異常心理スレ

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404,ミジンコ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AF%E3%82%AB%E3%83%B3 テオティワカン

聖都テオティオワカンの大破局



「大洪水」というTV番組の制作中、私はオルメカの遺跡の中で最も印象的なものの一つ、オアハ
カを見下ろすモンテ・アルバン遺跡を訪れた。この地に最初に到着したのがオルメカ人で、紀元前5000
年ごろのことだった。彼らは丘の山頂をゆで卵のように薄く切り取って、聖地を造った。
掘削機もなしにどうやってそんなことができたのかはまったくの謎だ。それと同様に、彼
等の次にここを征服した部族(紀元100年ごろ以後)サポテカ人が、どうやってオルメカ人を説得
してここを諦めさせたのかということも、まったくの謎だ。もしろ彼等がオルメカ人を殲滅し
たと考えるほうがしっくりくる。

 そして誰かに虐殺が行われた証拠もある。ある建造物に掘られた壁画では、人間が捻じ
曲がった姿で描かれている。その一部はラ・ベンタ・の巨石造と同様に黒人であり、他の
ものは明らかに髭を蓄えた白人だ。この人物は裸で、性器は切り取られている。様式はオルメ
カのものだが、石板に書かれた文字はサポテカのものだ。では、殺されたヨーロッパ人は何者か、
そして黒人の男たちは?彼らは「東方よりの白き神」とそのアフリカ人奴隷なのか?そし
て神に仕える黒人たちは通常のオルメカ人よりも高いくらいとされたのか?
405,ミジンコ:2008/05/23(金) 10:19:34

恐らくサポテカ人は抑圧者たちを葬り去ろうと考え、大虐殺が起きた。このことはたぶん、
この石板の技術が、先行するオルメカの頭像よりも稚拙である理由となるだろう。この大虐殺
を記録した者たちは、オルメカ人のような技術は持っていなかったのだ。それからモンテ・アルバン
はサポテカ人の儀式場兼天文台となった。

 トルテカ人の作った大都市テオティワカンに何が起こったかも、同様に謎だ。ここは、ランドフレマスによ
るハドソン湾の旧北極探求の出発点となった理由である。彼は「使者の道」が真北を指してい
るのではないかと考えたのだが、この線を延長してみると、それが間違いであることがわ
かった。死者の道はハドソン湾を指していたのだ。だがこの間違いが瓢箪から駒を産んだ。

他の遺跡は位置を調べていくうちに、彼の主要な発見が導き出されたのだ。ギザを通る経
線を経度0の基点に設定すると、驚くほど多数の祭祀遺跡が、10の倍数に見出されるの
である。私はこれこそ、フレマスの発見の中で最も面白いものだと思う。とはいえ、もう一つ
彼の仮説――つまり、祭祀遺跡は元来、地球の地殻がどれだけ滑動したかを調べるために
アトランティスの科学者が作った「指標」であり、その後、アトランティス以後の人々によって聖地とさ
れたのだろうという仮説には最初から反対していた。それはあまりにも空想的に思えたの
である。だが、10の倍数の経度に関しては疑いの余地はない。祭祀遺跡は何らかの地理
的パターンに従って造られたものであり、我々の知るあらゆる文明に先行する驚くべき「原文
明」の存在を示すものだ。

 紀元前50年ごろから西暦6世紀ごろまで、テノチティトラン(現在のメキシコシティ)の北にあったこ
の巨大な神聖都市は、メキシコ人の生活を支配していた。アステカ人はそれを「神々が生まれ
た都」と呼んだ。

1520年7月にコルテスがここに到着したとき――彼は復讐心に燃えるアステカ人から逃れてき
たのだが――この荒廃した都市にはさらにオオクノアステカ人がいた。数の上では100万分の一
に満たないスペイン人が、戦いに勝った。彼等の頭目とされる男を襲い、これを殺したと
ころ、残り全員が敗走したのだ。
406,:2008/05/23(金) 10:21:21

 テオティワカンは死の都で、大量の土砂に覆われていたコルテスはその塚を墳墓であると考えた。だ
から中央の道が「使者の道」と呼ばれるのだ。

1880年代、クロード・ジョセフ・ド・シャルネという考古学者が面白い発見をしている。その陶
器に書かれた顔には、白人、ギリシャ人、中国人、日本人、黒人などが見られるというのだ。
中にはセム人までいた。かつて、まさに国際都市であったらしい。この大都市が土砂に覆わ
れた遺跡となった次第は、ようやく考古学者たちによって明らかにされつつある。

紀元530年ごろ、地球は何らかの異常気象に襲われた。著名な聖職者エフェソスのヨハネは言う、
「太陽は暗くなった。その闇は18ヶ月に渡って続いた。来る日も来る日も、太陽の輝く
のは4時間ほどで、その光は微弱な影に過ぎなかった。誰もが、もう二度と太陽は輝きを
取り戻すことはない、と嘆いた」。そしてローマの官僚である元老カシオドルは言う、「太陽はかつ
ての輝きを失い、青みがかったいろになった。真昼でも我々の身体に陰ができず、あの太
陽の熱はすっかり弱弱しいものとなってしまった、、、、。」

