http://science6.2ch.net/test/read.cgi/rikei/1160177875/235-238 ブラウンは考えた。もしも水とまったく同じ比率で水素と酸素を混合するなら、いわば両者は
喜んで結合するのではないか、つまり、爆発することはないのではないか、と。この発見
こそブラウン溶接機の秘密だ。2つの気体を爆発させるのではなく、縛祝させるのである。果
たして両者はほとんど熱を発することなく結合した。その結果、溶接炎は水の沸点よりも
少し高い程度の温度で燃焼した。
その程度の温度の炎が、どういうわけでタングステン棒を焼く事ができるのか?ただ推測するし
かないが、この水素=酸素の炎は何らかの方法で、タングステンと化学的結合をしているらしい。
ここでは水素と酸素の原子が元の状態を維持しているという。つまり、O2やH2という分
子を作ることなく、一個の原子のまま存在しているというのだ。だが、なぜ分子ではなく
原子が、タングステンのような物質にこのような説明不能の現象を起こすのかは明らかではない。
ユル・ブラウンはまた、後の研究で、ブラウン気体が放射性廃棄物を完全に無毒化できることも発見している。
アメリカの実業家ボブ・ザルキヒとデヴィッド・エニスは、ブラウンの実演にいたく魅せられた。
彼等が見る限り、ブラウン気体がエネルギー革命を起こさないなどということはありえない。ガソリ
ンやディーゼルの代わりに、ブラウン気体で走る車のエンジンを造るのはたやすいだろう。それは石
油で動く製品よりはるかに安価であるはずだ。
とはいうものの、ザルキヒとエニスにはブラウン気体の可能性を開発するのに必要な1億ドルを集
めることはできなかった。1時、米軍がこれに関心を示していたが、平和主義のブラウンがこ
れを軍事利用するつもりはない、というと手を引いてしまった。
もはやブラウンは黙殺される運命かと思われたとき、中華人民共和国が彼にオファーを出してき
た。中国人によれば、ブラウン気体の最も有益な応用は、その爆発力にある。着火させると、
その体積は1860分の一に縮むのだ。つまりそれは、瞬間的に真空を作り出すということだ。
そしてこの事実はさらに海水を真水と塩に変えることができるということでもある。
なぜなら熱海水を完全な真空中に置くと、それは蒸気となり、塩およびその他の化学物質
が残る。この蒸気を廃棄ファンによって除去し、凝縮させれば、飲料水ができるのだ。
1980年代末、ブラウンは北京を訪れ、内モンゴルの研究都市包頭(パオトゥ)に居を構えた。
そこで彼は研究所を与えられた。ブラウンはインスティチュート52と呼ばれる複合施設を誂え、20人
の専門家とともに仕事を開始した。その直後、ノーザン・インダストリアル・カンパニーがブラウン気体発生
器の製造を開始した。
中国にいながら、ブラウンは自分の発明をアメリカに売ることを切望していた。中国当局との長
い交渉の末、ブラウンはとあるアメリカの企業にブラウン気体発生装置を世界に販売することを許可
する契約を結んだ。アメリカ人と中国人は、100万ドルの投資費用を折半することになった。だ
が、この契約は成立しなかった。中国人が割り当て分を前払いしたのに、アメリカ人が契
約を守らなかったからだ。
契約が決裂し、中国人の心に疑念が生じたにもかかわらず、ブラウンは包頭で働き続けた。
その結果、中国の潜水艦はきょだいな真水のタンク代わりにブラウン気体発生装置を搭載するよ
うになり、また中国の科学者たちは放射性廃棄物をブラウン気体で熱処理するようになった。
ブラウンは1992年に合衆国に戻った。自分のアイデアに投資してもらう希望を捨ててはい
なかった――彼は、今やアメリカ人を同胞と見なしていたのだ。だがそれが叶わなかった
理由は、彼の研究所へ行って実演を見た人間には理解しがたい。というのも、水を燃料に
するというアイデアは、蒸気機関からTVまで、あらゆる大発明に匹敵する利益を得られそう
だからだ。とはいえ、これらの大発明はいずれも何らかの障害にぶち当たった。
ショーン・モンゴメリは、1996年4月にカリフォルニアのユル・ブラウンを訪ね、その障害のいくつかを理解
した。彼は、バンクーバーから車で南下し、ロサンゼルスで宿を取って、打ち合わせどおりユル・ブラウ
ンに電話した。驚いたことに、ブラウンはモンゴメリに向かって下手な英語で訳の解らない怒
りをぶちまけた。最後に、ブラウンのガールフレンドであるテリ・ヨークが電話に出た。彼女もまた同じ
ように怒っていたが、英語はよくわかっていたのでモンゴメリの話をちゃんと聞くことができた。
