足の気がします。
(353にそれらしいことが書いてあったのですが)
言語行動は聴覚的なものに限定されないということですか。
そうなら、それに関して教えていただけますか。
”接近”を
”日常生活における反応可能性とでも考えればよい。貴方は火星の土に触ることはできない。”
と説明してますが、
それの説明だと無意識にも”接近”できるはずと解釈するのが自然です。
実際には”接近”していないのですがこれについてはどう考えてますか。
言語には概念を記号化する効果があるので、
言語を持つものと持たないものでは思考のレベルに大きな差ができます。
猿に将棋を理解させるのはおそらく不可能でしょう。
猿が将棋盤をみても”詰めろだ”と認識しないでしょうが、
だからといって、盤や駒がみえていないわけではありません。
認識のレベルに差があるにしても猿も一応意識を感じている可能性があります。
411 :
OFW :2001/01/22(月) 22:06
>>410 ちょっと、一言。
>認識のレベルに差があるにしても猿も一応意識を感じている可能性があり
>ます。
サルに意識がある可能性は、私も否定しない。ですが、それが現実性にな
るためには、言語が必要だということです。
「言語とは現実的な、誰にとっても存在する意識である」(マルクス)
つまり、単に感じる(内的な)だけでは明確にそれとして特定できず、
それを「外化」して、対象的な存在にしなくては、現実的なものにはなら
ない訳です。現実的な(Actual)ものとは、単に存在する(あるいは
現象している)ということではなく、まさに今働いている、ということで
す。
412 :
伍長 :2001/01/23(火) 00:01
>心の理論を形成するのに言語行動が不可欠どいうなら、
>つんぼ(ヘレンケラーなど)の場合はどうなるのですか。
うろ覚えですが、サリバン先生がヘレンの手を取って流水にあてがい、手のひらに「水」と書いて、ヘレンに水の概念を教えましたよね(昔観た『奇跡の人』にそんなシーンがあったように思う)。
水の触覚刺激が公的事象になっていて、手のひらの触覚刺激が言語となった。ヘレンがそれ(手のひらに「水」と書く)を真似すれば、サリバン先生はそれを分化強化できる。
スキナーの例では、盲人に物Aの名前を教えるとき、盲人にとってはAの触覚刺激特性が、教師にとってはAの視覚刺激特性が、Aを公的事象として成立させている(
>>274 )。音声が言語となり、教師の音声言語を盲人は真似し、教師はそれを分化強化できる。
ですから、
>言語行動は聴覚的なものに限定されないということですか。
当然じゃないですか!(これを前提に話してきたつもりなんだけど)。手話その他の“body language”だって立派な言語行動ですよ。「道しるべを設置する」とかもね。
>それの説明だと無意識にも”接近”できるはずと解釈するのが自然です。
>実際には”接近”していないのですがこれについてはどう考えてますか。
質問の意味がわからない。
>認識のレベルに差があるにしても猿も一応意識を感じている可能性があります。
OFWさんの回答(
>>411 )でOKでしょう(難解だけど何とか理解できる)。
盤や駒が見えているだけでは、それを「意識」していることにはならない。
ただし、私も、言語行動の原初的なモノなら、猿にもあり得ると思うので、猿が(特に、人為的に高度な訓練を受けたアイやワシューやサラやカンジが)未分化な意識を持つ可能性はあると思う。
(うーん、どうなんだろう?>動物屋さん。「刺激等価性」がポイントらしいんだけど)
413 :
ははは。 :2001/01/23(火) 02:29
弁別反応、うんぬん、面白く読みました。 しかし、何らかの詭弁が混じっていると疑っております。 私は、意識なるものはもっと広く(生物的に)存在していると思っています。 意識の存在と、言語化能力は別の問題として考えるべきでしょう。 立場表明だけでは、なんにもならないと知りつつレスしてしまいました。 うまい反証が思いついたら改めて、カキコできたらと思います。 でも、とにかく、面白かったです。
414 :
>ははは :2001/01/23(火) 06:30