 この深刻な破局が、結果的に(暗黒時代のきっかけとなったのだが、その原因は今も不
明だ。一説には火山の噴火によるものだといい、この場はスンダ海峡のクラカトリアが有力容疑者
だ。それは1883年8月末に溶岩の噴出を起こした。煮えたぎる溶岩の渦に海水が流れ
込み、水爆の百万発分と見積もられる大爆発を起こしたのだ。

 その爆発音は3000マイル(約4800キロ)かなたにも聞こえ、引き起こされた津
波は高さ百フィート(約30メートル)以上に達し、3万6000人が死んだ。噴煙は全
地球を覆い、太陽光線を10パーセント減らした。
407,:2008/05/23(金) 10:22:47

こうした火山噴火も考えられる。だがその原因はむしろ6000万年前に恐竜を絶滅さ
せたような、小惑星の衝突である可能性も高い。来る年も来る年も作物が実らず、大規模
な飢饉が到来した。テオティワカンの支配者たちにとってはこれは途方もない災難だった。という
のも、降雨と方策を保障することこそが彼等の、そして神官たちの仕事だったからだ。

 メソアメリカの文明は、どれもこれも民主主義とはまったく無縁だった。いずれも神である国
王を頂点として、その元に貴族、それから神官というガチガチの権力構造が出来上がって
いたのだ。一番底辺にいたのが労働者で、その身分は死ぬまで変わらなかった。支配者に
対する彼等の感情は、尊敬と恐怖が入り交じったものだった。そしてひとたび飢饉ともな
れば、恐怖は憎悪に転じたのだ。叛乱がおき、神殿や宮殿に殺到した群衆は、神官や貴族
をばらばらに切り刻んだ。機器として彼等の頭蓋骨を砕き、それから四肢を引き裂いて、
他の部屋や庭にばらまいた。さらには、火と泥煉瓦で造られた神殿に火を放った。聖像ま
でもが攻撃の対象となった。高さ2フィート(約60センチ)の女神像の一つは、粉々に
砕かれて8600平方フィート(約2580平方メートル)の領域にばら撒かれた。植えた人々
は、雨を降らすことができなかった女神への侮蔑をこのような形で表現したのだ。

 もしもこの人々に力があったなら、全部を灰燼に帰していただろう。実際、破壊者の集
団は壁を打ち砕き、柱を倒し、燃えるものには見境なく火をつけた。これに比べれば、野
蛮人によるローマ破壊など生ぬるいものだった。

 これが起こったのは紀元600年ごろのことだが、歴史家はたいていその1世紀後だと
考えている。
408,:2008/05/23(金) 10:23:54

 解らないのは、この遺跡に土を被せたのが誰なのかということだ。太陽のピラミッドま
でが、土の山の下に埋もれてしまった。それは多分、テオティワカンに住んでいたアステカ人の子孫が
行ったのだろう。彼らは依然としてそれを聖都と見なし、遺跡の中に住んでいた。

 1884年、悪名打開独裁者ポルフィリオ・ディアスの義兄弟で元軍人のレオポルド・バトレスという
男が、ディアスを説き伏せて自ら遺跡監視官となり、巨大な塚を発掘する権利を自らに許可し
た。彼は考古学者でもなんでもなかった――単なる黄金を求める貪欲なぼうけんかにすぎ
なかった。

 彼の最大の仕事は、何千トンという土砂の除去だ。バトレスは大量の労働者を日当数セント
で雇い、最後には土砂運搬のなめの鉄道まで敷設した。最大の塚の元から現れたのは、荘
厳な階段状ピラミッドすなわち太陽のピラミッドだった。その基部はギザの大ピラミッド
と大体同じくらいだが、高さは半分くらいしかない。

 このピラミッドの頂上近くで、バトレスは興味深い謎の物体を発見した。2層の雲母だ。雲母
とはガラスのような物質で、絶縁に用いられる。しかもそれは、2000マイル(約320
0キロ)かなたのブラジルから運ばれた特別の雲母だった。それは何らかの魔術的な目的
を果たしていたのか?だがそんなことはお構いなしに、バトレスはすぐさまそれを売り払って
しまった。幸運にも、近くの「雲母神殿」の床にあった2枚の雲母は彼に発見されずにす
んだ。

 太陽ピラミッドは煉瓦と石から作られていたので、バトレスはそれに計り知れないほどの損傷
を与えた。その結果、4つの壁のうちの3つは、本来あるべき位置よりも奥に言ってしま
っている。

 この発掘は、独裁者の「再選」に合わせて、1910年に終わることになっていた。だ
がそのころには、彼の支配に対する反対は強まり、式典も行えなくなったばかりか、19
11年には権力の座を追われ、国外に逃亡した。めでたいことに、彼の義兄弟のほうも、
それ以上遺跡を破壊する前に歴史から姿を消した。ピラミッドの4墨に、バトレスは少年たちの
骸骨を発見した。神々への生贄として生き埋めにされたものだ。
409,:2008/05/23(金) 10:25:58