実はブラウンの怒りの矛先はトロント在住の実験者で、モンゴメリは自分がその人物とはまったく無
関係だということを説明した――その人物は、ブラウンの指示に反して、「爆縮箱」としてプラ
スティック容器を用いたのだ。水素原子はプラスティックの壁を透過するので精確な比率が乱れ爆発の
危険が生じる。
誤解を解いたモンゴメリは、ロサンゼルス郊外に車を走らせ、ついにユル・ブラウンその人と対面した。
ドアを出てきたのは魅力的で身なりの整った70歳くらいの女性で、その背後にブラウンがいた。
禿頭、眼鏡、短躯(約163センチ)、肥満。その後、居心地のよい中流階級の居間で、モンゴ
メリはブラウン自身の語る発明の話を聞いた。
ブラウンの言葉は聞きづらかった。というのも彼のアクセントは、ブルガリアの子音とオーストラリアの母
音を混ぜ合わせたものだったからだ。語り口は穏やかで、しばしば呟きになった。だが明
らかに彼は自分の考えを説明するのが好きで、根っからの教師なのだ。
気がつけば両者はざっくばらんにテーブルに身を乗り出していた。メモや図表がテーブ
ルに山済みしたが、ブラウンはその間、片時も葉巻を口から離さなかった。その後、台所で紅
茶を入れながら、テリ・ヨークは教授との生活の不満を愚痴った。モンゴメリ曰く、「ブラウンは凄く苛
立ちやすい人物らしいんです。不幸なことに(まぁ彼のような人間にはよくあることです
が)、自分で自分を駄目にしているんです」。
テリはブラウンが待ち望んでいたオファーを受けたときの話をした。彼の説明を商品化しようとい
うアメリカの大企業から持ちかけられた話で、彼にも莫大な利益をもたらされるものだっ
た。だが二人とも結局はおじゃんだろうと考えていた。以前にもアメリカの企業から似たよう
な話がいくつもあって、結局はポシャっていたのだ。最初は彼の仕事は大いに注目されるの
だが、会社の中である程度上のほうまで話が行くと、突然打ち切られてしまうのである。
だが、そうはならなかった。むしろ逆に、その会社はかつての中国人と同じものを彼に
提供したのだ――研究室と気体の設備だ。ブラウンの問題はついに終わったかのように見えた。
ブラウンが研究室長に就任する日、会社は彼を讃えるお祝いを行った。その後、スタッフみんな
で研究室に行って施設をお披露目することになった。
だが研究室のドアに近づくにつれ、ブラウンが絶えず燻らす葉巻の煙に誰もが気づいた。皆
が当惑した。実はこの新しい研究室のようなエリアでは厳密な禁煙が定められており、保険法
と消防法の完璧な遵守が求められていたのだが、この莫大な発明家に対してそれを最初に
告げる勇気のあるものは誰もいなかったのだ。だがありがたいことにブラウンは葉巻を捨てて
踏みにじってくれた。
研究室に入る。皆が彼の反応に注目した。なぜならそこは、いわば発明家にとっての楽
園だったからだ。だが入るや否や、ブラウンは新たに葉巻を取り出し、火をつけた。ついに困
りきった誰かが、ここは禁煙です、といった。
ブラウンは信じられないという顔をした。自分の研究室で室長自身がタバコも吸えないだっ
て?彼はおずおずと説明した、これは社内規則ではなく、国法なんです。だがね、とブラウン
は言った。タバコは必要なんだ,これなしじゃ仕事にならんのだよ。
彼は必死に食い下がった、タバコをすいたくなったら外に出てください。彼は答えた、
私にはタバコ休憩なんてものはないんだよ。目が覚めている間、絶えずすい続けなきゃなら
んのだ。葉巻かタバコなしなんて考えられん、タバコなしには何もできんのだ。
話はそれまでだった。信じがたいことだろうが、ブラウンは長年の間、切望し続けたものを目
の前にしながら妥協することができなかったのだ。彼はユル・ブラウンという人物をしらなさす
ぎた。彼は踵を返して立ち去った。それが彼の夢の終わりだった。
ショーン・モンゴメリに言わせれば、ブラウンの極端な頑固さ、1インチとも譲らぬ心性は、ロシアやトルコ
で何年も投獄されたことに起因しているという。自由のみになったら、意に沿わぬ命令に
は2度と従わないと決意したのだ。たぶん彼がタバコに関して特に頑固なのは、看守にタバコ
を皮膚に押し付けられたことが原因だろう。
いずれにせよ、その喫煙習慣――友人曰く、「傲慢な中毒」―-こそ、1998年3月の彼の
死因の一つとなった。一般大衆はまだユル・ブラウンの名を知らない。
、、、、ユル・ブラウンは時代の常識に振り回されたな、、、初めにブラウン気体発生器の値段の設定を
まちがったところから悲劇が始まったと言いたい、、、。