感情自己責任論

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737虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc
わたしは>>1に似た考えを持っているかもしれない。
http://www11.plala.or.jp/schicksal/text/001.html
http://www11.plala.or.jp/schicksal/text/1-0.txt

▽しかし、こうも考えた。
実用主義はpragmatismであるから、劣化版新pragmatismである。
新pragmatismの祖であるリチャード・ローティは、「客観が誰にも知ることのできないものであるとすれば、そのような客観を想定することは無意味だ」という見解を示した。
新pragmatismは社会言語学と親和性が高い。
社会言語学の標語は「言語が現実をつくる」である。
言語は公共的なものである(と言われている)。
ということは、一般人(多数派一般人と少数派一般人の双方)が現実なるものを構築し、維持していることになる(非一般人は、強制的に参加させられるが、私的な言語を使用するために参画することは許容されていないし、許容されたとしてもできない)。
すなわち、現実とは一般人の手による虚構である(歴史の場合にはこれが顕著である)。
したがって、実用主義者(「わたしが言うところの」一般人はほとんどこれに当たる)が虚構との親和性の高さを非難するのは二重基準であると言えないか?

一般人は、彼らから見ても簡単な二重基準を犯して平然としているうえに、他者(特に少数派一般人や非一般人)の二重基準についてはまったく許容しない。
他方、一般人は自己中心性を嫌悪し、よくそれを持つ者を攻撃する。こうして、ある同質の行為について、自らがそれを行うことを許容するが、他者が行うことは許容しないという選択をするという、さらなる二重基準を犯すことになる。
わたしは、このようであるならば、何でもありの世界が実現するのは必然的であると思っていた。しかし、実際には何でもありの世界は誕生していない。ただ多数派一般人にとって都合の良い世界が存在しているだけである。
ところが、こうした意味不明の事態も、現実世界が一般人の制作した(虚構)世界であると考えれば、うまく説明することができてしまうのである。
一般人がつくり、一般人が思うままに管理している世界なのだから、一般人の言動が無条件に〔一般人の言動であるというだけで〕正しくなってしまうのも理解できるというものである。
738虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/06/25(日) 11:22:00
実務家が採用している二重基準、したがって実務家の頭の弱さを提示する事態(←一般人の評価:虚構世界内存在の妄想/返答:あなたは正しい)
(1) 学術を蔑視しているにもかかわらず、理論体系から抜き出した一部の理論を選好している。
   ⇒その理論体系に組み込まれているから効果を発揮するということが理解できないようである。
(2) NEETや引きこもりを嘲笑している(社会に貢献しないことを非難する)にもかかわらず、社内派閥、および派閥間抗争、部門間抗争を酷く好んでいる。
   ⇒社内派閥(部門内派閥と部門横断的派閥の双方)をつくること、および派閥間抗争、部門間抗争が激化すればするほど、企業の利益を損ない、したがって社会貢献の逆のことをしていることが理解できないようである。
(3) 「大人」と「子ども」という区分をつくっているにもかかわらず、自らが嫌っている他者と仕事をすることを拒絶したり、彼が仕事をする際の直接的あるいは間接的な障害を創出したり、社内いじめを遂行したりする。
   ⇒自らが嫌いであるというだけで、その他者と仕事をすることを拒絶したり、彼が仕事をするのを邪魔したり(仕事に直接的に関係することについてcommunicationをとろうとしない、あるいはまったくとらない、
彼に貸し出されているPCを壊すなど)することが、一般人自身による「大人」概念に反することが理解できないようである。
(4) 何かを達成することができなかった者や、直接的な身体的攻撃、および殺人を行った者に対して、そうした行為をしたことを〜のせいにしてはならない〔〜を原因にしてはならない〕という見方や発言をするにもかかわらず、
叩かれるのは原因がある〔〜だから叩かれる〕という言明を行う。
   ⇒前者は、物理的/生理的な要因によっては、感覚や感情といった心理的な根拠、あるいはそれに基づく行為を正当化し得ないというわたしの考えと一致しているが、
後者、すなわち他者を攻撃するときには、自らが標榜しているその立場を一時的に忘却してしまうようである(ご都合主義的健忘ですか?)。
739虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/06/25(日) 11:22:54
(5) 論理的であることを他者に強要するにもかかわらず、それに関して自らの立場が危うくなったとき、あるいは他者を攻撃するためならば、「人は論理のみで動かない」と一時凌ぎの言説を展開する。
   ⇒前者と後者にかかわらず、結局は感覚あるいは感情のみによって動いていることが理解できないようである。
(6) 普段は絶対主義、特に単なる感覚や感情に基づいた絶対主義に立脚しているにもかかわらず、他者を攻撃するときには見かけ上の相対主義になる。
(7) 法や道徳的規範という概念を制作し、自画自賛的に偏重しているにもかかわらず、自らが仕事上で法や道徳的規範を犯す可能性をまったく想定せず、
実際に犯したときには命令であるという理由によって、あるいはその命令を受諾しなければ自らが損をするという理由によって、自らの行為を許す。
   ⇒前者と後者にかかわらず、結局は感覚あるいは感情のみによって動いていることが理解できないようである。
(8) 一方で、(1)〜(6)のような二重基準を採用しており、他方で、他者〔自分、および自分が属する共同体の外に存在する者〕の二重基準を排撃するという自己中心主義に立脚しているにもかかわらず、
他者(少数派一般人や、特に非一般人)の自己中心性を徹底的に攻撃するというさらなる二重基準を犯しており、かつこうした非難は誤っているという信念を絶対化し、
それを同質者と共有したり、他者に対して互いに強要し合ったりすることによって、その考えに効力をも持たせようとする(その結果、従わない者を社会的に排除している、あるいは彼に社会的な抑圧を加えている)。
740虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/06/25(日) 11:24:58
しかし、あなたたちは(現実においては)正しい。現実はあなたたちが制作した虚構であるため、あなたたちは誤りようがない。あなたたちは(現実においては)無条件に正しい。
人を殺しても、あなたたちであれば正しい。……え?  正しくない?  それがあなたたちの答えならば、正しい。

