851 :
没個性化されたレス↓:2007/07/07(土) 08:07:14
エクスタシーと過呼吸は似てるよな。
852 :
没個性化されたレス↓:2007/07/07(土) 10:59:04
5月27日から北米での劇場公開した今敏監督のアニメ映画『パプリカ』の好調が
続いている。6月最終週の興行で公開から6週間目を迎えた『パプリカ』は、先週
から公開劇場数を6つ減らし31館での興行となった。
しかし、米国の映画興行情報サイトのBOX OFFICE MOJOによれば、週末の興
収ランキングで依然35位につけている。この結果『パプリカ』の累積興収は、約57
万5000ドル(約7000万円)まで達した。
この結果、『パプリカ』の興収記録は、同じ今敏監督の『東京ゴットファザーズ』の
4倍以上、『パーフェクトブルー』の5倍以上である。この数字は作品が2006年のベ
ネチア国際映画祭のコンペティション公式出品であったことに加えて、今監督への
世界的な評価の高まりも反映していると思われる。
またこれまでの累計興収で、『AKIRA』や『攻殻機動隊』、『スチームボーイ』といっ
た日本の大作劇場アニメの興収記録を上回る歴代14位に浮上した。これより上位に
は『ポケットモンスター』などの児童・学童向けのアニメとジブリ作品と『イノセンス』、
『カウボーイビバップ 天国の扉』、『メトロポリス』の3作品のみとなっている。
今週以降は公開から既に1ヶ月半以上経っていることもあり今後は興収の大きな
伸びはないが、着実に数字を積み重ねそうである。
興収5000万円突破は2005年の『ハウルの動く城』以来のものとなり、『パプリカ』は、
日本のアニメが最も苦手とする北米の劇場公開の市場で価値ある実績を残したと
言えるだろう。
『パプリカ』公式サイト
http://www.sonypictures.jp/movies/paprika/site/home.html ソース(日本アニメの北米歴代興収トップ20)
http://animeanime.jp/news/archives/2007/07/akira74.html
854 :
没個性化されたレス↓:2007/07/11(水) 19:07:23
サディストというより、生きた人間とは関係が結べなかったのではないか。
856 :
没個性化されたレス↓:2007/07/20(金) 23:52:21
>>855 それよりも故人となった英雄を好む者の心理を知りたい。
>>239 自分では『エセ牧師S』と『ごめんなさいM』の両方持ってると思うんだけど、Sの気持ちが分かるMなのかな。
性的なモノに対して、相手には汚いモノじゃないって言い聞かせるし、実際汚いなんて思わないんだけど、自分が性的な事をするのには罪悪感がある。
こんな風に性的なモノに対してのイメージが、自分と相手だと違う人っている?
遅レスな上に、場違いな質問だったらスマソ
858 :
えす:2007/07/22(日) 13:25:56
>>857 俺が書いた前のレス、今読むとちょっと断定的過ぎると思いました。反省。
考え方の根っこは変わってないんだけどね。
で、質問の件ですが…全然おかしくないと思いますよ。
自分に無いモノを求める、自分が潜在的に抑えてるモノを出せる人を求める、それはSMに限らず、
ある程度深い関係になれる人間同士なら普通によくある事だと。
これはただの予想だけど、あなたは相手に
「汚なくないよ、キレイでいい事なんだよ」
って言う形を取る事でバランスをとっているのかな?
半分は自分に言っているような感じで。
本当は自分が、誰かにそう言ってもらいたいのかもしれない。
でもそれは、全然悪い事だとは俺は思わないです。
『自分の代替としての相手』
言葉にすると冷たく感じるけど、そうやって自分を知って、認めていければ。
>えす氏
その「自分の代替としての相手」に
>847で名無し氏が書いている
「促し、促される関係」が加えてみるとSM関係の萌芽、なのだろうか?
