心理学って科学ぢゃないおぉ

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1名無しさん
て、いう人、居ますよね。
大方精神分析系の方々を指しておっしゃるみたいですが。
確かに思想入ってる気がする。ラカンなんか詩人かと思っちゃうですよ。
それに対して必死に「科学」に固執して、データ主義の行動学派なんかも
いたりするど、実験主義・数字第一。テストなんて物差しでしかないのに。

それに、○○心理学ってのが多すぎる。
乳幼児心理学から高齢者心理学。
社会心理学に異常心理学に犯罪心理学。
心理統計学・心理生理学ってのもあったな。


2だから何?って言われそうですが:1999/11/13(土) 02:49
板が寂しいので叩かれネタでも用意して置こうかと。
3ひろゆき:1999/11/13(土) 03:22
実際、「心理学」って幅がひろすぎるんですよね。
人間の心を調べるには、人間の文化から、構造までしらべなきゃいけないし、、
芸術から、医学まで、、曖昧な学問です。。
4名無しさん:1999/11/13(土) 05:45
チョムスキーは研究の対象を生得的な言語知識
だけに絞ったので、言語学が科学となり得たと思います。
もしも社会とか文化が要素として入ったら、
絶対的に正しいものを追求することは出来なかったと思う。

そういう意味で犯罪心理学とか社会心理学は科学と思えないです
(必ずしも科学が良いと言っているわけではないけど)
5ふーん:1999/11/15(月) 03:58
実際、心理学は解体しつつあるんじゃないかと思います。
長い過去と短い歴史、その未来はどうなんでしょうね?
6解体ですね:1999/11/15(月) 15:55
ヒトの認知機能を、ネットワークモデル作ってコンピュータで
調べようという領域と、無意識などというものを扱ってる精神
分析の領域を同じ心理学としてくくるのはあまりに無理があり
ますよね。少なくとも、臨床心理学は独立して欲しい。

>4さん
社会心理学や犯罪心理学は、最後の応用の部分だけみると非科
学的な感じがしますが、すごく膨大なデータに基づいて、きち
んと検定された事を言ってる場合も多いのではないでしょうか
(まともな研究者ならの話ですが)。
7名無しさん:1999/11/15(月) 23:46
>6さん
臨床心理学はalmost医学ですよね。

84>6さん:1999/11/16(火) 01:20
決して科学的でないことが学問として悪いとは思っていません。
ただ、歴史が科学でないのと同じくらい、社会という概念は
科学的にはなりにくいものと思っています。

科学の説明は、ある特定の前提条件において、
ある実在物に基づいた普遍的な理論があって、
これを論理的に適用することで事実の説明ができる
ということだとすると、
ちょっと社会とかの概念が入ると説明が大変そうに思えます。

例えば犯罪心理学について科学的に述べようとするなら、
犯罪とはどのような脳の状態の場合であると厳密に定義できて、
そのような前提のもとに脳でどのような普遍的な理論があるから
何がおこるかを説明するものにならないと辛いと思う。
そして、現状は、犯罪という概念と脳との対応関係が明確には
なっていないと感じられるのです。。。

実は犯罪心理学はあまり良く知らないので勘違いをしている
かもしれません。
一般的に社会科学に思っていることを述べているだけなので、
もしも勘違いなどあったらご指摘ください。。。
9かなり横レス:1999/11/16(火) 02:54
学問的な事が言えないんで・・・

犯罪心理学者というと、なぜか猟奇事件担当小田某センセーを思い出します。
実際彼の専門がなにかは存じ上げていませんが。
あとは、福島章センセーですかね。(テレビに出てきそうな有名どころは)
福島先生はまぁともかく小田某はどことなく胡散臭さが漂っていますね。
あの臭さがけっこう受けているのでしょうか。テレビ的に。

どんなに膨大なケースをかき集めてきても
データを検証するだけでは、統計学とも言えないシロモノになっちまいますね。
プロファイリングで有名な外国人も、神戸のじけんのときには
かなりトンチンカンなプロファイリングをしてましたし。
10チョムスキー:1999/11/16(火) 06:05
チョムスキーの言語学って現実のシステムでは使い物にならない。
現在の機械翻訳などではただひたすら辞書を追加する泥作業です。
11名無しさん:1999/11/16(火) 06:58
Chomskyの成果がどれほど実用化されているかというと
確かに疑問ですね。
ただ、Chosmkyの言語学は大まかに第1期から第3期まであって
初期のChomskyの理論は、句構造規則や変形といった文法の書き方
について普遍的なものを抽出したと思います。
ここで、例えば句構造規則はDP->D NPのように書いてやって
その左側には1つの記号しか来ないとか、そういうもので
自然言語が記述できる見通しを立てました(もちろん問題は出たけど)
その結果として、Yaccみたいなものが出来たり、
ある程度の機械翻訳のプログラムを作る枠組みが
出来たりしたと思います。
だから、全く成果がない訳ではないと思います。

その後、第2期以降で、更に科学を追求した結果は
まだ成功しているとは思えないけれど、アプローチ自体は
健全に感じます。

あと、一般に科学的=実用的ではないと思います。
物理や化学ではそういう例が多いけれど、
脳科学や生物学がかなりいろんなことが分かってきたといっても、
人工知能に十分に活かされているとは思えません。
せいぜいニューラルネットのような、枠組みが提供された
程度のものと思います。
12現状では:1999/11/16(火) 20:53
基礎理論自体が明確でないので、
さまざまな試行錯誤をしてみるしかないと思う。
13へぼ:1999/11/17(水) 04:14
基礎理論ってなんだろう。
我々は心理学を通して何を知りたかったのであろう。

なんちって。
14心理学は:1999/11/17(水) 07:07
実験結果のデータを羅列して適当に統計をとっておけば研究らしくなる。
15>13:1999/11/17(水) 12:30
知りたいのは
(1)精神の構造
(2)対人関係のノウハウ
かな?(1)は科学じゃないといけないけど
(2)だったらどちらでもかまわないと思う
16社会心理学は:1999/11/18(木) 10:15
社会生物学的に扱えば科学になりうるかもしれません。
17げっ:1999/11/18(木) 20:16
>16
そりは人間行動学とかになるのでは?
#「心」を認めぬ行動主義が「心理学」とはヘンじゃ(^^;。
18伍長:1999/11/18(木) 22:29
>17
行動主義は、
「『心』を認めない」というのではなくて、
「『心』が非物質的世界の中の実体として存在するということ(二元論)を認めない」のです。
http://www.2ch.net/test/readall.cgi?bbs=sci&key=938091768
の243@`244参照。

なお、「心理学」という言葉についてですが、
「『心的現象』と一般に見なされる諸現象を研究する学」と理解すればよろしいかと思います。
いっそのこと「行動学」にしろという人もいるようですが。
19げっ:1999/11/19(金) 02:37
>18
そりは、不十分な行動主義で、ワシのは徹底的行動主義じゃ、と
適当に揚げ足とろうかと思ったが、243@`244が面白いんでやめた。