>しかし、何らかの詭弁が混じっていると疑っております。 それは興味深い指摘じゃ。 ほんの少しなんだが、実はワシもそういう気がしている(ワシ自身のレスも含めてじゃが)。 それがどこなのかがまるでわからん。
415 :
ははは。 :2001/01/24(水) 00:42
詭弁などという大上段な言葉を発してしまった手前、 スレッド全部読んでみました。専門用語・理論など理解不能だった部分もありますが、 現時点での、思うところを書いてみます。 まず、わたしの不信感の根本は、言語発生と意識発生がシンクロするのが当然と いう前提で論旨が展開している事です。以前から「人間にしか意識はない」という 考え方があるとは知ってはいたのですが、(人間中心の時代遅れの思想と思っていた) 伍長氏のレス等を読んで、なるほど、こういう事なのねと考えを新たにした部分もあるのですが・・・。 てな訳で、自分なりの問題提起を、おそるおそるしてみます。 多くの生物の持っている能力のひとつに、「脳内マップ」というものがあります。 この定義は、難しいのですが、シンプルにいえば「外界を3次元で認知する能力」 とでもいったらいいのでしょうか。 普段私たちは気づきませんが、地下鉄などで、乗換などを間違えると、 方向感覚(脳内マップ)が壊れて、どこにいるかわからなくなることがあります。 この感覚は自分で実験できます。電車に乗りながら この電車は、逆方向に向かっていると考え脳内MAPを反転させてみましょう。 これは、なれないと結構苦痛で気持ちの悪いものです。 ここで、問題にしたいのは、この脳内MAPが意識の根源ではないかという仮説です。 なぜなら、このMAPが機能するには、これの真ん中に位置し、認識し、利用する主体。 すなわち、意識が存在していなければいけないのです。 そして、それは、言語が介在しなくても存在するはずです。 とりあえず、結論だけになってしまいましたが、この仮説を基に 認識や心の問題も、幅広く展開できそうな気がしております。
416 :
>伍長 :2001/01/24(水) 01:59
>それの説明だと無意識にも”接近”できるはずと解釈するのが自然です。 >実際には”接近”していないのですがこれについてはどう考えてますか。 >質問の意味がわからない。 なぜ無意識に接近することが出来ないのですか? と言う意味です。
417 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/24(水) 03:12
みんなよく探したか?
418 :
厨房 :2001/01/24(水) 06:12
>>415 アプローチの仕方はいろいろあるでしょうが、ここでは
言語発生と意識発生をシンクロさせて考えていく伍長氏の
展開が
あるので、今はその方向で議論を進めるほうが実り多い
のではないかと思います。
伍長氏が、非言語的な部分にある意識の存在に気づいて
いないわけではないでしょう(それを否定するような展開
ではありますが)。
私としては今の、言語的な自己意識についての議論の流れが、
どのようにして言語の介在しない意識についての議論へとつ
ながっていくのかが楽しみなので、「共同体の介入なしに自己
意識が成立する事例及びプロセス」を示すことは、その意味で
このスレの議論の流れの中での特異点だと思っています。
だから、ははは氏の「脳内マップ」仮説は、その反
証事例(言語共同体の介入なく自己意識が発生する可能性の
一つ)につながるものとして読みました。
また、おそらく七氏が主張してきたのもこれに類することと
思われます。
419 :
すずらん :2001/01/24(水) 15:38
たまに書かないと忘れられそうなんで・・・(笑)
>>412 伍長さん、(その他の皆さん)口は出してませんが見ております。
ただ現在、修論提出が迫っておりますのでそちらに全力で当たらねばならず、
しっかり読んでおりません。2月の半ばになれば暇ができるので、
その時になったらじっくり読ましていただきます。
頭弱いんで流して理解することは出来ません・・・(泣)。
取り敢えず、永井均『ウィトゲンシュタイン入門』とか言うのを買ってみました。
なんか、哲学知らん人でも読める!とか宣伝してあるんで・・・。
ところで、永井均って何者?まあ、信州大学の先生みたいですが
何やった人なんですかね(マジで知らないっす)??