一応、現時点での俺の理解では、Mは自己を責める「自分」の部分をSに預ける。
という風になってる。
女Mは最後の地点で自己完結的。
男Sは最後の地点で他者完結的。 ではないのかな、と。
男Mには、
女王崇拝的な側面を持つもの(母子一体を目指す側面)が表にでているタイプと
女王を利用して(言い方は悪いが
)罰せられることで自己解放を遂げる(自分イメージから自分がずれることで
固定化されそうな自分イメージを解放する)方に力点が置かれてるタイプがいる気がしてる。
861 :
えす:2007/07/23(月) 12:24:30
>>859 大体そんな感じかと。
そのMの分類は、俺も似た感覚がある。
許されたいか、否定されたいか。
ただ全部が一時的なんだよな、SMって。
まれに強い依存に陥る場合もあるけど、それは病的になる。
結局、苦しんでる過程がSMなんだと思う。
だから
>>857には、SかMかって部分には答えなかった。
自分の苦しみは自分で理解しなきゃ意味無いし、気付いたら見える事が個人個人であるはずだから。
通過儀礼としての親殺し。
それが忘れられないから繰り返す。
それが出来なかったから求め続ける。
同じ童話を、何度も何度も読み返す様に。
それはとても自分勝手で、だから止められないんだろうね。
862 :
没個性化されたレス↓:2007/07/25(水) 04:56:32
もう一度、書き直しておく。
(言い方を細かくするだけで、 内容は
今まで考えてきた事の繰り返しだがw)
自己(自我)を自己(超自我)が責め立てれば鬱。
この自己を責める自己(超自我)の部分を、
他者(S)に代行させるのがMにとってのSM。
(この時、相手に対する信頼関係を重視するなら、最終的には赦しが希求される。
えす氏のいう暴君型が相手ならば、罰せられること自体が求められる。
相手が暴君型の場合、その暴君は親由来の超自我というより
親を通して刷り込まれた社会的規範としての超自我という側面が強い)
この赦しも罰も性的関係の中で行われるので、
当然、一時的な解放となる。
そのため、この一時的な解放を常時求めるなら
「飼われ」の中で性的関係を日常化する欲望が生まれる。
(その中では疑似「社会の性化」として
露出や見知らぬ他者の介入へと発展する)
これは、まだ仮説にすぎないが、
許され希求型の超自我(規範)は親との個別的な特殊性が強く
罰希求型の超自我は親そのものから刷り込まれた超自我の社会性が強い。
フロイトは超自我を父親由来に限定しているが、
これは個々によって違うのではないだろうか。
父親が家庭との接触が少なければ、禁止を与えるのは母親の方が多いだろう。
(フロイトの被治療者は裕福な白人家庭の男性が多く、
当時のヨーロッパ富裕改装では十分に父権が強かったために
フロイトは父親の影響をまのあたりにすることが多かったのだろう)
Mの超自我に与えた影響に父親由来が強いのか、母親由来が多いのか
そういったことがMのタイプに影響を与えるのではないだろうか。
さらに、Mの性別によって、父母いずれの影響が強いのかによって
求めるSのタイプも変わってくるだろうし、もちろん、
その(超自我の)内容によっても求めるタイプは違うだろう。
Sにとって、罰すべき(加虐すべき)超自我もまた、それぞれによって異なる。
しかし重要なのは、これらがあくまでも
「性的関係」の中で行われる行為 だという事だ。
そして、Sにとって大事なのは、
加虐行為を通してMの超自我と自我を変容させる欲求であって
自分を加虐するタイプが重要なMとは違って、
相手のタイプの選別はおおざっぱですませられる。
なぜなら、
MにとってSMは自己の内部の問題であり、
Sにとっては関係の問題であって、
デフォルトの相手自我そのものよりも、
それを 「変容」させることの方が重要だから。
>864 はもっと丁寧に、
男Mと母 男Mと父 女Mと母 女Mと父
でそれぞれに考察すべきだが、今日は集中力が切れたw
時間もないので、いずれまた機会があれば。
(次にレスを書く機会がある時、
必ずその事について書けるとは限らないので あしからずw)
867 :
没個性化されたレス↓:2007/07/26(木) 22:13:24
868 :
没個性化されたレス↓:2007/07/30(月) 15:31:06
男でソフトSM両方持ってる。
相手の理想はいわゆる「大人の女性」かな。
学生時代好きになった女性はいつも手の届かない教師や講師であり、
21歳の時14歳年上でも俺は好きになれた。言葉に凄くやさしさを感じた
からだ。年下はいくらかわいくても好きになれなかった。
オーダーメイドでセーラー服や黒と白のメイド服を買って部屋で着てオナニー
することもある。ビデオでは、完全に脱がされて裸でプレイしているよりも
完全に脱がさないで胸を出して胸の上のラインまで上げるのが良い。
女性の性器は関心があまりなく、胸が命である。巨乳好き。
オナニーするときはたいてい胸を見ながらする。
ビデオで男Mを見るのは気持ち悪くて見れない。S女とM女が一番良いが、
S男とM女でも良い。女教師や看護師その他OLなどが、両手縛られて
どんどん縛られていくとマジ興奮しまくる。「こんないやらしい格好
して、男を挑発して、もっといやらしい格好させてやるよ」
一方で、女王様に縛られたい、犯されたい、という気持ちはあるものの、
ペットになりたいとは思わない。「お許しください」って言ってみたい。
まぁソフトの範囲内ならどうにでもしてくださいみたいな。
そんなステータスですが、分析可能ですか?