 243の主張

「(1)「心的用語」と「心的?現象」を区別すること。」

は端的に二元論を言っているのとワシは思う。
 というのは、「心的用語」というのは観念ないし非物質的な概念
でありましょう。それを、物質的な「心的?現象」と区別する考え
は、心ー物、二元論でしょう。徹底的な唯物論であれば、この掲示
板に書かれた「心的用語」というのは、目覚まし時計が我々に影響
を与えるのと同じように、我々の行動に影響を及ぼすかもしれない、
単なる白黒模様に過ぎない、と主張するから、「心的用語」と「現
象」は同一次元で考えるはず。
 不十分な唯物論であれば、ある現象から、「心的用語」に対応す
るような、まとまった特殊な実体が生じる。それを「心」と呼んで
もいいかもしれないが、この世に非物質的なものは存在しないから、
それも物質現象のある一面であろう、というかなり不満足な主張だ。

 というわけで、物質世界と切り離された「心的用語」を認め、そ
れを物質と区別できる主張は二元論となる。

 どないなもんでっしゃろ?
20伍長(徹底的行動主義者):1999/11/19(金) 04:31
>19
おお、突っ込んでいただけましたか!
思惑どおりであります!
生物板での明敏な書き込み拝見しております。

>「(1)「心的用語」と「心的?現象」を区別すること。」
は、貴方の書き込みを読んで、確かに私の言葉足らずだったかもしれないと思いました。
ただ、誤解があります。これは私の書き方にも問題があったようですが。
ここで言う「心的?現象」とは、私に言わせれば虚構の現象(非物質的な現象)です。
そんなものは存在しません。
?マークがそれを物語っているわけです。
「心的用語」と「心的?現象」(非物質的現象)を安易に結びつけてはいけないと主張したかったのであります。

>というわけで、物質世界と切り離された「心的用語」を認め、そ
>れを物質と区別できる主張は二元論となる。
まったくおっしゃるとおりであります。
ただし、私はその「心的用語」を認めていないわけではなく、そのような用語が存在して、広く日常的に使われているという「事実」を受け入れます。
そうしておいて、そういう用語の日常的な使われ方(二元論的な使われ方)を検討すべきと考えます。
心理学においては、そういう用語を用いる場合には細心の注意が必要であります。
日常用法についついつられて、二元論に陥らないようにすべきであります。
いっそのこと、新たに定義された新たな用語を使った方がよろしいでありましょう。
と、いうようなことを書いたつもりでした。
さらに、前後しますが、

>不十分な唯物論であれば、ある現象から、「心的用語」に対応す
>るような、まとまった特殊な実体が生じる。それを「心」と呼んで
>もいいかもしれないが、この世に非物質的なものは存在しないから、
>それも物質現象のある一面であろう、というかなり不満足な主張だ。
スッゴーイ!
その通りであります! 物理主義というやつですな。多分。
しかし、「『心的用語』に対応するような、まとまった特殊な実体」は、たとえそれが物質的なものであっても、存在しません(と言い切っていいのかな?)。
語の意味は指示対象ではなく、用法である、とウィトゲンシュタインも言っております。
この程度でおわかりいただけるかと思いますが、
いかがでっしゃろか?

P.S. げっさんて何者ですか? ただ者ではないようですが。
それと、本当に唯物論者なの? 17を読むと二元論者のようにも思えて変だと思ったのですが・・・
とにかく、物理板の「人格コンピュータ」のスレッドへの参加を希望しますです。
(長くて失礼つかまつりました)
21じんがー:1999/11/19(金) 17:49
経済学は現在たいへん精緻な科学となりました。そのため、ノーベル経済学賞
が存在します。しかし、この厳密な科学が現実に経済問題を解決できない局面に
きています。心理学が同じ道をたどってしまうのは避けたい問題です。
ノーベル心理学賞ってないもんね。
22>21:1999/11/20(土) 00:07
心理学がどこまで現実に役に立つかは、どのように上手に
理想化を行えるかにかかっていると思います。

でも、経験の影響の大きい学問であるにも関わらず、
経験を十分に考慮した理想化はされていないのではないでしょうか?
このままではあまり役に立たないと思う
23げっ:1999/11/20(土) 02:22
>20
 うをっ、新手の誉め殺しやな(^^;。久々に脳みそ使ってしま
ったではないか(^^;。ワシのキャラが・・

 ワシの当てにならない診察によると伍長殿(お互い敬称略でいき
たいが、いかがか?)はウィトゲン病と見た。

 伍長の主張は、血管収縮、脈拍上昇、アドレナリン分泌等の物理
的な用語はモノと対応するが、感情、動機、知性等の非物理的用語
はモノと対応しないというものだ。そして、非物理的用語の安易な
使用が心理学を非科学的なものに導いているというのであろう。

 なるほど一理あるように思える。しかし、この主張には2つの方
向から難癖つけることができる。1つは、物理学においても、力の
場、素粒子等、モノと呼べないような理論的な用語があるが、その
ような用語の導入は、物理学を無意味なものにしているのではなく、
反対に明確化し、発展させている。故に用語を問題にするのは正し
くなく、正しくは理論を(テスト可能かどうかという観点で)問題
にすべきなのである(*)。
 第二に、上の主張はカントの「モノ自体は不可知である」という
命題を不十分にしか適用していない。つまり、「アドレナリン分泌
は血管を拡張させる」というものは、モノ自体の現象そのものでは
なく、一つの科学的な理論であって、真理のお墨付きのない観念で
ある(感覚から理論を作ることはできない・・もちろん利用はする
が)。この意味では、「アドレナリン分泌」は「感情」なんかと同
じ世界(観念的世界)の住人である。

 したがって、どんなに自明に思えるものであっても、理論の実在
を信じるものは、観念論者か多元論者となる。

 ワシが思うに、物理主義者というものは、「物理法則」というも
のをモノ自体と考え、「我々の物理理論は物理法則そのものではな
いかもしれないが、それは我々の物理理論と非常に近いものである」
と考える人達であろう。この考えから出てくるものは、「物理理論
に近いものは真理に近い」というものである。しかし、これは単純
すぎる。それなら、「東洋思想は科学的で真理に近い」となってし
まう。

 すべてこのようなことは、思想を物理科学のような確かなものに
基礎づけようとするウィトゲン病に他ならない。
 この病気は、分子生物学の業績(還元)を「あっ、そう。あたり
まえじゃない」と過小評価する上に、創造と反駁という科学の精神
を「科学は真理じゃ」といって自滅の方向に導くものと考える。

 ワシは、徹底的唯物論は反駁できないと考える。何を言っても、
「それは脳内のなんかの物理現象が・・」と反論できるからである。
しかし、ワシはこれを好まない。科学的な問題を安易に単純化する
し、創造的理論を短絡的に排除する傾向をもたらすからである。そ
れに比べ、2元論は理論にふさわしい地位を与える。
 また、観念論や唯物論は常識とかけ離れたもので、2元論は常識
に近いものである。ワシは、思想は常識を出発点にすべきだと考え
るので、2元論を好む。
 つまりワシの立場は、「科学は2元論を中心に、観念論(独我論)
や唯物論的見方から(思考の道具として用い)、2元論を批判しつ
つ発展すべきものだ」とするものだな。

