ウェスパシアヌスはローマに戻り、息子ティトゥスがイェルサレムの包囲を続けた。城の落城は紀元70年。神
殿は焼かれ、暴徒たちは――メシア主義者たちもその中にいたが――虐殺され、神殿の財宝は
ローマに持ち去られた。こうしてメシア主義者たちは全滅し、磔刑に処せられた救世主を拝むパウ
ロの宗教――それはすでに国外の異邦人に布教されていた――には競争相手がいなくなっ
た。それはやがて世界を征服することになる。
迫害者から加害者への変貌
キリスト教がこれほどの成功を収めたのは、世の終わりを説いたからだ――イエスは善と悪の最終
戦争(ハルマゲドン)を予言していた。それは説教を聞く人が生きているうちに起こると。つ
まり、彼の聴衆の中に子供がいたとしても、遅くとも紀元90年ごろより前に起こるとい
うことになる。
現在の基準から言えば、間もなく世の終わりが来るということを神から告げられたとい
うイエスは、妄想患者だ――叛乱を開始したときのユダヤ人が、ヤハウェは神殿に異邦人の魔の手
が伸びることをお許しにならぬ、という妄想に取りつかれていたのもまた同様だ。だが、
ハルマゲドンらしきものもなしに紀元90年が過ぎ去っても、誰もそれに気づかなかった。第
一、当時のキリスト教徒はかつてないほどに暴虐な皇帝の迫害を受けていた。彼は、ウェスパシアヌス
のもう一人の息子であるドミティアヌスでのもう一人の息子であるドミティアヌスで、自ら主なる
神を名乗り、彼が神であることを拒絶した数千のキリスト教徒を殺した。彼は96年
に暗殺された。
その後の2世紀間、キリスト教徒の運命はさまざまだったが、迫害はたびたび繰り返さ
れた。――大衆を楽しませる為には、誰かをライオンの前に投げ出すのが最も手軽だというこ
とを、歴代皇帝はよく知っていたのだ。キリスト教徒のほとんどは、奴隷か抑圧犯罪者だった
ため、暮らし向きのいい人々は彼らに同情することなどほとんどなかった。
小プリニウスは、キリスト教とは何かを知るために、二人の若い奴隷女を尋問した。この二人は
たまたま女輔祭だったが、彼は当然のように彼女らを拷問にかけた。彼は後にこれに関し
て弁明しているが、この拷問によって判明したのは、彼女らの信仰が「歪んだ果てしない
迷信」に他ならないということだけだ、という。大筋においてロマスとナイトもそれに同意する
だろう。
教皇レオ10世もまた、これに同意している。ロマスとナイトによれば、彼は次のように述べた
という。「このキリストの神話は、我々にとって非常に役立ってくれた」。
325年、迫害を受けていたマイノリティであるキリスト教徒は、ほとんど信じられないほどの幸
運を得た。皇帝コンスタンティヌスが、キリスト教を帝国の公認宗教としたのだ。コンスタンティヌス自
身の説明によれば、ミルウィウス橋における重要な戦闘の前に空中に十字架が現れ、「この印の下
汝は勝利せん」という文字が見えたという。
だが、コンスタンティヌス自身はキリスト教徒にはならなかったことからして、この話は疑わしい。
彼は終世、皇帝オウレリアヌスを始祖とする不敗太陽神の信徒だった。だが彼は勝利し――敵は義
兄の簒奪帝マクセンティウスだった――マクセンティウスの身体をティベル川に投げ込んだ。かくしてキリスト教徒
は、間もなく偉大な遺産を受け継ぐことになる貧乏人のような状況となった。