甘えん坊のめんどくさがりのフェチ野郎でしかないんじゃ
蟹
セックスの延長ではなくその精神性からSMを求め、体験してしまった場合の
S・或いはMを、真性と呼ぶのでしょうか。
ここでは、内向型、外交型とMの座標を設けていますが
真性と、プレイとしての(快楽のみの?)SMの違いとは何ですか?
>871 より考えを進められないかと仮に座標を出してみたのは俺個人で
このスレ全体のコンセンサスというわけではない。
俺の現在の思索レベルでは真性という弁別はでてこない。
せいぜい各座標のどの位置にあるかという程度の分析でお茶を濁してるだけだ。
いいかえれば軽度から重度という幅は設定できるかもしれないが
真性という断層を見いだすことはできない。
フロイトが鬱について、たんなる落ち込みとの違いを
「自我の縮小」と断じたような洞察がまだ得られてないだけかもしれないが。
プレイとしてのSM を俺の使ってる「市民主義的SM」というふうに置き換えれば
その違いは、単に、社会的に認められる範囲でのSM、
風俗の一種として、あるいは性の「形のひとつ」として
「社会に公認」される方向でルールを設ける志向があるかないかの差にすぎない。
(これは市民主義SMが「真性」ではないという意味とはまったく違う)
もし、真性というもののイメージをはっきりさせてくれれば
俺に限らず、それについて考えることができるかもしれない。
>>872 ご回答有難うございます。
成る程…確かに、どこからが真性、というように境界線を引くのは
難しい行為かもしれません。
私の中でも明確なイメージはまだ描けていないのですが、敢えて言うのなら
真性とは、SMなしには生きて行けない
(願望が強く、SMをしなければ日常生活に支障がある(Mの不安定さ・ある種の自傷癖))
(発散しなければ犯罪に繋がる可能性がある(Sの攻撃性))
というイメージです。
或いは、罪悪感を持ちながらもやらざるを得ない欲求に従っている場合。
しかしこれが快楽に転化し罪悪感が和らぐか否かは、パートナー次第のようにも思えます。
>>873 それをSM依存(中毒)と捉えると、どこか違うのだろうか?
SM関係ではなく SM「行為」そのものへの依存が強度だということだろうか。
では、逆に、真性ではないプレイとしてのSMはどんなイメージだろう。
依存に陥ってない、
「味付け」として行う性行為のバリエーションで済むということだろうか。
あるいは、病的にではなく、
適度に「楽しんでる」範囲なら真性ではないのだろうか。
酒をたしなむのとアル中の違いのような。
それならDSMのサディズム・マゾヒズム
>>249-250でいいんではないだろうか
(真性の定義)
だが
>>873氏はMの不安定さをわかっているようなので
ほんとうはもうすこし違う事を示したいようにも感じる。
Mの不安定さ(特に女性)は重要。
Sの犯罪性も微妙な問題。
876 :
紅:2007/08/02(木) 19:42:29
>>875 SMでは、Sとの関係性を重要視するMが多いでしょう。
しかしか真性かどうかを判断する際に重要な材料は、
SM行為そのものに対する依存性ではないかと感じています。
肉体への刺激による思考の停止・遮断においてでしか精神の解放を味わえない、
安息を得られない構造、
また、それらを手段にSに受け入れて貰おうと(支配されようと)する思考
に着目しています。
つまりSM行為が、目的ではなく、常に手段として存在しているということ。
(プレイ=楽しむSMなら、それ自体が目的では?)