Linus B.Torvaldsさん(Linuxのカーネル作ってる人)や
J.ゴスリングさん(プログラミング言語Javaに中心的に関わってる人)
が何をやったかはよく知っているのですが・・・(笑)。
と言う訳で、私はシュミレーションをしている者です。
(話を逸らしてスイマセン)
420 :
すずらん :2001/01/24(水) 15:41
そうそう、『シュミレーション』→『シミュレーション』 に書き改めときます。 前にこれで突っ込まれた事あるんで・・・(笑)。
421 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/24(水) 17:08
ケンブリッジ大学の神経生理学者ホラス・バーローが1972年に提案した、認識のニューロン原理 私たちの認識の特性は、脳の中のニューロンの発火の特性によって、そしてそれによってのみ説明されなければならない 私たちの心の性質は、どんなメカニズムに基づくにせよ、ニューロンの発火状態によってのみ決まる
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/24(水) 18:25
↑ そういう説明は,うまいそばの話を話をしているときに 「そばはすべてそば粉でできている,おわり」というような ものである。これもカテゴリー錯誤の一例。 心の性質がニューロンの発火状態によって決まるとして, その発火状態は(あるいはその変化は)何によって規定されるのか, あるいは発火状態に影響する,あるいは発火状態の様態を決定する 要因は何か,という問いは,また別のもの。 ここではそういう話をしている。でも421みたいな奴は必ず 自分はこの話題にぴったりの,それも根本的で一番頭のいい 答えを自分が言っていると思っている。大丈夫,バカは治る。 俺も院生くらいのころは今の君みたいだったから。
423 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/24(水) 18:56
ニューロン同士の結合の詳細が、おのおののニューロンの個性を左右する。すなわち個々のニューロンの活動は、それ自体と他の全てのニューロンとを含むニューロン集団から成る全 体のネットワークの結合様式から決定される。逆に全体のネットワークの結合様式は、個々のニューロンの活動の様子によって時々刻々変化していく。このように、個々のニューロンと 全体のネットワークは、典型的なフィードバック・システムを構成しており、その意味で立派な複雑系である。ネットワークの巨大さと結合様式の複雑さゆえに、脳の働きの全貌を理解す るのは不可能に近い
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/24(水) 22:05
↑ それじゃ,君は心のことはわからないというわけね。 ではさようなら,消えてください。
425 :
伍長 :2001/01/24(水) 23:24
>>415 >言語発生と意識発生がシンクロするのが当然という前提で論旨が展開している
始めから言語を話題にしたので「前提」に見えるかもしれないけど、実は「帰結」です。
A氏はなぜ自分の私的事象を弁別する必要があるのか?
↓
自分の私的事象を弁別することが、他者と関わりながら生存していく上で有利だから。
(いや、これでは目的論になってしまうので、「生存に有利な行動が淘汰された」と考える)
さて、そこで、
幼いA君に私的事象が生じるとする。
↓
A君がそれを弁別するには外部からの首尾一貫した分化強化が必要。
↓
しかし、外部がそれを首尾一貫して分化強化するには、公的な基準が必要。
↓
公的であるということは、それに基づいて他者が首尾一貫した分化強化をA君に施せるということ。
↓
他者がA君に分化強化を施すのは、そうすることによって、他者がA君から強化されるから。
↓
相互強化を可能とするには、両者が生活様式or行動様式を共有していなければならない(共同体が必要)。
↓
A君は、この他者からの間接的な分化強化によって、自分の私的事象を弁別する(=自己意識の成立)。
↓
他者によって間接的に分化強化されて成立したA君の弁別反応は、定義上、言語行動である。
ゆえに、「言語発生と意識発生がシンクロする」のは、「前提」ではなく「帰結」である。
ただし、(原初的)言語発生の方が、(原初的)意識発生よりも前じゃないかとは思いますけど。
426 :
伍長 :2001/01/24(水) 23:29
>>415 >脳内MAP=外界を3次元で認知する能力
ってことは、認知的な構成概念のようですね。
認知レベルor脳レベルで語る前に、行動レベルで確認しておきたいのですが・・・・
視覚刺激に対する非言語的な弁別反応なら共同体なしに可能ですね(そのときの脳内現象はともかく)。