(*)科学であるためには理論を基礎づけたり正当化するのではな
く、反証可能する必要がある。科学理論なんか全て仮説なんだから。
24伍長:1999/11/20(土) 19:12
>23
OKですが、「げっ」って言いにくいんであります。

> 伍長の主張は、血管収縮、脈拍上昇、アドレナリン分泌等の物理
>的な用語はモノと対応するが、感情、動機、知性等の非物理的用語
>はモノと対応しないというものだ。
ちゃいまんねん。
物理的用語も非物理的用語も、どっちも一対一にはモノとは対応しないです。
「(1)語の意味は指示対象ではなく、(2)その用法である」というのは、より精確に言うと、
「(1')指示対象が語使用を制御する強さの程度は千差万別であり、(2')語使用は、指示対象だけでなく、語使用の状況や結果によっても制御される」ということである。
(1')は「刺激性制御」についての説明が必要だが、大変なのでやめ。

よって、げっ氏の伍長解釈は、その前提において誤っております。
次のように修正して下されば受け入れても構いません。
>> 伍長の主張は、血管収縮、脈拍上昇、アドレナリン分泌等の物理
>>的な用語は特定のモノとの対応の程度が比較的高いが、感情、動機、知性等の非物理的用語
>>は特定のモノとの対応の程度が比較的弱いというものだ。

また、自分は「モノと呼べないような理論的な用語」の使用を否定してはおりませんよ。

> ワシが思うに、物理主義者というものは、「物理法則」というも
>のをモノ自体と考え、「我々の物理理論は物理法則そのものではな
>いかもしれないが、それは我々の物理理論と非常に近いものである」
>と考える人達であろう。この考えから出てくるものは、「物理理論
>に近いものは真理に近い」というものである。しかし、これは単純
>すぎる。
「物理主義」というのは、自分の理解するところでは、「心的用語は、物理学的用語(身体行動的用語や神経生理的用語。特に後者)に還元される」というウィーン学派のカルナップの主張(多分)であります。
自分はこの主張に条件付きで反対であります。
「法則」「理論」については、説明不足は承知で、例のスレッドの 54 の前半、及び 75@`78 を参照。なお、スキナーの考えは、クワインという分析哲学者の「自然主義」という考え方に近いらしい(多分)ということに最近気がつきました。

> すべてこのようなことは、思想を物理科学のような確かなものに
>基礎づけようとするウィトゲン病に他ならない。
それは「論考」の前期ウィトゲン病だな(多分)。っていうか、カルナップの物理主義だな(多分)。
しかし、自分のは「探究」の後期ウィトゲン症(軽度)であり、むしろスキナー病であるから、似ているようでかなり違います。

> ワシは、徹底的唯物論は反駁できないと考える。何を言っても、
>「それは脳内のなんかの物理現象が・・」と反論できるからである。
その徹底的唯物論は間違っているし、反駁できると思います。

>それに比べ、2元論は理論にふさわしい地位を与える。
と、ここで飛躍があるな。なぜ二元論が理論にふさわしいのか? 他の唯物論的可能性はないのか?

> また、観念論や唯物論は常識とかけ離れたもので、2元論は常識
>に近いものである。ワシは、思想は常識を出発点にすべきだと考え
>るので、2元論を好む。
あえて揚げ足を取ると、相対論だって常識とかけ離れているが、まだまだ有効(らしい)。
そもそも物理的用語と異なり、心的用語にまつわる二元論的常識が人類五千年の歴史を通じて強固になっており、その呪縛から抜け出すのが困難になっている。
物理板の優秀な科学人諸兄を見るとよく分かる。明敏な彼らが、ひとたび心的用語を話題にし始めると、途端に素朴な二元論者になってしまうことが多い。

>「科学は2元論を中心に、観念論(独我論)や唯物論的見方から
>(思考の道具として用い)、2元論を批判しつつ発展すべきものだ」
うーん、よくわからない。

>(*)科学であるためには理論を基礎づけたり正当化するのではな
>く、反証可能する必要がある。科学理論なんか全て仮説なんだから。
ポッパー?
25:1999/11/20(土) 22:50
>24
>OKですが、「げっ」って言いにくいんであります。
んじゃ「ゲ」にしよう。

 伍長、すんまんが、例のスレッドを読む時間をくれ。明日あたりき
ちんとレスするが、その前に、二元論がアカンという理由をもうちょ
い教えてくれ。
 ワシは、この世界は全て物理学の対象になるモノであり、心や霊魂
というものが発見されたとしても、それは、我々の無知を表わしてい
るに過ぎず、それはモノの一形態として物理学的に説明されるはずで
あるという徹底的唯物論は反駁不可能(難癖はつけられるが)と思う
から、こちらの方が呪縛に思える。二元論も呪縛と言えば呪縛なのだ
が、こういう形而上学的なレベルで、なぜ二元論を回避せねばならん
のかいまいち分からんのだ。
 これは、「神経科学者は随伴説を採用している」とか言う研究プロ
グラムの話に結びつくかもしれんのだが、伍長はどういったことを想
定しとるのかな?
26伍長:1999/11/21(日) 02:35
うーん。「げ」も言いにくい・・・

>なぜ二元論を回避しなければならないか。
二つのレベルで考えたい。
一つは(A)方法論的レベル。もう一つは「げ」氏の言う(B)形而上学的レベル。

(A)方法論的レベル。
二元論的発想から心的用語を考えると、どうしても観念論あるいはメンタリズムの方が前面に出てくる。それが心的用語の「日常的な」あり方であって、五千年にわたって続けられてきた強固なあり方だから。
そうなると、行動の原因?を生体内部のメンタルな(非物理的な)事象に求めがちになる。「ヒト・ハトがある行動をしたのは、ヒト・ハトがそうすることを欲したからだ」。
こうした説明では、「ヒト・ハトにある行動を起こさせるためには、ヒト・ハトにその「欲求」を起こさせなければならない」という形になりがちだ。どうやって?
ごく単純化すると、実験において実際に行う操作は、例えば食餌制限や水の遮断化であり、それによって水を飲ませる行動を引き起こす。
なんであれ、「水の遮断化」等の外的操作が「水を飲む」行動に影響を与えたのは間違いなさそうだ。
興味深いことに、「水の遮断化」がなくても、別の(外的な)操作によって「水を飲む」行動を頻繁に起こさせることもできる(「スケジュール誘導性の多飲症」)。
ということは、生体内部ではなく、生体の外にある環境側の種々の要因の操作によって、行動を予測・制御することができた。
こういう考え方を「方法論的行動主義」という。
これは、二元論者であっても取りうる立場である。なぜなら、メンタルな事象を否定する必要はないから。
行動主義的立場になくとも、実際に実験心理学では(あるいはすべての心理学実験、臨床において)、このように外的要因を操作することによって、当該行動を引き起こそうとしている。
しかし、二元論者、特に実験心理学の訓練を受けていない普通の人々は常にメンタリズムが前面に出てくる(それが常識だから)。つまり、生体の外部よりも内部に目が行きがちになり、その結果、外部の要因の分析が不十分になる危険性がある(実験心理学の訓練を受けていればその危険性は減少するだろうが)。これは心理学の宿命といっていいかもしれない。