そうなると
>>249>>250で良いように思えるのですが、
咀嚼途上者さんの仰るようにいまいちピンときません。
主のいいつけに首を横に振らず、且つ自らの悦びとして取り込めることが真性であるということなのか、
はたまたその貪欲さを示す尺度なのか…。
素直に、SMに捕らわれた、病的な欲求を真性と定めれば良いのでしょうか。
すこし「関係性」という時の内容が違うような気がする。
Sが計る関係性は、距離の計測、そして相手の受け入れ度の確認・入り込み。
つまり、関係性を通して、「最終的には」他者完結的だ。
対して
Mの関係性という時、それは儀式的だ。
服従の心構えだとか、奴隷としての出来・不出来といった形式にとらわれる。
直接Sの心性を計るのではなく、意図を推し量るだけだ。
それらは「自分の」服従への判定だ。
最終的には距離ゼロの「自己完結」が、自我消失が、快感、解放とともに目指される。
おれにはむしろ「楽しむSM」の方が実はよくわからない。
DSMはよく考えられていて「現象」として(症候)として
どんなヘボ精神科医でも診断が下せるという目的で作られている。
意図的に「現象」をしか述べず、
いかなる心理にも精神分析にも触れないようにわざとしている。
なぜ、真性というレッテルにこだわるのだろうか。
SM板で見かけた「どS」「鬼畜」なるものは
ただのバカか偽Sにしか見えなかったのだがw
SM行為が手段として存在しているというのは
セックスが愛の確認のために存在している、という言い方と同じように
一種の純粋主義のようにも思える。
別にそれが悪いとは思わないが、
サディズム・マゾヒズムの本質を考えようとすると
性の側面を過小にすると、単なる鬱しか残らないような気がする。
(実は、鬱回避としてのSMというのはかなりあると思ってはいるが。)
>すこし「関係性」という時の内容が 違うような
\_俺とは
<覚え書き>
刷り込まれた【超自我】が強すぎる場合
「命令」や「服従」「しかたない状況」といった
自分の性へ没頭するための言い訳としてマゾ的空想・プレイを必要とするタイプ。
これはいわゆる「いい子」「優等生」に多いのではないか。
その場合でも、【超自我】が崩されるわけではない。
自我を否定されることで、
超自我に従えない自分を犠牲者に擬するか、
命令への服従という形式で、性の没頭への扉が開かれる。
保存された【超自我】は、Sの時にはMの自我を崩すために使われる。
これが、SM混在の仕組みではないだろうか。
>これが、SM混在の仕組みではないだろうか。
↓
これが「同一人物の中に」
S性」とM性が混在しているようにみえる時の仕組みではないだろうか。
882 :
没個性化されたレス↓:2007/08/14(火) 06:16:27
>>881 あなたの中にはS性とM性は混在してるの?
服従願望の奥にあるのは 自己放棄願望。
自己放棄願望の奥にあるのは 超自我の抑圧。
この超自我「から」の抑圧は現実の抑圧とは異なる。
与えられた所与によるすり込みが超自我の形成を行う。
現実の、というより「関係」から行われる抑圧は
関係の変化によって、取り払われるが
刷り込まれて「自分」の一部を占める超自我からの抑圧は
やっかいだ。
>882 前スレで心理学のプロ氏に「自立しているのか」と問うた者と
同一人物だろうか?
とすれば、けっこう息長くこのスレにつきあってるな、と感心するw
自己放棄 は 自分の肉体を「商品」化する願望をも生む。
今のSMは資本主義と無縁ではない。
Sに己を商品化する願望は生まれないだろう。
売り主としての優越感?