▽現在
「現実が一般人の制作した虚構」であり、したがって「現実においては一般人の考えが無条件に正しい」とした場合、右翼と左翼の、したがってほとんど一般人の内紛、それも埋めがたい懸隔のあるそれはどのように理解すればよいのですか?
「現実においては一般人の考えが無条件に正しい」という考えが誤っていることになりますか?
そうであるとすれば、またわたしの考えが機能するようになりますよ?

「人間とは〜である」という言明が行われるとき、「人間は〜でなければならない」という信念が強く働いている気がする。
少なくとも、わたしが見てきたものはすべてそうでしたよ。そして、それは共有されていました。
で、何でその規定を絶対化できるの?  根拠は?
741虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/06/25(日) 11:31:08
あと、おそらく脳神経学や認知科学・認知心理学などを知らないことに端を発する疑問があります。

前提:「淫乱肉便器の紹介@虚構作品」 http://www11.plala.or.jp/schicksal/lewd-carnal-chamber.html

原理的に感覚や感情を意図して生み出すことができるという物理主義者の主張はわたしの感覚と一致しますが、わたしが物理主義者と異なるのは、そうした主張と、経験には主観的側面があるという信念を同時に持つことは矛盾しないと考えるところです。
問題は、脳の電気信号の仕組みを知ることのできる装置と感覚や感情を引き起こす装置を使ってわたしの脳を調べたところ、
わたしが「淫乱肉便器@虚構作品」で挙げた218人(2006年6月19日現在)の女に対する性欲ならびに支配欲を生成・伝達する電気信号が1つ、あるいは2つ以上があることが分かったとして、
「電気信号をpattern化することができる」という考えと、「電気信号はpattern化することができない」(上の例では、電気信号は218とおりある)という考えのいずれを物理主義者がとっているかということです。
前者は、互いに異なる容姿をしている者に対して「同一」の感覚や感情が生じることがあるという考えになっていますが、そうだとすれば、対象の知覚からある感覚や感情の発生するという事態は考えられても、
その逆〔感覚や感情の発生から対象を知覚する〕という事態を考えることはできません。したがって、この場合、経験の主観性を認めざるを得なくなります。
後者は、感覚や感情は、「同質」であっても、それを向ける対象によって互いに異なるという考えになっていますが、
これは、いまだ自然には生じていない、219人めに対する性欲や支配欲を件の装置によって生じさせられたとき、
まだ見たことも想像したこともない容姿が頭に浮かんできたり、将来にこれまで見たことも想像したこともない容姿をしている女を見たときに、それが219人めであると再認することができる事態が起こる可能性があるという主張になります。
わたしは、現時点で後者を否定することができない(感覚的には否定したいが)ので、物理主義者が後者の主張をしている場合、経験に主観的側面はないという可能性はあり得るようです。
実際はどうなっている?
742虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/06/25(日) 11:37:08
ついでに、上の話とはまったく関係ないが、
http://www11.plala.or.jp/schicksal/index2.html
かつてinternet上にあったこのfile(http://www11.plala.or.jp/schicksal/gensui/index.htmlというURLに表示されていた)に張られていたlink先のfileを探しているが、もし持っていたら譲ってください。