で、視覚刺激の入力の際に、外部環境との非日常的な相互作用にさらされているため、正しい(効果的な)弁別ができなくなるっていう、それだけの話じゃないんですか? よくわからんけど。
ただ、「自分には外部がこれこれのように見えている」と思うこと(自己意識)は、上記のような過程を経て可能になる弁別反応。
この現象を支えるメカニズムを、「脳内MAP」という構成概念で語るのはアリでしょうが。
>>416 できますよ。
>実際には”接近”していないのですが
意味不明。
>>418 >伍長氏が、非言語的な部分にある意識の存在に気づいていないわけでは
>ないでしょう(それを否定するような展開ではありますが)。
目下のところ、私はそれを否定する急進的な立場に立っています。
ただし↓
>>414 それは私自身も自覚しており、ずっと上の方でもさりげなく書いております。(^^;
427 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/25(木) 15:14
無意識には言語的に対応できないでしょう。 出来るというなら具体的な例を挙げてください。 その意識と無意識の差がどこから来るのか。 ”火星に触ることが出来ない”などの説明だけでは不充分です。 >目下のところ、私はそれを否定する急進的な立場に立っています。 内観とか感じとかも重要だと思いますよ。 理屈上ありえないから無いというなら、 世の中には物質しか存在しないのだから 意識など存在しない という考えと同じです
428 :
伍長 :2001/01/26(金) 00:47
>>427 貴方の言いたいことが意味不明なのだから答えようがない、と申し上げている。
繰り返しますが、ある「事象」に「接近できる」というのは、意識的にであれ無意識的にであれ、あるいは言語的にであれ非言語的にであれ、単に「それに対して反応可能性を持つ」といった程度の意味でしかないのです。
貴方の「私的事象」に対して、貴方自身は「直接的」な反応可能性を持つが、他の人たちは貴方の私的事象に対して「直接的」な反応可能性は持てない(「間接的」にはできるということはこれまでに書いてきた)。まあ、テレパシーの能力があれば「直接的」な反応可能性を持つということになるのかもしれないが。
単にそれだけの話です。なぜこんな分かり切ったことが分からないのか。
>内観とか感じとかも重要
まさにそういう話を延々としてきたわけでしょうに。まったくもう。
それが分からないのならば、本当に「逝ってよし」。
話の展開をよく分かっている人からの建設的な批判は歓迎しますが、まるで分ってない人から頓珍漢な批判をされても困ります。
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/26(金) 02:42
>427 >内観とか感じとかも重要だと思いますよ。 伍長氏も言っているように、その「内観とか感じとか」の話をしてきたはずだろう? それを理解できないならそろそろ諦めた方がいい。君にはもう無理だ。 時間を割いて丁寧に説明してくれている伍長氏が気の毒だよ。 たった一人の狂言回しに振り回される真面目な伍長氏を見ているのも悪くはないが。 ついでだが、その「急進的立場」に立っているのは伍長氏ばかりじゃないんだよ。 主義は違っても、昔からそういう「急進的立場」の哲学者はいたし、 現代の哲学や社会学の中で、そういう立場に立つ学者が多くなっているのは確か。 最近では英米の社会構成主義などもそうだ。 仏のポスト・モダニズムも多分にそうらしいな。 ラカンもそのようだ、と言ったら伍長氏は困惑するだろうが。
430 :
善意の第三者 :2001/01/26(金) 03:31
>>427 伍長さんが説明してくださってることは、賛同できるかどうかは
別にしても、基本的な話なのではないでしょうか?
それが理解できないようでしたら、もう少し本を読んで出直して
くることをおすすめします。
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/26(金) 03:34
↑ やめとけ。 427はただコテハンに噛み付きたいだけだろ?
432 :
OFW :2001/01/27(土) 07:50
>>421 >私たちの認識の特性は、脳の中のニューロンの発火の特性によって、そし
>てそれによってのみ説明されなければならない
それは「神経生理学帝国主義」のための要請に過ぎないでしょう。
>私たちの心の性質は、どんなメカニズムに基づくにせよ、ニューロンの発
>火状態によってのみ決まる
要請が断定に変わっている。「神が必要だ。だから神によってのみすべては
決まる」と言うのと、余り変わらない。心の性質(本質)は心に聞け!