だが、封建的な所有者であることへの願望のほうが強いのではないだろうか。
そこでは、商品化へと、己を放棄させたという過程の満足はあっても
商品化それ自体はSにとって何かの達成ではないだろう。
高度資本主義化とMの増加は関係しているのではないだろうか。
885 :
羊:2007/08/23(木) 19:06:24
上から読ませてもらいましたが、ものすごく勉強になりました
目から鱗とゆうか人生で一番大切な事の真理、人間知を知った感じです。
無私、無我の状態、依存も支配もしなくても今ここに在る存在になれた時
いわゆる悟りに達したことになるのかもしれない。宗教がらみの話になるのですが
イエス・キリストが説いた生き方、隣人愛、許しをする事により、無我・無私の状態に
なれ悟りをひらけるのではないのかなと思いました。やっぱり共同体で生きている限り
真にヒューマニストでなければ無我・無私の状態になるのは難しいのかもしれませんね。
キリストもまた父(神)への強いコンプレックスをもっていた
と解釈すれば、マゾヒズムと関係させられるかもしれないが
実在したかどうかわからない歴史上の人物にそんなあてはめをしてもしかたない。。
ただ、宗教とマゾヒズムはかなり連結しやすいように見える。
「マゾヒズムの発明」でも、なかの一章を、
鞭打ち教徒などの宗教とマゾヒズムの関係に割いていた記憶がある。
日本でも、修験道などでの、先達にたいする後輩の絶対的服従など
なんらかの意味でマゾヒズムと関わらせて考えることもできるかもしれない。
その場合、問題はサディズムなのだが、そちらは別の考察が必要に見える。
(そのあたりはまだよい切り口がわからない┏○)
ちなみにオレの知ってる範囲で言わせてもらえば
表層的なヒューマニズムを唱えてる人間ほど
実はエゴイストでニヒリストだったりする。
888 :
えす:2007/08/24(金) 10:22:31
だね〜
ま、ニヒリズム自体は
日本人の平均的で平凡な思想だけどな。
これは地震と台風と四季が関係してると俺は見てる。
日本人のヒューマニズムが怪しげなのは、キリスト教的な「愛」概念がないのに
人間「愛」などを持ち出すことで、一種のモラルエリート臭・啓蒙家的な
「上から目線」がかなり強かったからだ。
フーコーによれば人間という概念はまだ新しいそうだが、
人間という考え方は嫌いではない。
インディアンは特別に自分たちを指す名称を持たなかったそうだ。
それはネイティブアメリカンなんていう政治的でちんけな名前よりはるかにいい。
人種・民族・国民・村人といった「所属概念」でした共同性を担保できなかったのを
人間という概念で拡張するというのはアジア人にはできなかった発想だろうし、
なかなか悪くない。
ただ、欧米流の 先験的に動物との対立概念として人間を特別視する
過剰な(欧米的)増長は鼻についたが、
猿と人間は99%遺伝子が同じだとか
動物にも言語能力や道具を使う能力があることなどが明らかになるにつれて
その手の増長は薄れていった、という経過だろう。
だからといって、人間という考えをあわてて捨てる必要があるとも思えない。
無我・無私は、生きながら死者になるようなものだ。
ヒューマニズムとは別の事柄な気がする。
死者が言い過ぎなら、植物生、と言い直してもいい。
SMの肉臭さは、まさに対極にある。
マゾヒストはSM現場で忘我状態になることはあっても
無我・無私になるわけではない。
自我を邪魔に思ってはいるかもしれないが。
ま、くだらないフェミニズムよりは
ヒューマニズムの方が「まし」だww
891 :
羊:2007/08/26(日) 15:43:09
話は変わりますが、マゾ、サド的な人とは自分に自信のない人なのかなと。
両親の価値観から否定的なメッセージを受け入れ自信がなくなっていった人だと思います。
人生で経験する快感のエネルギーは人類の基本的財産で、人間からこれを奪うと
結果として・持つもの持たざる者・との間に大きな分裂が生じて。自分の
権力を示すさまざまな形の快楽から、自慢するためのトロフィーに至るまでの
上流階級特有の快楽に対して労働階級はねたみ。ある人間の喜びが否定されて、
それが他の人間の喜びとなっていることに気づけば、革命を生み出すと思います。
あるいは、弾圧さるかで。したがって、大衆の生きる力や目的の合理化された活用