(B)形而上学的レベル。
いろいろ考えたが、わからない。
とにかく、物質的世界とは全く別の非物質的世界があって、その世界では非物質的実体が存在するという素朴な二元論なら、それはトンデモorオカルトの世界であるとしか自分には思えない。
心的用語を考える際、自分は徹底的行動主義の立場をとります。これは、「自己や他者の内的世界を人は如何にして知り得るか」という問いに関する一種の心理学的認識論であります。少なくとも、どのような立場であれ、この問いを原点として発展すべきなのが心理学であると考えます。
「神経学者の随伴説」はわかりません。心身問題などで出てくる「心身随伴説」と関係があるのかな?
27じんが>26(B):1999/11/22(月) 23:30
ルネ・デカルト「我おもうゆえに我あり」「我」の存在は疑い得ないものなので
これを議論の出発点におく。→「我」から心に認識構造を導き出せない。思考停止に
陥ってしまう。出発点が「我」という疑いえない存在だから大前提になってしまう。
こうなると素朴に「我」と「身体」を分けて話を進めるしかないから。
でも、二元に分離したことによって科学は進歩したんんだから、今まではok
現在は問題ありとされています。横からごめんなさい。失礼します。
28伍長:1999/11/22(月) 23:45
あ、まだイカないで。
「問題あり」っていうのは二元論がでしょ?
29じんが>28:1999/11/23(火) 00:57
おっしゃる通りです。「随伴説」:脳を分離していけば、いつかはすべての存在が
解明できる。精神が神経回路網という物質に振る舞いに随伴して生ずる。という理論です。
しかし、これでは「意識」や「心理」なんてどこにも出てこなくなってしまう。
あー困った困った。もうねます。
30:1999/11/23(火) 01:12
>伍長殿

>うーん。「げ」も言いにくい・・・

じゃあ、こういうのはどう・・

>学派のカルナップの主張(多分)であります。
>自分はこの主張に条件付きで反対であります。

えっ、反対なの?これってけっこう中心的なテーゼだと思うんだけど。
用法云々の話はこれが前提にあるのではないかな。違ったカテゴリーの
言語をごちゃまぜで使うとナンセンスな文ができるとかいうヤツ。まぁ、
心的用語が物理的用語に完全に還元されたり翻訳されたりするのはあり
そうにもないからな。

 でも、そうなってくると、伍長テーゼが分からなくなる。
しかし、心的用語(言語)と物理的用語(言語)があって、伍長は物
理が本質であるといった物理主義をとらずして、物理的用語を奨励し
ている、というとこだろうか。して、何故、物理的用語を奨励するか
というと、そうしないと二元論に陥ると言われる。

 が、この二元論が悪いという主張はワシにはいまいち明確にならな
い。「外部の要因の分析が不十分になる危険性がある」というのは、
「大学の教官が悪い」と言ってるだけのように聞こえてならない。

そこで、とりあえず、二元論を批判してみる。

「イカに電気刺激を与えてやると、イカは痛がって身体を動かした」
「故に、イカは痛みを感じている」

 我々は「痛いという感情」を外からの観察から、定義することがで
きる(身体を引きつらせる等)。しかし、「痛いという感情」には昔
ながらの意味が含まれていて、外的な振る舞いよりも内的な出来事を
指し示す。つまり、ある人が、単に外的なものとして単なる擬人化と
して「痛み」とい言葉を使ったとしても、それを読む人には内的なも
のとして読む場合がある。行動主義についての誤解に、「内的なもの
は分からないから、外的な要素に置き換えるしかない」から「痛み=
身体を引きつらせる等」でないとならない、というのがある。この誤
解は、実際、イカを安楽死の対象にしたように、有害である。だから、「痛み」等の心的用語は科学の中では使用してはならないので
ある。
 と、ここまでは、前置きである。だって、行動主義も誤解に関与し
ているもん。

 二元論に対する批判は次のようになるであろう。

 「彼はお腹が痛いので、トイレに行った」

これは、擬人化ではない正真正銘の「痛み」が行動を引き起こしたと
いうことを示す。つまり、腹痛という刺激が、彼をして「どうしよう
かと考えさせ」「トイレに行くという決断」をさせたのである。そこ
でもし、これらの「痛み」「考え」「決断」といったものが非物理的
なものであると考えるのなら(二元論)、非物理的なものが、イオン
チャンネルや神経伝達物質などに作用したということになる。それは
どんな「力」だろうか?今まで知られていないような力であることは
間違いないが・・・発見されたとしても物理的な力と呼べないものな
ど考えてもよいのであろうか?非物理的(非物質的)という仮定が間
違っているに違いない。
 これが唯物論的な二元論批判だと思う。
 しかし、この批判は・・・次回につづくかも・・

>「神経学者の随伴説」はわかりません。心身問題などで出てくる「心
>身随伴説」と関係があるのかな?

 そうそれ、茂木とかいう人が使ってたのを拝借した。随伴現象説
と言う方が正しいと思う。ワシの定義では形而上学は、経験的(通
常の)には真偽が決定できない説、となっている。正しいかどうか
が分からなくとも、(ワシはウィゲン病じゃないから)無意味とは
考えない。神を信じることが人生になんの意味も持ってないなどは、
バカげた話である。そして、研究者にとっても、彼の研究方針に影
響を与えるのである。ワシはダーウィン主義もかなり形而上学的(
同語反復を経験的に否定したりすることはできない)だと思ってい
る。そのような、研究プログラムとして、「分子生物学者は還元主
義」「神経学者は随伴説」とみなし、「心理学者は?」という問い
かけをしているのであった。。。
31伍長:1999/11/23(火) 05:07
>30
「」は何とお読みすればよろしいのでありましょうか?
「まるげ」?
思わず「まぬけ」と言いそうでありますが・・・
それに字を探さないと。
コピー・張り付けも面倒であります。

>用法云々の話はこれが前提にあるのではないかな。違ったカテゴリーの
>言語をごちゃまぜで使うとナンセンスな文ができるとかいうヤツ。まぁ、
>心的用語が物理的用語に完全に還元されたり翻訳されたりするのはあり
>そうにもないからな。
> でも、そうなってくると、伍長テーゼが分からなくなる。
>しかし、心的用語(言語)と物理的用語(言語)があって、伍長は物
>理が本質であるといった物理主義をとらずして、物理的用語を奨励し
>ている、というとこだろうか。して、何故、物理的用語を奨励するか
>というと、そうしないと二元論に陥ると言われる。