>>415 (”ははは”さん)
>電車に乗りながら この電車は、逆方向に向かっていると考え脳内MAP
>を反転させてみましょう。
私は極度の方向音痴で、昔からしょっちゅう、反転していた。
因みに、詩人萩原朔太郎のエッセイにその話があり、普段とは逆の出口
から出たために「まったく見知らぬ町に迷い込んだような錯覚」に陥った
ということが書かれています。
>MAPが機能するには、これの真ん中に位置し、認識し、利用する主体
哲学的には「パースペクティブ」(眺望、地平)と呼ばれ、行動的―認知
的な枠組みとして捉えられています(G.ミード、メルロ・ポンティ、
トラン・デュク・タオ、フーコーなど)。それは経験的な主体が経験を超
えた世界(客観的世界)に向かうための見取り図でしょう。
世界の中にいる経験主体と世界を表象する主体(カント的な超越論的主体)
との二重化がそこにある。
>すなわち、意識が存在していなければいけないのです。
>言語が介在しなくても存在するはずです。
「今見えている、これは何だ?」と思わなければ、言語は不要でしょうが、
それは身体行動と一体化している無意識的な背景(トラン・デュク・タオ
は「下図」という言葉を使っている)として存在しているからであり、
行動が阻害されて、初めてその意識が発生するのではないかな?
433 :
ははは。 :2001/01/27(土) 10:42
>>425 この解説が、言語および心の発生のメカニズムなら同意できます。
ただの自己意識の定義(諸問題を含んだ)の問題かも知れませんが、
それについては、次項にて、
>>432 >経験的な主体が経験を超えた世界(客観的世界)に向かうための見取り図でしょう。
>行動が阻害されて、初めてその意識が発生するのではないかな?
わかりやすい解説ありがとうございます。しかしながら、少し絡みますと、
「無意識的背景」と定義されるものが、ある時意識として認知されるのは、
論理的矛盾のような気がするのですが・・・。
さて、上記の私見の基となる、私なりの「自己意識」の見解を述べます。
またまた、卑近なたとえ話から始まりますが、
私たち人間が、お酒を多量に飲むと俗に言う酩酊状態になります。
とはいっても、その場では、話もでき、時には討論などもしています。
しかし、次の日には何も覚えていなかったりします。
私は、この状態は、自分の存在を認識し、何かを思っている
「意識がある」状態だと思っています。
そして、さまざまな生物の意識もこの状態(あるいは少し進化した)
に近いのではないかと思っている次第です。
さて、ここで言う酩酊状態(人間以外の生物の意識)と通常の人間意識の違いは
何かというと、脳内メモリー、及び長期記憶の作動状態の違いと言い換える
事ができます。つまり、生物は記憶処理を基に事象を時系列的に判断できるように
進化するすることにより、より人間的意識(心)に近づいて行くのではないでしょうか。
つまり、意識の根源は、脳内マップ(感覚の総体の3次元的統合)であり、
それを、時系列化(4次元化)することにより、心が進化していく。
このモデル(枠組み)で考える方が、より自分自信の内観作業と
一致する考え方なのでは、ないかと思っているわけです。
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/28(日) 06:18
>432 >それは「神経生理学帝国主義」のための要請に過ぎないでしょう。 うまい。
435 :
>433 :2001/01/28(日) 18:50
>自分の存在を認識し、何かを思っている「意識がある」状態 つまりそれが「自分の私的事象を弁別している状態」ということじゃな。 >時系列化 時系列上で出来事Aが先、出来事Bが後という弁別をするだけなら動物にもできると思うが、 それを弁別している自分自身の私的状態をさらに弁別しているというのが自己意識じゃろう。 私的事象の弁別には言語共同体が必要(だから言語を持たない下等動物ならば自己意識はない)、 というのが伍長説の基本だと思うので、 434氏が動物の自己意識(存在すればの話だが)は人間の酩酊状態のそれに近いと言っても、 それを前提にしちゃうと議論にならんぞ。 定義の問題だとも言えるが、その前提を認めないのが伍長説じゃろ? だからその前提が妥当かどうかを論証せんとのう。 地下鉄の例は普段とは異なる視覚情報による脳内マップの混乱(?)。 酩酊の場合はアルコール摂取による記憶の混乱(?)。 どっちの場合もそれは私的事象だから、その弁別には共同体の分化強化が必要だと言われてしまう。 だから共同体不要説を支持する例を考えんと、伍長説の反証例にはなりそうもない。 434の仮説が正しいとしても、それは伍長説を支える認知的または生物学的条件の一つだ、 ということで逃げられそうじゃ。
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/29(月) 01:32
現在、339.241Kbです。 第2スレのご用意を。 尚、個人的意見ですが、第2スレの1には、下記のような注意書きを付け加えて下さい。 注意 安直な次のような意見は、スレ汚しにしかなりません。 ・ 素粒子の運動だけである。 ・ 意識とは,ニューロンの群れが作り出す微弱な電気ネットワーク以外の何者でもない 。 ・ 心とは脳の機能である。脳は構造で心は機能である。心は機能である。
437 :
伍長 :2001/01/29(月) 02:04
>436 どうもです。 ただ、注意書きは必要ないでしょう。 どんな書き込みでも自由ですし、 マジレスするのも無視するのも煽るのも自由ですし、 盛り上がるきっかけになるかもしれないし。