手段である・道徳律・は意図的な価値観の歪みから機能することになり。・人生の苦しみが
地獄のようであればあるほどそのほうびとして、もっと天国に近くなる・といったような幻想
が提供される。喜びと苦しみの歪んだ関係は、道徳的に歪んだ社会環境を生み出しました。
そこでは苦痛が喜びにつながるようにしました。この苦しみと狂った状態の中で代替される、
少なくとも臨時的に免れる嗜癖は、禁断の誘惑に勝つか負けるかという、致命的で反社会的な
ゲームとなってしまう。けれども人間は気高くて、要求もしないのに生まれてきた自分の存在に
対しての、永遠の葛藤にあって。その気高さは、つかみ所のないミラーハウスのような世界において
人間の唯一の支えとなり、人生そのもののプロセスに対する信頼を生でいるのですね。
サドマゾに対するくくりかたは’心理学のプロ’氏の影響だろうか。
親が有形無形で送った否定的なメッセージに対する復讐がサディズムとなり
同じく受け取った否定的なメッセージを漂白するのがマゾヒズム。
(’心理学初心者’の考えを俺なりにかってに延長させればそういう咀嚼もできる。)
通俗的な道徳への反発がサド・マゾに通底しているのは確かだ。
(道徳の起源については色々考えていた時期があるが未だに答えをもたない)
ただ、個人的な倫理観は、このスレに来るようになって「超自我」という概念を見直し
以前よりは輪郭がわかりかけている。
道徳律を「大衆の生きる力や目的の合理化された活用手段」である
という角度で観たことはない。
多少素朴すぎる気もするが、一笑に付するほど酷い考えとも思わない。
階級的弾圧によって、
ゆがんだ性的な悦び(禁断を犯すという快感)ゲームにいたるというのも、
一応頭に入れて置いていい視点ではあると思う。
(俺もこのスレで以前、SMは貧弱な(幼児的)支配階級の模倣「ごっこ」だと書いた覚えがある)
人間が気高いかどうかは俺には判らない。
いずれにせよ「自分の考え」を述べることはたいへんけっこうなことだと思う。
俺の言うことなど気にせず「自分の」考えを書けばいいと思う。 ここはそういうスレだ。
893 :
没個性化されたレス↓:2007/08/27(月) 05:04:08
>親が有形無形で送った否定的なメッセージに対する復讐がサディズムとなり
その通りなんだよ!
>892において'心理学初心者'に氏をつけるのを忘れていた。
俺の個人的原則として
自分の頭で考えを述べるコテには敬称をつけるようにしてきたので
遅まきながら「’心理学初心者’氏」に訂正。┏○
895 :
羊:2007/08/27(月) 22:21:09
マゾ、サドの人は幼児期の時や子供の時ものすごく精神衛生状よくない環境に
生まれ。親自身が子供や人に対する理解が少ない為に、子供に対して無責任で尊重しない言動で子供はそのあまりにも自分を大切に評価し尊重しない言動から親への仲間意識がなくなり
親は何かあるたび攻撃してくると、勘違いしてしまい。本当は親は攻撃してるのではけではなく自分の欲求に
対して協力してほしいとメッセージをだしているだけなんだけど。その表現や欲求があまりにも強すぎると
子供は評価を求める為に親を理解したわけでもないのに利己的な意味で協力し親に求めていた評価や関心を寄せられると安心するとゆう形
をとってきたのがマゾ。サドも同じく親が適切に自分に対して評価尊重されてないと勘違いしてもっと自分をしっかり見てと何事にも攻撃的に
なり周りの人や親を認めさせることで安心する形がサド。とゆうわけでどちらも人を利己的にコントロールしようとしているわけなので人生はいつも
不安と緊張がある。人が自分が思ったようにコントロールできるかいつも心配で仕方がないとゆう事になる。その人が何かをきっかけに自分自信や能力があると確信すると
その人は自立的になり健康的に生きられる。すべては自分自身に対する自己評価しだいなんだと思う。本当の意味で自分の事が大好きで、人に対して寛容に生きていく事が幸せと自己実現につながると思います。
コントロール願望と被コントロール願望だろ
親にうけたコントロールが強いとどっちも強くなる傾向があると思う
897 :
没個性化されたレス↓:2007/08/29(水) 16:14:33
>>895 非常に説得力があるが、どこかのコピペ?