また長くなりますが御容赦。

この辺は、マルコムという御人(後期ウィトゲンの高弟らしい)が以前、「行動主義と現象学」というシンポジウムで、スキナーとロジャースを比較し、後者の前者批判は的はずれで前者の勝ちだが、前者の立場も間違っている、という論を展開するにあたって用いた考え方を盗ませていただきました。
それによると、スキナーの徹底的行動主義はカルナップの初期の物理主義に似ているが、カルナップよりはマシである。
カルナップは心的用語を身体肉体的用語、とりわけ内的な神経生理的用語に還元しようとするが、それは間違いであるし、スキナーもそう主張するであろう。
スキナーは外的な身体肉体的な用語(+外的な環境物理的用語)に限定するが、この方が正しい、というものでありました。(自分もこの考えを「一応」支持いたします)。
(そのあとでマルコムは、にもかかわらずスキナーはカルナップと同じ誤謬をおかしている、と論を進めるのであります。すなわち、例えば「彼(君)は怒っている」という三人称(二人称)現在形の文と、「私は怒っている」という一人称現在形の文を比較し、カルナップの説明は両者について間違っていて、スキナーの説明は前者については正しいが後者については間違っている、というものでありました。後にマルコムは、前者についてのスキナーの説明も間違っていると主張するようになります。これは、マルコムが基本的な二、三の勘違いをしていることから生じた誤解であると、自分は認識しております。詳細は省略)。

さて、還元・翻訳についてですが、
心的用語を、外的な身体肉体的用語と外的な環境物理的用語の二つによって翻訳しようというのがスキナーの立場である、と「言い切ってしまう」と誤解が生じます。
つまり、カルナップよりはマシとはいえ、所詮は、「心的用語による記述=物理的用語による記述」という物理主義と同じ穴のムジナのように見える。
自分は、翻訳は必要ではあるが、翻訳すればいいというものでもないと考えます。

まず、「翻訳は必要である」という理由は、
(1)心的用語が二元論によって、つまり所詮はメンタリズムによって、さらにひどい場合は内観主義によって正当化されると、結局は唯我論に陥るか、さもなくば無意味な同義反復に陥るであろう。
(2)しかし、心的用語の明瞭度は、公的な何かによって基礎づけられているはずである。
(3)なぜなら、われわれが心的用語に共通の理解を示すのは、そのような公的な何かが存在するはずだから。
(4)翻訳の目的は、そのような公的な何かを明瞭にすることである(26のAに関係)。

次に、「翻訳すればいいというものでもない」という理由は、
(5)公的な何かが明瞭になったとしても、「心的用語による記述=物理的用語による記述」にはならない。心的用語の指示対象と物理的用語の指示対象が同一とはいえないから。つまり、常に「翻訳者は裏切り者」である。
(6)したがって、「心的用語の翻訳=再定義」にばかり時間を費やし続けるのは好ましいことではない。
(7)本当に必要なのは、「心的現象であると従来みなされてきた現象」の科学的な再分析と、「新しい用語による新しい理論」である。

こんなもんでいかがでっしゃろか。
自分は分析哲学に興味がありますが、80%以上は理解できず、理解できた20%弱のうちの半分以上は、哲学者が上記の(6)ばかりをしていて、しかも失敗しているように思えてしまうのであります。
32:1999/11/24(水) 03:38
>「」は何とお読みすればよろしいのでありましょうか?
>「まるげ」?
> 思わず「まぬけ」と言いそうでありますが・・・

いいよ。そもそも、そういうのが「げっ」のキャラなんだ。

>それに字を探さないと。

そうかなぁ。「げ」で変換すればワシの場合、18分の1で出てくる。
(たいへんかな^^;。)

>(5)公的な何かが明瞭になったとしても、「心的用語による記述
>=物理的用語による記述」にはならない。心的用語の指示対象と物
>理的用語の指示対象が同一とはいえないから。
>(7)本当に必要なのは、「心的現象であると従来みなされてきた
>現象」の科学的な再分析と、「新しい用語による新しい理論」であ
>る。

つまり、(還元主義的な)神経科学者が「X」として探求の対象にし
ているようなものを表わすXは必要とされるが、それを「心」などと
表わすと誤解の原因になったり、二元論に陥るから新たな用語を考案
すべき、というわけだな。そこで、質問。「科学的な再分析」と書い
ちゃっているいるが、そもそも、「心理学が科学的とは」というのが
このスレッドのテーマであったはずだから、伍長規範によるとどうし
て科学的になるのか教えて欲しいのである。

 二元論に陥るのが悪いということの反論は後でするつもりだが、例
の「ぶんせきてつがく」なるものについて一言。
 ワシは流行に疎いから流行が嫌いで、「ぶんせきてつがく」という
ものは「ヘン、ぺッぺッぺッ」とほとんど無視していたのだが、今日
曾根崎の旭屋書店でローティの「哲学と自然の鏡」なる本を立ち読み
してみた。
 そこで驚いたことに、この御仁はどうも哲学が嫌いならしいことが
分かった。ローティの主張は

1)カントらの伝統的な哲学は「自然を鏡のように認識させる能
  力を前提に、さまざまな理論を構築してきた。
2)伝統的な哲学はいつも同じ問題に取り組んでて進歩がない。
3)これはダメだ。本当は真理を認識させるような理性といった
  能力はないんだ。
4)私はそれを分析し、伝統的哲学がゴミであって、脱構築すべ
  きものだということを示す。

 ローティは分析屋らしく、この「理性」を「言葉」として扱ってい
るのだが、これはとんでもない話だとワシは思う。「理性」というの
は伝統的な哲学において「これなくしては、論証も反証もなしえない
中心的な概念」として位置づけられてきたものである。「1+1=2」
を捨てたとしても、その行為が合理的である限り、捨てることができ
ないものだ。だから、「理性」とは初めから「言葉」として扱える
ような「わけのわかる」ものではなかったのである。彼らが好きそう
な言葉で言えば「カテゴリーミステイク」をしているのじゃないか、
と思う。
 で、もっと気に食わないのが、「脱構築」ないし「啓発的哲学」と
言ってるやつ。これは、伝統の(哲学)体系を「批判」し、「治療」
するものだと言い張っている。ここで、ローティは何か勘違いをして
いるのだとワシは思う。というのは、カントらの伝統的な哲学という
が正に「批判的哲学」であったからである。この意味は、カントらの
体系をも批判の対象とすべし、というものである。従って、ローティ
自身も伝統の枠内にあるのである。そして、もし、彼がそれでも、上
のように「理性」を否定することで、伝統から距離を置くことを主張
するなら、ワシは彼に「非合理主義者」という称号を与える。なぜな
ら、「合理主義」とは「自らの批判的たりえる理性を信じ既存の体系、
権威に没しない態度」というものだからである。
 それを裏づけるかのように、伝統がアカンというローティの主張に
は非合理主義がうかがえる。彼はどうも、「同じ問題に取り組んでて
進歩がないから」ダメだと言っているように見える。これはおかしい。
つまり、問題がないというのは、良いことでは全くなく、哲学をお終
いにし、批判的態度を失うものであり、また、歴史的考察から進歩が
ないからダメだと主張することは、あらゆる歴史的変化(進歩も含め)
は悪であると主張したプラトンと同様、根拠のない非合理なものである。

 結局、彼は哲学をやめたいと思っているのだろう。

 と大した知識もないのに、たいそう悪口を言ってしまったが、ここ
は分析哲学からの反論を期待しよう。。。
33伍長:1999/11/24(水) 23:31
なるほど、「げ」で即変換できました。ATOKでは5分の1、IMEでは7分の1でした。