438 :
436 :2001/01/29(月) 17:55
>伍長殿 貴方が、そう言うなら誰も問題ないと言うでしょうね。 苦労する伍長殿の顔が、目に浮かびます(笑)。
439 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/30(火) 12:33
心はニューロンの発火から絶対説明できないのですか? そのような研究をしている人はいったい何がたりないのですか? (抽象的な説明はやめてください)
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/30(火) 13:20
↑ 「心を支えるハードウエア」の説明としてはニューロンの発火も 考慮に入るかもしれないが、「心の内容」(ここではその話題が中心) の起源や所在を説明しようとする時に、ニューロンの発火についての 知識は全く役に立たない。このスレでもずっと前に議論し尽くされたこと。 理解できないものがある時には、そのあら探しをする前に 自分の理解能力を疑おう。
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/30(火) 14:58
なんでニューロンの発火についての知識が全く役に立たないのですか? 役に立つ知識とはなんですか? このスレを全部読めばわかる?とか、学問は取っつきばかりでは駄目、 っていう人もいるでしょうが、情けのある方教えてください。 (ここは知識が少ない人が書き込んではだめなのでしょうか?おもしろい話していると思うのに・・・)
このスレを全部読むのはいやだけど、このスレに書き込みはしたいし、 その書き込みに親切に答え、教えてほしいということ? それは、とてもとても甘いのじゃないの? 普通は書き込もうと思ったらまずのそのスレの最初から読んで、 自分が理解できる時だけ書き込むんじゃないの? あるいは、最初から読んでみたけどこことここがわからない、って 尋ねるんじゃないの?
443 :
436 :2001/01/30(火) 21:36
>439,441 変な書き込みして、ごめんね。 けれど、単なる「面白そうな話」だけでなくて、本当に「名スレ」なんだ。 文面見るに、「七」氏に近いことを言っているような気がする。 名前で「七」氏に注意しながら読んでみたら如何でしょうか。但し、途中 から「七」氏は「名無し@お腹いっぱい。」で書き込みしているけど、レ ス内容で、みんなにバレて、ツッコまれたりしているから気をつけて下さい。
444 :
ははは。 :2001/01/30(火) 21:37
>>441 ニューロン発火は、心の解明に充分役立っていると思いますよ。
現在の所、脳に固定された表象(脳内イメージ)の実体(あるいは活性)
と見るのが一般的なのかなあ。
もちろん、このニューロン発火の生理的解明に新たな進展があれば、
哲学的、思弁的な理論も照合を迫られるのは当然で、
心理学的な理解の枠組みは変わらざるを得ないでしょう。
>>435 ほぼ同意です。
私的事象、弁別反応等の考え方で反証を考えてみようかと思いましたが、
基本的な理解に問題があり、今の所、不可能なようです。
門外漢なもんで、暇をみて専門書でもながめて、
にわかスキナリアンにでも、なってみようかと思っています。
445 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/30(火) 22:52
446 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/30(火) 23:57
脳の機能も、ホルモンの分泌も、環境も、心という現象には 不可欠な要素ではあるかも知れないが、しかしそれ自体は 心では無い。 如何なる具体的な実体を指し示しても「それは心それ自体 では無い」という問いは、大いなる謎であるかの様に、多く の人々を悩ませているが、実は、これ自体が謎どころか、 心の存在理由であるという一つの真実がある。
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/31(水) 00:01
苦痛を与えられると苦悩の表情をするのも、あてが外れて 落胆するのも、物語に没頭して思い馳せるのも、生物として 備わった無数のオートマティックな機能の顕れとして「結果 的に」生じたものに過ぎないのかも知れない。 しかし、自らの活動全てが無数のオートマティックな単機能 を単に束ねた結果として生じる現象に過ぎないと認める事は、 自らを生物ロボットだと見なすことに他ならず、それは決して 誰にとっても認めがたい。
448 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/31(水) 00:03
自己の活動はホルモンやシナプスの反応等によって物理的に 規定された自動機械であるとは認めがたいからこそ、その活 動の裏に、「私個人の自発的な活動理由」としての心をを見 出すのだ。 即ち、心とは、私達(人間)の活動理由は物理的に規定された 反応には還元不可能であるという仮定の元に想起された仮説 であるから、この仮説の否定を前提とする行動主義派には 心の問題は一切解明不可能である。
449 :
伍長 :2001/01/31(水) 02:02
>445 わざわざどうも。 >446,447,448 過去レス読みました? 445氏が立てて下さった新スレの方へどうぞ。