 エンジニアのヒュー・ハーレストンは、1960年代と80年代にテオティワカンの調査を行い、それが太陽
系の模型かもしれないと考えた。大ピラミッドが太陽であり、その周囲に諸惑星が正しい位置
に配置されている。海王星や冥王星に至るまでもだ。彼はまた、376という数字が頻出
するので、テオティワカンに用いられている基本単位――1・059メートルを378倍し、さらに1
0万倍すると、地球の極半径に一致するということを見出した。ギザの大ピラミッドと同様、
これを建築した人々は地球の正確な大きさを知っていたのだ。

 テオティワカンがどのように終焉を迎えたのかは不明だ。ただそれは何らかの攻撃を受け、法化
され、それから土に埋められた。だがこの何百万トンという土は、明らかのこの聖都の遺
跡を保存するために運ばれてきたものだ。バトレスがこれを除去するのに費やした労力を思え
ば、これを埋めるために投入された労力の膨大さもわかるだろう。

 このメソアメリカのインディオたちの世界観は、想像を絶するほど胸糞悪いものであった。彼らは
神々が悲劇と苦難を送り込んでくると信じていたのだ。不運を呼び込む最も確実な方法は、
その到来を心から信じることが。そして、まさにそのとおりのことが起こったのだ。

410,:2008/05/23(金) 10:30:51


いいたいこと解るけど、カッコ内は、読み飛ばせ↓、、、。


【 これらの出来事に関するモーリス・コットレルの見方は、かなり奇妙なものだ。彼の信じるところ
によれば、人類の歴史はヒンドゥー語で「アヴァタール」と呼ばれる「超越神」に支配されてきた。
クリシュナも仏陀もイエスも、そして(パレンケの)首長パカルもまたアヴァタールだった。さらに奇妙なこ
とに、彼の言うアヴァタールには、ペルーのシパンに墓があるというヴィラコチャ、ツタンカーメン、そして秦の
始皇帝までもがふくまれているのだ。始皇帝といえば、100万人以上の人間を犠牲にし
て万里の長城を築いた、恐らく人類史上最も暴虐な支配者だ。】


そんなわけで、われわれは2000年以上にわたって反映したこの驚くべきマヤ文明に関
しては、驚くほど乏しい知識しか持っていない。ローマがヨーロッパを征服しつつあった時代に、
恐らくは貿易のためにこの地を訪れていたギリシア人や日本人、そしてセム人についてはなおさ
らだ。


http://life9.2ch.net/test/read.cgi/utu/1176831538/831
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/army/1206375108/43
411,:2008/05/23(金) 10:35:23

コンドルの裁き、、、

サーモンの著書「わかエルドラド探求」(1979年)の中で一番奇妙な話は、ワクチュという名の少
女に関するものだ。彼女はティティカカ湖北方のカラワヤ族の一員だ。彼女の夫はシャーマンだが、部族の
ために金を稼ごうと都に行ってしまい、ワクチュに不倫の疑いがかかった。老女たちと村の女
たちの集会では結論が出ず、神官たちは問題解決のために「コンドルを呼ぶ」ことになった。
カfラワヤの信仰では、人間は生まれ変わってコンドルとなる。特に、大コンドルは、かつてこのあた
りを征服した偉大なインカの主張の生まれ変わりだ。

 サーモンはこの儀式を撮影するために呼ばれていた。彼が見ている前でワクチュは腰巻一枚の裸になり、
崖の上の杭に縛り付けられた。儀式が始まり、笛や太古の不協和音が鳴り響いた。
その音は周囲の山々を震わせた。

 サーモンは何も起こるはずがないと確信していた。彼はそのあたりで一羽のコンドルすら見たこ
とがなかったのだ。しばらくすると詠唱が静まった。サーモンは、もはや自分がここにいるの
が凶兆だと感じているのではないか、と考え始めた。

突如、勝利の叫びが上がり、向こうの山の上に3羽のコンドルの黒い影が現れた。翼長』
12フィート(約3・6メートル)。まっすぐカラワヤ族の方へ飛んでくる。2羽の黒いメスと、
それを率いるおおきな黒いオス。白い陽光に、白い首を輝かせている。音楽が再開され、
縛られたワクチュは身を捩らせた。押すコンドルが着陸すると、再び静寂が訪れた。サーモンは息
を飲んで、ほんの数フィートのところにいる巨大な鳥を見つめた。それは剣闘士のように威風
堂々と歩き回った。それから、翼を広げ、ワクチュに向かって走り出した。そのくちばしは彼
女ののどを狙っている。サーモンの部下が駆け出し、鳥を追い払った。それは斜面を駆け下が
り、空中に飛翔した。長老たちは叫んだ、「有罪だ-―この女は自ら死を選ばねばならぬ」。

 10日後、ワクチュはそれに従った。崖からみずからのみを躍らせたのだ。