>「科学的な再分析」と書いちゃっているいるが、そもそも、
>「心理学が科学的とは」というのがこのスレッドのテーマで
>あったはずだから、伍長規範によるとどうして科学的になる
>のか教えて欲しいのである。
し、しまった。口がすべった。
えーと、ここではあまり深く考えずに普通に考えちゃダメですか?
再現可能性とか、検証(反証)可能性とか、理論の節約性とか、内的・外的妥当性とか、・・・
氏規範ではどうなのでありましょうか。

>例の「ぶんせきてつがく」なるものについて一言。
えーと、自分も大したことは知りません。
私の興味は「心身問題」に集中しております。これは言語の問題と深く関わっていると思っておりますので、そういう面から分析哲学を見ております。したがって、自分にとっては、分析哲学が言語のことばかり云々しているのは至極まっとう当然で、別に奇妙には感じませんです。
ただ、前回書きましたように、80%以上は理解できません。理解できたと思える部分の半分以上は、「何言ってやがんだ、俺も混乱してるがお前らもかなり混乱してるぞ」っていう印象の方が強いです。
というわけで、まだ初心者レベルで勉強中。

> ローティは分析屋らしく、この「理性」を「言葉」として扱ってい
>るのだが、これはとんでもない話だとワシは思う。「理性」というの
>は伝統的な哲学において「これなくしては、論証も反証もなしえない
>中心的な概念」として位置づけられてきたものである。「1+1=2」
>を捨てたとしても、その行為が合理的である限り、捨てることができ
>ないものだ。だから、「理性」とは初めから「言葉」として扱える
>ような「わけのわかる」ものではなかったのである。彼らが好きそう
>な言葉で言えば「カテゴリーミステイク」をしているのじゃないか、
>と思う。
お言葉ではありますが、失礼ながら、これは氏らしからぬ暴論のように思えます。「理性とは何か?」という問いを放棄しているように聞こえます。
「理性」という「言葉」の分析をするのは当然で、分析哲学屋ならずとも、昔から哲学者はこういうことはしてきたのでは? そうでなければ哲学行為自体が成り立たなくなります。ただ、分析屋はそういう「言葉の分析」を中心課題としただけであると自分は考えます。
ローティの説とやらは寡聞にしてよく知らないので何ともコメントできませんが、「理性」という「言葉」を問題にしているとするなら、少なくともとりあえずはその点においては正しい態度なのではないかと考えます。
また、「カテゴリーミステイク」についてですが、私の理解するところでは、ライルのあげている「大学はどこだ」の例から鑑みて、「『理性』という構成概念」を「『理性』という名のモノ」であるかのように振る舞うことがカテゴリーミステイクなのではないでしょうか。

ともあれ、「二元論に陥るのが悪いということの反論」を読んでみたい今日この頃であります。
34名無しさん:1999/11/24(水) 23:34
AIのスレッドでも思ったけど、
科学に対する底抜けの信頼感はいったいなんなんだろう?
心理学が科学的じゃないからといって批判したってしょうがないし、
AIが「人間存在」になり得るわけはない。勿論「人造人間」を実際に造りあげてしまえば、それで「心的?現象」などどうでもいい話だけど。
あと現象学だったら、「実体」をエポケー(保留)し、「心的?現象」に一切を還元してしまうという方法を取るので、「近代的心身二元論」を排しつつ、しかもすっきりした説明が可能なのではないだろうか。「人間存在」に対しての。
35伍長:1999/11/25(木) 00:13
>34
そうかなあ。いや、そうかもしれませんが。
といっても現象学はよくわからない・・・。(^^:
ただ、生理学、生物学や物理学との何らかの関連性を持ちたい、
っていうか、隣接領域へ開かれたものであってほしい。科学全体の発展のために。

それから、「科学に対する底抜けの信頼感」と言えるほど脳天気ではないでしょう。
迷信やオカルトよりははるかにマシだということでいいのでは?
36じんが:1999/11/25(木) 02:56
フッサールの現象学:余分なものは排除して対象そのものの本質を把握する。
伝統的な主体と客体の関係が意識の問題となる。意識はそれ自体として存在するのではなく、
対象との関係により成立する。(意識の志向性)意識の側を「ノエシス」、対象の側を「ノエマ」とよぶ。
この概念を認知心理学的に言いかえると(換骨奪胎すると)「アフォーダンス」になる。
環境は生命体に対して働きかけをしている。利用できる環境的変数(不変項)の直接的知覚が世界認識に基本となる。
「科学に対する底抜けの信頼感」は「かねになるから」です。(名誉、仕事、でも可)
37名無しさん:1999/11/26(金) 03:30
オカルトよりは確かに科学の方がマシだけど、現象学の立場から言うと、
その違いは単に「記述の体系」があるかないかの違いだけであって、
勿論どちらも「真理」ではないので、「使える」方を利用すればよろしいということになるね。
「かねになるから」でもオーケーでしょう(笑)
でも「AI」や「人間存在」をマジでやりだせば、生理学であろうが生物学であろうが物理学であろうが「二元論の罠」に嵌るだけなんじゃないかしら?

現象学(というよりフッサール−ハイデガーにおける存在論の系譜)は
科学を否定しないし、むしろそのあるべき姿を提示している。
現代思想においてすら科学と宗教の親和性を言い当てている。
科学屋さんたちの「能天気ぶり」には慣れているけれど、
普通の人たちの「科学に対する底抜けの信頼感」はやっぱり危惧を抱いちゃう。
日本人の哲学的素養を云々したくは無いけれど、
正直言って私は、「AI」に関する幾つかのスレッドを読んで、
「オウムに走った科学屋さんたちと大して違わないな」
という感想を持ちました。
38じんが:1999/11/26(金) 04:17
現役の物理学者のジョセフソンの研究テーマは「超常現象」です。また、ニュートンの
錬金術の研究やケプラーの太陽崇拝などは有名です。欧米では科学で成功したら、次は「宗教」
「思想」へ向かう科学者が多い。彼らにとっては自然な流れと見えます。しかし、日本では
理系の科目に「科学史」、「科学哲学」等はほとんどありません。宗教的バックグラウンドが希薄な
土壌に持ってきて教育もされていないのでいった新興宗教にはまるとマジメなぶんだけ泥沼です。
ジョセフソンは量子力学でノーベル賞をとった後、東洋哲学に傾倒し現在、おおマジメに「心霊現象」に
取り組んでいます。欧米において科学から哲学、宗教への流れは日本ほど奇異ではありません。
でも、ジョセフソンでも心霊現象の論文は「ネーチャー」にはのせてもらえないようです。
39じんが:1999/11/26(金) 05:20
変な改行になって申しわけまりません。引退します。⊂ ̄・ ̄⊃
40名無しさん:1999/11/28(日) 16:30
科学であるから価値があると言うのは完全な思考停止ですよね。
私個人の考えとしては、心理学は科学である必要はないと思います。
もちろん科学である事を求める学派があって、
それが心理学と呼んで良いのか悪いのか分からない方向に行っても、
一向に構いません。
多様性と学際色こそ心理学の魅力ですから。

心理学の一部が科学である事を病的に求め出したのは、
心理学が成立する過程において、
「科学でなければ学問でない」「科学でなければ信用できない」
と言った考えが働いたからだと理解しています。
しかし未知な物を探求しているるからには既に学問であり、
人の心なんて抽象的な物を対象にしているからには、
その実証性についてはどうしても限界があると思うのですが。

最近は行動主義などに対抗して出来た、
第三勢力の心理学、人道主義的心理学に強く興味を抱いています。
41素人なので:1999/11/28(日) 22:15
はずしたらごめんなさい。

努力しさえすれば、人間が何か真実を追い求めることが可能である
というのはすでに信念だと思います。
そのような信念がなければ、人間は研究する必要すらないと思います。

だから学問をする人は、何か真実が存在していると信じていると考えて
良いのですよね。きっと。

その上で科学的であるということは、そういう真実を
追求するための、今我々が知っている唯一の有効な方策
ではないでしょうか?
そのような真実を客観的に批判することなしに、どのように
我々が真実にたどり着く可能性があるのでしょうか?