450 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/31(水) 07:10
>448 スキナーとウイトゲンシュタイン、社会構成主義に共通する 「心に関しては非物理還元」(言語の問題としてのアプローチ) というスタンスからいえば、この人がいいことは言っていながら 行動主義については入門教科書的な知識しか持っていないことが わかる。
451 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/31(水) 08:49
>>450 読みが甘い。448は「心に関しては非物理還元」というスタンスから
言って納得出来るの? 448は「非物理還元の心というものを想定して
おきたいから心が存在することになっているという約束事に過ぎない」
って言っていると思われますが。
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/01/31(水) 12:31
そして議論は次の舞台で続けられる・・・・ ゴングはもう鳴ってます。
455 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/02/02(金) 12:22
age
456 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/02/02(金) 12:58
「ある」という問い方自体まちがっとる。ばか
そんなことはわかってる。過去ログ読め。ばか。
458 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/02/02(金) 16:38
urusei baka
459 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/02/02(金) 22:46
>>456 心理学的知見で言うと不適切だというだけで、「まちがっとる」と
断言は出来んだろ。
反証可能な仮説でない限り、心理学は科学的仮説としてはドキュン
なので信憑性は無し。
>456 「問い方」は以下のように変わっておる。 >偽問題となるのを避けるためには、 >「なぜ人は,『心』のような心的用語を使えるようになるのか? 二元論に陥らずに答えよ。」と問うべき。>63より
461 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/02/03(土) 17:20
>459 反証可能な仮説とそうでない仮説はどう区別されるんだよ。 ちゃんと説明してみろよゴルア。
463 :
踊るスキナリアン :2001/02/05(月) 12:52
学習(心)は脳で起こっているんじゃない、スキナーBoxで起こっているんだ!
464 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/03/08(木) 13:21
温故知新あげ.
465 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/03/16(金) 15:03
467 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/06/12(火) 02:11
倉庫逝きの前にもうひとあげ。
age
469 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/06/23(土) 05:12
心が何処にあるかは、大麻を吸えば分かる 大麻がどういうものかは、Yahooで検索したら少しは判る 吸いたければ、アムステルダムへ逝け!
470 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/06/25(月) 00:29
471 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/07/15(日) 15:52
夏厨が新スレ立てまくると落ちちゃうので、あげとくで。 夏休みでヒマならこのスレをじっくり読むべし。
472 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/08/06(月) 23:27
やっぱり脳=心
473 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/08/08(水) 07:48
>>472 その安直な等号の使用は思考停止のサインだね。
474 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/08/08(水) 09:52
脳=心,って考え方は,いっけん心を「脳」という観察可能な 客観的存在に還元するから科学的なように見えるが,実際には 逆に,脳を心と同じような「神秘的/観念論的存在」に してしまっているだけだ.これまで心の問題とされてきた, さまざまな問題をすべて「脳の働き」から説明しようとするが, 実際にそれが「どのように」脳で起きているのかの説明は まったく想像や推測の域を出ていない. 唯脳論者にとっての「脳」は,われわれの頭蓋骨の中に実際に 存在する,器官としての脳ではなく,観念的で仮説的な存在だ. その点で,脳=心=霊魂=生気みたいなことになっちゃっている.
475 :
倉庫入り直前あげ :01/09/08 01:11
476 :
おなかいっぱい :
01/09/08 01:17 んだんだ。