http://www11.plala.or.jp/schicksal/
http://www11.plala.or.jp/schicksal/note/002.html
  ⇒フレーゲが論理学を整備したことを受けて、オタク概念を整備してみました。
http://www11.plala.or.jp/schicksal/note/004.html
  ⇒一般的な客観の捉えられ方からすれば、客観という語が虚妄になることを指摘しました。
http://www11.plala.or.jp/schicksal/note/005.html
  ⇒原因が物理的/生理的なものを説明する、すなわち因果的関係について説明するのに対して、理由は心理的なものを説明する、言い換えれば論理的関係について説明するものだという信念について書きました。
http://www11.plala.or.jp/schicksal/note/008.html
  ⇒2次元―3次元論争が通訳不可能性によるものであることを発見しました。
http://www11.plala.or.jp/schicksal/note/pessimistic-record/index.html
  ⇒反一般人programに基づく個別の議論
743虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/06/25(日) 11:49:22
わたしの考えは、
http://www11.plala.or.jp/schicksal/note/pessimistic-record/log5.html
このfileの「警察(官)批判対警察(官)批判の批判」の一部である次の記述を読むとよい。

したがって、わたしは警察(官)批判を遂行することができなくなった。
しかし、わたしは警察(官)を攻撃しよう。
根拠など必要ない。
絶対化し得ないとして道徳的規範を排したわたしは、現在の個別の警察(官)を嫌悪しているため、彼らを攻撃するのである。
そこには動機しかないが、それだけで十分なのである。
いや、もはや行動するためにそれ以外の何かを求めることなどできない。
ここで、一般人とわたしとの相違に注意してもらいたい。
一般人は、感覚や感情という動機に基づいて言動しているにもかかわらず、自らの言動を絶対化するという誤りを犯している(※)。
自らの言動を絶対化しようと思うならば、感覚や感情が絶対化し得ないことは自明である以上、そのほかの絶対化し得るものに根拠を求めなければならないが、一般人はそれをしない。
他方、わたしは、一般人の誤りを見て、絶対化し得るもの、したがって絶対化し得る根拠などほとんどないに等しいということに気づいた。
そうであるならば、必然的にそれらを超越論的に語ることなど不可能であるという結論に至ることになる。
これは、ただ個人の主観にのみ基づき、ものごとに接するほかないということすらも言えないということである。
なぜならば、そうした言明もまた超越論的であるからにほかならない。
よろしい。わたしは、ただわたしの感覚や感情に基づき言動しよう。


後に、感覚や感情を正当化することはできないとしても、それに基づく行為を正当化することができる可能性はあると思い直した。
しかし、いずれにせよ一般人が社会的制裁と称して行っている、犯罪者への集団的排除や集団的抑圧を正当化することはできない。
そもそも、そうした行為それ自体が道徳的規範に反しており、したがって二重基準の採用を意味している。そしてそのようなことを正当化する者による、正しい、あるいは誤っているという発言は虚妄である。
744虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/06/25(日) 12:04:17
ちなみに、わたしは一般人が自身の誤りを直したとしても秩序が崩壊するとは思っていません。
なぜなら、結局、一般人は(わたしも同じですが)、感覚や感情に基づいて行為しているにほかならないからです。
たとえ感覚や感情、およびそれに基づく行為が正しいことを正当化することができないとしても、それだけによって正しいという信念を捨て去ることはできないわけで、旧社会のときと同様の行為をし続けるだけです。
たとえば、旧社会で違法行為とされていたことをする者で、かつ彼が自身に恐怖を与えるような存在(これは、たとえば多数派一般人にとっては暴力団)でなければ、徹底的に攻撃しまくるでしょう。
この状況は今と何ら変わるものではありません。
攻撃したい者を攻撃して、自分たちが攻撃されるとそれは間違っていると考え、数の力によって跳ねつけるだけです。
そして、それに対する非難は多数派の意見は無条件に正しいという信念、あるいは言明によって消滅させるだけです。
何も変わりませんよ。
745虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2006/06/25(日) 12:07:35
わたしの言う新しい社会が到来するのを嫌がるのは、おまえらが自分自身の考えが誤っていることに気づいているからだろうが?