もしも心理学という学問領域で、客観的に反証する手だてや
実在主義を取らずに、真実を追究する手段が(宗教のような
方法ではなく)あるならば、興味深いと思いますが、
今のところそういうことは出来ないのではないでしょうか?

きっとこれまで何度も繰り返された議論でしょうけれど、
やっぱりそう感じてしまうので。。。感覚で書いてしまいました。
42名無しさん:1999/11/29(月) 01:46
>40
人道主義的心理学!!
凄いネーミングですね。イヤだなー私は(^^;
マズローあたりだとPHP系のガンバリズムと混同されちゃって
マズイかも。

>41
心理学とか「人間の意識」の研究とか人工知能という問題では、
貴方の仰る「真理」を追求する主体こそが、求められるXなんです。
そこいらへんのことを一度御自分でじっくり考えられては。。。
43:1999/11/30(火) 23:35
伍長殿、みなさん。
ん〜ん。ちょっと忙しいんだな。2週間ほど。。
んでも書きたいことたくさんあるんだな。
んでんで、それまで、これが上の方にあったら嬉しいんだな(^^;;。
んでは
44実はこれ楽しみにしてるので:1999/12/05(日) 17:27
あげときます
45バカの心理:1999/12/05(日) 20:15
このスレッドの基本に勝手にかえります。科学とそうでないものを分ける基準は
いったいあるのか?あるとすれば、それはなにか?
46バカの心理:1999/12/05(日) 20:50
例:分子生物学は大変な進歩をとげつつあるのに、科学と認めないヒトも
多い。なぜか?断片的な知識の寄せ集めであって自然についての理解は構成
してない。主に物理学のモデルを構成しないと自然法則ではない、というわけ。
では物理学の基準は何か?それは、ある自然法則が「因果性」を満たすかどうか
ということである。
47伍長:1999/12/07(火) 15:35
氏のためにあげておきましょう。

>46
では「因果性」とは何か?
48バカの心理:1999/12/07(火) 16:09
因果性:現在のシステムの状態が原因となり、時間が経過した後のシステムの
状態が「結果」として「実現」されること。因果性は決定論的か非決定論的かに
かかわらず成立する。
例:ニュートン力学は決定論的、量子力学は非決定論的だが両方因果性は満たしている。
システムには1、枠組みとしての「時間」2、「空間」3、そのなかの「要素」
4、要素間の「相互作用」が必要となる。この記述の枠組みを決定できれば
「因果性」となる。これを適用できれば心理学が厳密な「科学」となり得る。
もちろん現在では手がかりもつかめない状態である。ので無視してください。
私は心理学を愛する血液型性格判断主義者なので。
49カリスマ美容師>バカさん:1999/12/07(火) 16:15
>科学とそうでないものを分ける基準は
>いったいあるのか?あるとすれば、それはなにか?

死んだらどうなる?という事に答えてくれるかどうかということかな?
「科学じゃないよぅ」と言われる分野の心理学でも、
さすがに死後の世界については言及してないでしょ。

あと因果性だけど、「悪い事したから地獄に落ちた」ってのも
いわゆる因果ですよね。
やみくもに因果論を振り回したって科学的とは思わないけど。
50バカの心理>49:1999/12/07(火) 17:34
因果性:(なんでもよいが)システムのある時刻τにおける状態が与えられたとき、
その状態によって、またその状態のみから、その系のτ+dτ(微時間後)に
置ける状態を導出できるということ。なので一般論として何々に因果関係があるというのとは
ちがいます。物理学モデルのことです。因果論とは関係ありません。
時刻τにおけるシステムの状態をΩ(τ)と表すとΩ(τ)→Ω(τ+dτ)になるという
意味です。しかし、心理学とかけ離れてきたのでやめます。
51名無しさん:1999/12/07(火) 19:01
公式のようなものは現時点では検証不可能なのでだめだ。
何も言っていないのと同じこと。見た目にだまされちゃだめだ。
心理学は科学でなくともいいぢゃないか。どうせまだ、こころは
科学的に解明されないんだし。心理学は私立文系と決定。文学部の
付属のようなもん。よって下げ。
52カリスマ美容師>50:1999/12/08(水) 13:53
ううう。では気体の状態方程式は科学で、
天気予報は科学じゃないって事ですかぁ。
だって「システムのある時刻τにおける状態」なんて
どちらも正確にはわかりっこないじゃないか・・・

いやいや、心理学は科学だ。
「あの山に雲がかかったから明日は雨だ」と言うのは
科学じゃないけど、天気予報は絶対に科学だ。
それと同じで「悩んでいる人にはこう接すれば良い」と言うのは
科学じゃないかも知れないけど、心理学の実験は科学だ。
53バカの心理>52:1999/12/08(水) 23:06
わっははっ!心理学をココロより愛するものです。説明の方法をかえます。私の考える「心理学」は「悩んでいる人にはこう接すれば良い。」というような経験的な臨床的な知識を万人に理解してもらえるような形で提出するためにモデルを作ろうというものです。学問の発展は1.現象が見つかる。2.その現象の実体を突き止める。3.なぜその実体が現象を引き起こすのか、その本質を明らかにする。という経緯をおおざっぱにたどります。心理学はココロを扱うからココロが実体かどうかは別議論になります。しかし、現在の心理実験は1.現象を集めてくる2.統計処理を施し、統計学的な仮説をのべるに終わっていると思います。(臨床心理ではなく実験系)これは統計学であっていつまでたってもココロには到達しないとおもいます。なので他の学問成果を学際的に取り入れることを希望しているわけです。物理モデルは1方法論にすぎないので、じつはなんでも良いと思う。つまり「悩んでいる人の悩みを解決できる。」ことを究極の目標とすることです。(もちろん宗教的な手段ではなく)
54バカの心理:1999/12/08(水) 23:22
ながなが書いてごめん。結論は他の学問の研究成果も取り入れましょうということ
55名無しさん>53:1999/12/09(木) 04:31
結局現実問題に答えれるか、それとも現実の後追い理論なのかということだろ。簡単に書け!
56名無しさん:1999/12/10(金) 04:42
a
57名無しさん:1999/12/10(金) 10:04
難しく書くから学問なんだよ・・・・
えーやん気分が出て。
58名無しさん:1999/12/11(土) 10:08
御託を書いただけね。
59名無しさん:1999/12/12(日) 00:23
要点だけ書いてある文章より面白いけどなぁ
60バカの心理:1999/12/12(日) 20:29
それにしても、心理、言語板は盛り上がらないね。心理学的に究明しないと。
61げん:1999/12/12(日) 23:46
人文系の学問て形式化されていない分、
理系の学問よりも余計に頭つかうから考えるのに結構つかれる。
だからついついレスが遅くなっちゃうと思います。
62きょうはさむい:1999/12/13(月) 00:33
>60
自分が理解できない、ついてけない話を、本題から外れてると見当はずれ
に思いこんで、45で無理やりに仕切られたあたりから、急速にこの
スレッドは寒くなったと思いますよ。ロビーやってるわけでもないし。