898 :
羊:2007/08/29(水) 17:38:45
コピーではないですけど、いろんな心理学
の本を読み自分自身の病んでる所と照らしあわせね
自分の心を分析してみるとその通りだったので書きました。実際少し少し自分への能力への信じる
気持ちと何事の課題もあきらめなで自分で最後まで達成することを積み重ねていくうちに自信がでてきて
つまり自分の能力を信じる力、何事も自分であきらめないで乗り越えられるとゆう勇気がでてきて、人と比べることも
少なくなってきて心が安定して自分のやるべき事に集中でき心の充実感がありワクワクする
気持ちが増えてきました。まだ少し不安定な時がありますが少し少し自立的になり進化していきいと思う、今日この頃。
ちなみにアドラー心理学の影響を受けています。アドラー心理学の基本は、・支配しない・依存しない・目の前の課題を
解決する・です。
アドラーはちらりと覗いたことがある。
たとえば、子供の病を、親の関心を自分に引き寄せる戦略として
背後に潜むのは権力への意志だと、いうような部分だ。
性的衝動(リビドー)よりも権力への意志を心理的動機の根本においていた
という記憶。
権力への意志が、人間の行動の根元だとすれば
サディズムは、まんま、あたりまえの心理と見なされるような気がするが
違うのだろうか?
心的な病の根元として「権力への意志」があって、
それを超克しないと(心的)病は治らない、という事なのだろうか?
(以前チラ読みしただけで、アドラー心理学全体をよく知らないので一応質問。
むろん、答える義務などないし、違うことが書きたいなら、そっちでいいけどね)
900 :
羊:
人間の行動の根元は劣等感だと思います。人であるとゆうことは、ある劣等感を所有していることを
意味していて、それがそれ自体を克服するように前進させようといつも圧力をくわえている。人生の根本法則は、
欠陥や不適切なことを克服する法則であると思います。その解決方法が上記895で書いたように周りに対して理解力不足で
より劣等感が高まる事が続くとアドラーでゆう、劣等感コンプレックスがでてきて自己決定自己責任を放棄して、支配・依存・
周りをコントロールしてどうやったって自分の劣等感を克服しようとする試みがサド・マゾ・だと思います。健康的である人はその
劣等感を自立的に解決しようとする人つまり支配・依存しないで・目の前の課題を解決しようとする人。劣等感それ自体は異常ではないです。
劣等感があるので、人類という場所にあらゆる改善が生まれます。たとえば、科学それ自体は、人間が自分の無知を感じ未来を
拡げる必要を感じたときにのみ可能であるわけで。正常な劣等感と劣等感コンプレックスの違いは、単に程度の問題であって質の問題ではない。
劣等感が誇張された感情の場合望ましくない性格の特性がでてくる。例えば恥ずかしがり・臆病・過度の依存傾向・言いなりになる服従傾向・さらに
ずうずうしさや衝動性・頑固さ・反抗的態度などのような何らかの補償傾向を伴っているサド・マゾ傾向の衝動に結びつく。そのどれもが、最終的に
無視されているという誇張された感情から極まってなっていくと思います。愛の反対は無関心って、マザー・テレサが言ってました。周りに対しての無関心が人生
を生きづらくしているのかもしれません。より深く人を理解していたら戦争なんてなかったと思います。謙虚になってもっと人や周りを理解する事が大切なのかも
しれませんそうすればもっと人類や地球にとってみんなが建設的に役に立つ解決がでると思います。復讐とゆうサイクルもなくなるし。