63バカの心理>62:1999/12/13(月) 00:55
私が悪かった。ごめんなさい。もうかってに仕切ったりしません。
ゆるして。レスして。
64名無しさん:1999/12/13(月) 02:20
はやく再開しないかなー
65名無しさん:1999/12/13(月) 02:30
心理学って専攻がちがうと微妙に言葉遣い、用語も違ってくるから議論しづらい
よね。お互いに交流もないし、それを解消し交流するためのスレッドぢゃないの?
66伍長:1999/12/13(月) 16:15
まあまあ。
私が氏にネタ振りをしたことがきっかけで、二人が独占していたようなものですから。
他の人が別のネタ振りしてもいいと思います。
毎日じゃないけど、ちゃんと読んでますよ。>63
67あげ:1999/12/17(金) 06:10
そろそろさん復帰するころ。
68名無しさん:1999/12/17(金) 17:28
心理学が文学部に属してることに反対。
69名無しさん:1999/12/17(金) 17:32
あげ
70名無しさん:1999/12/23(木) 23:26
あげ2
71名無しさん:2000/01/27(木) 23:43
vs伍長の続きを希望。
72名無しさん:2000/01/28(金) 06:43
心理学は統計学だろ 単に
73>72:2000/02/06(日) 14:37
そうじゃなかったりすんだよこれがまた。
74いち文学部心理学科生:2000/02/07(月) 21:03
わたしは2年生から2年間専門で心理学やってきてるけど、
研究室入るとき「ここは実証主義でやってるから」みたいなこと言われたけど、
あまり現実に即したことをやってるとは思えなかった。
研究者が官僚化してるというか(笑)、ささやかな自分の持ち場を守ることに徹してるなーって感じがした。
最初はいやだなぁと怒りすら覚えたけど、今は別にって感じで。
自分自身の動機は悩みの解決だけぢゃないけども、人間とはなにかってことを
知りたかっただけだし。
それ考えるだけで頭痛くなるけど楽しいもの。それでいいんじゃないですか。

ただ、心理学の内部ですごい細分化してるのが未だ理解に苦しむところで。
それ、科学じゃなくて、派閥じゃないの? みたいな。
とくに社会心理の人が臨床心理学のことをあからさまに軽蔑してるのがわからない。
自分は臨床志向なので、大学院はべつのとこ行きたいです。

というわけであげました(^^)
75酔っ払い:2000/02/08(火) 00:06
職業として学者となることと、趣味で学者になることは違うよね
研究者も辛いよね(涙
76名無しさん:2000/03/11(土) 20:25
>とくに社会心理の人が臨床心理学のことをあからさまに軽蔑してるのが
>わからない。 自分は臨床志向なので、大学院はべつのとこ行きたいです。

 コレは臨床系の人間にも責任がある。臨床心理学は実証を軽視している
・・・つまり、「臨床心理学者がクライアントに対してしかじかの働きか
けをすると一定の確率でこういう結果を期待できます」ということを証明
しようと言う態度に乏しすぎる。したがって心理学でも医学でもいわゆる
実証的な科学のトレーニングを受けた人間にとって、臨床心理学はクライ
アント相手に何の根拠もない治療を行っている「まじない師」もしくは経
験だけを絶対視する古くさい職人にしか見えなくなってしまう。実際さい
きんは大学教員を募集するとき、臨床心理学の教員だけはロクに論文を書
いてなくても・・・内容的にショボイというだけでなく、そもそも物理的
に書いていなくても・・・臨床経験があると言うだけで採用してしまう。
コレでは臨床心理学はいつまでたっても他の諸科学に見下されるばかりだ
し、まして精神医学に対抗できる方法論にはならない。
77名無しさん:2000/03/11(土) 20:33
77の補足です。つまり例えば医学では「高血圧の患者さんにこの薬を
投与すると約何パーセントの確率で血圧降下を期待できます」等とい
うデータが大量に蓄積されている訳じゃないですか。臨床心理学は実
はこういうデータを全然蓄積していない。例えば「不登校の子どもに
対しては臨床心理学者がこういう仕方で関わると約何パーセントの確
率で学校復帰を期待できます」等というデータは全然ない。それどこ
ろか不登校児を学校に戻すのが正しいのか否かというレベルでもう統
一がとれていない。仕方ない面もあるにせよ、コレでは科学にならない。
78これ楽しみだったのに:2000/05/02(火) 23:25
あげ
79>78:2000/05/03(水) 00:48
伍長さんは哲学板でゼミ中。
さんは行方不明。
だれか捜索して。
80>78@` 79:2000/05/03(水) 02:17
あなたたちも何か書いたら?
81捜索願:2000/05/20(土) 13:49
さんを探しています。
82名無しさん:2000/05/20(土) 15:31
77さんのいうとおりだね。
臨床心理学はデタラメか。
83名無しさん:2000/05/20(土) 16:34
>77
君もう少し英語の文献読みなさい。セラピーによる治療法の効果がオックスフォードから定期的にでてるから。
分裂病などは薬だけど強迫観念症などはERPの実証性がとうの昔に証明されずみ。この結果を踏まえて臨床が無意味なんて絶対いえない。
日本語では生理心理学の文献が少ないからこういう勉強不足の馬鹿がでるのかな〜?
84名無しさん:2000/05/20(土) 17:34

>セラピーによる治療法の効果がオックスフォードから
定期的にでてるから。

これ、具体的に教えて。読んでみたい。
8583:2000/05/20(土) 18:40
セラピーによる文献を載せておくから暇が合ったら読みなさい。

Jonathn S. ABramowitz. Effectiveness of psychological and pharmacological treatments for OCD. Journal of clinical psycho by Oxford university
86>83:2000/05/21(日) 13:10

生理心理学ってなんなの?
8783:2000/05/21(日) 14:46
>86
英語で勉強してるから日本語の正式名称知らないんだよ。揚げ足どりないだろ??フィジオロジカルサイコロジーのこと。
88素人(84):2000/05/21(日) 16:32
よみましたよ。
medlineで85の文献のアブストラクトをよみました。
暴露療法と認知療法はOCDに効果がある。
clomipramineも効果がある。ということですか?
でも、全文読まないとわかんないなあ。
コピーをオーダーするのも難しそうだし。
重要な論文をまとめて
本として出版されているのはないのかな?
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おまえは
何に固執してるのだ?